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シャワーとお風呂のあいだ

王 勇

 

「こころの湯」?「シャワー」?

二〇〇一年に日本で上演された中国映画「こころの湯」は、主演者がNHKドラマ「大地の子」で養父役を演じて日本中を泣かせた朱旭(チュウ・シュイ)さんであることもあって、かなり話題を呼んだ。(図1)当時、仙台の某大学で教鞭を執っていた筆者は、「こころの湯」という映画について、中国にいる複数の友人に問い合わせてみたが、誰も知らなかった。それに驚いて、「一九九九年出品、監督は張揚(チャン・ヤン)である」と情報量を増やして聞きなおすと、中国名は「洗澡」だということがわかった。

英語が得意な友人の返事によれば、張揚氏の作品は一九九九年にトロント国際映画祭では国際批評家連盟賞、テサロニキ映画祭ではグランプリおよび観客賞、サンセバスチャン国際映画祭では監督賞およびOCIC賞をそれぞれ受賞しているが、映画名は「SHOWER」となっているそうだ。
 洗澡」は裸にして体を洗うという意味である。日本語訳の「こころの湯」は深読みのきらいがあるとすれば、英語訳の「SHOWER」は浅読みのそしりを免れない。しかし、こうした言語表現の相違こそ、各国の風呂文化の特色をリアリティに反映しているのかもしれない。

道教の影響 

お風呂の習慣は世界のどこにもあるが、日本には仏教とともに中国から伝わってきたといわれる。たしかに旧暦の四月八日はお釈迦さまの誕生日にあたり、信者たちは浄水で仏像を洗う。これを浴仏または灌仏という。こうした宗教儀式がのちに僧侶らの生活に取りいれられ、さらに民間にも広まったらしい。

ところが、庶民の生活に定着したお風呂は、おごそかな仏教儀式よりも、水の霊力を信じる道教から受けた影響が大きいと思われる。たとえば、推古四年(五九六)聖徳太子が伊予国の道後温泉に浴して建立した記念碑に、「神井に沐して疹を寥す云々」と刻まれている。これは世に『道後温泉碑』と呼ばれているが、後漢・張衡(ちょうこう)の『温泉賦』をはじめ、北斉・劉逖(りゅうてき)の『浴湯泉詩』、周・王褒(おうほう)の『温泉賦』などを参照したらしく、温泉を「神井」と称すること自体に、道教的神仙思想が色濃く投影されていることがわかる。

中国に起源をもつ日本のお風呂は、和辻哲郎氏が『古寺巡礼』に「西洋の風呂は事務的で、日本の風呂は享楽的だ」と書いた名言をあげるまでもなく、西洋のそれとは著しく異なっている。しかし、それどころか、中国人の目にも日本のお風呂はもはや島国の奇習として映っているのである。明治維新より以降、日本を訪れる中国人がにわかに多くなったが、彼らはエロチックな混浴に閉口しながら、お風呂の多さや入浴の頻度などにも驚かされていたようだ。

日進月歩の勢いでグローバル化が進んでいる今日、男女混浴はほとんど見られなくなったが、お風呂は依然として日本文化の秘境として、文化摩擦を引き起こしやすい場だったのである。まず十数年ほど前に経験した実話をここに紹介しておこう。

A氏の落ち込み 

わたしの勤務している杭州大学(今は浙江大学と改名)では、毎年、国家教育委員会(文部科学省相当)を通して、日本の中学か高校から日本語教師を一名ずつ招聘している。彼らは専門家の待遇を受け、専家楼という高級ホテル並みの宿舎に泊まり、週に十時間ほどの講義を義務づけられる。

わたしが日本語科の学科長をつとめていたころ、静岡県からA氏が来ていた。当初は、満面に微笑みを浮かべている朗らかな性格の男性という印象だったけれども、一週間もしないうちに、しだいに表情を曇らせて落ち込むようになった。ホームシックにしては早過ぎて、しかも症状がひどいなあと不審に思って、理由を聞くと、お風呂が悩みの種だったらしい。滞在中に生活の面倒を見てくれる外事処(国際交流センター相当)に問い合わせると、担当者はいささか語気を荒げて文句を言いつけてきた。

