謎宮会 2000/ 2
新田 康
まさか自分が被爆者になる恐怖を味わうことになるとは思いもしなかった。昨年、茨城県那珂郡東海村の原子力関連企業で放射能漏れ事故が発生したとき、僕の家も事故現場から10km圏内に入ったため、屋内待避を余儀なくされてしまったのである。
転勤で茨城にやって来たのが割合最近なので、東海村がそんな近くにあることを殆ど意識していなかった。事故の当日は情報の伝わりが大変に遅く、午前中に事故が発生して、屋内待避勧告が出たのが夜の10時半。その日午後から降り出した雨に、傘を持っていなかった僕はもろに濡れながら職場から帰宅したのだが、それもそんな大変な事故が近くで起こったことを知らなかったが故である。幸い今のところ髪が抜けるようなことはないが、自分が放射能の危険性と隣り合わせに暮らしていることを実感させられた出来事だった。
この東海村の原子力施設を舞台にした推理小説があることを広沢吉泰さんから教えられた僕は、早速コピーを頂戴して読んでみた。それが今回取り上げる黒木曜之助の短編「東海村殺人事件」である。
黒木曜之助は春陽文庫から十数冊著書が出ていること、昭和42年の江戸川乱歩賞で『野望の接点』という作品が最終候補となった(ちなみに受賞作は海渡英祐の『伯林−一八八八年』)ということぐらいしか知っておらず、今まで本を読んだこともなかった。茨城に赴任した時、タウンページの「著述業」の項を開いたら黒木曜之助の名前が載っていたので、「へえ、この人水戸に住んでたんだ」と妙な感動を覚えたことはあるのだが、まあ、それは置いといて……。
だからこの「東海村殺人事件」が、僕にとっては初めて読む黒木曜之助作品であるわけなのだ。それにしても「東海村殺人事件」とは、何というベタなタイトルであることか……。作者が水戸在住であることを考えると、益々あっぱれなベタぶりだといえよう。
茨城には自費出版で『水戸水府橋殺人事件』や『大洗殺人事件』というベタベタなタイトルのご当地ミステリを発表している人もいるが、こっちはどちらも長編である。内田康夫の例を見るまでもなく、『(地名)殺人事件』というタイトルのものは大抵長編と相場が決まっているものだ。こういうご当地ミステリ、若しくはトラベル・ミステリは、その土地土地のローカルカラー描写も重要な要素となってくるから、長編でないとどうしてもボリューム不足になってしまうのである。それを短編でやってしまうとは。ううむ、黒木曜之助恐るべし!……とまでは思わなかったが、それを作者の自信のあらわれと見るか、未熟さ故の無謀と見るか、まずはお手並み拝見といこう。
東海村の原子力研究所構内で働く大畠という男が、放射能障害で死亡した。大畠は研究所の職員ではなく、事務員であり、放射能に近づく機会などなかった筈だった。不審を感じた警察は、関係者への聞き込みを開始。その中で死んだ大畠と、原子力研究所研究員平田、その妻和子との秘められた関係が浮かび上がり、平田に対する容疑が濃くなっていくが、彼は証言を拒否。平田が犯人だとすれば、彼はどのような方法で大畠を死に追いやったのか?謎は深まってゆくのだが……。
「東海村殺人事件」は全編「新聞記事」「談話」「証言」「手記」「参考意見」などで文章が構成されており、ちょっと凝った叙述形態となっている。ウィルキー・コリンズの『月長石』やブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』等、古い小説には全編登場人物の手記や日記で構成された作品がよくあるが、これは余程力のある作家が書かなければ、却って単調に陥る怖れがある叙述形態である。大体登場するキャラクター達が揃いも揃って長ったらしい手記を書いていること自体、考えてみれば(考えてみなくても)非常に不自然極まりない。事件の推移をあらゆる視点から出来るだけ現実的に描写することで、その弊を免れようとしたことは、作者の工夫といえるだろう。成功しているかどうかはともかくとして。
