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  青春の遣唐使02 吉備真備

左大臣の風流韻事

王 勇

 

 「続日本紀」に「わが朝の学生にして名を唐国に播ぐる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と激賞される朝衡と大臣は、それぞれ阿倍仲麻呂と吉備真備のことを指す。二人は遣唐使の同期だが、右大臣にまで昇りつめた真備は、帰国者の幸運児だった。

 真備の事績として唐物の将来、二回の渡唐、「私教類聚(しきょうるいじゅう)」の撰述などは史書に記されているが、十八年間の留学生活について確実な記録はない。それがかえって庶民の好奇心をそそり、芸術家の想像力を刺激し、あまたの俗説を生み出させた。

 奈良市十輪院町の一角にある十輪院(じゅうりんいん)、その本堂横に小さな土饅頭(まんじゅう)形の「魚養塚(なかいづか)」が佇(たたず)んでいる。魚養は南都七大寺の額を揮毫(きごう)し、空海の師となった能書家と伝えられるが、それよりも観光客をひきつけるのは、真備の息子との言い伝えである。

 「宇治拾遺物語」や「本朝能書伝」によれば、真備は唐の女性と恋に落ち、子宝に恵まれたが、再会を約束して帰国した。その後、夫が杳(よう)として音信がなかったため、妻は恨んで子供を海に流した。この子は魚の背中に乗って日本に漂着、父と再会したという。

 説話の真偽はともかく、二十三歳の若さで渡唐した真備は、異国に名を揚げようと精彩を放ったと想像される。「江談抄」や「吉備大臣入唐絵詞」には面白い逸話が盛りこまれている。

 真備の帰国に際し、唐はさまざまな難問を設けて引きとめようとした。そのひとつは囲碁の腕比べ。帰心矢の如(ごと)き真備は負けそうになると、こっそり相手の石を一つ呑(の)んだ。それが発覚して下剤を飲まされたが、下痢止めの薬で急場をしのいだという。江戸時代、本因坊は幕府の下問に「碁の伝来は真備なり」と俗説を正当化している。

 また高楼に閉じ込められ、難解で知られる「文選」を読まされるが、鬼に助けられて楼を抜け出し、「文選」の講釈を盗み聞き、みごとに解読した。ちなみに阿倍氏を名乗る鬼は仲麻呂をモデルにしているとされる。

 真備は留学成果として「唐礼」はじめ、暦や楽器それに武器などを持ち帰ったほか、多様な学芸を身につけていた。皇太子の教育係をしたこともあり、七五二年には副使として入唐、翌年に鑑真らを連れ戻った。奈良期の唐風文化に大きく寄与したことは言うまでもない。

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