「今回の日本人教師はちょっと怪しいぞ。お風呂がないと言っているが、見に行ったらちゃんとあるんだ。しかも同じウソを三回も繰り返しているから、どういう意図か理解に苦しむ。」

どう見ても、A氏は因縁をつけて外事処を挑発するような人間ではない。かたや外人教師を世話するベテランの担当者がA氏を理由もなく陥れようとすることも考えられない。「両者の間になにか行き違いがあったのでは?」そう思って、双方に一部始終を詳しく聞いてみることにした。

嘘つき日本人 

十数年も前だったら、中国においては「外人」といえば白人、「外国」といえば欧米、という世の中であった。うちの大学でも国際交流担当のポストに英語のわかる人ばかりつけていた。日本語がまったくわからない担当者、片言の中国語とわずかな英語しか話せなかったA氏、この二人は専家楼のお風呂をめぐって、むずかしい交渉をつづけていたようだ。

 専家楼に入居した翌日、A氏は挨拶にみえた担当者をつかんで、「お風呂がない」と訴えた。中国の各大学に設置された専家楼は、ほとんど欧米人むけに間取りを大きく取っている。うちの大学の場合は、2LDKに浴室とトイレを別々にしている。担当者は浴室のドアを開けて、「ここだよ」と念を押した。

そのときA氏が納得したかどうか明らかではないが、「首を縦に振った」と担当者は主張する。それはともかく、翌日にA氏は外事処を訪ねて今度は「お湯が出ない」と訴えた。担当者は故障かと思って、修理工をつれて電気熱水器のスイッチを入れたら、熱湯がどっと出てきた。

その翌日、またもやA氏から「Bathがない」との電話がかかってきた。担当者は怒りをおさえて、すぐさま現場にかけつけ、大きな湯船を指差して、「ここだよ」と言葉を吐き捨てて不愉快そうに去った。

 余談だが、わたしは原稿の締め切りに追われて、何度か専家楼に閉じこもって精進したことがある。バスは欧米風に設計されており、浅くて広く、普通の体格の日本人なら二人くらい入れるサイズである。(図2)

外事処からは「嘘つき日本人」との契約を見直してくれといったようなニュアンスのこともいわれた。しかし、その前にA氏の言い分を聞かねばならない。

無駄な交渉 

A氏は小太りの中年男で、名刺には○○中学校教諭とある。専門は国語であるが、中国文学に興味があり、唐詩宋詞に詠まれた名勝旧跡をこの目で確かめてみたいという夢を持っているそうだ。

さっそく、彼を夕食に誘った。紹興酒を飲みはじめると、A氏はだんだんと機嫌がよくなり、赴任直前に特訓で覚えていた片言の中国語も披露してみせた。主客とも程よく飲んだところ、お風呂に話題をしむけた。

A氏は「中国の官僚主義にはかなり覚悟していたつもりだけど、こんなにひどいもんとは予想もしなかった。要請のたびに来てはくれるが、何もせずに帰っちまう」と愚痴をこぼす。こちらに赴任して一週間ほど経っているのに、まだ一度もお風呂に入っていないとのこと、ちょっと信じられない話だった。

これで、A氏の苛立ちはよくわかった。それと同時に、言葉の障壁こそ摩擦の原因だったことも知らされた。事件の真相にはまだ不明な点があるものの、大体の経過は以下のとおりだったと推察される。

入居の当日、お風呂に入れなかったことを、その翌日に慣れない英語と中国語で必死に担当者に訴えたようだ。なんとかしてくれるだろうと思っていたら、期待が見事にはずれてしまった。そして、お風呂に不可欠な「熱水」(お湯)に焦点をしぼって、二度目の交渉にいどんだ。しかしお湯が出てもまだお風呂にはならず、三回目は辞書から「浴缸」(湯船)という用語を見つけ、電話をかけたそうである。

