鑑真来日のなぞ |
主催:駒澤短期大学仏教研究科 時間:2001年11月9日 場所:東京・駒沢短期大学 一、読み方に過敏な理由 ご紹介ありがとうございます。石井先生は「おう・ゆう」と言ってから、もう一度、中国音で「ワン・ヨン」と紹介してくださいましたが、私は近ごろ、どうやら自分の名前の呼び方には少し過敏になっています。 と言いますのは、十年ほど前、京都にある国際日本文化研究センターというところに、一年間、客員研究員として招かれたことがあるんですね。中国の上海空港から関西新空港に来て、京都の新都ホテルに到着しまして、「おう・ゆうです。予約しているはずです」と言ったところ、マネージャーに、「申しわけございませんが、ご予約は入っておりません」と言われました。「ワン・ヨンで調べ直してください」とお願いしたら、向こうは変な顔をして、「お客さま、本当に予約したんですか」と聞いてくるんです。そこで、やりとりしたファックスを見せましたら、マネージャーは「ちょっとお待ちください」と言いまして、調べなおして、「ああ、おう・いさむ様ですか」と言いました。 考えてみたら、中国の杭州から予約を申しこんだ時には、ローマ字だけではなく、漢字も知らせたんですね。「どんな漢字ですか」と聞かれたとき、いばって「王様の王、勇むの勇(ゆう)」と言ったと覚えています。ですから、それで予約してしまったんだと思います。国際化の時代ですから、そうしたことを経験しました。 また面白いことに、その後に国際日本文化研究センターで歓迎会がありまして、あそこは国際というくらいですから、英語らしい英語や、あまり英語らしくない英語で会話しているのは日常的な風景ですね。私は、英語は苦手ですので、会場の片隅でビールを飲んで孤独感を味わっていると、ある著名な学者が、私のところに歩みよって来まして、眼鏡を外し、首をつきだして私の名札を確認して、「おう・ゆうすけ教授、日本は初めてですか」と話しかけてくださったんです。誰のことかとびっくしましたが、回りには誰もいませんので、わが名札に目を遣ってみると、そこに「王勇
助教授」と書いてあるではないか。それを「王勇助
教授」と勘違いしたらしいですね。嬉しかったです。一ケ月後に、教授になったというお知らせが中国から届いたからです。今でもあの先生に感謝しています。 このように、名前は相互理解の助けになったり、さまたげになったりしますね。本日、お話しする鑑真(がんじん)についても、ある大学で話をしましたら、質問が来ました。「どうして、がんじんと読むのか」と言うんですが、考えてみればそうですね。慣用読みと言えばそれまでなんですけど、普通なら「かんしん」か「かんじん」ですよね。玄奘三蔵にしても、「げんじょう」と一般には読みますけど、ある有名な教授は「げんぞう」と読んで波紋を広げたという逸話があります。 鑑真の場合、どうして「かんしん」あるいは「かんじん」と読まないのか。私はそうした面にはあまり関心はないですけれども、実は我々はこのような基本的なことでさえ意外と明らかにしていないことを痛感させられます。鑑真に関する本はいっぱい書かれていますけど、名前をどう読むかといったことは、書かれていない。われわれの常識は、まだ欠陥だらけであると言えるでしょうか。 二、鑑真スパイ説 実は、今日、テーマとしている「鑑真来日のなぞ」も、基本的なことですね。日本に来てからのことは、いろいろ研究されていますけれども、来る前の問題はまだ究明されていないんです。あるいは、誰もこの問題を本格的に考えたことはないのかもしれません。誰も考えていないと言うと失礼なんですが、天理大学の鈴木治教授があれこれと詮索したあげく、「鑑真はスパイだった」という結論に到達したんですね。 鈴木教授はその疑惑を『白村江−−敗戦始末記と薬師寺の謎−−』という本にまとめて、一九七二年に学生社より出して以来、度々再版されているようですが、私が尊敬する京都大学の増村宏教授までも、その著作に鈴木治説を引用しています。こういう基本的な問題について、変な発言をする人がいても、それに反論する人がいないのです。だいたい、歴史の事件について考える時は、発生の時よりも、そのクライマックスの方に関心が集まってしまうんですね。しかし、実際には始まりからクライマックスまで長い道のりがあって、それがすべて分らないと、歴史の秘密をあかすことができないと私は思います。 三、鑑真ブームのきっかけ 前置きが長くなりましたが、鑑真については、昭和三十三年に、安藤更生という早稲田大学の教授が、専門は美術史だったと思いますが、『鑑真』という一般向けの本を書かれて、それが東京の美術出版社から出されました。その増補版は吉川弘文館の人物叢書として刊行され、啓蒙書となっています。この本の「はしがき」の中では、安藤先生は、こんな面白いエピソードを披露しています。 これほど偉大な人物も、今から二十年ほど前までは、一般の日本人にも故国の中国人にも、殆ど知られていなかった。それが戦後になって、急に小学生でも知るようになった。むかし私が鑑真の研究に手を染めたころは、鑑真のことを話し出すと、大概の人がインドの聖者ガンヂーと混同したものだ。「鑑真の伝記の研究をやっています」というと、相当な教養のある人でも「ヘぇー、ガンヂーと美術と何か関係があるのですか。」といって私を腐らせた。 鑑真のことが急に知られるようになったのは、安藤先生の『鑑真大和上伝之研究』という研究に刺激されて、小説家の井上靖氏が『天平の甍』という小説を書いたからです。この本が鑑真ブームをまきおこしたんですね。この本は一九五九年に「中央公論」に連載され、後に単行本になり、その後は新潮文庫などにも収録されました。雑誌もよく読まれ、小説もよく読まれましたが、鑑真ブームに拍車をかけたのは、劇団の前進座が「天平の甍」を舞台化したことです。さらに、一九八○年に東宝によって映画化されました。中国と日本との共作でこの映画を作ったんですが、私はこの映画を通して鑑真のことを初めて知ったんです。実はなつかしくなって、もう一度この映画を見たいなと思って、ビデオ屋さんに行ったら、「十年前に品切れになっていて見れません」と言われ、がっかりしました。誰か持っている方がいれば、それは希少価値があるかもしれませんよ。このように、小説、舞台、映画を通して、鑑真は中国でも日本でも広く知られるようになりました。 四、鑑真像への問いかけ 鑑真(六八八〜七六三年)は、約千二百年前に中国の揚州で生まれ、奈良時代の七五三年に日本に来まして、十年間ほど日本で生活しました。そして、七六三年に自ら建立した唐招提寺で亡くなったんです。 私は奈良にある唐招提寺を何度か尋ねたことがあります。そこには、思い出になるものがいっぱいありました。最も有名なものは、鑑真の肖像です。江戸時代の俳人、芭蕉は、この鑑真像を俳句にしています。 若葉して
