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西暦   中国年号 日本年号   年齢 鑑真関係事蹟  

688

垂拱四 持統二 1 揚州江陽県の淳家に生まれる。  
701 長安元 大宝元 14 揚州大雲寺智満について出家、沙彌となる。
705 神龍元 慶雲二 18   道岸より菩薩戒を受ける
707 景龍元 慶雲四 20 洛陽·長安遊学の途にあがる。
708 景龍二 和銅元 21

三月二十八日、長安実際寺弘景より具足戒ける

これより両京に諸師を訪ねて、道宣の『四分律行事鈔』·『注羯磨』·『量処軽重儀』および法礪の『四分律疏』などを学ぶ。  

713 開元元 和銅六 26 はじめて講座に登り、律疏を講ずる。
718 開元六 養老二 31 『四分律行事鈔』と『量処軽重儀』を講ずる。
720 開元八 養老四 33 これより数年間、揚州を中心に造仏·建寺·写経·伝戒などの活動に励む。一切経の写本は三部、戒律の宣講は一三〇回を数える。
727 開元一五 神亀四 40 この間、『注羯磨』を講ずる。
733   開元二一   天平五 46

南と江左、浄く持戒する者は、ただ鑑真大和上独り秀でて、倫なし」と評される。

八月、遣唐使の船は蘇州に到着、洛陽に入る。栄叡と普照は戒師招請のため随行。(『延暦僧録』)  

734 開元二二 天平六 47 四月、遣唐大使らは玄宗皇帝に謁見。(『冊府玄亀』)
736 開元二四 天平八 49

玄宗皇帝は洛陽から長安へ帰る。栄叡・普照らも随行。

副使の中臣名代ら帰国。唐僧道璿、天竺僧菩提僊那らも招請を受けて東渡。(『続日本紀』)

740 開元二八 天平一二 53 栄叡と普照は帰国を企画。(『大唐鑑真伝』)
741 開元二九 天平一三 54 この年から南下したりして、渡海の準備を進める。(『大唐鑑真伝』)
742 天宝元 天平十四 55 十月、栄叡・普照は揚州大明寺に鑑真を訪ね、伝戒師の推挙を懇願。鑑真は自ら渡日を決意。すぐに渡海の準備を始める。
743 天宝二 天平十五 56

四月、新羅僧の如海は内紛により、採訪使庁に誣告し、一回目の渡航が失敗に終わる。

八月、冤罪を蒙った栄叡と普照は獄中から釈放される。日本僧玄朗と玄法は脱退。

十二月、鑑真は従僧ら十七名をはじめ技術者ら八十五名を率いて二回目の渡航を試みたが、狼溝浦付近(南通市狼山)で遭難。遭難船を修理して南下し、ふたたび桑石山付近(嵊泗県大悲山)で座礁。島民の救援を得て、鄮山阿育王寺に収容される。

744 天宝三 天平十六 57

越州龍興寺に招かれて講律授戒。

その後、杭州·湖州·宣州を巡錫して、山阿育王寺に戻り、ひそかに三回目の渡航を企てるが、越州僧の密告によって栄叡は投獄される。のち病死を装って脱出。

冬、鑑真は栄叡らの不屈な精神に感動し、法進らを福州へ遣わして渡海の準備を進めさせながら、天台山国清寺を参拝して福州へ赴く途中、弟子霊の密告により、黄岩県禅林寺で官憲に捕らわれ、揚州へ護送される。四回目の渡航も不発に終わる。そのとき、栄叡と普照は同安郡(安徽潜山県)へ逃げる。

745 天宝四 天平十七 58 この年、辯秀は鑑真より受戒する。
748 天宝七 天平二十 61 このころ、曇玭は鑑真より受戒する。(『棲霞寺故大徳玭律師碑』)

春、栄叡と普照は揚州崇福寺に鑑真を訪れ、再度の渡航を懇願。鑑真はそれを聞きいれ、準備に取りかかる。

六月二十七日、鑑真ら三十五人は揚州新河(瓜州運河)より出帆して五回目の渡航を決行。狼山(南通)付近で風浪に阻まれたが、翌日に順風を得て越州の三塔山(嵊泗小洋山)に至り、一ヶ月ほど留まる。