それでも問題を解決してくれなかったので、A氏の表情には、無念と後悔の色が滲みでているように見えた。

シャワーとバス 

A氏の言い分を聞いてから、「あ、そういうことなのか」と悟った。外事処の担当者からすれば、宿舎には浴室もあり、バスも備わり、お湯も出るから、A氏の執拗な交渉が難癖をつけているかのように思えたのであろう。当時、四階建ての専家楼には十数人の欧米人が入居しており、誰一人としてお風呂に文句を言うものはいなかった。日本人への警戒心の強い中国社会にあって、ささやかな不用意も大きく歪んで受けとめられてしまうのである。

ところが、A氏の身になってみれば、せっかく広い浴室があっても、普通の日本人が望むようにお風呂に入れず、根強く担当者に解決を求めるほか仕方なかった。つまり、浴室はシャワーからお湯が出ても、バスからは出ないようになっているのである。しかも、シャワーとバスは距離的に離れている。

A氏は毎日シャワーを浴びていたのに、「一週間もお風呂に入っていない」と言い張り、中国人には一〇〇パーセントのウソに聞こえてくる。彼はあくまでも湯船にこだわり、暖かいお湯に浸からなければ、お風呂に入ったことにはならないようである。

日本にしばらく滞在した経験をもつ筆者は、それを日本人の生活習慣としてなんとか理解できるかもしれないが、しかし中国人あるいは欧米人の生活習慣にもとづいて思考する周囲の人々に納得させるのは、決して容易なことではない。

魔法瓶作戦 

普通の中国人は入浴といっても、湯船に肩まで浸るというのではなく、シャワーを浴びるだけで用が足りる。A氏離任まもなく、大学の近くに新しい教授楼(助教授以上が入居できる高級アパート)が建てられると、筆者も一戸を割り当てられ、内装工事に取りかかった。ここで驚いたのは、ほとんどの入居者が、浴室に備えつけていた湯船を取りはずしてシャワーだけにし、空いたスペースに洗濯機などを置くことであった。家庭内では、あまり湯船を使わない証拠である。

こんな世の中にあって、A氏の湯船に対する執念が、周囲の目から異様に映ってしまうのも仕方ない。外事処と交渉したり、専家楼に事情を説明したりするとき、関係者は不思議そうな表情で、口々に疑問を発するのである。

「毎日お風呂?」

「シャワーはだめ?」

「なぜバスなの?」

これらの問題に自信たっぷり答えられるようになったのは、数年後のことであるが、その当時は「日本の気候は湿気が多く、梅雨の前後はじめじめとし、夏は蒸し暑い。そのため、水虫を患う人が少なくなく、多くの日本人は湯船に浸るのを日課としている」などと下手に説明すると、「皮膚病の治療か」と返ってくる。

説明はあやふやのうちに終わったけれど、周囲の人々は好意的に理解してくれ、湯船は一日も欠かせないA氏のために、なんとかしてあげようということになった。

後日、A氏の話では、毎日の夕方ごろ、弱々しい女性の服務員さんが両手にそれぞれ魔法瓶二本を持って三往復し、計十二本を届けてくれるという。もちろん飲むためではなく、湯水として使うのだ。

入浴の頻度 

そもそも中国人には毎日お風呂に入る習慣はなかった。漢代の制度だと、官吏は五日に一回の「沐日」を与えられる。むかしは沐と浴は区別され、沐は米を洗った水で髪を洗うこと、浴は暖かいお湯で体を洗うことを意味する。

唐代になると、十日に一日の休暇をもらうことが制度化し、これを「三」または「休沐」と称する。つまり十日に一度という頻度で、官吏たちはお風呂に入っていた計算になるわけである。

宋代では、お風呂の風習は都市部を中心に広まり、北宋の都汴京では公衆浴室の集まる「浴堂巷」まで現われていた。水資源の豊かな南方は北方よりお風呂が流行り、マルコポーロの『東方見聞録』によると、南宋の都臨安(杭州)には三〇〇〇以上の公衆浴室があり、市民は毎日のように沐浴を済ませてから食事をするという。

ところで、お風呂の習慣にも個人差あるいは地方差があることはいうまでもない。北宋の宰相こと王安石(おうあんせき)のお風呂嫌いは、歴史上たいへん有名である。『石林燕語』(巻一)によれば、彼は「年を経ても洗沐せず、衣服が汚れても浣濯しない」という。

