《宋高僧傳》唐揚州大雲寺鑑真伝 |
【出典】《四庫全書》(子部·釋家類)《宋高僧傳》(巻十四) |
釋鑒真,姓淳于[1]氏,廣陵江陽縣[2]人也。總丱[3]俊明,器度宏博,能典謁[4]矣。隨父入大雲寺,見佛像感動夙心。因白父,求出家。父竒其志,許焉。登便[5],就智滿禪師,循其奨訓。屬[6]天后長安元年[701],詔於天下度僧,乃為息慈[7],配住本寺。後改為龍興。 迨中宗孝和帝神龍元年[705],從道岸律師受菩薩戒。景龍元年[707],詣長安。至二年[708]三月二十八日,於實際寺依荆州恒景律師邊得戒。雖新發意,有老成風。觀光兩京名師,陶誘三蔵教法。數稔[8]該通,動必研幾,曾無矜伐[9]。言旋淮海,以戒律化誘,鬱[10]為一方宗首。氷池印月,適足清明。猊座[11]揚音,良多響答。 時日本國有沙門榮叡、普照等,東來募法,用補缺然。於開元年[713-741]中,達于揚州。爰來請問,禮真足曰:“我國在海之中,不知距齊州幾千萬里。雖有法而無傳法人,譬猶終夜有求於幽室,非燭何見乎?願師可能輟此方之利樂,為海東之導師乎?” 真觀其所以,察其翹勤[12],乃問之曰:“昔聞南岳思禪師[13]生彼為國王,興隆佛法。是乎?又聞彼國長屋[14]曾造千袈裟,來施中華名徳,復於衣縁繡偈云:‘山川異域,風月同天。寄諸佛子,共結來縁。’以此思之,誠是佛法有縁之地也。”默許行焉。所言長屋者,則相國[15]也。 真乃慕比丘思託等一十四人,買舟,自廣陵賷經律法離岸,乃天寳二載[743]六月也。至越州浦,止署風山,真夜夢甚靈異。 纔出洋,遇惡風濤。舟人顧其乘沒,有投棄棧香木者。聞空中聲云:“勿投棄。”時見舳艫各有神将,介甲操仗焉。尋時風定,俄漂入蛇海,其蛇長三丈餘,色若錦文。後入魚海,魚長尺餘,飛滿空中。次一洋純見飛鳥,集於舟背,壓之幾沒。洎出鳥海,乏水。俄泊一島,池且[16]泓澄,人飲甘美。 相次達於日本,其國王歡喜,迎入城大寺[17]安止。初於盧遮那殿前立壇,為國王授菩薩戒;次夫人、王子等;然後教本土有徳沙門,足滿十員[18]。度沙彌、澄修等四百人,用白四羯磨法[19]也。 又有王子一品親田,捨宅造寺[20],號“招提”,施水田一百頃。自是已來,長敷律蔵,受教者多,彼國號大和尚,傳戒律之始祖也。 以日本天平寳字七年[763]癸卯嵗五月五日,無疾辭衆坐亡,身不傾壞,乃唐代宗廣徳元年[763]矣。春秋七十七,至今其身不施苧漆,國王、貴人、信士時将寳香塗之。僧思託著《東征傳》詳述焉。 【校注】 [1]淳于氏:『唐大和上東征傳』(觀智院甲本)は「俗姓淳于、齊大夫髡之後」に作る。淳于髡は、戦国時代に齊國の大夫をつとめた人物、弁舌をもって名が知られる。 [2]廣陵江陽縣:『唐大和上東征傳』(觀智院甲本)は「揚州江陽縣」とする。「廣陵」は揚州の別称、「江陽縣」は今の揚州市の東部に相当する。 [3]總丱:「總」とは聚合の義、「丱」とは髮髻を二つの角のように束ねた様子である。古代では、児童は髮を二つに束ねて結び、その様子は角のように見えることから、「總角」と呼ばれた。 [4]能典謁:『 礼記 』(曲礼)に出てくる語句である。つまり、身分に応じて子供の長幼を見分ける基準として、大夫の子供は「能御」か「未能御」、士の子供は「能典謁」か「未能典謁」、庶人の子供は「能負薪」か「未能負薪」と、それぞれ世間にその能力を問われるそうである。この呼称によって鑑真は「士」の家系を有することがうかがわれる。 [5]登便:副詞。「すぐさま」、「ただちに」の義。 [6]屬:副詞としては「あたかも」、「ちょうど」。また動詞としては「あたる」の義。 [7]息慈:梵語「沙彌」の旧訳。すなわち初めて佛門に入る者は、「息止世情、行慈濟衆」の心を構えるべし。『四分律刪繁補闕行事鈔』(沙門別行篇)は「此翻爲息慈、謂息世染之情以慈濟群情也。又云初入佛法多存俗情、故須息惡行慈也」と解釈している。また「息悪」とも訳される。 [8]數稔:「稔」は「年」「歲」に同じ。ここでは「数載」「数年」の義。 [9]矜伐:傲慢、うぬぼれ。 [10]鬱:偉岸、盛大、高耸の様子。杜甫『江梅』詩に「巫岫鬱嵯峨」と見える。 [11]猊座:すなわち獅子座のこと、佛の坐する処を指す。また高僧の講壇に喩えられる。 [12]翹勤:切に望むこと。 [13]南岳思禪師:南北朝時代の名僧慧思(515〜577)。僧伝によれば、入寂後、倭國の王子に生まれ変わったという。伝は『續高僧伝』(卷十七)、『弘贊法華伝』(卷四)、『佛祖統紀』(卷六)、『景德伝燈錄』(卷二十七)、『佛祖歷代通載』(卷十一)等に見える。 [14]長屋:長屋王(684-729)の略。長屋王は天武天皇の孫にあたり、高市皇子の長子である。聖武天皇の時に左大臣をつとめ、藤原氏の威脅に対抗したため、誣告されて自殺を迫られた。長屋王は佛教をあつく信仰し、唐風文化に傾倒した。かつて袈裟一千領を造り、中國の高僧に寄贈した。 [15]相國:「相國」は太政大臣の唐名。長屋王官は左大臣にとどまっただけなので、「左相國」と称するのが正しい。 [16]池且:「且」は「水」の誤りか。 [17]大寺:『唐大和上東征伝』(觀智院甲本)は「東大寺」に作る。 [18]足滿十員:具足戒を受ける場合、「三師」(戒和尚、羯磨師、教授師)と「七證」(受戒)と「七證」(受戒を立ち会って証明する七名の比丘)あわせて十名の高僧が臨壇して、はじめて法事を行なうことができる。鑑真一行では、このような資格を持つ者が足りないので、「本土有德沙門」(日本の高僧)をもって欠員を埋めたと考えられる。)と「七證」(受戒を立ち会って証明する七名の比丘)あわせて十名の高僧が臨壇して、はじめて法事を行なうことができる。鑑真一行では、このような資格を持つ者が足りないので、「本土有德沙門」(日本の高僧)をもって欠員を埋めたと考えられる。 [19]白四羯磨法:「白」は告白の意、「羯磨」は「爲業」「作法」等に意訳される。授戒の時,羯磨師は僧衆にむかって先ず「某が出家を希望する」と告白する(すなわち [20]捨宅造寺:唐招提寺の創設を指す。寺は今の奈良に現存する。 (王 勇) |