八月ごろ、また順風を得て出帆、暑風山(舟山列島)に至り、ここでも一ヶ月ほど待機した。

十月十六日、船は須岸山(普陀山)を目指して出港、黒海・蛇海・飛魚海・飛鳥海を経て、海上を漂うこと十四日間、ようやく南海の島に流れつく。

十一月、四人の海商に案内され、さらに三日かけて振州(海南省の三亜)に到達、別駕崇債の歓待を受ける。

749 天宝八 天平勝宝元 62 鑑真らは振州大雲寺に一年ほど泊り、それぞれ衣物などを喜捨して、荒廃しかかった伽藍を修造した。
750 天宝九 天平勝宝二 63

年初、振州から万安州(海南省の万安)に移動、若芳の豪邸に泊る。

さらに万安州から崖州(海南省の瓊山)に赴き、大使張雲に迎えられて、開元寺に泊る。大使に請われて、火災に焼かれた寺院を修復し、講律授戒を行なった。

崖州を発ち、雷州(広東省の雷州)に向かう。その後、羅州(広東省の廉江県)・辯州(広東省の化県)・象州(広西の象州県)・白州(広西の博白県)・傭州(広西の容県)・藤州(広西の藤県)・梧州(広西の蒼梧県)・桂州(広西の桂林)を巡錫する。

春ごろ、始安郡(桂林)の都督は鑑真らを迎え、開元寺に安置する。鑑真はをはじめ、地元の信者たちに菩薩戒を授け、一年ほど滞在した。

751 天宝十 天平勝宝三 64

南海郡(広東省)大都督、広州太守のに招かれて、桂江を下り、梧州を経て広州へ向かう途中、栄叡は端州(広東省の肇慶市)の龍興寺で円寂。

春、鑑真らは端州太守に送られて広州に入り、大雲寺に住する。

初夏、一行は広州から水路を進めること七百里、州に至り、禅居寺・法泉寺・開元寺に住する。普照はここで鑑真らと別れて、北上して明州阿育王寺へ向かう。

鑑真、過労のすえ、ついに失明。

鑑真らは州より昌県(広東省の南雄県)に行き、大嶺を越えて虔州(江西省の県)さらに吉州(江西省の吉安)に至る。ここで、祥彦円寂。

吉州から山の東林寺や陽の龍泉寺に立ち寄りながら江州(江西省の九江)へ向かう。

さらに北上して潤州(江蘇省)江寧県に赴き、瓦官寺・棲霞寺を巡錫する。

摂山を下りて、出港地の新河より上陸、揚州に入り、龍興寺・崇福寺・大明寺・延光寺などで授戒講律をつづける。

752 天宝十一 天平勝宝四 65 三月ごろ、藤原清河を大使とする遣唐使は日本を発ち、明州付近より上陸し、阿育王寺にいた普照から鑑真のことを聞く。大使らは運河を北上して長安に入る。(『延暦僧録』)
753 天宝十二 天平勝宝五 66

正月元日、遣唐使は蓬莱宮含元殿で朝賀の儀に参列し、新羅使と席次を争う。(『延暦僧録』、『続日本紀』)

三月、遣唐使はふたたび玄宗皇帝に謁見し、鑑真および蕭穎士の招請を申し出たが、道士の随行を要求されて撤回した。(『冊府玄亀』)

六月、遣唐使は玄宗皇帝に別れを告げる。(『冊府玄亀』)

八月より以後、遣唐使一行は南下し、揚州に向かう。(『薫集類抄』跋語)

