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| 第三節 妖怪への変化 |
戦国時代の末期、豊臣秀吉は国内の統一をなしとげると、海外拡張の道を歩みはじめた。文禄元年(一五九二)三月、豊臣秀吉は十六万の大軍を朝鮮に差しむけ、その最終目的は「大明国に直入し、吾が朝の風俗を四百餘州に易す」ことにあった。(10)
日本軍は二か月足らずして、京城・開城・平壌の三都を陥落させた。明の朝廷はこの急報に接するや、危険を感じ、朝鮮に援兵をおくった。七月に、明の援軍は日本軍と接戦してから、慶長三年(一五九八)に至るまでの七年間に、中国は数十万人の戦死者を出し、およそ数百万の戦費を費やした。戦争は豊臣秀吉の病死をもって、幕を降ろしたが、中国・日本・朝鮮の「三敗倶傷」(勝者なし)の結果となった。
豊臣秀吉の朝鮮侵略によって勃発した中日直接の対戦は、「白村江の戦い」(六六三年)(11)以来のもので、国家レベルの大規模な戦争であるだけに、その傷痕がことのほか深く、社会への影響も大きかった。その結果として、個々の倭寇像はしだいに日本という国家像に重ねあわされ、さらに「豊臣秀吉像」に凝縮されるようになったのである。
こうした時代的な背景を反映して、明清時代には関白こと豊臣秀吉を題材とする文学作品が多く生みだされた。これらの作品のなかでは、豊臣秀吉をはじめ倭人らは「狡詐残暴」の倭寇よりも恐ろしい「水鬼」「鮫」「蛟」などの化け物に仕立てられ、朝鮮侵略によって日本のイメージがさらに悪化したこととなった。
1,豊臣秀吉を題材とする作品
豊臣秀吉は、明清時代の小説や戯曲にしばしば「関白」「木秀」「平秀吉」などの名で登場し、「万悪の源」または「群魔の首」として描かれている。
これらの文学作品にもっとも早く着目した漢学者の青木正児は、昭和二年二月号の『黒潮』に『支那戯曲小説中の豊臣秀吉』を公表し、のちにそれを随筆集『江南春』(弘文堂一九四一年版)に収録している。
青木正児は文中で、明代の短編伝奇『斬蛟記』、明代の戯曲『蓮嚢記』、清代の長編小説『野叟曝言』の三点を取りあげ、その概略を述べながら評論をくわえている。著者によれば、倭寇の被害を矢先に被った寧波あたりに、「倭寇が来た、どんど(太鼓の音)と来た、そうら坊やねんねしな」という子守歌が通行しており、昭和初期になっても倭寇への恐怖感がまだふっしゃくされていないという。
ただし、青木正児は豊臣秀吉を「英雄」とみなし、その朝鮮侵略を「壮挙」と讃え、北京まで押しよせんとする野心に「痛快」を感じたところは、いささか軽率さに失し、名家の風格を損ねたといわざるをえない。
その後、もう一人の漢学者の吉川幸次郎は昭和三二年二月号の『世界』に『日中交流史の資料』たる一文を掲載し、青木正児の研究をふまえて、あらたに馮夢龍の『楊八老越国奇逢』を研究リストにくわえた。
中国では、厳紹?はその著『中日古代文学関係史稿』(湖南文芸出版社一九八七年版)に「明清時代以日人豊臣秀吉為題材的小説戯劇」の一節を設けて、青木正児の取りあげた作品三点を、社会背景・思想内容・芸術特徴などの面から分析し、少なからざる新知見を開陳している。
右の三人は、この領域の開拓者として尊重されるべきだが、研究の深さと広さとなると、なおさら多くの課題が残されており、決して満足できるものではない。「広さ」に限っていえば、明代の小説としては『戚南塘剿平倭寇志伝』(作者不詳)、『朝鮮征倭紀略』(蕭応官)、『胡少保平倭記』(銭塘西湖隠叟)など、清代には『水滸後伝』(陳忱)、『金雲翹伝』(青心才人)、『綺楼重夢』(作者不詳)、『緑野仙踪』(李石川)、『雪月梅伝』(陳朗)、『蜃楼外史』(夢花居士)、『玉蟾記』(黄石)などが挙げられる。もし視野を東アジア全域に広げれば、朝鮮の漢文小説『懲毖録』(柳成竜)、『壬辰録』(作者不詳)、『日本往還録』(黄慎)なども研究対象となりえよう。
さて、これらの小説や戯曲などに、豊臣秀吉はどんな姿で登場してくるのか。青木正児も認めたとおり、それは「猛悪無道の妖精、鬼のような蛮族の酋長」だったのである。ここでは、『野叟曝言』に描かれた豊臣秀吉像を紹介しておこう。ちなみに、この小説では豊臣秀吉は朝鮮侵略とは関係なく、倭寇の頭目として描かれ、その名を「関白木秀」とし、その妻を「寛吉」としている。
