謎宮会 2001/ 5
ちょいめづを読む(13)戸田 和光
画商である秦の元に、洋画の重鎮である久保崎の絵を売りに来た女がいた。自分の眼を信じて購入した秦は、同じ女が、知り合いの画商にも久保崎の別な絵を売っていったのを知る。決して数が多いとは言えない久保崎の絵を、何故女は2枚も持っていたのか。秦の脳裏を、疑問がかすめた。――
印刷会社に勤める佐倉は、デパートの展覧会で、久保崎栄太の絵を見つめていた。その絵は、巨匠の典型である技術に頼っただけの器用さを見せていたかつての作風からの、突然の進歩を告げていた。その奇跡の中に佐倉は、半年前に自殺した、久保崎門下の優等生だった伊吹の技法を見出すのだった。ここ数年スランプに陥ってしまい、新作を発表しないまま死んでしまった伊吹を思い出す佐倉。
彼はかつて久保崎の内弟子だったが、雑誌の座談会の席上で師を批判したことで、久保崎やその妻に冷遇され、結果的に画壇から追放された過去があった。伊吹は、その時の兄弟子だったのだ。
改めて、伊吹の作風を確認しようとした佐倉は、遺された彼の絵を久保崎が買い占めていたことを知る。更に、伊吹が死ぬ間際に通っていた鎌倉の家は、久保崎が偽名で借りていたものだったことも突き止める。スランプだった筈の伊吹は、師の借りたアトリエで、一体何を描いていたのか。
佐倉は、伊吹の婚約者だった美代子に近づき、死ぬ直前の伊吹の様子を聞く。そして、伊吹が久保崎の代作をしていたことを確信するのだったが、そこには何も証拠はない。無力感を感じるとともに、伊吹の自殺にも眼を向ける佐倉だったが、そこには代作問題以上の壁があった。
数日後、鎌倉のアトリエの大家から伊吹の遺品が送られて来る。代作の証拠とも呼べるものを見つけて勇躍した佐倉は、美代子を呼び出して協力を求めるが、冷たい美代子の態度にショックを受ける。久保崎の行為を暴く以上に、美代子に心引かれていることを自覚していた佐倉だったのだ。
佐倉は、意を決して久保崎邸を訪れ、代作の証拠を見せる。動揺を隠せないかつての師の姿に、佐倉は疑惑の真相を確信するが、そんな久保崎を庇うかのように、「お前は勘違いをしている」と、同じく兄弟子だった木古庭が告げる。
その晩外出した久保崎は、自動車事故で死ぬ。そこには、自殺の匂いも感じられた。
一体、代作問題の真実は何だったのか。そして、伊吹の死は本当に自殺だったのか。迷う佐倉の前に画商の秦が現れて、事件は新しい展開を見せていく……。
久能啓二。
鮎川哲也が「死者を笞打て」でモデルにした実在作家の中で、現在一番対応づけが難しい作家……であるらしい。小説中では“久野啓二”という名前になっているだけだから、変換率は低い方なのだが、久能という作家自体が忘れられた存在になってしまっている、ということなのだろう。
しかし、この小説でモデルになっていることからも分かるように、鮎川とは親交が深かった。そのため、現在でも追跡不能という作家ではない。
分かりやすい例として、久能は、(本名の三山進名義で)鮎川哲也の「蝶を盗んだ女」(角川文庫)の解説を書いている。そこで、「死者を笞打て」のエピソードがかなり事実に基づいていることを明かすとともに、自身のミステリ観にも触れている。
例えば、“推理小説が単なるエンターテインメントであることに激しい不満と抵抗とを感じている”とか、“トリックのためのトリックが生む技巧性の冷たさなどに、批判的な目を向けがち”といった感じである。
そして、そういった立場でいるからこそ、正反対の作風である鮎川の長編を好んで読んでいた、と結ぶのだった。
逆に言えば、こういった知識があったせいで、単なる本格読みである私は久能を手にする機会を失していたのだが(勿論、それ以前に入手も困難なのかも知れない)、このシリーズを始めてから不意に思い出して、急に読みたくなった作家だったのである。
