呉人福亮と聖徳太子

主催：早稲田大学「古代文学比較文化研究所」

時間：2002年3月10日

場所：（東京）早稲田大学文学

（一）

ＪＲ大和路線・法隆寺駅から徒歩４５分ほど、あるいはそこから「近鉄郡山行」のバスに乗車して「法起寺前」で下車すれば、徒歩わずか１分のところに、法起寺というお寺がある。0745-75-5559は迷子に備えて控えた電話番号だが、今まで三回ほど尋ねて使用歴はまだない。

　法隆寺・大安寺・興福寺などに比べて、それほど目立たないこの寺に興味を示したのは、「山号：岡本寺、開基：福亮」とガイドブックに書かれているからだ。十年ほど前、わたしの日本語の処女作ともいうべき『聖徳太子時空超越』（大修館書店、１９９４）を執筆中、中国江南地域の「呉」から来日し、熊凝氏を名乗っていた福亮という人物に注目したことがあるけれど、そのときは聖徳太子との関連を実証できず、資料蒐集を途中ながら断念したのである。

　そこで、一九九九年十一月ごろ、正倉院展を拝観したついでに、どこへ行こうかなとガイドブックをめくったら、法起寺のページに目が止まった。岡本寺といえば、聖徳太子が『法華経』を講賛した場所として『日本書紀』に記され、その開基が福亮だと、聖徳太子と浅からぬ因縁があったはずだ。それが法起寺へ足を運んだきっかけなのである。

法起寺は聖徳太子創建の七か寺の一つとして、岡本尼寺・岡本寺・池後（いけじり）寺・池後尼寺とも呼ばれる。『正倉院文書』や『日本霊異記』に記録が残り、奈良時代には栄えていたが、平安時代から法隆寺の配下に入ると寺運いよいよ衰弱し、鎌倉時代に講堂や三重塔が修復されたものの、室町時代には再び衰え、江戸時代の初めごろには三重塔を残すのみであった。延宝六年（１６７８）真政圓忍とその弟子たちは三重塔を修復し、元禄七年（１６９４）に講堂を再建、文久三年（１８６３）に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられた。

この寺院の特徴として、塔と金堂の位置が法隆寺と逆で「法起寺式伽藍配置」と呼ばれる。本尊は十一面観音だが、寺宝の一つ金銅菩薩像（重文）は、像高２４ｃｍと小像ながら止利式の特徴をもつ飛鳥仏である。

法起寺を太子創建の寺とするのも、開基を福亮とするのも、『法起寺塔露盤銘』を主な根拠としている。この銘文を持つ露盤はもと三重塔に納められていたが、今それが現存せず、銘文のみ『聖徳太子伝私記』（卷下）および『寧楽遺文』（下）に伝わる。

銘文によれば、推古三十年（６２２）二月二十二日、聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山代兄王（山背大兄王やましろのおおえのおう）に山本宮（岡本宮）を寺に改め、大倭国の田十二町と近江国の田三十町を施入するとの遺言を残した。その後、舒明十年（６３８）に福亮僧正がこの御料を使って弥勒像と金堂を造立し、天武十四年(６８５)に恵施僧正がさらに堂塔を増築し、慶雲三年（７０６）三月に塔の露盤を作ったという。

文久三年（１８６３）順光の発願によって立てられた聖天堂は、福亮建立の金堂を復旧したものと伝えられるが、現状は歓喜天像を本尊としており、弥勒仏の跡形もない。

一九六〇年からは石田茂作博士、一九六八年からは奈良県文化財保護課および奈良国立文化財研究所がそれぞれ発掘調査を行ない、三重塔の北側、丘陵の南に築地（つきじ）と講堂の遺構を見つけ、さらに築地の北側に法隆寺の若草伽藍中軸線と方向を同じくする遺構も確認した。前者は天武十四年(６８５)に恵施の起こした堂塔に擬せられ、後者は舒明十年（６３８）に福亮の建てた金堂と推定される。

