王勇著『中国から見た日本像』(東京:農文協2000年9月) >>>>>>>> 目録
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| 第二節 上古の遺風 |
中国人は空間的に海彼の島々に幻想の神仙郷を想像し、時間的には遥かなる古代に理想的な王国を追憶する。中国における日本像の生成変化を考察するにあたり、「古代への郷愁(ノスタルジア)」の持つ文明論的意味を看過してはならない。
唐の詩人王維の詩集『王右丞集』をひもとくと、阿倍仲麻呂に贈った『秘書晁監の日本国に還るを送る』と題する五言律詩がある。その詩序に、日本の文明を概観して、こう書かれている。
「海東の国、日本を大と為す。聖人の訓に服し、君子の風がある。正朔は夏の時に本づき、衣裳は漢の制に同じである。」
中国人にとって、古代にさかのぼるほど、理想的な良風美俗が残されており、聖人の教えに基づく政治秩序が保たれていると考えがちであるから、夏朝の暦を用い漢代の服を着ていることは、まさしく「聖人の訓に服し、君子の風がある」の表われと認められる。
中国人にとって、上古の遺風がどれほど受けつがれているかは、国内にあってはその王朝の治世の善悪を見わける基準であり、域外にあってはその民族の文明の高低をはかり知る指標となる。
唐代の中日交流をふりかえってみると、人物往来の隆盛にして多彩な様子は、まことに注目に値する。遣唐使をはじめ中国へわたった日本人が相当な数にのぼったことはいうまでもなく、日本へわたった中国人も無視できるほど少数ではなかった。(6)
使者・商人・僧侶・留学生らの往来による直接交流の機会が急増することによって、唐代の中国人は伝説の濃霧から日本の真相を一部ながらかいま見ることができた。そして、日本の実像を「古代発見」として記述したところに、この時代の日本像の特色が鮮やかに表わされている。
1,「柏手」の古礼
今日の日本人は仏前では合掌、神前では柏手、人間同士では握手というふうに、相手によって作法を自在にかえている。神社を参拝したり、家庭で神を拝むとき、両手を打ちあわせて鳴らすことを、「かしわで」といい、それに「柏手」か「拍手」の字をあてるのが普通だが、ほかに「八開手」との表記もみられる。
柏手の礼法は、その起源がきわめて古く、中国の文献に徴するかぎり、弥生末期にまでさかのぼることができる。すなわち、『魏志』(倭人伝)に記された次の一文である。
「大人の敬する所を見れば、ただ手を搏って、もって跪拝に当てる。」
三世紀ごろ、跪拝礼に慣れていた中国使者の目には、貴人を敬う作法として、拍手を礼とする倭国の風習は、きっと奇異に映ったのであろう。
柏手の礼法は、従来より日本独特のものだと思われてきたが、事実は果たしてそうなのであろうか。言いかえれば、中国にはかつて柏手の礼法は存在しなかったのか。『周礼註疏』(巻二十五、春官宗伯第三)をひもとくと、周代の大祝儀式に用いられる「九拝」の礼法が書きしるされている。
「大祝は九拝に辨れる。一に稽首という。二に頓首という。三に空首という。四に振動という。五に吉拝という。六に凶拝という。七に奇拝という。八に褒拝という。九に粛拝という。もって右の祭祀を享する。」(7)
右文にみえる「振動」について、漢の大夫鄭興は「動」の音を「董」と示し、「振董」とは「両手を相撃つことである」と註記している。この注記をうけて、隋唐時代の経学者である陸徳明は、さらに倭人の例を挙げて、釈文をつける。(『経典釈文』)
「今、倭人は拝してもって両手を相撃つ。鄭大夫の説くようである。けだし古えの遺法であろう。」
以上で明らかなように、周の大祝に用いられる九拝礼のひとつである「振動」とは、両手を撃ちあわせる柏手の礼法であり、漢代のころはまだ残っていたらしい。
しかし、陸徳明の釈文をみてもわかるように、それが唐代に至ると、中国ではすでに失われてしまい、わずかに倭国の柏手の礼法から、この「古えの遺法」を偲ばざるをえない状態にあった。(8)
古代王朝の手本とされる周礼を、現実の倭人が用いつづけているということは、中国人にとって大きなショックであり、信じがたい事実でもある。陸徳明は羨望と感激の気持ちをこめて「けだし古えの遺法」であると断言しているのである。
また「遺法」とは、中国で散逸したものであり、とりわけ珍重されるわけである。海彼の日本がいまだ上古の理想的な秩序をしっかり守ってくれているというイメージは、王維の詩にも「正朔は夏の時に本づき、衣裳は漢の制に同じである」と謳われているように、唐代からすでに芽生えてきたのである。
2,宋太宗の感嘆
約三百年もつづいた唐王朝が九〇七年にほろぼされると、中国はふたたび五代十国という紛争期に突入する。新しい宋文化を生みだす陣痛として、多くの伝統文化が跡形もなく唐末以来の喪乱によって破壊された。五代から宋にかけて、「古代発見」への関心が突如として強まってきた原因のひとつは、まさにここにあるといわなければならない。
宋の太平興国八年(九八三)、東大寺の奝然は入宋し、中国佚書の『孝経新義』と『孝経鄭氏注』とともに、本国の『職員令』と『年代記』をときの太宗に献上した。
奝然の将来した日本の書籍は、楊億の『談苑』(『楊文公談苑』とも書く)に「予は史局にあり、降る所の禁書を閲すれば、日本の『年代記』一巻及び奝然『表啓』一巻があり、因ってその国の史伝を修めること、甚だ詳しきを得た」とあるように、『太宗実録』または『宋史』の編纂に利用されたことがわかる。
奝然のもたらした情報は、中国人の日本知識を豊かにしたのみならず、支配層の持つ従来の日本像を大きく変えさせる転機ともなった。とくに、後者の意義は知識の増大よりも大きなものがある。
『宋史』(日本伝)には、神代より六十四代目の円融天皇に至るまでの天皇系譜が整然として列挙されている。奝然将来の『年代記』から引用していることは明らかではあるが、それを延々と中国の正史に採録することは、前代未聞の措置であり、宋王朝の複雑な心境が見え隠れする。
宋の太宗は、こうした心境を隠せずに「その国王は一姓を伝え継ぎ、臣下もみな世官であるのを聞き」、ふかく嘆息し、宰相に次のように胸中をうち明けている。
「これは島夷なのに、世祚は遐久にして、その臣もまた継襲して絶えない。これはけだし古えの道である。中国は唐季の乱より宇県が分裂し、梁・周の五代、歴を享けること尤も短く、大臣の世冑、よく嗣続することは稀れである。朕は、徳は往聖に慙じると雖も、つねに夙夜寅しみ畏れ、治本を講求し、敢えて暇逸しない。無窮の業を建て、可久の範を垂らし、またもって子孫の計と為し、大臣の後をして禄位を世襲させることは、これこそ朕の願いである。」
宋の太宗は、王姓一伝と臣位世襲とを古代の理想的な政治秩序とし、唐末以来の制度の紊乱および世風の衰微をいたく嘆きながら、「世祚は遐久にして、その臣もまた継襲して絶えない」という「島夷」の政治制度に、羨望の念を禁じえなかった。
これに刺激されてか、太宗は「無窮の業を建て、可久の範を垂ら」すべき世襲制の復興を、みずからの政治理想としてかかげた。日本における「古代発見」は、このように中国の政治制度にも響いてくるのである。