おん目のしずく
ぬぐはばや どうも不可解な俳句ですね。鑑真が泣いているように描かれています。鑑真の涙を若葉でぬぐってあげようというのかもしれません。鑑真が泣いているというよりは、芭蕉が泣いているということでしょうか。こういう感情を、ありありと俳句に詠みこんでいます。 近くは、東山魁夷という画家がいますね。唐招提寺の屏風画を作るためにこの像と対面したんです。唐招提寺では、年に一回つまり鑑真の命日にあたる六月六日(旧暦では五月六日)に限って、鑑真肖像を安置した厨子の扉を開いて拝観が許されるのですが、遠くから見ることしかできない。それで、東山画伯は、屏風画を画くために至近距離で見せてもらったんです。そして、この鑑真像と対面した時の感激の瞬間のことを、『唐招提寺への道』(新潮社、一九七五年)にこのように書いています。 静かに閉じられた両眼、膝の上に両手を組み、端然と坐っていられるお姿。千二百年の歳月を経て、なおも、在るがままの和上の風貌に、ほのかな息遣いさえ感じられる。 一種の戦慄ともいうべき衝撃が貫く。しかし、それは、すぐ安靖の想いに引き入れられ、深い景仰の心となる。 芭蕉は俳人で、東山画伯は絵描きですので、両方とも文芸人です。作家や芸術家は自由に想像してよいのですが、歴史家は自分の想像というものを押さえなくてはなりません。私は残念ながら鑑真像と対面したことはないんですが、この像は一九八〇年四月に中国に里がえりしたとき、新聞やテレビなどで大きく報道されました。そして、切手のデザインにもなっています。こういう切手、絵画、写真集などを通して、鑑真の像はしっかりと私の頭の中に焼き込まれています。 ところが、私は歴史研究に携わるものとして、鑑真像を思い浮かべるたびに、芭蕉のように泣くことはないし、東山画伯ほど興奮することもありません。ただ、不思議に思うのは、鑑真はなぜ日本に来たのかという点です。というのは、鑑真は当時の中国人から見ても、現代の我々から見ても、日本渡航に対して異常な情熱をもやしているのです。私はその異常さには不可解なものを感じてなりません。 その時代を研究していますと、鑑真がそこまで日本に来たがる理由がよく分らないのです。当時の儒学者、たとえば蕭穎士の場合は日本の遣唐使から招請を受けると、「いやあ、私は病気です」と言って逃げます。ですから、唐の時代を通して儒学者は日本に来た記録がありません。 僧侶は中国から日本に来てますけど、人数は微々たるものです。それも、宋から元への交代期といった特殊な国内事情がなければ、さらに少なかったでしょう。儒学者は、隋、唐、宋を通じて、一人も来日していないのです。中国で名の知られる儒学者で日本に来たのは、江戸時代の朱舜水が初めてなんです。 したがいまして、鑑真の肖像を思い出すたびに、私はその堅く閉じられた口を開けてくれるのを願って、こう問いかけるのです。 「あなたはどうして日本に来たのか」と。 五、小野勝年氏の回答 それでは、「鑑真はなぜ来日したのか」という疑問を解きあかす旅を始めましょう。 この問題を正面から考えたのは、仏教史研究の大家である小野勝年博士ですね。鑑真は中国での生活を続ければ、名誉も地位も確実に保証されるのに、何も冒険して日本に行く必要はないんです。やはり特別な事情が鑑真を日本へと動かしたと考えざるをえません。それは何か。小野先生が用意したのは、次に挙げる四つの回答です。 (一)鑑真は日本から派遣された留学僧の熱誠のこもった招請に心をうたれ、だから日本に行きたくなった。 (二)聖徳太子という人物が鑑真らを魅了した。(この説については、後ほど詳しく説明します) (三)長屋王の袈裟寄贈が、鑑真らに日本は仏教にとって有縁の地と思わせた。 (四)仏教東伝の意識で、鑑真は戒律伝教の一つとして日本に魅力を感じた。 小野博士は右のごとく推論しました。これらは見事な立論ですね。とくに(三)と(四)は、一般論としては誰もが肯けるものでしょう。問題は、袈裟の寄贈だけで、死を賭してまで日本へ行くかどうかということですね。また仏教東漸にとって有縁の地という点は、死に神と背中合わせの渡航の動機として考えてよいかどうかです。 そこで、(三)と(四)は別として、前の二つについて、私の考えを説明します。私は基本的には、四つとも当るようで当たらないと思います。小野博士の唱える四つの解釈が根拠としているのは、『唐大和上東征伝』に見られる次の対話です。 すなわち、七四二年に入唐僧の栄叡と普照の二人は、戒師招聘の使命を背負って長安から揚州へ下り、大明寺に鑑真を尋ね、日本伝法を懇請したんですね。そのとき、栄叡らは次のように語って、鑑真を説得したのです。 仏法は東伝して日本に至る。その法はあるけど、戒を伝える人はいない。わが国に聖徳太子がいて、「二百年後に、仏教は必ず興るだろう」と予言した。今はちょうど予言の年にあたり、和上が来日して仏教を興すことを願う。 漢文をわかりやすくいうと、あるいは間違いがあるかもしれませんが、こういう趣旨の説得をしたんです。聖徳太子をかつぎだして、聖徳太子が二百年後に仏教が興ると予言したというんですね。聖徳太子が亡くなったのは、六二二年ですか。だから、実際には二百年になっていませんが、ともかくそう言って、鑑真を招聘しました。 そこで鑑真がどう答えたかと言いますと、それも鑑真来日の動機にかかわっているので、いちおう引用しておきましょう。 むかし、聞いた話だが、南岳の慧思が亡くなってから、倭国の王子に生まれ変わり、仏法を大いに隆盛させ、衆生を救済している。また、長屋王は仏教を崇敬して千枚の袈裟を作り、唐の高僧に施したと聞いています。その袈裟の上には、「山川域を異にすれど、風月天を同じくす。