　井上光貞博士は「（後者の遺構が）寺院跡ならば、福亮が舒明十年に聖徳太子の奉為に太子講経のところという岡本宮に金堂を興したことは疑いない史実となろう。もしそれが宮跡ならば、福亮が金堂を興したということも慶雲当時の恵施の次代の人々の作為で、恵施らが福亮の素志に従って天武朝にはじめて堂塔をおこしたのを、あたかも（中略）福亮みずから金堂を建ったかの如く書いたものであろう。しかしその場合にもわざわざ福亮のことを書いたのは、福亮その人に太子の法華講説を記念する意図があったことを伝えるものである。これが福亮と三経・三疏の関係があるとすることの第一なのである。」（井上光貞著作集第二巻『日本古代思想史の研究』、岩波書店1986．2、206~7頁）

井上光貞博士は福亮を『法華経義疏』の成立にかかわった人物として、『法起寺塔露盤銘』および発掘調査の裏付けをあげ、さらに福亮を『維摩義疏』の撰者に想定して、『扶桑略記』斉明天皇四年（６５８）条をあげる。

　福亮が『維摩経』を講説したこと、三経義疏が南朝梁の三大法師つまり「江南諸師」または「南方成実師」の注疏に基づいたこと、福亮が呉つまり江南からの渡来人であることを考え合わせて、井上光貞博士は次のように発言する。

「ここで一つの推測をかかげておくならば、さきの銘文の舒明十年は聖徳太子の没後わずか十七年で、福亮はそのとき太子の奉為にその法華講説の地に伽藍を造ったというのであるから、福亮は太子存命中に来日して、三疏製作にもかかわった外国僧集団の一人であったのではなかろうか。また私は二章に、三疏は元来同一学風のものであるが、維疏はその最後出であるばかりか、内容的にも先二疏と異質であることを指摘した。これを推し進めると当然、推古朝を少し下ったところに、学系をひとしくする別の作者を求めなくてはならない。しかるに如上のような経歴をもつ福亮は、その維疏の作者に擬すべき有力な候補者の一人であろう。」（同上、207~8頁）

わたしは自らも江南出身ということもあって、江南と日本との交流に興味があり、『アジア遊学』に「東アジアを行き交う国際人列伝」の連載を始めるとき、「熊凝氏を名乗った呉国人」と題して福亮列伝を第一弾とした。しかし、これは主として以前に貯めていた資料を原稿化したもので、文献調査がきわめて不十分で、ただ今紹介した井上光貞博士の論考に目が届かなかったのである。井上光貞博士の論考は約四ページであるが、はらはらして拝読した。井上光貞博士は三経義疏成立とのかかわりで福亮に言及し、わたしは「福亮列伝」と銘打っている　以上、彼の生い立ちを追うのが狙いで、幸いにもダブっていない部分もままある。

聖徳太子との関連で、井上光貞博士が言及しかなったものとして、福亮が熊凝氏を名乗っていた伝承をあげることができる。

　『扶桑略記』（第四）によれば、推古天皇二十五年（６１７）聖徳太子は将来の天皇のために熊凝村に精舎の建立を発願したが、やがて病に倒れ、田村皇子から「若し願う所あらば、朕、将に之れに随わんとす」との勅旨を伝えられると、「ただ熊凝を朝庭に献り、大寺と成らんことを欲するのみ」と悲願したとあり、天皇は悲喜こもごも「平群郡の熊凝精舎をもって大伽藍と成し、今に謂う大安寺はこれなり」と伝承する。それと類似した記録は天平十九年（七四七）の『大安寺資財帳』をはじめ、『大安寺碑』や『諸寺略記』および『今昔物語』などにも見え、熊凝村には熊凝道場・熊凝精舎・熊凝寺があったと伝えられている。

　田村皇子はのちに舒明天皇となり、その治世の十一年（六三九）正月に、十市郡の百済河あたりに熊凝精舎を移して百済大寺を建てたが、それが天武天皇二年（六七三）に大官大寺と変わり、奈良遷都後（七二九）に大安寺へと変身し、聖徳太子への信仰もこの筋で、綿々と受けつがれていくのである。舒明天皇十年に、福亮による法起寺開基とその翌年の熊凝精舎の移築との間に、聖徳太子を介してなんらかの関連があったと考えられる。

ここで、わたしは福亮を聖徳太子周辺のブレインの一人と推定しているが、この仮説を補強するために、福亮の来日年次について考察を加えた。諸書が福亮を「呉国人」といって「唐人」と称さないのが、重要な手がかりである。

