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  青春の遣唐使04 空海

五筆和尚

王 勇


 一九九八年の秋、和漢比較文学会主催の
講演会に招かれ、はじめて福岡をおとずれた。故田中隆昭・早稲田大学教授は、わたしの貪欲的な遣唐使史跡調査プランに賛同してくれ、鴻臚館・大宰府・天満宮などを見学してから、二人で福江島へと飛び立った。

夕方ごろ到着すると、タクシーで三井楽へ直行。夜色が刻々と濃くなり、走ること約一時間、タクシーは島をつき抜けんとばかりに小高い丘にとまった。車灯の照射する先方に目をやると、果てしない海を背景に「辞本涯」の石碑がくっきり浮かびあがっていた。

延暦二十三年(八〇四)、「四つの船」はここを後にして、東シナ海に突入した。空海はその様子を「すでに本涯を辞し、中途に及ぶころ、暴雨は帆を穿ち、悪風は舵を折る。荒波は空を衝きさし、短舟はキリキリゆらつく」と書き描いている。(性霊集)

空海の乗った第一船は一か月以上も風浪に翻弄され、予定のコースを大きくはずし、福州長渓県の海辺に流された。不審に思われた一行は地元の官吏より厳しい尋問をうけ、足止めを食らったが、大使の藤原葛野麻呂は空海に代筆させて福州の役所あてに書状を差しだした。観察使の閻済美は、書状の優美な書法に驚かされ、遣唐使を刮目して持て成したという。

 その後、長安入りした空海は恵果に密教を教わるかたわら、名筆家の韓方明を師と仰いだ。両手と両足と口で五本の筆を同時に操るわざを身につけたから「五筆和尚」とあだ名されたという。一見して俗説のように思われるが、それより十五年後、福州連江県についた円珍は、開元寺の恵灌に出会い、「五筆和尚は健在か否か」と尋ねられた。空海円寂の凶報を聞くや、恵灌は「未曾有の異芸」を讃えて故人を追憶したという。(円珍「両宗を弘め伝うる官牒を請うの案」)

二年間の留学を終えて帰国しようとした空海は、憲宗皇帝の命をうけて、宮中に飾られた王羲之筆の屏風に欠字を書き補ったとの伝承があるが、その名筆ぶりは胡伯崇の「天より吾が師に仮くる伎術多く、なかんずく草聖は最も狂逸たり」、朱千乗の「梵書を能くし、八体に工なり」とある賛辞によっても裏づけられる。

書芸に青春を燃やした三十代の空海は、「狂逸」の評価にふさわしく、草書・梵書・八体など五つの書体を自家薬籠中のものにしていることから、「五筆和尚」と名づけられたとの俗説がより事実に近いかもしれない。

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