謎宮会 2000/ 2
葉山 響
今回はかなり思い出話の度合いが強い。というか殆ど思い出話であるが、お許し戴きたい。何なら読まなくても全然構わないと思う。
では、まずは勘違いの話から始めよう。
本編は第二十七回江戸川乱歩賞の候補となった作品であり、この時の受賞作には長井彬『原子炉の蟹』が選ばれた。因みに前年(一九八〇)の受賞作は井沢元彦『猿丸幻視行』であり、かたや翌年(一九八二)には岡嶋二人の『焦茶色のパステル』および中津文彦『黄金流砂』の二作品が受賞している。『原子炉の蟹』を挟んで行われたこの第二十六回・二十八回はなかなかの激戦だったようで、第二十六回の候補作は『猿丸』のほかに島田荘司『占星術のマジック』(『占星術殺人事件』)、関口甫四郎『北溟の鷹』、長井彬『M8以前』(『連続殺人マグニチュード8』→『M8の殺意』)が選出されており、後に最終候補作全てが出版されている。一方、第二十八回は『焦茶色のパステル』『黄金流砂』のほか、須郷英三『長い愛の手紙』、高沢則子(小森健太朗)『ローウェル城の密室』、吹雪学『ミスターXを捜しましょう』、深谷忠記『ハーメルンの笛を聴け』が候補作とされ、後日『ローウェル』と『ハーメルン』が出版された。また須郷英三は高場詩朗と名前を変えて第一回日本推理サスペンス大賞に応募、最終候補に残りデビューを遂げている(『神戸舞子浜殺人事件』)。残る吹雪学はこれ以降の資料には何も登場してこないが、候補作『ミスターXを捜しましょう』は選考評を読む限りではかなり着想の面白そうな作品で、単行本化されていない乱歩賞候補作の中では最も読んでみたいと思わせる作品なのだ。単なる私見ではあるが。
で――僕は何故か『ショパンの告発』が、この激戦だった二十六回・二十八回のどちらかの候補作だと思い込んでいたのだ。だが今回読む前に資料に目を通してみたところ、実際には『ショパン』は第二十七回の候補作だった。『ショパン』と受賞作『原子炉の蟹』のほかには岡嶋二人『あした天気にしておくれ』、高橋孝夫『未来の詩人たちのメッセージ』の二作がノミネートされているが、受賞作も含めてこの年は「地味だった」というイメージが強い(岡嶋二人の『あした天気にしておくれ』があるから決して地味ではないではないかと反論されそうだが、僕は中学生の頃に『焦茶色のパステル』が面白かったので『あした天気にしておくれ』をかなり期待して読んで、結果あまり満足できなかったという記憶があるのだ。世評は圧倒的に『あした天気にしておくれ』のほうが高く、今読んだら評価も変わるのかも知れないが、そのことは今回の話とは全く関係無いので脇に置いて、つまり僕の『あした天気にしておくれ』に対する印象は斯様に地味なものなのだ、ということだけ言っておきたい)。此処において、「あの激戦で破れた作品」という『ショパン』に対する僕のイメージは崩れ去ってしまった訳だが、まあそれは仕方がない。僕がこの作品に執着にも似た感情を持った理由は他にある。
『ショパンの告発』は八戸の地方出版社から出版された本なのだが、僕は何故かこの本の広告を幼い頃に見ているのである。しかしかなり昔の朧げな記憶でしかないし、その頃はまだ、知らない作家の作品までチェックするようなマニアでは当然なかった。ただ何故かタイトルだけは印象に残ったらしい。後年、乱歩賞の候補作リストに目を通していたとき、『ショパンの告発』というタイトルを見て「あ、このタイトル見たことがある」と思ったのだ。――しかし。その乱歩賞候補作リストは、候補作の出版状況も付与された丁寧なものだったにも関わらず、『ショパン』は出版されたとは全く書かれていなかったのだ。では僕の勘違いだったのだろうか、僕が見たのは全く別の作者が書いた本の広告だったのだろうか――と、僕はこの後かなり長い間不思議に思い続けることになった。疑問が解消されたのは、僕が創元推理倶楽部に入会し、戸田さんと出会って以降のことだ。戸田さんありがとうございます。いやそうじゃなくって。
そういう経緯があったために、『ショパンの告発』は長い間僕にとって謎の本、幻の作品だったのである。広告を見た幼い頃の時点では、当然のことながらこれが自分にとって幻の作品になるということは夢にも思わなかったし、創元推理倶楽部に入って戸田さんと知り合い、この本の存在を肯定してもらうということも予想しなかったし、ネットを介して知己を得たkashibaさんからこの本を貸して貰えるとも当然思っていなかった。kashibaさんありがとうございます。それにしても、この本は「猟奇の鉄人」掲示板の常連・膳所善造さん(おお、『黒いトランク』!)からkashibaさんのところにお嫁入りした本だそうだが、それがkashibaさんから僕のところへ来て、そしてこの後は戸田さん、やよいさんのところへと巡回する予定。冗談抜きで、マニアの手を転々とする数奇な運命を持った本と言えるかも知れない。
さて、それではいよいよ『ショパンの告発』の話に移ろう。
演奏会の夜、ピアニストは会場に現れなかった。その夜は彼の恋人が代理を務め、観客から喝采をもって迎えられる。その翌朝、ピアニストは密室の中で死体となって発見された。しかし彼には双子の弟がおり、実は殺されたのはその弟だったことがピアニスト本人の登場で明らかとなる。一方、演奏会終了後にピアニストの家に向かった筈の恋人は謎の失踪を遂げた。彼女が演奏会場に都合よく演奏会用の衣装を持参していたことも含めて、警察は彼女が事件に関係していると考え彼女の行方を追う。一方、隣家に住む音楽評論家・河田も事件に興味を持って調査を開始するが――。
