HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録
| 中日の知識人
―あとがきにかえて |
(一)
歴史的にも地縁的にも日本とのつながりの深い浙江省に生まれ育った私が、大学時代から中日文化交渉史に強く魅せられるようになったのは、もっぱら風土の賜物というほかなかろう。
日本の文献を渉猟しては、天台山やら径山寺やら西湖やらと故郷の発見にしばし現を抜かす。江南の古跡を踏査しては、阿倍仲麻呂やら成尋やら策彦周良やらの日本の人物たちがしきりに脳裏を去来する。
しかし、現実の社会に視線をむけると、まったく隔世の光景に驚き呆れてしまう。ここ十数年、中日両国を足しげく行き交う私の目には、吾が恋う古代の風景はもはや跡形もなく消え失せているのだ。
世紀交替にあたって未来志向に動く世の中、中国人のもつ日本像と日本人のもつ中国像は、どうやら前時代に後戻りしていく兆候を呈しつつある。
中国では「鬼子」と「小日本」の蔑称が大いにはばをきかせ、日本では政府要人の「シナ」呼ばわりと「三国人」発言が公然と行なわれるのは、その象徴的な例であると言えよう。
政治家のことはいざ知らず、こうした時代遅れの風潮を助長させるか解消させるかで、国民の良識を代表するといわれる知識人の資質が、おそらく問われるのであろう。ここで、昔から「士」と呼ばれる中日両国の知識人の相違を考えてみたい。
(二)
長い科挙制度に培われた中国の文人は、王朝時代では官吏として登用されながらも、独自な伝統と根深い階層を形成してきた。かれらは儒教にもとづく社会理念を信奉し、基本的には支配階層と武力集団とは一線を画して存在する。
したがって、民衆から昇りつめ「精英」と見なされた知識人は、支配層側にとっては常に油断のできない危険な集団である。「文化大革命」の嵐が吹き荒れるなか、「臭老九」と最低のランクに位置づけられながらも、かれらは屈辱を呑んで辛抱し、権力に諂うことを恥とした。
儒教的信念と独自な判断とを捨てようとしない中国の知識人層は、栄達と不遇をくり返しつつ、その時の政治勢力に睨みをきかせ、社会の健全な発展のために大きな役割を果たしたと評価されてよかろう。
高度な科学技術と発達した教育施設を有する日本が、専門知識の所持者を大量にかかえている事実を、誰も否定はしない。しかし、それでも私は政治に付随しない文人層の存在を認めない。
もとより日本でいう「士」はサムライと呼び、武士のことをさす。江戸時代に確立した「士農工商」という身分制度のなかで、首位にランクされる「士」は幕府を支える支配階級そのものだったのである。したがって戦時中、知識人のほとんどが侵略戦争を賛美し、軍部の暴走に追随するのであった。中国の知識人に尊ばれる反骨精神と自主判断はあわれにも少なかったのである。
ただし日本の「士」は、中国の「武士」とは意味がいくらか異なり、良好な教育に恵まれて、和漢の教養を身につけ、知識の授受を担う士大夫の「士」でもあった。こうした伝統は、西洋知識に装備された今日の知識人たちにも、少なからず受けつがれているといわざるをえない。
権力側から危険視される中国の「士」、支配層と利益共同体を結びがちな日本の「士」、両者の間にはその源流において根本的な相違がはっきり認められる。そして、このような相違は、両国の関係にも影を落としてしまうのである。
(三)
ここでは、中国の日本研究者と日本の中国研究者を例として、それぞれの社会に働きかけようとする姿勢の相違を分析してみよう。
「アメリカに留学すれば、アメリカに親しむ。日本に留学すれば、日本を恨む」というのは、今や中国では常識となっている。日本の現状を恨んで帰国する留学生は、さまざまな辛酸と傷痕をあくまでも「個人的な遭遇」として、大学の教壇に立てば、学生らにぶちまけて日本という国を毒づくことは、まずしない。
日本でどんな酷い目に遭っても、政治的な目的から反日感情を扇動し、日本の留学生を傷つけ、日本の没落を待ち望むような言動を、知識人のプライドと良心はそれを許さない。このような人物がたとえ現われたとしても、知識人層から「異類」と疎外されるであろう。現に中国では日本を故意に傷つけることで有名になった学者は一人もいない。
多くの留学生は、日本での体験は愉快だったとは思わず、日本社会の現状に不満を抱きながらも、その改善を望んで中日友好の発展に力を尽くしている。しかし、それがときに逆効果を生みだすこともある。
中国の知識人はとくに「面子」を重んじる。かれらの知り尽くした日本の恥部、あるいは自ら背負っていた傷口を、親類にも打ち明けようとしない。近ごろ、留学生を題材にしたテレビドラマが中国で放映されると、「一億人の涙を誘った」といわれるほど、中国大衆は日本のきびしい真相を知らなかったのである。
私は思う。真の中日友好のためには、中国の文弱な知識人はもっと武勇の気概を必要とし、等身大の日本像を国民に伝える義務がある。「天国」と勘違いして渡日し、「地獄」と罵って帰るよりは、事前に日本の実情を知らせたほうが増しだろう。
(四)
さて、日本の中国研究者はどんな姿勢を取っているのだろうか。概していえば、古代を専門とする研究者は、温厚な学者タイプが多く、敬意を払われるが、書斎に閉じこもりがちで、社会的な存在感は薄い。近世以後を専門とする研究者は、政治志向型が目立ち、政治屋と見間違うほど恣意的な発言をくり返し、世論にもてはやされる。