当時、鎌倉国宝館の学芸員だった(後に、跡見学園や青山学院の教授となる。先述の解説を書いた時は、跡見学園教授の肩書だった)ことも関係しているのか、美術界に主題を取った作品が多いそうだ。実際、本編も油絵の世界をテーマにしている。
贋作、というのは、ミステリではポピュラーなテーマであるけれど、本編の争点となっている代作というのも、類似のテーマと言えるだろうか。それ自体が一種の犯罪であるだけに、殺人などといった要素を加えなくても、自ずとサスペンスを生み出すせいもあるだろう。
国内ミステリでも時々見るけれど、そういった中では、本書は比較的早い発表になるのだろうか? 贋作モノと言われてすぐ浮かぶのは、個人的には北森鴻の「狐罠」になるのだけれど、そちらの、ある意味派手なコンゲーム・タッチのストーリーとは異なり、登場人物たちの心の裏側の思いや、その心の動きにポイントを置いた物語といえるだろう。
プロローグにおける、謎の女性の行動の意味は何なのか――に始まり、伊吹の自殺の理由は何か、とか、本当に代作は行われたのか、といったことを問題にしながらストーリーは進む。ホワイ・ダニットの構成に、一種のホワット・ダニットの雰囲気を加えたもの、とでも言うのだろうか。
そして、この辺りの展開は実に面白い。複数の画家たちの思いが交錯する中に、影の事実の意味を見つけようとするところなど、作者が言う所の“冷たい技巧性”とは違ったスタンスから小説を書きたい、と考えた久能の姿さえも見える気がしたのだった。
それに、実際に代作はあったものだとしても、「伊吹は何故代作を行ったのか」、「久保崎は何故代作を必要としたのか」という更なる“何故”が期待できそうで、後半に期待をつなげるのである。
しかし、中盤を過ぎて、ちょっと展開がもたつき出した印象がしてくる。代作問題と伊吹の死の謎についての追究が停滞する一方で、佐倉の美代子への思いがかなりなウェイトを占めはじめ、更に秦が果たす役割がプロローグで受けた印象と違っていたことが分かるなど、次第次第に、純粋な絵画ミステリとは離れていってしまったからだ。
(実は、冒頭に書いた粗筋も、中盤以降を大きく端折っている。真実が明らかになりだしてからも、ストーリーの振幅は大きく揺れるのだが、その部分は、本格ミステリ的な足で辿る証拠探しや、ある登場人物の悪行を描くシーンが多く、前半のサスペンス醸成の調子で書いてしまうと、ネタバレ要素が強くなってしまう気がしたためである)
最後の10ページ程で、また良く出来た絵画ミステリ(言い方が悪ければ、画家ミステリと言ってもいい)に戻るだけに、それまでの後半の展開が残念に思えたことは否定できない。
実際、私が(美術ミステリとして)解き明かして欲しかった、ある人物の心理については、満足する回答を与えてくれてはいない。もう一つ、別な人物の行為の理由については明かされるのだが、その行為を行うにあたっての心理的な葛藤についても、十分には明かしてくれないのだ。結局、芸術家の一員としての画家ならではの心理描写には、余り踏み込まれた気がしなかった。その一方で、周囲の人物の、世俗的な心理面についてはかなり触れられているため、中途半端な印象が残ったのは、私だけではないだろう。
(ネタバレの不安を感じたので、曖昧な書き方をしてしまった。何について言いたかったのか伝わらなかったら、申し訳ない。作品の性格上、書いても大丈夫な気はしたのだが、私の読み方を強制するのも本位ではないので、了解していただきたい)
特に残念なのが秦の存在で、私の思い込みといってしまえばそれまでなのだけれど、プロローグでこういった登場の仕方をしている以上、終盤近くで再登場した時の役割はこういったものに違いない、という感じで抱いたイメージとは、全く違った役割を果たし始めて、あれあれ、と思ってしまったことは否定しない。
本格ミステリの読み方だ、と言われそうだが、やはりプロローグというのは、小説全体に掛かるものだと思うのだ。こういった受け方をするのであれば、この描写をプロローグとして起こす必要はなかったのではなかろうか?