作者の林芳輝は一九六五年に東京芸術大学作曲科を卒業後、大阪音大・東京音大・東京女子体育大に在職しながら作曲活動に従事。八〇年岩手大学に着任、この地で『ショパンの告発』を刊行した。つまり『ショパンの告発』は音楽の専門家が書いた音楽ミステリだった訳だ。
で、実際に本書を読んでどうだったかというと、率直に言って本格ミステリとして書かれたことが決定的にこの作品を駄目なものにしている。これは本格ミステリを書き慣れていないというよりは、本格についてよく知らないけれども、乱歩賞に応募するのだから無理をして謎解きを書いてみた――という印象を受けるのだ。本格の技法に関しては、トリックの真相を暗示させる伏線が無い、密室に存在意義を感じない、プロットが凄まじい偶然に頼ったものである、などというように残念ながらどちらの方向を向いても褒められない。更に、本書では大きく分けて二つの事件が扱われていたことが終局近くにおいて判明するが、片方の事件の登場はあまりにも唐突であり、この点が非常に本書の印象を悪くしている(わざわざこの事件を絡ませたのは、前々回の受賞作が高柳芳夫の『プラハからの道化たち』だったことの影響だろうか。本書に絡んでくるのはかつて函館で実際に起きた国際的事件なのだが、今や若年層の大半はこれが現実に起きた事件だとは知らないだろう。作者は当然(執筆当時の)常識としてこの事件を取り入れており、そのために全く事件の背景を説明しようとしておらず、だから今これを読むと凄まじく唐突な印象を受ける。これが現実に起きた事件だと知らない読者は尚更呆然としてしまうのではないか)。――が、しかし。
ミステリ的構成は感心できないがこの作品、小説的センスは決して悪くないと思うのだ(そうでなければわざわざ原稿など書かない。ただでさえ「絶版本の快楽」が滞っているというのに)。主語の不明確な文章、乱発される視点の乱れなど、残念ながら本書は小説的技術のほうでもまだまだ未熟な点が目立つ。だがこれには改良の余地は幾らでもある。重要なのは根本だ。未熟なミステリ作法の向こうに微妙に漂う作者のセンス、これが非常に気に掛かるのである。
本書に登場する人物像は新人作家のものにしてはかなり達者だ。新人の作品らしからぬ落ち着いた雰囲気も好感が持てる(微かにではあるが数箇所には典雅な雰囲気も漂う)。探偵役の音楽評論家や警察官の造形も単なるステロタイプには留まっておらず、なかなか好人物に描けているという印象を受けた(素直な書き方に好感が持てる)。専門が音楽であるだけに、音楽の蘊蓄の部分に「調べて書いた」的な煩わしさが感じられないのも上出来で、有能な編集者が叩き上げればこの作者は、第二作第三作と書き続けることで案外容易に独自の世界を構築できるようになっていたかも知れない。
だからこそこの作品は、本格ミステリとして書くよりは、普通小説としての音楽小説を目指すか、或いは双生児の兄弟が音楽の魔力に翻弄されるサスペンスとして書き上げるべきだったのではないかと僕は思う。そのほうが絶対にこの作者の資質に合っている。また、昨年「目の前にいる恋人が他人と入れ替わっているかも知れない」という不安を切々と描いた諸田玲子の時代サスペンス『誰そ彼れ心中』(新潮社)が刊行されたが、『ショパン』もヒロインを主人公に据えることで、この作品のような展開を辿らせることも充分に可能だっただろう。しかし作者が選んだのは本格推理への道だった。作者は『ショパン』を、自分の資質と最も合わない形において表現してしまっている。これが悲劇でなくて何だろう。
『ショパンの告発』がノミネートされた第二十七回乱歩賞で選考委員を努めた五木寛之は、本書の序盤を過ぎてからの出来は全く評価していないものの、少なくとも冒頭を読んだ時点においては、「これは大変な作品になるのではないか」と思ったようだ。恐らく彼も本書の小説的側面に何らかの可能性を感じ取ったのではないか。そういう可能性を持った作者が、小説を書くときに本格ミステリの構成を選んだことは、不幸なことだったように思われてならない。
というわけで、今回の教訓。どういった作風が自分に向いているのかを見極める、そこから既に作家としての勝負は始まっているのだ。
追記 真相に関わる点なので迷ったが、矢張り書いておきたいと思う(真相に関する記述は読みたくないという方は、この先は読まないでください)。
「本格の技法に関しては何も褒められない」と書いたが、ひとつだけ「ほう」と思った点がある。それは「地の文におけるフェア遵守」だ。真相の性格上、本書の文章はデリケートな配慮が必要にならざるを得なくなるが、三人称地の文において作者は(恐らく)全く嘘を書いていないのである。読み終えて暫く経ってから、「ああ、あの登場人物を事件勃発後に初めて登場させたのは、そういう配慮からだったのかも」と僕は思った。――のだが、果たしてこれは本当に作者が狙ったものなのか、それとも単に偶然でこうなったのか、その辺りがいまひとつよく判らない。個人的には、狙ったものであって欲しいと思うのだが。
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