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  青春の遣唐使06 智蔵

狂人を装った智蔵

王 勇


 JR大和路線・法隆寺駅から四十五分ほど歩き、ようやく法起寺にたどりついた。古寺名刹の多い奈良では目立たない寺院だが、ガイドブックの「山号:岡本寺、開基:福亮」に誘われて、迷うことなくここまで足を運んできた。

 岡本寺といえば、聖徳太子が「法華経」を講讃した場所として知られる。「法起寺塔露盤銘」によれば、呉から渡来した福亮は舒明十(六三八)年、太子の遺徳を偲んで弥勒像と金堂を造立した。中日交流史を専門とする筆者にとっては探訪してみたいところだ。

 福亮のことを調べはじめたら、意外な人物に心をひかれた。「三国仏法伝通縁起」は三論宗の師資相承として、慧灌→福亮→智蔵という系譜を並べているが、この智蔵は「扶桑略記」に「呉国の人福亮の在俗の時の子」とある。福亮が来日後、高句麗の慧灌にしたがって出家する前に、熊凝氏を名乗っていたことは他の文献に明らかで、智蔵はこの間に生まれた混血児だったと考えられる。

 「懐風藻」には漢詩二首とともに智蔵の略伝が収められている。それによれば、天智天皇のころ入唐した智蔵は、呉越の尼僧について三論学を習い、学業抜群のため同僚から妬まれ、ついに「髪を散らして狂人を装い、路上を暴走」して被害を逃れた。

 同僚から「鬼狂」と罵られながら、智蔵は「ひそかに三蔵の要義を書写し、写経を木筒に入れて密封し、常に担いで歩きまわっていた」という。持統天皇のころ、帰国のチャンスが到来。船が日本に帰着すると、上陸した同僚らは、ぬれた経書を曝涼(虫干し)するが、智蔵だけは襟を開いて「我れも経書の奥義を曝涼しよう」と豪言し、その狂態がまたもや周囲の爆笑を誘った。

 やがて、宮中で試業といわれる報告会が執り行われ、智蔵の番がやってくると、彼はいつもの狂態を一掃し、堂々と登壇して、「辞義俊遠にして、音詞雅麗」に進講。のみならず、質疑にもよどみなく応答し、一座を感服させた。「懐風藻」の智蔵伝は「帝嘉し、僧正に拝する。時に歳七十三」と締めくくっている。青春時代の辛酸と苦労が立派に結実したものだ。

 「天才と狂人は紙一重」といわれるが、狂人≠装った智蔵はたとえ天才でなくても、その求道心と忍耐力が疑いなく常人の限界を超えていた。

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