HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録
| 第二節 文はその人の如し |
中国人にとって、もっとも印象にふかく残る日本人像のひとつは、なによりも書物を好み、詩文にたけるという漢文的素養にほかならない。唐代にかぎってみれば、このような素養を持っている外国人といえば、朝鮮人と日本人しかなく、親近感を持たれ、敬意を払われるのは、当然なことといえるかもしれない。
「漢文的素養」とは、漢詩を詠み、漢文を書くことだけにかぎられない。たとえば、囲碁という遊戯も、その指標のひとつとなり、遣唐使のなかに「碁師」というポストがおかれていたのはそのためだと考えられる。(4)
これまでに中日間の詩人の交わりについては大きく注目され、中国だけでも以下にかかげる諸書が刊行されている。
(1)謝海平著『唐代詩人與在華外国人之文字交』、(台湾)文史哲出版社、一九八一年六月版。
(2)張歩雲著『唐代中日往来詩輯注』、(西安)陜西人民出版社、一九八四年一二月版。
(3)楊知秋著『歴代中日友誼詩選』、(北京)書目文献出版社、一九八六年九月版。
(4)孫東臨、李中華共著『中日往来漢詩選注』、(瀋陽)春風文芸出版社、一九八八年十月版。
これに対して、書籍の交流、わけても日本書籍の中国流入についての研究はあまり重視されていないのが現状のようである。
これらの事情もあって、本節ではあえて詩歌を取りあげずに、中国に伝えられた日本人の手になった書物がどう受けとめられていたのかに焦点をしぼって、時代順に概観してみることにする。
中国では、ふるくから「文はその人の如し」という言いならわしがあるように、文章からその人の素養や品格がわかると考えられてきた。したがって、日本人の書籍への評価には、日本人像をかいま見ることができよう。
1,唐代
これまでに、日本書籍の中国への流入は宋代から始まったと考えられてきたが(5)、近年の研究によれば、その始まりをさらに唐代にまでさかのぼることができた。(6)
七世紀の中葉から、聖徳太子の親撰と伝えられる『法華経義疏』と『勝鬘経義疏』、石上宅嗣の『三蔵賛頌』、淡海三船の『大乗起信論注』、最澄の『顕戒論』および作者不詳の『屈十大徳疏』と『本国大徳諍論』などの書物は、遣唐使および入唐僧らの手によって、中国に持ちこまれた。
そのなかで、『勝鬘経義疏』の評価がとくに高く、それを読んだ天台僧の明空がわざわざ注釈をつけて『勝鬘経疏義私鈔』一巻を著わした。明治時代以前まで、中国人が日本人の著書に注釈をつけるのは、これが唯一の例であるかもしれない。
この注釈書は、中国では早く散逸してしまったが、入唐僧の円仁が五台山でそれを書写して本国に送りとどけ、日本では「大唐高僧の製造、日域面目の秘書」とされ、幾度かの転写と翻刻をへて、現在まで保存されている。(7)
金剛寺蔵『竜論抄』にひかれた『延暦僧録』逸文によると、東大寺の僧円覚が入唐したときに、淡海三船の『大乗起信論注』をたずさえて、越州(今の紹興市)竜興寺の祐覚にそれを贈ったところ、祐覚は「手を巻から釈さず」愛読し、遣唐使の帰りに、賞賛の漢詩を託したという。この詩は中国の『全唐詩』にも逸しており、ここに拙訳をかかげる。
真人は『起論』を伝え、俗士は『詞林』を著す。
片言は復た玉を析きて、一句は千金よりも重し。
翰墨は霞の錦を舒げて、文花意の深きを得たり。
幸い星使の便に因りて、聊か眷仰の心を申べん。
奈良時代の末期、淡海三船とならんで「文人の首」と称される石上宅嗣も、遣唐使に『三蔵賛頌』を託して、中国へ送らせたのである。唐の内道場の飛錫らは、石上宅嗣を「日本国の維摩詰」にたとえて賞賛したという。この記事を載せた『延暦僧録』を著わした唐僧の思託も「名を西唐に播げ、光を日本に揚げる」と評価している。(8)