個人的な希望を言ってしまえば、前半の展開をもう少しゆったりと進めて、中盤以降の部分をもう少し整理して欲しかった気がする。そして、先の疑問についても、解決して欲しい。そのために必要なら、後半の章建てをガラリと変えて、伊吹の視点に立った回想をやってしまっても良かったのではないか。
本書の展開では、中途半端な本格タッチが作品全体のバランスを崩してしまっている、と考えてしまうのだ……。
――と、わがままな感想を並べてきた。
しかし、本作品を高く評価する気はしないけれど、かと言って、この本を読んで、久能という作家を否定する気にもなれなかったのも、また確かなのである。
つまりは、前述の問題は、当時のミステリ状況では仕方なかったのかも知れない、という気がしているからだ。以前の「殺意のプリズム」とも関連するけれど、当時はこういった書き方しかできなかったのではないか……ということである。
人によっては、本作品を読んで、これでは地味過ぎる、結局現在の作家の作品の方が面白いじゃん、という一言で片づけてしまうのだろう。最近の作家の扱うテーマが、こういった時代の作家の二番煎じであることさえも、考えないのかも知れない。
(本格ミステリの場合、“トリックが二番煎じであること”は、作品の大きな欠点とされる。しかし、サスペンス系の場合、“テーマが二番煎じであること”は、大した欠点とはされないのは何故なのだろう……)
でも、時代が変わったからこその表現方法の違い、というのは、やはり考えなければいけないんじゃないか、とも思ったりするのだ。
最近、考えることがある。
サスペンスを基調にしたミステリの場合、例えば殺人事件なしに描き続ける、とか、本格ミステリの要素なしに読者を引っ張り続ける、といったことが、当時は許されなかったのではなかったか。そういった要素がなければ読者は読んでくれないものだ、と思われていたのではないか。――
実際に、当時の作家にそれを成り立たせるだけの力があったのか、今となっては分からないけれど、結局、殺人とか謎とか、その種の要素に頼ってストーリー展開することを最初から義務づけられていた気もするのだ。それが編集者の希望だったのか、あるいは作家自らの思い込みなのかは知らないけれど、そういったことを前提に、最初からストーリーが組み立てられた気がしてならない。
そういったことからはかなり自由になっている最近の作家の書き方と、同じ尺度で図ることなど出来ないんじゃないか、と思うのは、私だけだろうか。
久能も、本格の行き方には興味がない、と言っていながら、本書では、特に後半の部分に、本格ミステリの手法を断片的に採り入れている気がする。これは、あるいはこうしないと読者に読んでもらえない、と思ったせいではないのか。そして、結果的に、そういった部分が長編としての破調を生んでしまったではなかったか。
そして、早々に筆を折ってしまったのは、こういった形でしか表現を許されないミステリの呪縛に嫌気がさしてしまったからではなかったのか……。
勿論、作者本人に聞いてみない限り、答えなど出ないのだけれど。
私の個人的な思い込みと言ってしまえばそれまでである。
ただ、魅力的な題材だと思うだけに、そして、実際、部分的な処理の仕方には面白さが垣間見えるだけに、もう少し魅力的にまとめていたら絶賛できたかも知れないのに、と思えて仕方なかったのである。――
巻末のリストにある通り、久能は長編4冊といくつかの短編を書いただけで筆を折ってしまった。最後の一編だけ時間があいて発表されたことを考えれば、実質5年間の作家活動だったと言えるだろうか。
その間に、(本業の合間に)4冊の長編を書いているのだから、かなり期待されていた作家と言えるのではないか。本業の方が忙しくなった上に、ミステリに対する情熱を失ったということだが、実際に書き続けていたら、どんなミステリを書いてくれたのだろう。現在のようにある程度好きなように書ける時代の方が、作者の本領が発揮できたのかも知れない、とも思うだけに。
もう一冊読むなら、やはり美術界に題材を取ったという第二長編かな。本編とはどんな違った展開を見せてくれたのだろう。ちょっと気になっている。
〔書誌関連〕
・角川書店 昭和37年11月30日
〔久能啓二 その他の作品リスト〕
「玩物の果てに」 『宝石』昭和34年10月号 (久能恵二 名義)
『暗い波紋』 東都書房 昭和35年12月
「土の誘い」 『別冊週刊朝日』昭和36年7月号
『手は汚れない』 東都書房 昭和36年10月
『日没の航跡』 東都書房 昭和37年4月
「愛の歪み」 『推理ストーリー』昭和37年5月号
「殺人案内」 『宝石』昭和39年1月号
「崩れる女」 『推理ストーリー』昭和39年4月号
「死者の旅路」 『推理ストーリー』昭和43年3月号
※中島河太郎編の作品リストによる。
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