これを仏子に寄せて、ともに来縁を結ばん」という偈句が刺繍されている。これらから考えるに、日本は誠に仏教興隆に有縁の国である。 お分かりになったと思いますが、栄叡と鑑真の会話は辻褄が合いませんね。栄叡らは一生懸命に、聖徳太子のことをかつぎだして宣伝しますが、鑑真は聖徳太子のことは知らんと言わんばかりに、慧思のことばかり言ってますね。 小野博士は、右の対話から鑑真来日の動機を推測していたと思いますけど、実はよくよく見ますと、この会話から必然的に小野博士のような解釈が生まれるとは限りません。素直に読みますと、聖徳太子という人物が鑑真を魅了したなんてことはないですね。おそらく、鑑真にとっては、聖徳太子というのは初めて聞いた話であって、印象に残らない。魅了したというのは、日本の方の思い込みかもしれません。 要するに、小野博士の提示した四つの回答の根拠はこれだけなんです。この中で、聖徳太子が鑑真を魅了したという話は、日本で幅をきかせています。支持者が多いです。日本人が喜んで信じたい説なんですね。鑑真はわが聖徳太子を崇拝しているぞ、そのために来たぞ、というんです。事実ならいいですけど、事実とは限りません。 六、聖徳太子敬慕説 先ほど「鑑真が聖徳太子に魅了された」つまり聖徳太子敬慕説は、「日本で幅をきかせている」と申しあげました。小野博士の推論は前述の通りですが、聖徳太子の研究に素晴らしい業績を挙げておられた金治勇教授は、その著『上宮王撰三経義疏の諸問題』(法蔵館、一九八五年)において、「鑑真は聖徳太子が南岳慧思の後身であるとの説に促がされて渡日した」と断言されています。 もう一人、中国では道教の研究者として広く知られている福井康順先生も似たり寄ったりの発言をされています。福井先生には、鑑真和上に関する研究がいくつかあります。その中に「聖徳太子の『南岳取経』説について−−附、鑑真渡海の動機−−」という大論文があり、こう言っています。 鑑真の渡東の際の問答もあり、聖徳太子に対する敬慕の念を表明しており、即ち過海の動機をば示唆している大事な発言なのである。 渡東の際の問答というのは、先ほど紹介した栄叡と鑑真の交わした対話のことです。しかし、聖徳太子が南岳慧思の後身であるということ、あるいは、聖徳太子に対する敬慕を表明しているという箇所は、どこにもないんですよ。 「聖徳太子敬慕説」の根拠となるものは、強いていえば、もう一つあるんです。八四七年に、円仁が中国から帰って間もなく、中国から持ち帰ったいろいろな本を天皇に献上したときに、次のように報告しています。 大唐の南岳思禅師の後身聖徳太子、不世の徳を以て、此の国に転生した。即ち使を唐国に遣わして、旧経を迎えて取り、自ら章疏を製し、義理を講演する。その後に、唐僧鑑真らは、遠く聖化を慕い、天台法門を将して来朝した。 右の一文につきまして、同じ漢文でも、日本人と中国人とで読み方がだいぶ違うなあということを思い知らされました。時にまったく正反対の理解をすることもあるという事実に驚かされました。 鑑真は聖徳太子を敬慕して来日したという説は、あくまでも日本の学者の美しい願望にすぎません。しかし、けっして史実ではありません。私の理解では、「聖化を慕い」云々は、聖徳太子敬慕説の証拠にはならないんです。かえって、これから紹介する愚説を支持する証拠になります。 七、入唐僧の脱退 鑑真の渡日動機について、遣唐使らの熱心な説得に感動したという説も、かなり有力のようです。栄叡と普照は、十年間も長安や洛陽を中心に活動してのち、ようやく南下して鑑真に出会ったのですが、彼らの説得がそのまま鑑真来日の動機となったとは考えられません。皆さんには失礼であるかもしれませんが、当時の遣唐使は、鑑真を失望させ、あるいはその来日を妨害する行動さえしているので、遣唐使の説得は鑑真来日のきっかけであったとしても、動機そのものではありません。 とにかく、鑑真渡日の行動は異様さが目立つものです。私はあえて「異様さ」と言いますが、これは主観的な判断ではありません。たとえば、鑑真と一緒に来日したのは二十四人、これは多いか少ないかは人によって判断が異なりますが、渡海中に亡くなった人、または途中ながら脱退した人に比べると、二十四人というのは非常に少ないように感じます。 『唐大和上東征伝』や『延暦僧録』などによれば、鑑真にしたがって渡海を試みた人々の中で、三十六人が亡くなり、二百数十人が脱退したとあります。つまり、鑑真は九十パーセント以上の同志に逃げられてしまったわけですね。最後の六回目は、遣唐使の船に乗って来日に成功しましたが、これまでに五回の航海で三十六人もの死者を出してしまったんです。 普通の人は、一度失敗したら、渡航そのものを諦めてしまいます。だから、最初から最後まで鑑真について来日した中国人は、ただの一人だけです。その名は思託といって、『延暦僧録』の著者として知られるけれども、日本ではさんざん悪口を言われています。思託と言えば、嘘つきというイメージですね。辻善之助先生を初め、多くの先生が批判しています。こういう人には慈愛の心を持って、あまりいじめてほしくないですね。 さて、二百数十人の脱退者の中には、実は日本からの入唐僧も含まれています。一回目の渡航には日本僧の玄朗・玄法・普照・栄叡の四名が加わっています。しかし失敗したら、まず玄朗が逃げました。玄法も二回目のリストから外されました。 この二人の行方について、青木和夫教授は、歴史家の立場に立ちながら、井上靖氏の小説『天平の甍』の言葉を借りて推測しています。つまり、二人は唐人と恋愛して、望郷の念をまぎらわしたというんです。もう一つの説は、日本へ帰る途中で遭難したというんですね。 残りの二人はその後も鑑真に随行していましたが、栄叡は五回目の渡海で亡くなりました。普照もこれで帰国を諦めたらしく、韶州で一行から脱退して、独り明州(今の寧波)へ向かったのです。その頃、鑑真の身辺には日本人は一人もいません。 十年前に、栄叡らの懇請に感動したのが鑑真渡航の動機だったとすれば、二回目の時には半分の日本僧に逃げられ、鑑真の情熱は冷めていたはずです。五回目の渡航で、鑑真招請の推進役だった栄叡が亡くなり、鑑真にとって渡日の情熱がさらに薄れたでしょう。