最澄が弘仁十一年(八二〇)二月に『顕戒論』を著わして天皇に献上したのだが、この渾身の名著はのちに円仁によって中国へもたらされ、それを読んだ唐の名僧知玄は円仁に書状をおくり、「絶だこれ佳作である」と激賞した。(9)
奈良時代から平安時代の前半にかけて、日本はあらゆる面で唐文化を模倣し、一部の日本学者が主張するように、みずからの文化を中国に誇示できるほどのレベルに達しているとは思われない。
したがって、書籍の西伝はあくまでも少量で例外的であった。たとえば、明空が『勝鬘経疏義私鈔』を著わしたのは「聖徳太子の慧思後身説」という宗教上の信仰背景があったからであり、また知玄が『顕戒論』を賞賛したのは唐王朝の道教一辺倒への不満の表われだったと理解するべきであろう。
2,宋代
五代のころ、寛建らが菅原道真らの詩集九巻を「唐家に流布」させる目的で中国に持ちこんだの(10)を前奏とすれば、宋代からは日本書籍の本格的な西伝が始まり、無視できない文化移動の流れとなったといえる。ここでは、天台典籍の西伝にスポットをあててみよう。
日本天台宗の僧源信は、永延元年(九八七)博多を旅行していたとき、斉隠という杭州水心寺の宋僧にめぐり会い、自著の『往生要集』および良源の『観音賛』、慶滋保胤の『十六相賛』と『日本往生伝』、源為憲の『法華経賦』などを託して、中国へ伝えるよう依頼した。「異域にこの志を有するを知らしめんと欲する」というのが、その時の源信の心境だったのである。(11)
源信の『往生要集』は中国でかなり反響を呼んだようである。?州(今の浙江省金華市)雲黄山七仏道場の住持である行辿は、この本を読んでから源信に書状を送りだし、「披覧すると、まず意味の深遠なることを羨ましむ」と褒めたたえ、「羽翼のないのを恨みとし、杯を浮かべる方法はない。ただ日本を望み、遙かに羨慕の意を表わす」と心境を語ったのである。(12)
また宋の商人周文徳がこの本を天台山の国清寺に寄進したところ、地元の信者ら五百人あまりがきそって浄財を同寺に喜捨し、たちまち五十間の廊屋をつくりあげ、『往生要集』を供養したという。右の様子をこまかく報告した周文徳はそのまま事実を伝えているとは思われないが、『往生要集』が複数のルートで中国に持ちこまれ、一定の範囲内に流布していたことは、のちに入宋した寂照や成尋らの報告によって疑われない。(13)
源信の弟子にあたる寂照は、日本典籍の輸出において重要な役割を果たしていた。『元亨釈書は』は彼のことを「信公の問章を将して宋の地に入り、また台宗の諸書を持って彼の人に恵る」と評している。
「信公の問章」とは、源信から頼まれた『天台宗疑問二十七条』のことで、のちに四明の知礼に回答してもらった。「台宗の諸書」とは、中国で散逸した『大乗止観』と『方等三昧行法』とで、天台僧の遵式がこれらを重宝し、『大乗止観』を翻刻して「始めて西より伝わるは月の生まるが如く、今また東より返るは日の昇るが如し」と感嘆している。
寂照は楊億との筆談のなかで、日本には中国伝来の『史記』『漢書』『文選』『論語』『孝経』『爾雅』『玉篇』などのほか、日本人撰述の『国史』『秘府略』『日本紀』などもあり、さらに「釈氏の論及び疏、抄、伝、集の類多くあり、ことごとく数えるべからず」と紹介している。それらが『談苑』に採録されているほど、宋人は寂照のもたらした情報を重要視している。
