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  青春の遣唐使08 井真成

故郷に錦を飾る魂

王 勇


 二〇〇四年九月二一正午、書斎の電話が鳴った。共同通信上海支局の記者から「西安で遣唐使の墓誌がみつかった」との第一報を受けた。全身に戦慄が走った。翌朝、
中央テレビ4チャンネルで、墓誌発見のニュースが特報され、被葬者は井真成、日本の国号が記されていることがわかった。

十月十日、墓誌所蔵者の西北大学による記者会見が行なわれ、公開された墓誌の拓本は夕方ごろ、筆者の手元に届いた。共同通信の取材に対して、「古代中日交流を研究する者にとって生涯に一度会えるかどうかの発見で感激している。奈良時代の日本の国際性を実証する一級史料だ。(中略)生前に任官していた可能性があり、阿倍仲麻呂だけが特別だったわけではないだろう」とコメントした。

 墓誌によれば、井真成は生まれつき才能にめぐまれ、入唐後は勉学に打ち込んでいたが、七三四年正月に官邸で急逝し、玄宗皇帝より「尚衣奉御」の官位を贈られ、同年二月四日に公費で葬られたとある。

 井真成は養老元(七一七)年の遣唐使とともに海を渡ったと推定すれば、時は十九歳、六九八年に生まれたことになる。奇しくも同船の阿倍仲麻呂と同じ歳だった。そして吉備真備も一行に加わっていた。この三人はともに十七年間の青春を留学生活に燃やし、七三四年に運命の別れとなった。仲麻呂は唐に引きとめられて客卿として出世、真備は帰国して右大臣にまで登りつめたが、井真成だけは雄志なかばにして異国の土と化した。

 今や世界が注目している愛知万博、入館者数で外国館の首位を保っている中国パビリオンは六月六日、二百万人目を迎えた。多様多彩なイベントとともに、五月一五日から出展された井真成墓誌も多くの市民をひきつけたに違いない。建築工事中に偶然みつかった墓誌はなぜ大きな反響を呼んだのか。

 墓誌銘は「形は既に異土に埋まれど、魂は故郷に帰らんことを庶う」という朗々たる韻文で結ばれている。人間は特定の時代に生まれ、また特定の国に育つものだが、それらを超越する魂が遣唐使にあったのだ。そして、千二百余年ぶりに、井真成の魂が万里の波濤を乗りこえて故郷に迎えられたことは、中日間に時空に阻まれぬ精神的な連携が依然として存在しているものと信じたい。

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