『神僧伝』 |
【出典】『大正新修大藏經』第五十冊(史部二)『神僧伝』(卷八)鑑真伝 |
釋鑒真,姓淳于氏[1],廣陵江陽縣[2]人也。總角[3]隨父入大雲寺,見佛像感動夙心,因白父求出家。父奇其志,許焉。後爲一方宗首。 時日本國有沙門榮睿、普照等,東來募法[4]。真許往,遂買舟自廣陵齎經律法離岸[5]。至越州浦,止署風山,真夜夢甚靈異。 才出洋,遇惡風濤,舟人顧其垂沒,有投棄棧香木[6]者。聞空中聲云:“勿投棄。”時見舳艫各有神將介甲操仗焉。尋時風定,俄漂入蛇海。其蛇長三丈餘,色若錦文。後入魚海,魚長尺餘,飛滿空中。次一洋純見飛鳥,集於舟背,壓之幾沒。洎出鳥海,乏水。俄泊一島,池且泓澄,人飲甘美。 相次達於日本。其國王歡喜,迎入城大寺[7]安止,號大和尚。以代宗廣德元年無疾辭衆坐亡,身不傾壞。至今其身不施苧漆,其國國王、貴人、信士,時將寶香塗之。 【校注】 [1]淳于氏:『唐大和上東征伝』(觀智院甲本)は「俗姓淳于、齊大夫髡之後」とする。淳于髡は戦国時代に齊國の大夫、弁舌をもって名を馳せる。 [2]廣陵江陽縣:『唐大和上東征伝』(觀智院甲本)は「揚州江陽縣」に作る。「廣陵」は揚州の別稱、「江陽縣」は今の揚州市東部にあたる。 [3]總角:古代、児童が頭髪を二つに束ねて角のように見えることから、そう名づけられた。『宋高僧伝』の同注を参照せよ。 [4]榮睿らが遣唐使にしたがって入唐したのは唐開元二十一年(732)のことである。 [5]鑑真一行の一回目の渡海は唐天寶二年(142)のことである。 [6] 棧香木:『唐大和上東征伝』(觀智院甲本)は「棧香籠」に作る。 [7]城大寺:『唐大和上東征伝』(觀智院甲本)は「東大寺」に作る。 【雑考】 この一篇はほとんど『宋高僧伝』(巻十四)「唐揚州大雲寺鑑真伝」の要約にすぎない。中国では明代以後、鑑真その人が急速に忘れ去れることを考えると、本伝が明代の皇帝朱棣の編集した『神僧伝』に収められたことに意味がある。 (王勇) |