延久四年(一〇七二)入宋した成尋は、「天台、真言の経書六百余巻」を持参して、旅の先々にこれらを宋人に見せては、その評価を日記『参天台五代山記』に書き記している。たとえば、源隆国の『安養集』については「国清寺主の『安養集』に感ずること極まりない」とあり、慶耀の『梵字不動尊真言』などについては「梵漢の両字ともに美なりと称される。慶耀供奉は震旦に名を振るう」とみえる。(14)
宋に輸入された日本典籍は、量的に前代を遙かにこえているのみならず、内容も仏教にかぎらず、唐代よりはバラエティーに富んでいる。たとえば、宋の太平興国八年(九八三)入宋した奝然は、太宗に自国の『職員令』と『年代記』を献上し、それが『宋史』(日本伝)などの編纂に生かされている。
3,元明時代
日本では、一一九二年の鎌倉幕府の開設によって、政治の中心は公家貴族の集中する京都から離れたのみならず、宗教および文化も平安時代以来の伝統を徐々に脱皮しはじめた。
この時代から、文化の新しい担い手として頭角を現わした禅僧は、京都と鎌倉の五山禅林を拠点として華やかに活躍した。彼らは、仏教以外の書籍をも積極的に渉猟し、豊かな素養を身につけていた。こうして、禅僧を中心として旺盛に創作された詩文は「五山文学」と称されていた。
また一方、宋元時代の交替期に、多くの高僧が戦乱をさけて、あいついで来日した。彼らの丹念な指導のもとで、日本の禅僧たちは新興の宋学の薫陶をうけ、文学や芸術にも目を開かれ、漢学のレベルを急速に向上させた。
渡来の宋僧のなかでは、仏教以外の学問にも心をかたむけ、博学の持ち主が多かった。たとえば、竺仙梵僊は仏教をご飯、詩文をスープ、雑芸を肴にたとえて、修業の極意を弟子らに説いている。(15)
こうした風潮に育てられた日本の禅僧たちは、きそって漢文で詩集や文集、または旅行記や語録を書くようになり、漢文の素養においては平安時代の公家をしのぎ、江戸時代の儒学者と肩をならべるに至ったのである。したがって、この時期に日本典籍輸出の内部的条件がすでに熟していたといえよう。
木宮泰彦著『日華文化交流史』の統計によれば、入元僧と入明僧をあわせると、三百人以上は判明されている。彼らは師匠や友人の著作をたずさえて、高僧や名士を尋ねては、塔銘・行状・頂相賛・寺院記・祭文・碑文・偈頌・序言・跋語などの執筆を依頼した。これは、日本人にとっては金箔を貼る行為とも取れるが、中国人にとっては日本の書籍を目にする好機となったわけである。
元明時代の日本僧といえば、従来より指摘されていたとおり、玉石混淆の現象がみられるが、五山禅林のなかでも才能のぬきんでて優れていた者も少なくはない。たとえば、入元僧としては中巖円月・雪村友梅・別源円旨・義堂周信など、入明僧としては絶海中津・桂庵玄樹・?之慧鳳・了庵桂悟・策彦周良などがあげられる。
嘉興府天寧寺の名僧楚石梵琦は、義堂周信の詩文について「日本にこのような人がいるとは信じられない。明の人はみな日本に住む中国人が書いたものかと疑っている」と述懐している。
こうした疑問も、日本人の著作に接するチャンスが増えると、自然に解けてしてまうものだ。以下、中国人が日本人の著作に寄せた序跋などを通して、元明時代の日本像の一側面をかいま見ることにしよう。(16)
(1)南浦紹明『大応国師語録』。天界寺の住持である季潭宗?は洪武八年(一三七五)に書いた序文で、その文章を「簡古厳整にして毫髪だに虚偽なく、まさに一代の宗師である」と讃え、つづいて「ああ、中国と日本は同じく閻浮提の内にあり、同一の天地、同一の日月、山海の限りはあるけど、而して人物の性情と得る所の道徳の懿さは、それ同じならざる者なかろう。公の言行を観ると、卓異することかくの如し」と感激している。
季潭宗?は南浦紹明の語録を通して、「山海の限り」すなわち「華夷の壁」を乗りこえて、性情と道徳における中日の同一性を見いだしたのである。