『日本書紀』を調べると、呉国との使節往来は応神天皇の三十七年（三〇六）に始まり、五世紀後半の雄略天皇の治世にピークを迎えて幕を降ろしたことがわかる。そして、七世紀初頭の推古朝を過渡期として、隋唐が呉国に取って代わって登場してくる。

「呉国」が『日本書紀』に現われる最後の記事は、推古天皇十七年（六〇九）四月四日の条にみえる。つまり、百済僧の道欣と惠彌をはじめとする僧侶一十名と俗人七十五名が、肥後国の葦北津に漂着し、朝廷は難波吉士徳摩呂と船史龍を遣わして尋問させたところ、道欣らは次のように答えた。

「百濟の王、命せて呉国に遣す。その国に乱ありて入ることを得ず。さらに本郷に返る。忽ちに暴き風に逢って、海中に漂蕩う。然るに大きなる幸ありて、聖帝の辺境に泊れり。以て歡喜ぶ。」

五月十六日になると、朝廷はさらに徳摩呂と龍に命じて、漂着民を百済へ送還させたが、対馬に至って道欣ら僧俗十一人は日本に止まるよう請願し、許されて飛鳥の元興寺に落ち着いたのである。

　したがって、福亮は「呉国人」と称される以上、その来日はおそらく推古十七年（六〇九）をくだらないであろう。それ以後、中国を指して「呉国」または「呉」と称する例は『日本書紀』に見当たらない。つまり、推古天皇二十六年（六一八）八月条に「隋」の用例がひとつあり、同三十一年（六二三）からは「大唐」または「唐」の呼び名に統一されている。こうした背景を勘案してみると、福亮の来日は七世紀の初頭、もし憶測を許されるならば、百済の遣隋使こと道欣ら一行とともに、本国の乱を避けて日本に漂着したのではないかと推測したい。

[史料一]法起寺塔露盤銘

　上宮太子聖徳皇壬午年旁朱推古天皇三十二月二十二日、臨崩之時、於山代兄王敕御愿旨、此山本宮殿宇即処専為作寺、及（入カ）大倭国田十二町、近江国田三十町。至于戊戌年旁朱舒明天皇十年福亮僧正、聖徳御分敬造弥勒像一躯、構立金堂。至于乙酉年旁朱白鳳十四惠施僧正、将竟御愿、構立堂塔。而丙午年三月、露盤営作。

[史料二]『維摩経』講説

『扶桑略記』（第四）：○斉明三年　内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎、乃設斎会、是則維摩会始也。○同四年　中臣鎌子於山階陶原家、屈請呉僧元興寺福亮法師後任僧正為其講匠、甫演維摩経奥旨。其後、天下高才、海内碩学、相撰請用如此、周覆歴十有二年矣。

[史料三]熊凝氏

『僧綱補任抄出』（上）：僧正福亮＜呉人、熊凝氏、本元興寺＞。

『本朝高僧伝』（巻一）：釈福亮、姓熊凝氏，本�危国人。来朝出家、从高麗慧灌僧正習禀三論、兼善法相。

[史料四]熊凝精舎

『扶桑略記』（第四）：○推古二十五年丁丑　上宮太子為知将来入定、則奏天皇曰、後代帝王多可短祚、非仏法力、何敢救護。願建一精舎於熊凝村、修種々仏法、護代々皇位矣。○推古二十九年二月二十二日　聖徳太子薨于斑鳩宮、時年四十九。先是、天皇勅遣田村皇子、屡問太子之病、其勅曰、（前略）若有所願、朕将随之。太子曰、臣（中略）但欲以熊凝献朝庭、成大寺。是只保護皇胤之故也。天皇且悲且喜、以平群郡熊凝精舎成大伽藍、今謂大安寺、是也。○舒明十一年正月　始造大宮十市郡百済河側、相択勝地、移熊凝精舎、建百済大寺。今大安寺是也。　同十二月　大安寺記云、施入百済大寺封邑三百戸、良田三百町、並種々財宝。又合諸惠衆学侶、集置寺中。○皇極元年九月　詔令造百済寺、今大安寺是也。