謎宮会 1997/10

『D機関情報』について

ばけこ

 『D機関情報』はスパイ小説である。

 そしてこれは第一級のスパイ小説として高く評価されていた作品である。どう、知ってた?

 ベストセラー作家だからって馬鹿にして、それで一作も読んでないのに読んだふりして馬鹿にしてる人って多いみたいだけど、それって間違ってると思うよ。読んでから馬鹿にすりゃいい。例えば内田康夫。読まないで馬鹿にしてる人多いけど、そして馬鹿にしていい作品もいっぱいあるけど、内田のデビュー作『死者の木霊』も試しに読んでみてごらん。この作品、鮎川哲也が読んで土屋隆夫に薦めた本なんだよ。そう言えば手に取ってみたくなるでしょう? 地味だけどね、面白いよ割と。

 西村京太郎だって、昔からどれもこれも同じようなトラベル・ミステリーばかり書いてた訳じゃない。昔は推理小説界の若き騎手と呼ばれていた時期だってあったのだ。そしてその時期に書かれたものは、今読んでも結構面白いんだな、これが。

 この『D機関情報』は、西村京太郎が『天使の傷痕』で江戸川乱歩賞を受賞した後に書いた受賞第一作目の長編。それだけに力入れて書いたんだろうけど、どこにも力みが無くて読みやすい。

 やっぱりこうじゃないとね。

 スパイ小説ってほら、ホントに読んでもらおうとして書いてるのあんた? って作者に聞いてみたくなるほど小難しく書いてあるの多いでしょ。そう思わない? なんか読んでてさ、「俺って頭いいだろう、どうだねえちゃん?」って作者が言っているのが聞こえてくるような気がする。何とかなんないかね、あれ。

 他にもさ、まるで「一生懸命資料調べしたってこと、分かって分かって」ってお願いしてるみたいに当時の時代背景ばかり書き込む作家もいるでしょう。あれもうざったいんだよね。そんなもの知りたかったらノンフィクション読むっつーの。お前、その時代考証取ったらこの作品長さ半分くらいにならないか?って苛々する。それでもお付き合いして時代考証読んでたら、それはほとんどお話とは関係ありませんでした、ってのも多いでしょ? 馬鹿にするなってのね。

 でもね、その点西村は大丈夫。日本語が読めりゃ誰でも理解できる分かりやすいストーリー。それでいてけっこうややこしい展開用意してるし、山場だってちゃんと張ってある。時代背景の説明もうるさくなくて、自然と頭に入ってくるようになっている。西村は平易な言葉でストーリーを語れる得難い話術の持ち主だったんだよ。昔はね。

 時は第二次世界大戦がもうすぐ終わるかな、ってあたり。主人公の関谷中佐は無骨って言ってもいいくらいの生真面目な軍人。ある日スイスに行ってくれって上官に言われて、はいそうですかとトランク持ってスイスに向かう。水銀を買い付けてきて欲しいからって、黄金持たされるのね。ほら、スイスって中立国でしょう。だから、軍事関係のお買い物はスイスでしかできなかったわけ。それでスイスに行ってみたら、スイスで会えるはずだった昔の友人が事故死していることが分かる。いったいどうして、なんて困惑しているうちに、怪しいドイツ人やらソ連のスパイやらに出くわして、どっちが味方かそれともどちらも敵なのか全然分からなくて、黄金入ったトランク盗まれて、さらに途中で出会った女はDと言い残して事故死する。ああ、でも細かいところ忘れたな。でもたしかこんな内容。この後関谷は「Dってなに?」という謎を追うことになるんだけど、まあ題名で既にD機関って言ってるからね、これは最初から分かっているようなもの。Dとはある機関の名前です。じゃあ何の機関? それは読んでのお楽しみ。

 この作品は実際にあった「たったひとりの終戦工作」をモデルに使った長編。でも、いかにもモデル小説っていう厭味はなくて、西村はきちんと素材を自分の中に取り込んで、西村自身の物語を作り上げている。いいぞいいぞ。

 主人公の関谷は、只の一軍人から、やがて「たったひとりの終戦工作」に携わることになる。でも最初は無骨な軍人だからね、「上の命令に従うことこそが軍人の本分だ」ってそれしか考えてないんだけど、次第に「本当にそうだろうか」って思い始めて、「日本の行く末を守ることこそ自分のやるべきことではないか」という結論にたどりつく。でも終盤では「自分のやろうとしていることはやはり軍人として間違っていなかったのだろうか」なんて自分の正否を気にしてる。やっぱり無骨なんだよね、この人。簡単に宗旨変えができない。でも、そこがいいんだな。納得できる。そしてまた、ラストがいい。静かな哀しみを湛えたラストって言うのかな、そんな感じ。余韻がとてもいいんです。日本軍上層部の愚かさと情報分析の甘さが、当時の資料を並べ立てるよりもはるかに分かりやすく納得できるし、考えさせられる。西村京太郎ってヒューマニストだなって思わせるラスト。深いです。

 でもまあ、評論家の北上次郎氏が、こんな駄文よりもずっと真摯に力のこもった解説を書いているから、ぜひ実物にあたってみてください。こんな見事な解説書かれちゃ、あとは書くことなんて殆ど何も残っていないよな。参ったね。

 最後にこの作品、「アナザーウェイ」という題名で映画化されていることを付け加えておきます。ただし私は見ていない。出演は役所広司、いしだあゆみ(何の役だったんだ?)、高橋英樹、芦田伸介、仲代達矢となかなか豪華なキャストだったんだけど、話題になっていないから、あまり出来は良くなかったのかも。でも、少なくとも原作は渋い佳作だから、興味があったら読んでみて。

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