(2)絶海中津『絶海和尚語録』。この語録は、永楽元年(一四〇三)入明僧の等聞によって中国にもたらされた。杭州浄慈寺の道聯の寄せた序文によれば、はじめ外国の僧侶は漢文力が低くて、「華夏に及ばない」と思われていたが、日本の禅僧と交遊したところ、「その気質多く凡ならざるを観ると、苟しくもよく吾が宗の妙に心力を尽くし、みな聖階に躋って神化を揚げるべし」と見直し、絶海中津については「海東にかくの偉人あらん」と敬服し、その語録を「その詞を吐くや、義路は全てを超え、玄門は頓かに廓げる。その機に応ずるや、電掣雷鈞にして、聞く者は耳を掩うに及ばず、覩る者は目を瞬くに及ばない」と賛美している。
右にあげたのは禅僧の語録だが、それに比べると、五山文学の精華ともいうべき詩文集の反響は、もっと強烈なものであった。たとえば、清拙正澄は別源円旨の『南遊東帰集』を「大唐の音調を得、語意活脱して珠の盤を走るが如し」と跋語に書き、如蘭は絶海中津の『蕉堅稿』を読んで「まことに海東の魁を為し、その右に出る者はいない」と賛辞をおくっている。
このように、かなり高い評価を博した五山禅僧の詩文と語録は、褒めすぎの嫌いがあったとしても、伝統的な華夷観を持っていた中国の文人にとって、大きなカルチャーショックとなったことは事実だったのであろう。つまり、高度な漢文素養をそなえていた日本人を評価するときに、従来の華夷の尺度はもはや適用できなくなったのである。
4,清代
日本書籍の西伝は、清代になると、その全盛期を迎えることになった。二百年あまりつづいた江戸時代の平和と発展は、文化の繁栄をもたらし、朱子学に代表される中国文化の普及とそれに対する探求が、日本文化を未曾有のハイレベルに押しあげた。
この時代において、蕩々たる中国書籍の東伝に比べれば、日本書籍の西伝は依然として微々たるものにすぎなかったが、前代に比べると、質量ともに高いことはいうまでもなく、これまでにない特色もいくつかみられたのである。
まずは、書籍輸出の担い手は日本僧侶から中国商人へと変わったことである。それは、江戸幕府の渡海禁止と清王朝の海外貿易奨励という彼我の政治事情と、または漢学知識の普及によって日本人撰述の書籍が急増しているという文化事情とがその背景にあったと思われる。
次は、これまでは受け身的な中国人は始めて進んで日本に書籍を求め、しかもそれをみずからの文化創造に生かそうとすることである。『吾妻鏡』の伝来から『吾妻鏡補』の誕生までのプロセスは、その好例である。
または、日本の漢籍を「異国の本」よりも中国書籍と同等視する傾向が現われてきたことである。『四庫全書』をはじめ、清代の各種の叢書類に、日本の書籍が収録・刊行され、ひろく流布したものは少なくない。
要するに、清代の中日書籍交流は、ようやく互恵関係に至り、濃密な内容を持つものとなったのである。以下は、いくつかの具体例をあげておこう。
(1)『七経孟子考文』。山井鼎(一六九〇~一七二八)の著わした本書は、足利学校所蔵の古典籍をひろく引用し、綿密な考証をほどこしたもので、中国に伝わってから文人儒者らを瞠目させた。その後、物観がそれに補遺をつけて『七経孟子考文補遺』と題してふたたび輸出し、またも好評を博したのである。『四庫全書』の編者がこの本を収録するとき、欧陽脩の『日本刀歌』をひいて「千古の疑を釈くに足る」と評価している。
翰林院侍講学士という肩書きを持ち、清朝屈指の文献学者として知られる盧文?は『七経孟子考文』を読んで、「かの海外の小邦も、なお能く書を読む者ある」と驚き、中国の古書をたくさん参照しており「その議論もまた採るべきものある」と賞賛し、海外の学子に負けてはいられないと発憤して書きあげたのが名著『周易注疏輯正』である。(17)