そして最後の一人普照も一行から脱退した時点、鑑真の情熱はもうないのではないでしょうか。ですから、遣唐使の情熱が鑑真を感動させたという説はなりたちません。 八、遣唐使の責任逃れ もっとひどい話があります。結局、五回の渡海はことごとく失敗に終わり、鑑真が漂着地の海南島から弟子たちを率いて揚州に戻ったのは、天宝十二載(七五二)のことだったと思います。 この年、藤原清河を大使とする遣唐使の船団は明州あたりに安着し、大使らは明州の阿育王寺にいた日本僧普照と出会い、鑑真のことを詳しく聞いていたようです。翌年(七五三)大使らは使命を果たして長安から南下し、揚州の延光寺に立ち寄り、鑑真に拝謁しました。その時、大使らはこう言って、鑑真を誘ったのです。 大和上、自ら方便を作せ。弟子らは自ら国信物を載せる船四舶あり、行装も具足している。去こうとすれば、これもまた難しくない。 これはいかにも、今の外務省官僚が言いそうな婉曲表現ですね。それで鑑真はふたたび渡航することを決意したんです。 ところが、鑑真が延光寺から本寺の龍興寺に戻ると、警備がものすごく厳しくなっていることがわかりました。鑑真が日本に行くという噂が出てきたんで、役所がそれを警戒したんです。それで、鑑真は裏門からこっそり抜け出し、弟子たちが揚子江のほとりに用意しておいた舟に乗って蘇州へと向かったんです。そして蘇州の黄泗浦で遣唐使の船に乗ったんですね。これで中日合作が円満に終わったかと思うと、そうはうまく行きません。 大使の藤原清河は、どうも典型的な官吏みたいな感じですね。四隻からなる船団が出航する直前に、大使は各船の責任者を集めて会議を開き、こう発言しました。 ただ今、広陵郡は和上がまた日本に向かおうとしていることを察知したので、まさに船を捜査しようとしている。もし密航者の鑑真らが探し出されたら、大使としてわざわいをこうむる。もし風に吹きもどされても、罪をまぬかれない。 大使らは連帯責任を嫌って恐くなったんでしょう。しかし鑑真は日本に渡るために、弟子たちの挽留をふりきって、仏教界とも縁を切って、政府に対しても罪をおかして、すべてをなげうっての渡航です。こういう状態であるのに、遣唐大使らの責任逃れで、いったん乗船していた鑑真ら一行は、のちに寧楽文化を鮮やかに飾る携帯品の数々とともに卸されてしまったのです。つまり、遣唐使たちに裏切られたということです。それでも鑑真たちは日本へ行こうとします。 それを見ていられない人がいます。吉備真備と同じく副使を務めていた大伴古麻呂その人です。硬骨漢と言うのかな、中国の朝廷で新羅の遣唐使と席次をめぐって喧嘩した人です。外国の使節は、中国の皇帝に朝見する時には、左右二列に並びます。新羅と日本は列は別々ですが、新羅が一位で、日本は二位なんです。その配列に不満だった大伴古麻呂は、唐側に交渉して新羅と席次を交代させたんですね。 この人は、鑑真たちをこっそりと自分の船に収容しました。渡海中は、今の密入国者と同じように、暗い、死にそうな、空気の通りの悪い、船の倉庫の一番下に閉じ込められていたと推察されます。発覚したら大変であって、責任は負えませんから。 それで、沖縄に到着したら鑑真らはようやく船倉から自由に出られました。ここまで来れば、もう戻れないし、唐人も追ってこないでしょうから。大使らが鑑真一行の搭乗を知ったのは、このときでしょう。 安藤更生先生は、その著『鑑真』(吉川弘文館、一九六七年)にこのことを書く時に、次のごとく深く反省しています。 ここまで大規模な旅行を計画すれば、当然ある程度、この秘密はひろがっていて、後日の追究を免れないと思わなければならない。元来、渡日を願ったのは日本側ではないか。それを今出発という真際になって責任のがれをしようとする。いかにも日本の官僚のやりそうなことである。 私が安藤先生の鑑真評伝を読んで、もっとも心を打たれたのは、この個所です。鑑真はすべてをなげ捨て、本当に背水の陣ですよ。このように、遣唐使に裏切られても、鑑真らが日本へ行こうとするには、不可解ですけれども、何かがあるはずです。 九、蕭穎士と鑑真 ここで考えたいのは、この時代、唐代の平均的な中国人は、海外渡航に対してどんな思いを持っていたか、ということです。それを調べていくと、鑑真の渡航は正常なものか異常なものか、ある程度まで判断できます。 七五二年に渡唐した十二回目の遣唐使、その大使を務める藤原清河は、翌年(七五三)玄宗皇帝に謁見したときに、鑑真とともに、ある儒学者をも日本に招請したいと正式に申し出ました。その名は蕭穎士といって、唐代一流の文人です。 日本は留学生を派遣するとき、仏教を学ぶ学生と儒教などを習う学生の両方を派遣することになっていました。それに対応して、お雇い教師を招くときも、両方とも招くとバランスがとれます。藤原清河は仏教の師として鑑真、儒教の師として蕭穎士を招請しようとしたのです。 鑑真の渡日については『唐大和上東征伝』をはじめ、多くの文献記録が残っていますが、蕭穎士については記録が少ないうえに、相互に食い違いがあり、学界で大きく取りあげられない原因となっているのです。もっとも信頼度の高い史料は、蕭穎士の弟子である劉太真の撰した「送蕭穎士赴東府序」で、こう書かれています。 この頃、東倭の人は、海を踰えて来賓し、その国俗を挙げて、夫子に師事しようと願った。敢えて私請せず、天子に表聞した。夫子は疾を以って辞退し、招請に応じなかった。 東倭から正式な招請を受けながら、蕭穎士は病気を口実にして辞退したという趣旨です。ところが、右文に「東倭」とあるところは、『新唐書』では、「日本」となっています。これに対して、もう少し古い方の史書、『旧唐書』では、「新羅」と書いてあります。招聘国をめぐっては様々な議論が交わされていますが、「送蕭穎士赴東府序」の「東倭」を重視すれば、日本のことでしょう。 この蕭穎士というのは中国の歴史上、やや変わった人物です。喧嘩好きで、物議をかもす人物ですね。学問は素晴らしいですけど、人間関係はうまく出来ず、才能の割りには出世できなかった人です。 その詩文は当代においても一流で、はるか海外にも名声を馳せているのです。『新唐書』などによりますと、日本の遣唐使が来るたびに、大金をなげうってその文集を買い求めたとあります。