小説の主人公たる文素臣は、浙江沿岸を犯した倭寇を打ちやぶって日本にまで追いかけ、関白以下を捕らえて凱旋する。朝貢を約束して赦免された関白は、帰国後に軍備を急ぎ、朝貢を怠りがちである。そこで、朝廷は文容と奚勤を遣わして関白をなじらせる。
ところで、関白は二人の美貌に一目惚れ、ついに淫心を起こし、飲食に薬物を盛りつぶして二人を昏睡させたうえ、侍女らをして風呂場に運んで洗わせる。文容の服を脱ぐと、その羊脂白玉のごとき美肌に驚いた侍女は、さっそく夫人に急報。寛吉は「美男はわがものだ」と怒り、仏眼児と仏手児を遣わして奚勤を奪いとった。関白夫婦はそれぞれ一人の美男を相手にいよいよ淫行を起こそうとしたが、激しい抵抗に遭い、けっきょく文容は自決、奚勤も寛吉を巻き添えにして死ぬ。
父の非業の死を知らされた少年の寤生と長生は、仇討ちのため日本にわたり、夜中に関白の寝殿に忍びこんだところ、惜しくも捕らえられた。関白は少年らの初々しい美貌をみると、またもや欲心燃えるがごとく、その父と同様の手段で雲雨を行なおうとしたが、文容の亡霊が現われて少年らを救う。そのとき、文容の友人たる錦嚢が軍勢を率いて攻めて来、亡霊と力をあわせて関白を虜にして凱旋する。
この物語は、儒教の倫理綱常からみれば、「乱倫」という下劣な品性の持ち主として豊臣秀吉そしてその妻を描き、礼儀知らずで淫らな日本人像を創りだしている。それにしても、豊臣秀吉を人間扱いにしているところは、まだ最悪な日本人像とはいえない。
2,『斬蛟記』の豊臣秀吉像
明代の短編伝奇『斬蛟記』は第一人称の口吻で、許真君による蛟斬りの民間伝説を敷衍して、豊臣秀吉の朝鮮侵略の史実を下敷きにしながら、平秀吉に化けた蛟精を退治する紆余曲折を語るという構成になっている。あらすじは以下のようである。
大昔、旌陽の許真君という有名な道士は、人間に害をなした大蛟を斬り殺したとき、そのお腹から出てきた一匹の小蛟を逃がしてしまった。この小蛟はのち日本の紅鹿江なる銀蛟山に住みつき、それから一二〇〇年あまりをへて、無数の物類に危害をくわえ、ついに人間に化けて平秀吉となった。
秀吉は一兵卒から身を起こし、関白を殺してその位を奪い、さらに六六州を征服した。世間はすっかり妖怪の変化に気がつかず、ただその狡智と怪力にひれ伏せるばかり、琉球と朝鮮も畏怖するあまり朝貢を怠らなかった。
万暦二十年(一五九二)四月、平秀吉はいきなり二十万の大軍を発して朝鮮を犯し、たちまち王京・平壌・安辺をあいついで陥れ、いよいよ中国の遼東を攻め、北京を狙おうとした。
朝鮮から急を報じられた朝廷は、宋応昌を経略(総司令官)、私(著者の袁黄)と劉玄子を参謀として救援に馳せるよう命じた。われらが遼陽に至ると、祖師(著者の道教の師)は弟子の程洞真を遣わしてきて、私の出資でガチョウ三六〇〇羽を買わせた。
祖師は黄石公や徐茂公らを率いて海をわたって銀蛟山に到着した。周りを見渡せば、その石は朱のごとく、その水は茶のごとく、禿げ山には草木がなく、崖の下には羽毛が山積み、命あるものは蛟精に食い尽くされたのである。
そこで、ガチョウの群れを紅鹿江に浮かばせ、その争い競うような鳴き声とともに、黄石公がまじないをかけると、環形をなしたガチョウの真ん中から怪物が首をもたげてきた。巨鐘のごとき頭に、赤い髪を覆い、両眼が黄色く光っている。
祖師は時すかさず宝剣を抜きだすやその首を斬り落とした。水面に浮かんできた死体は長さおよそ数千丈、蛇形にして魚鱗あり。これは万暦二十一年(一五九三)正月七日のことだった。
このとき私は義州(中朝国境あたり)にいたが、流れ星が東より飛んで墜ちたのをみて、すぐに関白の死を察知し、官職を棄てて帰京する途中、兄弟子の徐茂公に遇い、祖師が日本から扶桑を過ぎ、大小の琉球をへて八月に帰ることを告げられた。
斬蛟の件は極秘にされ、わが軍の将兵のみならず、倭軍の大将だった行長らさえ真相を知らなかったらしい。しかし、それ以後、倭軍が攻撃して来なくなったのをみれば、関白の死は確かだった。(12)