清朝の朴学大師と崇められる阮元は、瀕死の状態で闘病しながら、三年間も『七経孟子考文』の撰述に没頭し、よって「聖経に功があり、また嘉するべし」と、山井鼎の人となりに敬意を表わし、序言をつけてこの本を翻刻した。
(2)『吾妻鏡補』。『七経孟子考文』が中国古籍の校勘を主としているから、中国で反響を呼んだと、こう思う人も少なくはないようだ。それでは、『吾妻鏡』という純粋な日本歴史書を例にあげよう。
この本は明末清初のころ中国に伝わり、文人儒者の間で、大きく注目されていた。それは、ただ「海外の奇書」として珍しがられるだけでなく、書物の内容にも目をひかれ、日本の歴史そのものに関心をしめしているものである。
清代の名高い儒学者の朱彝尊は一六六四年にこの本と出会い、四三年をかけてようやく入手し、『吾妻鏡跋』なる一文を草し、「撰人の姓氏は未だに詳らかでない。前に慶長十年の序があり、後に寛永三年という国人林道春の後序あり、すなわち鏤版の歳である。編中に載する所は安徳天皇治承四年庚子に始まり、亀山院天皇文永三年七月に訖り、凡そ八十有七年である」と考証している。(19)
『吾妻鏡』は蔵書家の需要によって何度か書写されることになり、その写本のひとつを目にした翁広平という田舎学者は、それに刺激をうけ、七年間かけて一八一四年に『吾妻鏡補』を完成させた。この中国人の手による最初の日本通史とされる書物を執筆するために、翁広平は『吾妻鏡』をはじめ、三十六種類もの日本書籍を参考にしている。(18)
清朝の大儒として周辺諸国にもその名を馳せる??は、一八八二年に岸田吟香の要請に応じて、『東瀛詩選』を編纂したが、彼が参考にしていた日本の漢詩集はなんと一七〇種類の多きにのぼっている。外国の書籍をこれだけ多く博覧するのは、現代の学者にしてもおそらくまれであろう。
また、この時期に伝来された日本の漢籍の多くは、各種の叢書類に収録されるようになった。たとえば、王錫祺編纂の『小方壺輿地叢鈔』には、日本人の歴史地理書が二九冊ほど採録されている。
5,評価の基準
中国に持ちこまれた日本の書籍は、とくに明治以前の場合において、ほとんど漢文による著述であり、形式からすれば、中国漢籍の亜流に属するものと見なされる。また内容にしては、仏教と儒教とに偏っており、詩集・文集・医書などに至っても、どれひとつ中国の学問の系統を受けついでいないものはない。
したがって、中国人がこれらの書物を読むときに、強烈な異文化体験を獲得することはきわめて少なく、それらへの評価も多少なりとも割り引いて聞かなければならない。ここでは、中国人の評価を大きく「学問姿勢への評価」と「学問内容への評価」にわけて考えてみたい。
(1)学問姿勢への評価。
古代中国の帝王たちが朝貢にくる遠方の「夷狄」の文明志向を評価して豊富な賜品を与え、貢物の量と質にこだわないのと同様、中国の名儒や高僧らは、東夷の学子に対して、中国文化を懸命に学ぶ姿勢を高く評価し、その文章の優劣や論旨の可否を真剣に批判しない傾向がみられる。
宋代の『宣和画譜』は、日本伝来の絵画について稚拙な点を指摘しながら、「巒陬の夷貊、礼儀の地にあらずして、而して能く絵事に留意すること、また尚ぶべし。抑もまた華夏の文明、もって漸く被わんとあるを見れば、豈またその工の拙きに較らん」と述べている。つまり、出来のよしあしを問わず、外国の人々が中国文明を敬慕していることだけでも評価に値するという。これは絵画についてであるが、こうした海外文化への心情は、日本書籍の評価にも当てはまるものと考えられる。
(2)学問内容への評価。