したがって、蕭穎士の招請は偶発的な事件ではなく、日本にとっては必然性があるわけです。 劉太真の「送蕭穎士赴東府序」によれば、遣唐使は「私請せず」に、つまり個人的に招請せずに、敢えて天子に要請したんです。これを裏づけてくれるのが、『唐大和上東征伝』の記事です。すなわち、藤原清河らは、揚州の延光寺で鑑真と会ったときに、こう報告しました。 私どもは、先に大和上の尊名ならびに持戒の弟子五名を録して、すでに皇帝に奏聞した。しかし、皇帝は、道士を連れて行けとおっしゃった。日本の天皇は、道教を信じないから、道士を連れてゆくことはできない。そこで、春桃原ら四人を残して道教を学ばせ、あなたを招聘する申請もやむなく取りさげた。 この二つの記録を接ぎ合わせると、遣唐使がそのとき仏教と儒教の先生を両方ながら中国側に要請していたことが明らかになります。 問題は二人の反応です。儒教の蕭穎士は、病気を口実にして日本側の招請を辞退していながら、元気よく洛陽の微官に赴任するんです。一方、仏教の鑑真は、日本側が申請をとりさげたのに、密出国してまで日本へ行くんです。この違いですね。 十、儒学者の渡海恐怖症 儒教の学者、たとえば科挙の試験に合格した人で、先に言いましたように、日本へ行った人は、唐・宋時代を通じて見られません。まったくいないと断言しますと、心細くなりますが、実は李竹隠という文人が宋の末に日本へ渡ったという僅かな伝承があります。それが事実であっても、例外でしょう。しかも宋末という、異民族に攻められる特殊な時期を考慮に入れなければなりません。普通の時期にはこうした例外さえ発生しません。 近代以前に日本に渡った有名な儒学者は、江戸時代の朱舜水だけですね。考えてみると本当に少ないんですよ。中日間の文化関係がこんなに接近していると、毎年のように多くの文人墨客が往来しているように思われがちですけれども、こうした光景は江戸時代までに、ほとんど見られませんでした。 このような傾向は中国のみならず、日本の儒学者や文人官吏にも見られます。たとえば、小野篁は、遣唐副使に任じられながら、命令に従わないので、死刑となるところを一等減じて流刑にされたんですけど、死刑になっても行こうとしなかったんです。それから、佐伯今毛人、これは遣唐大使ですけど、天皇から節刀をもらいに参る途中で、おなかが痛いとしゃがんでしまって、結局もらわなかったんです。そこで、副使の小野石根がかわって節刀を受け取って出港したという状況ですね。甚だしきは、儒教の第一人者、学問の神様と崇められる菅原道真は遣唐大使に任命されると、遣唐使の制度そのものを廃止させてしまったのです。 儒学者というのは、自分の君主に仕えるという忠君思想を最優先に持つんですね。儒学者の目標は、科挙試験に受かって、中国なら皇帝、日本なら天皇に仕えるのが理想なんですよね。また、彼らにとって家族がとても大事です。儒教の教訓に「父母いませば、遠く遊ばず(父母在、不遠遊)」つまりお父さんとお母さんが生きている間は、遠くへ遊ばないというのがあります。儒教の信奉者にとって、家族あるいは政治の基盤から離れずに、家族の中心または政治の中心をめざしてゆくのが人生の正道です。したがって周辺世界にはあまり興味はありません。 しかし、本人は興味なくても、海外へ渡らねばならぬ場合があります。外交使節がそうです。彼らの心境は如何なものでしょうか。 六三〇年に一回目の遣唐使が唐へわたったとき、礼儀として唐王朝は唐使をつけて遣唐使を送り返します。その送り返す役目を背負ったのが、高表仁という官吏(新州刺史)です。この人はおそらく行きたくなかったでしょうね。日本に上陸しても気持がすぐれず、日本の王子と礼を争って、皇帝の命令を伝えずに帰国したと新旧『唐書』に記されています。そして、命からがら帰国した高表仁は、渡海の体験を次のように語ったのです。 道は地獄の門を経て、そのうえに煙と火の形があるのを見た。金づちで叩かれた餓鬼のようなわめき声が聞こえて、使者は危惧しない者がない。(『唐会要』) 日本への航路を「地獄の門」と表現しているのですよ。鳥肌が立つような戦慄を感じさせる体験談です。あんなところ、皇帝の命令がなければ、誰が行こうとするのでしょうか。しかし、鑑真らはたとえ地獄に墜ちても、日本へ渡ろうとするのです。その執念を支えるのはいったい何でしょうか。 十一、仏教的な世界観 鑑真は儒学者ではないから、仏教的な世界観を持っているために、万難を排して日本へ渡ろうとしたのだと、そう思われる方は少なくはないでしょう。実はそうではないんです。 仏教には、民族と国境を越えて、同じ仏の世界を共有しているという考えがあります。ですから、海外に行こうとする際、心理的なさまたげはありません。しかし、栄叡と普照が鑑真に謁見したとき、鑑真は最初から自ら日本へ渡ろうとは少しも考えていなかったようです。 栄叡と鑑真の問答をもう一度見ますと、栄叡らの招請に対して、鑑真は「同法の衆の中で、誰かこの遠方の要請に応じて、日本国に向かい、法を伝える者はいないか」と弟子たちに聞きました。 ところが、弟子たちの反応は、「時にみな默然として、誰一人として応じるものはない」とあり、まったく予想外だったに違いありません。つまり誰も行きたがらないんです。 しばらくして、祥彦という一番弟子が鑑真の前に出てきて、沈黙を破って皆の心境をこう打ち明けました。 かの国は、はなはだ遠くして、生命存しがたい。滄海E漫として、百人に一人も至ることはない。「人身得がたく、中国に生れがたい。」進修いまだ備わらず、道果いまだ剋せず。これがゆえに、衆僧は緘黙して応えることないのみ。 祥彦は弟子らを代表して、『大般涅槃経』の経文まで引用して、日本へ行っては駄目だと力説するんです。考えてみれば、当時は儒学者のみならず、仏教徒にも日本へ行くのは非常に危険だという認識があったんですね。 結局は、鑑真の弟子たちは誰一人として師の呼びかけに応じるものはいません。鑑真にとっては、面子の丸つぶしですね。そこで、鑑真が「これは法事のためである。なぜ身命を惜しむのか。諸人が行かなければ、我れが行くよ」と意志を表明したら、祥彦はすぐに「大和上が行くならば、私も就いて行く」と態度を改めました。たちまち渡航を希望するものは二十一人に達したのです。 