われわれの目から奇異に映って、学者としての品格を疑われるのは、次のような二つのタイプである。
ひとつは強烈な国粋主義者である。侵略戦争を美化し、南京大虐殺を否定するなどはまだ普通だが、倭寇の海賊行為を正当化し、豊臣秀吉の野望を礼賛するとなると、さすが理解に苦しむ。それは蒙古来襲を顕彰するのと同じく、中国の知識人にとっては想像もつかないことであろう。
近ごろ、静岡にある某大学では、教壇に立った教授がアジアの留学生十数人を前に、侮辱的な言葉を連発し、それを反論されると全員の成績を不合格にしたという事件があった。日本の留学生を受けいれていた私にとって、それができる大学にまず疑問を感じる。
もうひとつは、政治的な中国嫌悪タイプである。中国の政治体制を嫌うことならば、日本の社会的現状を嫌う中国人も多くいるから、まだ理解できるが、問題はチベット独立やら台湾建国やら中国分権やらという中国を分裂させようとする言論を平気で口にすることである。
中国では、政治家の言論は知らないが、学者として沖縄をアメリカに、北方四島をロシアにゆずろうといった発言を聞いた覚えはない。日本ではこうした暴言を吐いても国立大学の学長にまでなれたケースがあるが、学界風土の相違をつくづくと感じさせる。
(五)
以上のように、中国の日本研究者は、個人の体験や政治理念とは関係なく、全体として日本のイメージを好意的に伝え、中日友好と文化交流の主役を演じているが、日本の中国研究者は、個人的な感情を社会に発散し、学術目的以外の政治的意図をもつ言動がかなり多いと認めざるをえない。
このことは、中国の日本研究者による反日的な著述はほとんどないのに対して、日本で刊行される反中的な著述の多くが日本の中国研究者によって書かれているのを比較すれば、一目瞭然であろう。
ここで、私は、中国人が日本を、日本人が中国を、研究対象国に選んでしまうのは、なんのためなのか、どうすればよいかをしばしば考え込むようになった。結論は簡単には出ないが、数年前の最終講義にあたり、未来を担う日本の大学生らに打ち明けた心境を、講義ノートから引用しておく。
外国を専門に選ぶものは、まずその国の文化に愛着を覚えるべきである。そして、その文化を創りだした民族に敬意を払うべきである。日本研究を志して以来、このような初心を捨てることなく、歴史人物とともに喜んだり悲しんだりする。日本への賛美も非難も、愛着と敬意から出たものである。たとえ、今の社会的現状が気に入らなくても、日本の将来に美しい祝福を贈りたい。もしこのような基本的な心構えすらもてなければ、おそらく私には日本を研究する資格も、この国の良し悪しを口に出す権利もないであろう。
考えてみれば、自国の文化を汚すために、または自国の文化を絶滅させるために、日本人が日本研究、中国人が中国研究を選んだものはなかろう。したがって、外国研究に携わるものも、その国の文化を顕揚し、その伝統を持続させなければならない。とくに、知識人と目されるものは、近視眼的かつ偏狭的な政治利害に良識を囚われず、国境を越え、民族を越え、時代を越えて正確な知識をひろく授受し、世界の人々がすべての優秀な文化を享受できる環境づくりに生涯を捧げるべきである。このようになれば、中国における日本像と日本における中国像は、人為的に歪められることなく、等身大のままに受けとめられることになろう。そう祈願してやまない。
(六)
最後に、私事ながら、本書執筆のいきさつについて、ふれておく。
数年前のことだが、拓殖大学と筑波大学で、「中国人の日本観」と銘打った講義を、それぞれ一年間にわたって行なった。当時は中国の大学における慣例にしたがって、詳細な講義録をあらかじめ用意しておき、そして講義ごとに内容を増やしていく。講義が終わってみれば、四百字詰めの原稿用紙に換算すると、六百枚を超す量に達していることがわかり、いつかは著書にまとめてみようと思った。
三年前、予想よりも早くチャンスがおとずれた。中日の文化交流を熱心に進めておられる農文協の坂本尚専務と原田津常務にめぐり会い、本書の執筆を勧められた。その後、早稲田大学には特別研究員、帝塚山学院大学と四天王寺国際仏教大学には客員教授として招かれ、本務のかたわら図書館に入り浸り、日本側の史料を大幅に増やすことができた。さらに、今年四月からは岡雅彦先生の招請で、文部省国文学研究資料館の客員教授に就任し、本書の完成にこぎつけることができた。
ここで特筆して謝意を申しあげたいのは、編集担当の泉博幸氏である。締め切りを何度も延長させていただいたにもかかわらず、いつも柔軟に対応してくださった。お盆の連休をほとんど返上して、私を自宅に招待し、本書に用いた百枚以上の図版を一緒に選んでくださった。一部の不鮮明な図版は、すぐれた絵画の才能をもつ奥様が、精細に模写してくださった。締め切りに追われる日々はちょっと辛かったが、泉博幸ご夫婦と共同作業をした数日間はじつに楽しく、すべての辛労が報われたのである。
愚妻は、原稿の校正段階に中国から応援にかけつけてくれ、全書の年号などを照合した。家族の貴重な支援は、本書にこころよいピリオドを打たせた。
二〇〇〇年九月七日
国文学研究資料館の研究室にて
著者