唐宋から元明にかけては、「学問姿勢への評価」が主流を占めているけれど、まれには本気となって批判する例もある。たとえば、日本に漂着した海商の周世昌が咸平五年(一〇〇二)七年ぶりに帰国し、日本人の唱和詩集を朝廷に献上した。これについて、『宋史』(日本伝)は「詞は甚だ彫刻にして?浅であり、取るべき所はない」と遠慮なく酷評している。
清代になると、日本の漢学水準が著しく高まり、中国の文人はこれまでのような高飛車な態度を取っていられなくなり、もはや真剣勝負の気持ちのほうが強くなってきたのである。したがって、内容や文体などに立ち入った厳しい批判がかえって目立ってくる。
たとえば、『吾妻鏡』について、朱彝尊は「歳・月・日・陰晴を必ず書き、余は将軍・執権の次第及び会射の節を紀す。その文義は鬱?として、また倭訓を傍らに点け、これを繹くこと易しからず」と、史書の体裁や漢文の表現などの不備を指摘し、それにつづく「国の大事はかえってこれを略し、所謂る賢からざる者はその小なるものを識るのみ」も容赦ない。
このようにみてくると、本節で取りあげた中国人による日本書籍への賛辞が、主として後者のような客観的なものではなく、むしろ前者のような主観的な色彩を濃厚に帯びていることを、まず理解しておく必要がある。しかし、主観的な評価とはいえ、そこには日本人の好学精神への共鳴があり、日本に対する中国文人の心象映像がありありと映しだされていると思われる。
【注釈】
(1)空海の書道について、王勇・上原昭一共編『中日交流史大系・芸術巻』(浙江人民出版社一九九六年版)二六二~二六五頁を参照。
(2)最澄の入唐事跡について、藤善真澄・王勇共著『天台の流伝--智顗から最澄へ--』(山川出版一九九七年版)二三九~二五五頁を参照。
(3)安覚の評伝について、張雅秋『従「鶴林玉露」中的一則史料看宋代中日文化交流』(『中日文化論叢--1996』所収、杭州大学出版社一九九七年版)に詳しい。
(4)「遣唐碁師」については、拙著『唐から見た遣唐使--大唐帝国の混血児たち--』(講談社一九九八年版)九六~一〇四頁を参照。
(5)辻善之助著『海外交通史話』、東亜堂書店一九一七年版、二七頁。
(6)拙論『唐宋時代日本漢籍西漸史考』(王勇編『中日漢籍交流史論』所収、杭州大学出版社一九九二年版)を参照。
(7)『勝鬘経疏義私鈔』の伝来について、拙著『聖徳太子時空超越』(大修館書店一九九四年版)二九九~三二四に詳しい考証があり、参照されたい。
(8)史料の分析と日本語訳は、大庭脩・王勇共編『日中文化交流史叢書・典籍』(大修館書店一九九六年版)二一五~二一九頁を参照。
(9)この書状は現存しており、詳しくは大庭脩・王勇共編『日中文化交流史叢書・典籍』(大修館書店一九九六年版)二二0~二二五頁を参照。
(10)寛建の入華事跡について、拙著『中日関係史考』(中央編訳出版社一九九五年版)所収『五代日僧寛建一行入華事迹考』を参照。
(11)流布本『往生要集』の巻末に添えられた『源信の大宋国某賓旅に致すの書』。
(12)行辿の書状は『首楞厳院廿五三昧結縁過去帳』に載せられている。
(13)流布本『往生要集』の巻末に添えられた『周文徳返報』。
(14)入宋僧の書籍輸出については、藤善真澄『成尋の齎した彼我の典籍--日宋文化交流の一齣--』(『仏教史学研究』23-1)を参照。
(15)『竺仙梵僊語録』。
(16)詳しくは大庭脩・王勇共編『日中文化交流史叢書・典籍』(大修館書店一九九六年版)二八0~二九一頁を参照。
(17)『周易注疏輯正・題辞』(『抱経堂文集』巻七所収)。
(18)『吾妻鏡補』の成立について、大庭脩・王勇共編『日中文化交流史叢書・典籍』(大修館書店一九九六年版)三〇〇~三〇六頁を参照。
(19)朱彝尊著『曝書亭集』所収。