また地方によっては、入浴の回数がきわめて少ないところもある。冒頭に紹介した映画「こころの湯」で印象的なシーンは、むかし水の少ない地域の花嫁が嫁ぐ前に、米と交換して近所から水を集めて風呂に入るというところである。

これには文献上の裏づけがある。たとえば、『鶏肋編』(巻上)に「婦人は一年に一回しか沐しない」とあり、『癸辛雑識』(続集上)の「蜀人不浴」条には「蜀人といったら、生まれる時に一たび浴し、死ぬ時に一たび浴するのみ」という諺まで紹介されている。

近年の中国都市部では、家庭内にシャワーが普及しているから、身体の清潔を保つ必要に応じて入浴している。入浴の回数が接近していても、中日間のお風呂には依然として多くの相違が存在している。筆者の失敗談を披露してみよう。

温泉の失敗談 

A氏の話題にもどるが、湯船にこだわる日本人の「怪僻」について、筆者もその当時うまく解釈できなかった。数年後、日本訪問のチャンスが多くなり、風呂場で「失脚」をかさねて、ようやく中国と日本のお風呂は、そもそも異なったものだと分かったのである。

友人に連れられて、温泉を初体験したときのことである。「男湯」の暖簾をくくって服をロッカーに預け、湯気の立ちこめている風呂場の扉を開けると、真ん中に「金湯」と書いてある大浴場があり、そのまま入ってしまった。

白いタオルを載せた頭がばらばら水面に浮かんで、ほとんど動いていない光景を眺めると、どうやら奇異の感を禁じえなかった。しばらく真似をしたものの、これではお風呂にならないから、まずタオルで顔を洗い、つづいて首を拭いてみた。周囲をぐるりと見回したら、河童のように浮かんでいる頭たちは反応しなかったので、「よいしょ」と上半身から下半身へとこすり始め、石けんを手にとって使おうとしたとたん、「だめ、だめ」と友人に慌ただしく止められた。いつの間にか、頭たちは距離を置いて、こちらを睨んでいるような気がする。

浴場は扉をのぞいた三面には、シャワー用の蛇口がずらりと並んでいる。友人の話では、まずここで頭や体をきれいに洗ってから、大浴場に入るべきだという。タオルを浴場に持ちこんでもいけないらしい。

「浴場だろう?どうして汗を流してはいけないの?」

「タオルだろう?なぜ体をこすってはいけないの?」

疑問も文句も山ほどあるが、鉄分の温泉水に赤く染まったタオルを隠すところもない私は、異文化に包囲されたような孤独感をたっぷり味わった。

家庭風呂の怖さ 

温泉での失敗を経験してから、日本のお風呂事情をよく知ったと自負したら、今度は家庭の風呂場で転んでしまった。

はじめて日本人の家に泊まることになり、夕食後しばらくテレビを見ながらよもやま話をして、ご主人からお風呂をすすめられた。その日、四時間もバスに電車を乗り継いで辿りついたもので、お言葉に甘えてさっさと入った。

湯船には湯水がいっぱい貯めてある。「湯水を出すくらいは自分でも出来るのに」とひそかに主婦の周到な心遣いに感謝しながら、やや熱めの湯船に体を首まで浸した。すこしのぼせるようになると、シャンプで頭髪を洗い、ソープを全身に塗って流した。湯船を出ると、シャワーを浴びてとどめをさす。最後には湯船の栓を抜くことを忘れてはならず、さらにお客の礼儀として湯船を内外ともきれいに洗い流した。

浴室を出ると、元気よく皆さんに挨拶し、ご主人はソファーの席をゆずって浴室へ姿を消した。しかし、すぐに戻ってきて顔を青ざめて「お母さん、ちょっと来て」と奥さんを呼んだ。浴室から出てきた奥さんも、いつもの微笑みを失い、困惑の視線を私のほうに注いでくる。