当時、本当に固い決意をもって日本へ渡ろうとする唐人は、おそらく鑑真一人だけではないでしょうか。その多くは大勢の意見に従っただけだと思います。果たしてや、皆で誓いを立てたにもかかわらず、一回失敗したら、日本人の半分が逃げましたし、中国人もほとんど逃げたんですね。 しかし、鑑真は一回の失敗には挫けずに、また有志を募って二回目の渡航に挑みます。こうして、メンバーが入れ替わり入れ替わりする。最後の最後まで変わらないのは、鑑真と思託の二人だけなんですね。 こういう状況を見ますと、いくら仏教的な広い世界観を持っていても、一般の僧侶の常識では、日本に行く気にはなれないんです。やはり鑑真には何か特別の動機があるんです。ただ、それが分らないから、変な説が生まれてくるんですね。 十二、鑑真無名説 私が鑑真を研究するようになったのは、あるきっかけによるものです。一九九一年から一九九二年にかけて、わたしは京都の桂にある国際日本文化研究センターに、客員研究員として就任していたころのことです。 ある日のこと、私が尊敬する著名な学者、『万葉集』研究の第一人者として知られる中西進博士は、「鑑真は中国では無名の人だという研究者がいますが、本当でしょうか」と聞いてくださいました。 その裏をよくよく伺いますと、鑑真無名説とは、その崇高な宗教精神および甚大な文化貢献を否定しようとする狙いがあり、つまり鑑真が日本に出かけたのは、中国での出世はもう期待できないから、日本へ行って有名になりたかったという邪心に促されたものです。あるいは一攫千金という夢に駆られて、日本渡航の冒険を繰り返したとも疑われるのです。 わたしは一種の侮辱感を味わい、憤りを感じながら、鑑真の中国における地位などを博士に説明しました。すると、博士は「今言ったことを、ぜひ早く論文にしてください」と励ましてくださいました。 それがきっかけとなって、わたしは鑑真の研究に力を入れるようになり、いくつかの論考を公表してきました。拙著『聖徳太子時空超越−−歴史を動かした慧思後身説−−』(大修館書店、一九九四年)第二章「鑑真渡日の動機」は、比較的にまとまった成果です。 鑑真無名説の根幹にあるのは、鑑真売名説ですね。それは先ほど紹介した鑑真スパイ説とも一脈相い通じるところがあります。それら荒唐無稽の諸説が生まれてくる土壌は、ほかならぬ鑑真渡海の動機を明らかにしていないという学界の盲点にあります。つまり、普通に言われている動機は、よく調べてみますと、次々と否定されていくのです。その空白を埋めるかのように、無名説や売名説そしてスパイ説などがあいついで生まれてくるわけです。 無名説は鑑真の「人格」を問題にしているのですが、スパイ説は唐王朝の「国格」を俎上に載せるものです。両者は異曲同工のものですが、ここではスパイ説の中味を少し覗いてみましょう。 鈴木治氏はまず日本側には鑑真招請の事実はまったくなかったことを力説し、「彼が渡日したのは、いくら思託が隠そうとしても、まったく唐廷の命であることは明らかである」と断言します。さらに、唐王朝が苦心して鑑真を日本に送りこむ目的について、次のように説明しています。 おそらく唐としてはわが国勢を厳重監視のために、相当の工作部隊を派遣したいところだったが、唐も玄宗朝となると、安禄山の乱も目睫にせまって、とてもその余裕はなかった。やむなくこの際日本にたいして睨みをきかせるためには、仏教を用いて日本の寺院·僧侶を利用することとし、せめて遣唐使の道筋にあたる揚子江の河口に近い揚州延光寺の鑑真律師を、早速遣唐使の帰り船にのせて、日本に派遣することになったのだった。(『白村江−−敗戦始末記と薬師寺の謎−−』) 鈴木治氏の本を読むと、一般の読者は、鑑真はスパイであるというイメージが頭の中にできあがってしまう。すごくもっともらしい説を書いているんですね。鑑真はスパイと言われますと、私たちも「吉備真備もスパイ、玄{日方}もスパイ」と反発したくなりますが、そう反発しなくてもいいんです。鈴木氏の本の中では、右に挙げた人物はすべて唐のスパイだということになっているからです。 『逆説の日本史』というベストセラーがありますが、いつか『スパイの日本史』という本が世に出回る恐れもあります。 十三、慧思の転生伝説 これまで述べてきたように、小野勝年博士の推論は一般論になりすぎて、鑑真渡航の動機を解明していないし、スパイ説や無名説などは歴史の基礎知識に欠けている暴言乱論にすぎません。先行諸説の紹介と評論とに予想以上の時間を費やしてしまい、もうゆっくり出来ませんが、最後ながら愚説を開陳させていただきます。「愚説」とは、慧思信仰説です。 鑑真渡航の動機解明にあたり、わたしがもっとも注目したのは、『唐大和上東征伝』の問答に「むかし、聞いた話だが、南岳の慧思が亡くなってから、倭国の王子に生まれ変わり、仏法を大いに隆盛させ、衆生を救済している」とある鑑真の言葉です。これによれば、鑑真は明らかに慧思後身説を信仰しています。 講演時間も残り少なくなりましたが、急いでまとめてみます。慧思(五一五〜五七七年)というのは、中国の南北朝時代のお坊さんです。六世紀の乱世を生き抜いた伝奇的な人物ですね。 本日の会場には仏教の専門家がいっぱいお見えですので言いにくいんですが、私の理解で申しあげますと、仏教史における慧思の功績として、一つは『法華経』を広めたこと、もう一つは大衆仏教を唱えたこと、この二点を挙げられるのではないでしょうか。その門下から智が出て、天台宗を作ったので、天台宗の祖師とも崇められるのです。 ところで、慧思は、南北朝の仏教の中では、非常に孤独な存在です。毒をもられたりして、何度も暗殺されそうになりました。しかし、不思議にも、何度も生死の境をさまよいながら、そのたびに生き返ってくるのです。これらの奇跡から、慧思は不死身だという伝説が作られました。慧思は法難を避けて、北方から南方へと移り、陳の帝王から帰依されて、南岳と称される衡山(今の湖南省にある)で亡くなったため、世に「南岳慧思」と呼ばれます。 この人は、死んでからすぐ、転生伝説が流行りだします。だいたい、女性なら絶世の美女、男性なら無双の英雄が、死んでも生まれ変わるのです。源義経の場合は、蝦夷へ逃れて、蒙古に渡ってジンギスカンになったとの異聞が巷間に広まっているし、今は笑い話ですけど、かつては錚々たる学者が渾身の力をこめて激論しているんですね。