というのも文章表現自体がいかにも古めかしく、それでもう不自然になってしまっているからなのだ。「オーム返し」だとか「横顔はちよつと花王石けんのレッテルみたいだが、正面から見るとプリティ(可麗な)という形容がぴつたりあてはまる少女だった」というのもおかしいが、刑事が平田の妻和子を訪ねた時のことを「小職は美人だなと思い、同時に刑事という職業に軽い嫌悪を覚えたことは事実であります」と報告しているのもヘンだ(そんなことまで「報告」するか?)。
後で広沢さんから教わったところによると、「東海村殺人事件」は昭和33年「宝石」12月増刊号に掲載された、新人賞予選通過作品であるとのこと。そりゃ古い訳だ。そう考えると、文章自体の不自然さは免れないとはいえ、この叙述形態の工夫はやはり高く評価するべきものだろう。
結末にも作者の工夫のあとは見られる。普通の推理小説とは少しばかり違って、すっきり割り切れない結末を用意しているのだ。このような結末はあまり好きでないという人もいるだろうが、僕は面白いと思った。
このように新人らしく色々と工夫を凝らしてはいるのだが、作品全体の完成度はお世辞にも高いものとは言い難い。事件そのものが比較的地味なものなので、推理小説の謎としてはいささか弱いことに加え、人の証言を聞いているうちに事件の謎が自然にほぐれていくので、読者が推理に参加する余地がほとんどないのである(全くない訳ではない)。
「東海村殺人事件」というタイトルも問題あり。原子力研究所という特殊な舞台設定と作品の時代背景を考えると、小説の舞台が東海村である必然性はそれなりにあるのだが、それをタイトルにするとなると首を傾げてしまう。この作品では事件が原子力関連施設で発生することが重要なのであり、東海村であることが重要なのではないからだ。大体東海村のローカル描写はほとんどないに等しく、ご当地ミステリ的な意味でも東海村の名をタイトルに掲げるのは、ちょっと相応しくない。また、作品を最後まで読むと、このタイトルがかなりいい加減に付けられたものであることがよく分かる。何故なら……おっと、それは事件の真相に触れてしまうことになるから、書かない方がいいだろう。もっともこの作品が現代の読者の目に触れることはまずないだろうから、そこまで神経質になることもないかも知れないのだが。
そうはいっても、前述したように評価すべき点もいろいろある。大体、いくらご当地のこととはいえ、昭和33年に早くも原子力を推理小説のテーマとして取り上げたこと自体驚くべきことと言えよう。
推理小説で原子力施設が扱われたものといえば、昭和56年に江戸川乱歩賞を受賞した長井彬の『原子炉の蟹』が思い浮かぶ。その時点でも「現代の最先端技術」をテーマにしたことが『原子炉の蟹』の評価につながった訳だが、「東海村殺人事件」はそれより20年以上も前に書かれているのだ。
この作品が掲載された当時の「宝石」誌は江戸川乱歩が編集に携わっており、横溝正史の『悪魔の手毬唄』が連載されていたことを考えると、この「東海村殺人事件」がいかに新しいテーマを取り上げた作品であったか想像できる。しかも単にテーマとして取り上げているだけでなく、ミステリのプロットに有機的に絡み合わせているのだから、新人賞の予選を通過したのも肯けなくはない。ちなみに、この時の予選通過作品の中には笹沢左保の「闇の中の伝言」と「九人目の犠牲者」が入っており、最終的には「闇の中の伝言」が佳作入選している。
昭和33年は仁木悦子の『猫は知っていた』や、松本清張の『点と線』『眼の壁』がベストセラーになった年でもある。日本の推理小説に新しい風が次々に吹き込んできた頃であり、黒木曜之助の「東海村殺人事件」も文章そのものは古めかしいものの、「これからミステリの新しい時代に入るんだ」という当時の空気を作品の中から読み取ることは可能だ。
昨年の東海村放射能漏れ事故に関わったことが本編の鑑賞に役に立ったとは、あまりいえない。ただ、作品の冒頭で死んだ事務員大畠の抱えていた不安は、僕も含めて東海村近隣に住む人々にとっても(彼ほど深刻なものではないにせよ)決して人ごととは感じられないものである。これまた事件の真相に触れてしまうので書けないのが残念だが、そういう意味では大方の読者よりは身につまされる内容の小説であったとはいえる。
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