十月十五日、藤原清河らは揚州の延光寺に至り、鑑真に公式招請の失敗を報告し、六回目の渡航を慫慂する。

十月二十九日、鑑真は官憲の監視下にある龍興寺を脱出、弟子ら二四人を連れて蘇州の黄浦に向かう。

十一月三日、鑑真らはいったん副使以下の各船に分乗したが、まもなく大使の判断で下船させられた。

十一月十日、副使大伴古麻呂はひそかに鑑真一行を第二船に乗りこませた。

十一月十三日、普照は明州から来り、吉備真備の第三船に搭乗。

十一月十六日、船団は黄浦を出帆、二十一日に第一船と第二船が阿児奈波島(沖縄)に到着。

十二月六日、第二船は多島(種子島)をめざして出発、七日に益久島(屋久島)に着く。

十二月二十日、鑑真らは薩摩国の阿多郡秋妻屋浦(鹿児島坊町秋目浦)に到達、二十六日に太宰府に迎え入れられる。

754 天宝十三 天平勝宝六 67

正月十一日、大伴古麻呂は鑑真の来着を朝廷に上奏する。

二月一日、鑑真らは難波(大阪)に至り、三日に河内国(京都)に入り、四日に奈良に着いて、東大寺に安置される。五日に、道璿律師菩提僧正らが慰問に来る。

三月、鑑真は授戒伝律一任のを受け、大和上の尊号を贈られる。

四月の初め、鑑真は聖武天皇・皇后・太子その他の信者四四〇余人に授戒する。

五月、鑑真は舎利などの将来品を天皇に献上。(『延暦僧録』)  

755 天宝十四 天平勝宝七 68 九月、東大寺大仏殿の西側に戒壇院を完成、鑑真は首代の戒和上となる。住坊となる唐禅院もそのころ竣工。
756 至徳元 天平勝宝八 69

四月の初め、東大寺の大仏殿前で、天皇の十八種物のために羯磨を行なう。(『延暦僧録』)

五月二日、聖武上皇は崩御。二十四日、鑑真は看病禅師百二十六人の中にあって、良弁とともに大僧都、法進は慶俊とともに律師となる。

朝廷は聖武上皇に供奉する米と塩を鑑真と法栄に与える。  

757 至徳二 天平宝字元 70 十一月二十三日、備前国墾田百町を東大寺唐禅院十方の衆僧供養料に施入。鑑真はこの費用を唐招提寺の建立に当てた。(『鑑真和上三異事』)
758 乾元元 天平宝字二 71 八月、大僧都を辞任、大和上の号を贈られる。  
759 乾元二 天平宝字三 72

八月一日、故新田部親王の旧宅の施入を受けて、唐招提寺を開く。(『招提寺建立縁起』)

その後、鑑真は唐招提寺に移住、法進は二代目の戒和上として東大寺戒壇院を受けつぐ。

760 上元元 天平宝字二 73 年末に、平城宮の改修に伴い、東朝華殿を唐招提寺に移入して講堂を造営する。
761 上元二 天平宝字五 74

五月、下野の薬師寺と筑紫の観世音寺に戒壇を建て、日本三戒壇が成る。

二月一日から法進は、善俊に請われて『沙彌十戒並威儀経疏』五巻を起筆、四月十五日に完成。(同書奥書)

十月二十三日から十二月十七日にかけて、法進は弟子慧山らのために『沙彌十戒並威儀経疏』を講義した。(同書奥書)

762 宝応元 天平宝字六 75 五月、唐招提寺に戒壇を設ける。
763 広徳元 天平宝字七 76 三月上旬、忍基は不吉な夢を見て、鑑真入滅を予感、師の寿像を作る。(『鑑真和上三異事』、『招提寺建立縁起』)

五月六日、鑑真は唐招提寺の宿房で円寂。

774 宝亀五 如宝は法進のあとをついで、戒和上となる。(『東大寺要録』)
776 宝亀七   五月二十一日、播磨国の封五十戸を唐招提寺に施入する。(『続日本紀』、『鑑真和上三異事』)
777 宝亀八 七月、備前国の田地十三町を唐招提寺に施入する。(『類三代格』)
778 宝亀九 法進円寂。(『僧綱補任』、『七大寺年表』)
779 宝亀十 二月、淡海三船は『唐大和上東征伝』を撰す。
804 延暦二十三 正月、如宝の奏上により、越前国の水田六十町と備前国の田地十三町を令学戒法料にあてることを許される。(『日本後紀』、『類三代格』)
815 弘仁六 如法円寂。(『日本後紀』)
831 天長八 豊安は『鑑真和上三異事』を撰す。
834 承和元 豊安は『戒律伝来記』を撰す。(『招提千歳伝記』)
835     承和二 豊安は『招提本源流記』(『招提寺建立縁起』の原本)を撰す。(『大悲菩薩抄』、『招提千歳伝記』)
1298 永仁六   八月、忍性は蓮行の絵いた『東征伝絵伝』を唐招提寺に施入。
1302 乾元元 ○七月、御影堂を再建。(『記録法蔵』)
1322 ○賢位は和文の『唐大和上東征伝』を撰す。
1701 元禄十四 ○三月、義澄は『招提千歳伝記』を撰す。