HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録

第三節 元代の倭寇像

  鎌倉末期から室町時代にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸をしばしば武力で荒らしていた日本の海賊的集団は、被害者の立場から「倭寇」と呼ばれていた。『高麗史』忠定王二年(一三五〇)の記事に「倭寇の侵すこと、これに始まる」とあるのを倭寇観形成の指標とする意見もあるが、この言葉じたいが成語として成立したのは、はやくも『高麗史』忠烈王四年(一二七八)条に記録されたフビライと忠烈王との問答にさかのぼれる。したがって、東アジアにおける倭寇像はすでに元代に萌芽していたわけである。

 元軍による二度目の日本侵攻(一二八一)が惨敗に終わって約十年後、日本の武装商船が中国沿岸に姿を現わすようになり、元王朝の神経をとがらせた。(9)元王朝の心配はどうも余計なものではなかったらしく、果たして武宗の至大二年(一三0九)正月に、日本の武装商人が明州城内に乱入して放火するという事件が起こったのである。

 『明州繋年録』に収められる『道園集』によると、日本の商人たちは「齎す所の硫黄などの薬を持って、城中を火やす。官府・故家・民居」がほとんど焼き払われてしまったという。

 右の寧波焚焼事件が元の朝野に大きなショックを与えたことは、『元史』(巻九十九、兵志、鎮戌)の至大四年(一三一一)十月条に江浙省の海防強化要請に対する元朝の対応ぶりをみてもわかる。

 「慶元と日本は相接し、且つ倭商のために焚き毀される。宜しく請う所の如くし、その餘の軍馬遷調はこと機務に関わり、別に議して行なうべし。」

 すなわち、軍隊の配置はやすやすと変えるものではないが、倭商の暴行にそなえて、江南一帯の海防要衝に駐屯軍の調整を至急行なったわけである。元朝の日本商船への警戒心はとても深く、『元史』(巻一八四)の王克敬伝に

 「延祐四年(一三一七)、四明に往って、倭人の互市(交易)を監する。これより先に、往って監する者は外夷の情の測られないのを懼れて、必ず厳兵して自衛し、大敵を待つがごとし。」

とある。日本の商人を「大敵」と見なされ、地方官は「厳兵して自衛し」ながら、日本商人らの貿易活動を監視していたようだ。このように、武装商人らの暴虐行為によって、唐宋以来の友好的な日本人像はみごとに吹っ飛ばされ、凶悪的な海賊イメージがそれに取ってかわり展開してくる。

 唐宋以来の中日友好ムードにうつつを抜かしていた文人らは、夢から目を覚ましたばかりかのように、日本人像の豹変ぶりに驚愕と憤慨の気持ちを隠せなかった。文章をもって世に知られる呉莱は、漢魏時代より中国に通好していた倭人は弱くて制しやすかったが、今の倭寇はそれと異なり、「艨艟数千、戈矛剣戟」を装備した強敵なのだと述べ、「険を恃んで兵を弄する」無礼な倭奴を「誅首すべし」と激論した。

   今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。むかしは至めて弱いと雖も、なお敢えて中  国の兵を拒まんとする。いわや今は険を恃んで、その強さはまさにむかしの十倍に当  たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中  略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔?  して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を  弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益すること  はなく、またその人を掠しても兵を強めることはない。(10)

 元代の中国人が持っている倭寇像とは、どんなものだったのか。明代ほど豊富な文献資料はないが、『隣交徴書』に収められた二首の漢詩に、おおよその様子をイメージすることができよう。

元・黄鎮成 『島夷行』

島夷は出没して飛ぶが隼の如く、右手に刀を持って左に盾を持つ。

大きな舶と軽き艘は海上を行き、華人未だ見ざるに心は先に隕つ。

 「華人未だ見ざるに心は先に隕つ」とあるのは、両手に刀と盾をひるがえして海島に出没する海賊への恐怖のほどを示している。

元・王乙 『海寇』

日本の狂奴は浙東を乱して、将軍変を聴いて気虹の如し。

沙頭に陣を列して烽煙暗く、夜半に?兵して海水も紅し。

?歌を按じて落月を吹き、髑髏酒を盛って清風を飲む。

何時か南山の竹を截り尽し、当年殺賊の功を細く写かん。

 倭寇に対する憎悪と憤怒は、敵の頭骸骨を器に凱旋の酒をあおるという詩的表現に集約されているように思われる。遠征の失敗から倭寇の来襲にいたるまでの間、唐宋以来の友好的な感情が急速に失われ、日本への畏悪観がしだいに増大し、しかも支配層から市民層へとひろがりつつあった。 

【註釈】

(1)中村栄孝『十三・四世紀の東亜情勢とモンゴルの襲来』(『岩波講座日本歴史6』所収、二十九頁)。

(2)遠征軍撤回の原因について、諸説あって定まらないが、『元史』(日本伝)は「官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る」とあり、『勘仲記』には「俄かに逆風吹き来たり、本国に吹き帰す」とみえる。

(3)『関東評定衆伝』建治元年の条を参照。

(4)中村栄孝『十三・四世紀の東亜情勢とモンゴルの襲来』(『岩波講座日本歴史6』所収、四三頁)。

(5)石原道博「中国における畏悪的日本観の形成--元代の日本観--」(『茨城大学理学部紀要(人文科学)』第三号、一九五三年)。

(6)『元史』(巻十七、世祖紀)至元二十九年十月条に「日本の舟は、四明に至って互市を求める。舟中に甲仗みな具えている。その異図を恐れ、詔して都元帥府を立たせる。哈刺帯をしてこれを将させ、もって海道を防ぐ」とある。

(7)『元史』によれば、大徳八年(一三0四)夏四月丙戌の条に「千戸所を置き、定海を戍り、もって歳至の倭船を防ぐ」とある。

(8)「辛巳」(一二八一年)は『元韃攻日本敗北歌』の原文に辛卯とあるが、誤りである。

(9)注(6)を参照。

(10)呉莱『論倭』(『隣交徴書』二篇巻一所収)。

(11)『隣交徴書』(二篇巻二)に「飛準」とあるが、私意で「飛隼」に直した。

(12)『隣交徴書』(二篇巻二)は第七行を「何時截南山竹」としているが、文意で「尽」を補った。

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