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聖徳太子と鑑真和上

――なぜ古代に目を向けるのか――

主催:四天王寺国際仏教大學(IBU)

時間:2003年5月

場所:(大阪)羽曳野市

(一)鑑真との出会い

鑑真和上は今こそ中日友好のシンボルとして持て囃されるが、かつては不帰の客として、中国ではほとんど忘れ去られ、日本でもさほど注目されなかった。

鑑真を現代によみがえらせたのは、安藤更正博士の鑑真評伝と井上靖氏の小説『天平の甍』だといわれるが、安藤博士は一九六七年に書いた『鑑真』の「はしがき」で、こんなエピソードを披露している。

これほど偉大な人物も、今から二十年ほど前までは、一般の日本人にも故国の中国人にも、殆ど知られていなかった。(中略)むかし私が鑑真の研究に手を染めたころは、鑑真のことを話し出すと、大概の人がインドの聖者ガンヂーと混同したものだ。

一九七八年に中日間の国交正常化が実現し、一九八〇年に唐招提寺の鑑真像が里帰りしたことは、大学生だった私を、鑑真をめぐる古代中日文化交流という世界へといざなったのだ。大学院生のころ、鑑真への興味を持ちながら、聖徳太子に関する研究に没頭していたが、ちょうど十年前に聖徳太子と鑑真和上との接点を見つけた。

(二)鑑真来日の動機

 鑑真来日の動機について、小野勝年博士は次のような可能性を提示している。

(1)鑑真は日本から派遣された留学僧の熱誠のこもった招請に心を打たれた。

  (2)聖徳太子という人物が鑑真らを魅了した。

  (3)長屋王の袈裟寄贈は、鑑真に日本を仏教弘伝に有縁な地と思わせた。

  (4)仏教東漸の意識で、鑑真は戒律伝教の処女地として日本に魅力を感じた。

このほかに、「鑑真スパイ説」や「鑑真亡命説」のような暴言邪推もあるが、なかでも「聖徳太子敬慕説」を支持する方が日本に少なくないようである。

「聖徳太子敬慕説」の根拠とするところは、入唐僧栄叡らが七四二年に鑑真を日本に招こうとしたときに交わされた会話です。『唐大和上東征伝』によれば、栄叡らの招請に対して、鑑真はこう答える。

むかし聞いた話だが、南岳の慧思が亡くなってから倭国の王子に生まれ変り、仏法を大いに興隆させ、衆生を救済しているそうだ。(中略)これより考えれば、日本はまことに仏法興隆に有縁の国である。

ところが、右の問答をよく吟味すると、栄叡らは聖徳太子の予言に触れているものの、鑑真の回答には聖徳太子への言及はまったくなかった。

(三)慧思の生まれ変わり

「聖徳太子敬慕説」にはもう一つ裏づけがある。八四七年、唐から帰国した円仁は、将来品を天皇に献上したときに、「大唐の南岳思禅師の後身なる聖徳太子は、不世の徳を以て、此の国に転生した。(中略)その後に、唐僧鑑真らは遠く聖化を慕い、天台法門を将して来朝した」と報告している。

右の「聖化を慕う」とは、鑑真が太子を敬慕して、はるばる海をわたったと理解されているようだ。つまり円仁が「太子は慧思の後身である」と言っているので、「聖化」も太子の仏教奨励政策などを指すのではないかと思われるのである。

ちなみに慧思(五一五〜五七七年)は六世紀の乱世を生き抜いた中国の名僧である。その門下から天台宗を開いた智が出ているので、天台宗の祖師と崇められる。中国では、慧思が円寂してから何度も生まれ変わったとの伝承が早くから発生していた。鑑真のころ、遣唐使の往来によって、日本の国王または王子に生まれ変わった伝説が生まれていた。

(四)「聖化」の意味

円仁のいう「聖化」はどういう意味を考える際、『七代記』に記された碑文が思い出される。それには慧思は「倭州の天皇、彼の聖化する所である」という記載がある。落款には「李三郎帝即位開元六年歳次戊午二月十五日、杭州 銭唐館写し竟る」とあり、七一八年に遣唐使の誰かが杭州銭塘江に近い宿舎で写しとったものである。碑文の「聖化」も円仁のいう「聖化」も転生・後身・生まれ変わりといった意味をふくんでいる。

鑑真と同時代の詩人、皇甫曾の「送鑑上人」は来日直前の鑑真に贈った送別詩だと思われる。最後の一聯に鑑真来日の目的を「更に真を尋ねて去らんと欲し、船に乘って海潮を過る」とある。

「尋真」の用例を調べると、聖人の生まれ変わりを意味する言葉だということがわかった。ここでは、円仁のいう「聖化を慕う」と同じ意味で、鑑真が慧思の転生を追っかけて来日したことを示唆していると考えられる。

(五)太子信仰との習合

来日後の鑑真について、本人が著作などを残していないので、聖徳太子との接点を示す直接の証拠は見つかっていないが、その周辺の人々、わけても弟子の思託と法進の著作から、間接の証拠を求めることができる。

法進の書いた著作が何冊か現存しているが、その一つ『注梵網経』は、祖師の忌会の模様をこまやかに記している。これによれば、鑑真の弟子たちは鑑真の忌会を慧思そして智と同列に営んでいる。そして、慧思を太子の前生として奉っている。

思託は鑑真伝記の著者として知られるが、それには「慧思禅師はすなわち日本に降生し、聖徳太子と為る」と明記されている。思託は『延暦僧録』の著者でもある。その巻二に収められた「上宮皇太子菩薩伝」は前半に慧思のことを述べ、後半に太子の事跡を記している。そして、両者を結びつけるのは「思禅師はのちに日本国の橘豊日天皇の宮に生まれる」という一文である。それは、おそらく鑑真らの慧思信仰と奈良時代の太子信仰とが習合した原初的な形態であろう。

(六)国際人の手本

今や中国では鑑真ブーム、日本では太子ブームが巻き起こっているように感じられる。

鑑真に関して、二つの名スピーチが印象に残っている。一つは一九九八年十一月二十八日に、江沢民国家主席が早稲田大学において行なった「歴史を鏡として、未来を切り開こう」と題する講演、もう一つは二〇〇二年四月十二日に、小泉純一郎総理大臣が「ボアオ・アジア・フォーラム」における「アジアの新世紀−−挑戦と機会」と題するスピーチだ。

お二人はそれぞれ揚州と海南島にちなんで、鑑真を引き合いに出している。

鑑真と太子は、古代の中国と日本が生み出した偉大な国際人だと思う。「未来に目標を失うと、人々は古代に目を向ける」という方がいるが、このシンポジウムはよりよい未来を切り開くために、古代をしっかり見つめるのだ確信する。

 

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