右は『斬蛟記』の概要である。この小説は、中国民間にひろく流布している蛟精退治の伝説に題材を借りながら、じつは時事問題として緊迫した朝鮮戦場の変化を述べている。
蛟の伝説については、『山海経』の郭璞注に「蛇に似て四脚あり(中略)能く人を呑む」とあり、『十二真君伝』に許真君が美少年に化けて珍宝を盗みとる蛟を退治した物語が述べられており、また明代の『列仙全伝』に小蛟を逃した許真君が「この蛇が一二五〇余年後に民に害を為すとき、吾はふたたび出てこれを誅すべし」という予言がみえ、直接に『斬蛟記』のストーリーとつながっている。
史実については、宋応昌が万暦二十年八月に経略となったこと、作者の袁黄(字は了凡)がその賛画(参謀)に任ぜられたことは、いずれも事実である。ただし、小説の主眼となっている豊臣秀吉の死亡時期(一五九三年正月七日)が一五九八年八月十八日という事実と食いちがい、その間に五年以上もの差があったのは、なぜなのか。
これも著者の根も葉もない「創作」ではなく、小説に豊臣秀吉が死んだとする万暦二十一年(一五九三)ごろ、関白が中毒して死亡したという不確実な情報は、民間でささやかれ、朝廷にまで伝達されたようだ。こうしたデマの流布は、戦場における倭軍の敗退と関係があろうかと思われる。すなわち、同年正月に明軍が平壌を奪還し、四月に倭軍は王京を棄て、七月に議和の話が日本から持ちだされたのである。
小説では、倭軍の退却を関白急死の証拠としているが、戸科給事中の呉応明が万暦二十一年七月に、神宗皇帝への奏状において、次のように報告している。
兵部が沈丙懿をして敵情を調べさせたところ、関白が中毒してすでに死んだとの伝聞が報告された。倭奴が朝鮮を攻めるときはまさしく破竹の勢いだったのに、今はわが師が集まると、たちまち平壌と開成を棄て、王京も守れきれない様子だ。私見によれば、昔より遠征の師が戦わずして退くのは、軍中に疫病が流行っているか、国内に急変が起こったかもしれない。(13)
このように、『斬蛟記』ははなはだ荒唐無稽なストーリーのなかに、当時の国際情勢をなるべく迅速かつ正確に反映させようとする意図のもとで、創作されたと考えられる。いわば表は伝奇小説だが、骨子は時事小説とも見受けられるだけに、そこに描かれた豊臣秀吉像がいかに重くて暗い蔭を中国民衆の心に落としているか推し量れよう。
【注釈】
(1)『隣交徴書』二篇巻一に収録されている。
(2)宗?の『祖闡・克勤二師の日本に使するを送る』および明太祖の『宗渤の詩韻に和す』は『隣交徴書』(初篇巻二、詩文部)にみえる。
(3)『隣交徴書』(三篇巻一)に収録されている。
(4)克勤「延暦寺座主に致すの書並びに別幅」は『隣交徴書』(三篇巻一)を参照。
(5)『明太祖実録』(巻一三八)洪武十四年(一三八一)七月条。
(6)「林賢事件」の全過程について、文献の記載に食い違いがあり、正確な時間表をまだ提示できない。おおよその経過は以下のとおりである。胡惟庸は洪武十四年(一三八一)処刑されたが、そのとき日本との結託はまだ発覚していなかった。洪武十七年(一三八四)如瑶ら一行が入明したが、暗殺を実行に移さなかったようだ。洪武十九年(一三八六)になって事件がようやく発覚し、林賢と如瑶らはあいついで処刑されたらしい。
(7)王樵著『?李記』(『叢書集成新編』第九七所収)。
(8)『明政統宗』(巻十一)。この本は明・?山の著で、今は写本しか残っていない。
(9)この虐殺事件は『殊域周諮録』、『馭倭録』、『明史紀事本末』など複数の文献に記録されている。
(10)天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉から朝鮮国王へ送られた国書(『続善隣国宝記』所収)。
(11)白村江の戦いをめぐっての唐日関係については、拙著『中日関係史考』第三章「唐人郭務?使日事跡述略」(中央編訳出版社一九九五年一月版)二九~四三頁を参照。
(12)『斬蛟記』の倭寇題材について、詳しくは拙著『中日関係史考』第十四章「明清戯曲小説中的倭寇題材--明代短編伝奇『斬蛟記』評述」(中央編訳出版社一九九五年一月版)一九九~二一四頁を参照。
(13)『明実録・神宗実録』巻二六二。