謎宮会 1997/10

夢の残り火

浅井 秀明

 ミステリの中には星の数ほどの「名探偵」が登場する。そんな「名探偵」が共演する。本格ファンには堪えられない設定だろう。そんなファンの夢を叶えてくれたのが西村京太郎である。たとえそれが、老人となった「名探偵」でも。

 昭和43年12月に起こった有名な三億円事件。そんな三億円事件をそっくりそのまま再現する、名探偵にその後の行動を推理させる。そんな酔狂な企画を成金の財産家が考え出し、名探偵を招いた。招かれた名探偵はエラリー・クイーン、エルキュール・ポワロ、メグレ元警部、そして明智小五郎。成金の友人である男が探し出したモデルは、成金の計画通りに三億円を奪い去り(それも三億円事件と同じ12月10日)逃走した。名探偵たちはそんなモデルの行動を推理する。モデルを監視している友人からの報告は、名探偵が推理したとおりの行動だった。
 モデルは名探偵の推理通りに都心のマンションを買い、そこに引っ越す。たまたまそこが成金の持つマンションであったため、成金や名探偵たちはそのマンションへ移り、モデルを監視する。そのうちにクリスマス・イヴとなり、成金はマンション内でのクリスマスパーティーを開く。そんなパーティの夜、マンション内で殺人事件が起こり、事件が意外な方向へ流れていく。

 昭和46年に発表された『名探偵なんか怖くない』で初めて4人は共演する。名探偵たちを競演させるだけでかなりの腕が要求されるのに、さらに扱う事件が三億円事件の再現というかなりの難題である。普通の作家なら考えるのも恐れ多い設定ではあるが、西村京太郎は、易々とその難題をクリアしている。まず、実際の本のタイトルを挙げたり癖を書いたりすることなどにより、老人となった名探偵を巧みに描写した。また、三億円事件という迷宮入りの実在事件と、解けない事件はない神のごとき「名探偵」を並べることにより、読者の興味を倍増する事が出来た。そして最後に「名探偵」を4人並べることにより、本格ファンの夢を実現させた。そんなところが成功の理由と思われる。ただ、肝心の謎の方は難度が今ひとつであるのは残念だ。
 この作品では、本格ファンには見逃せない皮肉な台詞も用意されている。

「確かにわれわれは、多くの難事件を解決して、名声を得ています。その過程で、警察に協力したこともあるし、警察を出し抜く形になったこともあります。だが、われわれが手掛けた事件を子細に調べて頂けばわかると思うのですが、全て一定のルールの下で起きた事件、いい代えれば、ある限られた時間、空間の中で起きた事件ばかりなのです。その時間、空間の中に何人かの人間がいて、その中に犯人がいるというルールです。」(講談社文庫版 p33)

 作中で作者がクイーンに語らせている台詞だが、この台詞をどう取るかは読者次第だろう。ただ本格ファンとしては、このようなルールであることを知っていて、作品世界に浸るのであるし、非本格ファンはそのようなルールを「非現実的」という台詞で片づけようとするだけのことだ。
 ただ、このような台詞をあえて書くことにより、この小説は名探偵の競演という単なるパロディではないんだよ、ということを訴えているとも思える。作者の訴えたかったことは本格の楽しさ・名探偵への愛情とともに、「名探偵」時代の終焉ということではないのだろうか。この時期、既に「名探偵」という言葉は死語に近かったとは思うが、それにとどめを刺そうとしたのではないかとも思えてくる。そんな‘隠れたコンセプト’はこの後の作品にも続いている。

『名探偵なんか怖くない』が好評だった西村京太郎は続編を書いた。それが『名探偵が多すぎる』(昭和47年)『名探偵も楽じゃない』(昭和48年)『名探偵に乾杯』(昭和51年)である。

『名探偵が多すぎる』では明智がクイーン、ポワロ、メグレ夫妻を日本の観光旅行に招待する。旅行中の客船の中で、アルセーヌ・ルパンからの挑戦状が届く。そして客船の中で密室殺人事件が起こり、名探偵たちがその謎を解くという設定である。
 ルパンの挑戦状の後に殺人というショッキングな事件が起き、ルパン像から離れたことをしまったのではないか。また、名探偵と怪盗との勝負にどう決着をつけるのか、と読者を冷や冷やさせるが、そこはテクニシャン西村京太郎、それぞれの名探偵・怪盗のファンを裏切ることなく、かつ、鮮やかなエンディングを用意している。
 ここで描かれるのは、名探偵よりもむしろルパンが自分で定めたルールにジレンマする姿である。

『名探偵も楽じゃない』ではミステリーマニア9人の組織の例会が会長の経営するホテルで開かれ、そこに特別ゲストとしてクイーン、ポワロ、メグレ、明智が招待される。そこへ名探偵と自称する青年が乱入し、殺人が起きると予言。そして連続殺人事件が起き、マニアたちが次々に殺されていく。
 ここでは4人の名探偵は表に出ず、名探偵と自称する青年を見守る立場になっている。そして最後に助言するという形を取っている。名探偵たちは、自分たちの後に続く探偵が、いずれも小粒か妙に小市民的なことに嫌気がさしている。そして最後に書かれるエンディングでは、そんな台詞に対する皮肉ともいえよう。
 ただ本作品では、次々と一般市民が殺されていっているのに、それに対して何も行動を起こそうとせず、傍観者として描かれている名探偵の姿には疑問を感じる。

『名探偵に乾杯』には<今は亡きエルキュール・ポアロに捧ぐ>の献辞がつけられている。ポワロが亡くなったことに対する追悼の意味で明智はクイーン、メグレ、そしてヘイスティングスを、所有する孤島に招待する。その準備ということで、未だに助手をやっている小林芳雄および娘もその孤島に行く。そこへ現れたのはポワロ二世を名乗る青年。本物か偽物かと騒ぐうちに、名探偵の集結を聞きつけた新聞記者やボートに乗っているカップル、作家などが島に流れ着く。そして殺人事件が起き、ポワロ二世を名乗る青年は謎を解こうとするが‥‥。
 リンゴのようなほっぺを持つ少年だった小林芳雄がここでは腹の出ている中年として描かれていることにはちょっと疑問を持つのだが(これも作者の皮肉と言える)、ポワロ二世という存在をうまく使った完結編にふさわしい作品に仕上がっている。しかしポワロ二世の使われ方そのものに、名探偵という存在の無情さが浮かび上がってきているのは作者の狙いだろう。また、ここで登場している作家は、ある意味では作者自身をさしているとも思える。
 本作品以後、パロディシリーズは書かれていない。やはり、名探偵の代名詞ともいえるポワロが死んだことにより、西村京太郎も筆を置くことにしたものと思える。

 この名探偵パロディ4部作は“遊び”の精神と本格の楽しさに満ちた傑作として挙げられることが多い。もちろん、その評は間違いではない。しかし、その裏に隠されたメッセージにも我々は注意する必要がある。名探偵の時代は終わりなのかどうか? このシリーズは、名探偵の存在を渇望する者へ対する、西村京太郎なりの「名探偵終結宣言」ではなかったのだろうか。

 しかし一方、雑誌「幻影城」では亜愛一郎が誕生しており、数年後には御手洗潔が彗星のごとくデビューする。さらに数年後、新本格ブームが生まれ、様々な名探偵が産み出されることになる。このブームを見て、西村京太郎はどう思っているのだろうか。どうせだったら、御手洗や島田潔、京極堂や法月などの共演を読んでみたいと思うのでは私だけではあるまい。いっそのこと、西村京太郎にお願いしてみようか。

[UP]


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