中国の例だと、楊貴妃が死を装って日本に逃げ、熱海の神様になったとの伝説があります。 美女と英雄の転生は、後世の人々の願望にほかなりません。したがって、何度も生まれ変わった慧思に対する民衆の信仰は、きわめて篤いものと言わざるを得ません。そして、信仰から伝説が作られ、伝説から伝説が生まれてきます。 さて、慧思が最初に生まれ変わったのは中国ですが、転生の回数を重ねていきますと、舞台はしだいに外国へ移っていくのです。七回目の転生先は「東海」あるいは「東国」から「倭」へと具体化するのです。そして、その後身は倭王から皇子、さらに聖徳太子へと定着します。 実は、聖徳太子の伝記物、たとえば『聖徳太子伝私記』などをひもとくと、上宮王院舎利殿の「種々宝物」について、時々「六生物」や「先生物」などの注記があることに気付きます。ここで「六生」「先生」というのは、いずれも太子の前身と信じられる慧思のことを指します。このような註記のある宝物は、麈尾・経台・経筥・念珠・周世尺・印仏・針筒・袈裟などがあります。 これらの伝説によれば、慧思という人物は時代と民族とを超越して、東アジア世界を舞台に活躍するスーパーマンということになります。鑑真はこのスーパーマンに魅了されて日本へ渡ったと、わたしは考えるのです。 十四、「聖化」の意味 中国では、慧思が倭国に生まれ変わったとの伝説が早くから発生し、かなり流布していましたが、しかし聖徳太子に生まれ変わったという伝承はないんです。鑑真は栄叡らの懇請に答えるとき、「倭国の王子に生まれ変わった」と言って、聖徳太子とは言っていません。この点、日本の研究者は意識無意識のうちに無視しているように思われます。 たとえば、辻善之助博士の論文「聖徳太子慧思禅師後身説に関する疑」(『歴史地理』二八四号、一九二九年)も、この点を曲解しています。つまり鑑真は来日後、期待されていた学問を持っておらず、日本では軽蔑されて不利な立場になったため、弟子の思託が巻き返しをはかって、聖徳太子を担ぎ出し、鑑真の地位を高めようとしたといいます。しかし、『唐大和上東征伝』をつぶさに調べても、「聖徳太子慧思後身説」の痕跡さえ見つからないでしょう。したがって、思託は無実です。 慧思倭国転生説と聖徳太子慧思後身説とは、その発生から中味まで大きく異なるものです。前者は中国の隋唐時代に発生したもので、後者は日本の奈良時代に流行りだしたものです。そもそも国籍が違います。「聖徳太子慧思後身説」は中国の慧思信仰と日本の太子信仰とが習合したもので、その成立は鑑真来日より以前にさかのぼれません。ですから、鑑真渡日の動機を考えるとき、注目すべきは「慧思倭国転生説」だけです。 慧思倭国転生説について、まず『七代記』という本に記載があります。原書はすでに失われて僅かな遺文が残っているが、その中に興味深い碑文が引かれています。 倭州の天皇、彼の聖化する所なり。聖人の遷跡より隋代に至る以下、禅師の調度、金銀書・仏肉舎利・玉典・微言・香炉・経台・水瓶・錫杖・石鉢・縄床・松室・桂殿、未だ傾けず朽ちずして、衡山の道場に皆悉く安置す。今代の道俗、瞻仰し帰敬す。〈李三郎帝即位開元六年歳次戊午二月十五日、杭州 銭唐館写し竟る〉 「李三郎帝」とは玄宗皇帝のこと、「開元六年」は西暦の七一八年にあたります。七一七年に出発した遣唐使の誰かが、杭州銭塘江のほとりにある宿舎で写しとったものです。内容から判断すれば、慧思のことを言ってます。「倭州の天皇、彼の聖化する所なり」という「聖化」の用語に注目していただきたいです。ここで、思い出されるのは、前にも触れた円仁の帰国報告に述べられた次のくだりです。 その後に、唐僧鑑真らは、遠く聖化を慕い、天台法門を将して来朝した。 二つの史料に用いられている「聖化」が、相互に関連していることは言うまでもありません。その意味は「遷化」に近く、高僧の円寂よりも、その転生つまり生まれ変わりを表現しているように思われます。 さらに『唐大和上東征伝』の会話も思い起こされます。そこで、鑑真は「むかし聞いた話」として、慧思が倭国の王子に生まれ変わった伝承を持ち出したのです。それは七四二年のことで、それより三十年ほど前に慧思の倭国転生を記した石碑が、鑑真の出身地に近い杭州にあったのです。「むかし聞いた話」とは、こうした裏づけがあります。 十五、鑑真と天台宗 「慧思倭国転生説」が隋唐時代に流行っていたもう一つの証拠は、敦煌文献に出てきます。これは、七六六年あたりに書かれた『浄名経関中釈抄注』です。「関中」とは長安のことですね。この中に、こう書かれています。 その慧思大和尚は、数十回も生まれ変わって、常に『法華経』を持していた。後に生まれて、国を過って王となり、『法華経』をもって王事としている。 ここでは日本とは言ってませんが、「過国」という文字があります。これは、「過海」の語意に近く、海外へ渡るという意味なんです。鑑真のことを「過海大和上」と称するように、「過国」と「過海」は日本へ渡るという意味も当然ふくまれています。 鑑真がとどまっていたお寺、つまり籍を置いていた本寺は、揚州の龍興寺です。そこは慧思信仰の大本山です。寺内には慧思の転生伝説を描いた壁画があります。円仁が遣唐使にしたがって揚州に上陸したとき、鑑真ゆかりの龍興寺を参拝し、慧思転生伝説の壁画を模写させたことは、その日記『入唐求法巡礼行記』に詳述されています。こうした経歴から、円仁が「唐僧鑑真らは、遠く聖化を慕い、天台法門を将して来朝した」と言っている言葉は、意味深く聞こえてくるではないでしょうか。 鑑真と慧思信仰を関連づける証拠は、龍興寺の壁画だけでなく、鑑真の携帯品にも求められます。つまり、鑑真は律宗のお坊さんですけど、日本へ渡るとき、律宗とは関係の薄い天台宗の書籍をかなり携えていきました。慧思と智の著作ばかりで、つごう八部五十六巻あります。 鑑真が来日してから天台宗を本格的に広めた痕跡はありませんでした。それなのに、どうしてこういう本を持っていったのでしょうか。確証はありませんが、わたしは鑑真ら個人の信仰用として持っていったのではないかと思います。これらの鑑真将来本を最澄が東大寺で偶然に見つけて、天台宗に興味を持つようになり、中国に渡り、日本天台宗を開いたんですね。