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  青春の遣唐使07 羽栗兄弟

中日間を翔ける翼

王 勇


 昨年、ある大手紙のコラムに、全国的な名前調査の結果が紹介されていた。それによれば、二〇〇三年度に生まれた男児の名前で、大輝は一位、翔は二位、翼は十位とある。記事は拙著「唐から見た遣唐使」をひいて、阿倍仲麻呂の従者として渡唐した羽栗吉麻呂が唐女と結婚し、二児にそれぞれ翼と翔を名づけ、「鳥のように翼をひろげ、大空を翔(か)けて故国・日本に帰りたい」という悲願を託していたと指摘する。

 六年前の旧著を取りあげてもらったことはありがたく思うが、まさか千三百年前の混血児の名前が今なお生きているとは驚かされた。わが子の名前にこめる親ごころは、今も昔も変わらないのかも知れない。

 七三三年八月ごろ、六百人近くを載せた四つの船は、蘇州あたりに漂着した。十六年前に入唐した留学生らは、この吉報に接するや激しく動きだし、さまざまな喜悲劇を演出した。仲麻呂と真備についてすでに取りあげたが、近ごろ話題となった井真成(いのまなり)は遣唐使らの離京前に病死し、魂のみの帰郷となった。玄ム(げんぼう)は意気揚々と五千余巻の大蔵経を持ち帰ったけれど、不幸にも唐人の予言「玄ムは還亡なり」が当たり、政争に巻き込まれて非業の死を遂げた。もっとも幸運だったのは「天翔ける翼」の願いを託された二児をつれて、七三四年に故国の土を踏んだ吉麻呂だったのであろう。

 長男の翼は剃髪(ていはつ)したが、学業優秀のため還俗(げんぞく)させられ、七七七年に准判官として入唐し、五紀暦などを持ち帰った功績により、丹波介や左京亮そして勅旨所助などを歴任した。二男の翔は七五九年に録事として入唐、在唐中の前遣唐大使・藤原清河のもとにとどまり、不帰の客となった。

 ところで、翔は「かける」と読んで問題ないが、翼は前掲の記事では「たすく」と読んでいる。「翼をひろげて空を翔ける」という親の願いであれば、「つばさ」とすべきであろう。そして、この翼は帰国のために翔けるものだけでなく、中日間を自由に飛翔(ひしょう)するものと理解したい。

 ちなみに、「勅旨所牒東大寺三綱」という古文書に、「従五位上内薬正兼侍医助葉栗翼」との署名が残されている。時は七八九年、七十一歳の老人にもかかわらず、力強い勁筆(けいひつ)に青春時代のおもかげが偲ばれる。七九八年、天翔(あまか)ける翼は八十歳の天寿をまっとうした。

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