あとで分かったことであるが、湯船いっぱい貯めてあった湯水には、一家の男女老若が順番に入ることになっているそうだ。そして、早寝のおばあさんはすでに私より先に入っていたし、私につづいてご主人そして奥さんも同じ湯水を使う予定だったのである。

「お風呂の水を何度も使っていいのか」とくぎをさすと、奥さんは「湯船は体を洗うところではないの。汗を流し垢を落としてから、湯船に入って体を温めるのよ」と説明してくれる。それでも人間が入ると、湯水は多少なりとも汚されてしまうので、次に入る人のためにタオルを両手で引っ張って水面を覆うように接触させて、浮いている抜け毛やホコリなどを上手に取るコツまで伝授してくれた。

生理的と心理的 

おばあさんが使っていた湯水で体を洗ったことを思い出すたびに、気持ちが急に悪くなってしまう。ドイツ系のイギリス人に聞いてみたら、Bathtubに二人(夫婦?)同時に入ることはあっても、自分が使った湯水を捨てずに、他人に使わせるのはナンセンスだという。

現代の中国人は、欧米人よりも湯船から遠ざかっている。普通の家庭ではほとんどシャワーしか使われない。高級ホテルに泊っていても、湯船の使用を敬遠する人が多い。たぶん他人のコップで水を飲まないのと同じ感覚であろう。

中国人にとって、お風呂は汗を流し、垢を落として、身体を清潔にする場所あるいは手段である。雨にぬれたとき、スポーツのあと、長旅の帰りといった場合、肉体をきれいにする生理的な衝動から、お風呂に入るのである。したがって、シャワーやバスなどはあくまでも道具にすぎず、効果的なものを選ぶのが当然である。そして、お風呂に入る目的はただ一つ、石鹸やタオルなどを使って肉体を清潔にすることである。韓国人が銭湯や風呂場に持っていく必携品にはイタリータオルが欠かせないそうだ。この赤くて小さいタオルは、全身の垢をギューギューとすり落とす代物である。韓国では「垢すってくる」とは銭湯へ出かけるときの挨拶言葉だったそうである。

ところが、日本人にとって、中国人や欧米人らが終わったところに、お風呂が本格的に始まる。彼らは湯船に入って、汗を流すのでも垢を落とすのでもなく、湯気の立ちのぼるなかを深呼吸し、目を瞑って体の芯まで暖めてリラックス、そしてふーと溜め息なんかをつき、ときには「ああ、気持ちいい」を漏らして一日を満足げに終えるのだ。

つまり、日本人は中国人と同じような生理的な要求をまずシャワーや行水で済ませ、心理的な欲求を湯船で満たすのである。言い換えれば、日本のお風呂は前奏(シャワー)と本番(湯船)から二重に構成され、中国人や欧米人は前奏だけで事足りたけれども、日本人はこれから本番を楽しむのだ。

おわりに 

異文化の摩擦は、文字どおり戦争にエスカレートすることも多々あるが、相互理解や知識増大を促進する原動力になることもありうる。マイナスになるかプラスになるかは、すべて異文化と向き合う姿勢によって決まるのである。筆者はお風呂の文化摩擦から、われわれの生活に定着したBATHの概念をもって日本のお風呂を理解しようとすることは、抹茶をInstant Teaに翻訳するよりも愚かであることを思い知らされた。

お風呂はBATHにあらず、島国の多湿な風土に根差した独特な文化であり、また日本の職場から大量に生産されたストレスを解消する生活智恵でもある。そう信じて、筆者も数年前から、心理衛生のために日本式のお風呂を楽しんでいる。

冒頭に紹介した映画「洗澡」という中国語を聞くと、筆者は、浴池周辺で泡立つ髪にシャワーをかけている人、タオルで背中を懸命にすっている人、ホールでお茶を飲みながら大声で雑談する人、たばこを吸いながら新聞を読んでいる人など、雑沓のシーンがイメージされる。中国の浴池日本銭湯とは、地域たちのいのであり、風呂だけでなくマッサージや散髪など多種多様なサービスもあり、様々らいのある生活である

これは「こころの湯」ではなく、「SHOWER」でもない。

(『ニッポンは面白いか』講談社選書メチエ、2002.11

 

 

 

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