鑑真がまいた種が、その死後から二十数年ほど経って芽生えたのです。その背後には、やはり、鑑真の天台宗信仰というよりも、慧思への信仰があったと思います。 それでも証拠不足ならば、もう一つ鑑真の弟子だった法進に登場してもらいましょう。法進は鑑真に随行した弟子の中でも身分がもっとも高く、鑑真が唐招提寺に移ってからは、東大寺の戒壇院を師より譲り受けていました。法進の書いた著作は何冊か現存していますが、その一つ『注梵網経』は、祖師の忌会の模様をこう記しています。 大唐の大和上法諱鑑真のごとく、宝字六年五月六日に無常してより今に至って、忌会は年々停めず。(中略)また聖徳王の前生にして、大唐の南岳に生まれて慧思禅師というがごとく、陳朝に無常してこれより巳来、道俗つねに一、二万人あり、忌会を奉設して、今に至って未だに停めず。また台州の智大師のごとく、すなわちこれ聖徳太子の前身思禅師の弟子、もと台州の国清寺および荊州の玉泉寺の両処の忌辰において、各々道俗一万余人あり、供を設けて恩を追い、また今に至って未だに絶えず。 このように、鑑真の弟子たちは鑑真の忌会を慧思そして智と同列に営んでいるわけです。それには、聖徳太子慧思後身説が組みこまれています。要するに、鑑真と慧思、智、聖徳太子は信仰上セットになっているのです。ここからも、鑑真が慧思信仰を持っていたことが裏づけられます。 つまり、鑑真は尊敬している慧思、不死身の慧思が日本に生まれ変わっているから、その後身を追って来日したのです。それが、円仁が言った「聖化を慕い」という意味ではないでしょうか。これこそ鑑真来日の宗教的動機です。 しかし、鑑真は慧思の後身を追って来日してみますと、伝説中の後身にあたる「王子」は見つからないですね。ただ、慧思がなくなる二年か三年前に聖徳太子が生まれている。時代が接近していますね。しかも、聖徳太子は『法華経』を広めています。そして、奈良時代には太子信仰がすでに盛んです。いつのまにか、鑑真のもたらした慧思信仰と日本固有の太子信仰とが合体して、太子が慧思の後身とされる王子へと変身して、慧思は聖徳太子に生まれ変わったという新たな信仰が生まれたのです。 十六、鑑真への送別詩 鑑真渡日の動機に関して、最近、新しい文献を発見しました。今回の発表で、一番話したかったのは、このことです。時間はあまりないので、考証の過程を省いて、結論だけ簡単に申し上げます。 七五三年、鑑真は遣唐使らの誘いを聞きいれて、六回目の渡航を決意し、しばらく揚州の龍興寺で待機していたころ、有名な詩人である皇甫曾が、鑑真に送別の詩を送ったんです。これは、鑑真に関する唐時代の文献としては、おそらく一番古い資料でしょう。まず作品の訳文を掲げておきましょう。 鑑上人に贈る 律儀は教誘を伝え、僧臘は煙霄に老ゆ。 樹色は禅誦に依り、泉声は寂寥に入る。 宝龕は末劫を経て、画壁に南朝を見る。 深竹の風は開合し、寒潭の月は動搖す。 心を息めて靜理に帰り、道を愛して中宵に坐す。 更に真を尋ねて去らんと欲し、船に乘って海潮を過る。 この詩には重要なことが書いてあります。三行目の「宝龕は末劫を経て、画壁に南朝を見る」ですね。「画壁」とは、龍興寺の壁画のことですが、「南朝」というのは慧思のことを指すと思われます。円仁の日記『入唐求法巡礼行記』および『入唐新求聖教目録』を見ますと、龍興寺の壁に画かれている慧思の像とは、「南岳思大和尚示先生骨影」というもので、慧思が自分の三代の前生を葬ったところを一々弟子らに示した場面です。場所は南方の衡山(南岳)、時は南朝の陳、「南朝」という言葉にぴったり符合します。 詩の最後の一行には、「更に真を尋ねて」とありますが、この「尋真」という言葉からも、重要なメッセージが読みとれると思います。真理を求めてということなのか、それとも生まれ変わった人を追ってゆくことなのか、慎重に検討してみる必要があります。 『楽府詩集』(巻六四)に収められた「登名山行」に「采薬逢三島、尋真万九仙(中略)逝將追羽客、千載一来旋」とあり、「羽客」は仙人のこと、「追羽客」はすなわち「尋真」と類似した意味になります。 皇甫曾の周辺を取りまく詩人も「尋真」の言葉を愛用していたらしく、その兄の皇甫冉の「和鄭少尹祭中岳寺北訪蕭居士越上方」(『全唐詩』巻二四九)に「肅寺祠霊境、尋真到隱居」とある用例は、意味的に「鑑上人に贈る」のと極めて似ているのです。 結論は控えますが、どうも詩中の「尋真」は銭唐館碑文と円仁報告とに用いられた「聖化」と意味的に関係しているように思われます。仏教徒にとって、真理を求めるのであれば、唐人は絶対に東に行きません。真理を求めるなら西へ向かうのが常識ですね。つまり求法は西、伝法は東という図式です。真理を求めて東に行ったという話は聞いたことがないですね。唐代の中国人にはそうした発想がありません。したがって、ここの「尋真」はやはり聖人の後身を追うという意味になります。そして目的地が日本であることは、最後の詩句にある「過海」の用語によって明らかになります。 現代の人々は、仏を敬う心が薄くなっているから、命懸けで仏教を信仰している古人の精神世界を理解できません。私どものような凡人、俗人の研究者は、もっと謙虚にならなければ、むかしの宗教者の外面的なことは分っていても、その精神世界を洞察することはできません。いつも自分の都合に合わせて、浅いところで理解してしまう。だから鑑真に対して、スパイ容疑をかけたり、売名説を立てたり、太子敬慕説を唱えたり、思託作為説を主張したりするんですね。 古代の仏教者、鑑真のような大宗教家の世界は、非常に深遠なもので雄大です。我々はこの精神世界を理解するためには、先入観を持たずに謙虚になって、一つ一つの資料に当っていかなくてはなりません。私はまだ十分に謙虚になっていないと思いますが、鑑真が日本へ行く動機に関する従来の説を批判し、鑑真が体験したことをなるべく高く評価しようとした結果、鑑真の渡航の背景には慧思に対する信仰があるという結論に達しました。正しいかどうかは大方の批判に委ねますけれども、一つの試みの中間発表として、お話をさせていただきました。 わかりづらい日本語で申しわけありませんでしたが、ご静聴をありがとうございました。 |