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  青春の遣唐使05 弁正

玄宗皇帝と手談した弁正

王 勇


 美女の誉れ高い楊貴妃との恋愛物語が文人墨客の想像力をかりたてたらしく、玄宗(明皇)を画題にした絵画はことのほか多かった。現存するものでも「明皇幸蜀図」「明皇合楽図」「明皇訓儲図」「明皇会棋図」「明皇闘鶏図」「明皇貴妃並笛図」など枚挙にいとまない。

これら玄宗を描いた絵画群は、ほとんど史実を踏まえている点で共通性がみられるが、周文矩筆の「明皇会棋図」だけはその出典が不明であった。この作品には歴代の帝王や名士らの識語および押印が累々とあり、謎をいっそう深めている。

たとえば、清の乾隆帝は余白に漢詩を書き、諸書に興味津々と語られる「猧子乱局」の逸話を表現したものと推定している。つまり、真夏のある日、玄宗は親王と囲碁の手合わせをし、敗色がひとしお濃厚となったところ、傍らで観戦していた楊貴妃はペットの猧(子犬)を放ち、基盤をかき乱させたという。

ところが、画面をよく見ると、左から内官・沙弥・僧侶・道士・貴人・優人・道士・官吏と八人が登場しているが、猧の物影がなければ、楊貴妃の姿も現われていない。画面のほぼ中央に、豪華な椅子に座っている貴人は玄宗であることに疑問の余地はないが、問題は碁盤をはさんで座布団に腰をおろした僧形の対局者は誰かということだ。

熱狂的な仏教信徒だった則天武后の周王朝を一変し、道教をあがめる李氏の唐王朝を立て直した玄宗は、中国の文献を調べるかぎり、僧侶と対局した史実を寡聞にして知らない。そこで日本側の史料に目を向けると、画題の謎を解く重要な手がかりが奈良期の漢詩集「懐風藻」に見つかったのだ。

弁正伝によれば、秦氏に出自した弁正は少年のころ出家したが、道家思想にも詳しく、大宝二年(七〇二)に留学僧として唐へ遣わされ、囲碁を善くすることによって、しばしば李隆基(玄宗の本名)より招かれたとある。

この一風変わった留学僧は、唐の皇親貴族と交わり、いつの間にか還俗して唐の女性と結婚し、秦朝慶と秦朝元の二子をもうけた。朝元は阿倍仲麻呂らと入れ替わりに、七一八年に帰国し、持ち前の語学才能を買われて、七三〇年に通訳養成の仕事に携わり、七三三年に判官として入唐した。「懐風藻」に「玄宗はその父との縁故をもって、格別に詔して厚く賞賜を与えた」とある。囲碁に熱中した弁正は、単なる遊戯に青春を費やしていなかったことがわかる。

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