謎宮会 1999/ 6

葉山　響

　えーと、何も書くことが無いな（笑）。それではさっさと始めてしまいましょう。

No.312　『撃つ薔薇　AD2023涼子』大沢在昌（光文社）

　近未来を舞台に、女刑事が過酷な潜入捜査を展開するストーリー。面白いことは面白い。しかし娯楽性が強過ぎて、あざとく感じられてしまうのが不満と言える（変な言い方だが、「単に面白いだけ」という印象を受けてしまう）。但し断っておくが、娯楽性が強過ぎるからといって僕は大沢の娯楽巨篇『天使の牙』まで否定するつもりは全く無い。『天使の牙』は超弩級の娯楽作品であり、それ以外の何物でもない作品だったが、設定が非常に斬新で（脳移植を上手く利用していた）、しかも設定から生み出される主人公二人の戸惑いと愛情表現が、作品に素晴らしい膨らみを与えていたと思う。
　が、この作品にそういった目新しさや膨らみは感じられない。また麻薬、また組織、また一匹狼というプロットは正直言って飽きてしまったし、今まで大沢作品をかなり沢山読んできたためか、「この男は殺されて、この男はああなって」と展開や結末が容易に推測できてしまうのも痛い（但し、今まで大沢作品を殆ど読んだことがない人はかなり楽しめるのではないかと思う）。ラストで明かされる趣向も余計であるように感じられた。この作品においては成程楽しい趣向かも知れないが、この趣向は“あのシリーズ”にとっては荒唐無稽なマイナスのイメージを与えるだけ、と感じてしまうのは僕だけだろうか。しかも出版社との打合せが上手く進まなかったのか、本に挟んである続編ゲームの宣伝チラシを先に見てしまうと、最後に明かされる筈だったその趣向がバレバレになってしまうのだ（因みに僕は書店で手にとった時点でこのチラシを見てしまい、読む前から「ああ、そういう趣向なのか」と判ってしまった。それで興味を持って読んだとも言えるのだが）。
　但し、流石に大沢在昌だけあって主人公の女性の存在感、および行動描写の歯切れの良さは見事なもの。だからつまらないという訳では決してない。しかし、『新宿鮫』以来どうもこの作者はハードボイルド作家というより劇画作家になってしまったような気がするので、敢えて辛口なことを書いてみました。あと個人的不満をひとつ。『アルバイト探偵』シリーズはもう書いてくれないのだろうか？

No.313　『法月綸太郎の新冒険』法月綸太郎（講談社ノベルス）

　程良く練り込まれた本格ミステリ五篇を収録した充実の作品集。ネタの活かし方が実に巧みで、文句の無い出来栄えとなっている。巻頭の「背信の交点」は矢鱈と登場する流行り物（執筆当時）の記述が煩わしかったが、プロットはすっきりと整理されていて好感が持てた。こういった真相は一歩間違うと都合の良いものに見えてしまいがちだが、それを都合良いものと感じさせない点が上手い。二篇目「世界の神秘を解く男」は、トリックの解明だけに絞った展開ならば多少物足りない感を受けただろうが、二段構えの推理構成にすることで読み応えのある本格短編に仕上げている。展開に動きが感じられる（起伏がある）点も秀逸。三篇目「身投げ女のブルース」は意外な真相に驚かされた作品で、大胆なトリックが見事に決まっているが、但し単にトリックの発想だけで成り立っている作品ではなく、巧妙な設定・展開がトリックの意外性を最大限に引き立てていることを見逃してはならないと思う。四篇目「現場から生中継」も展開に工夫が凝らされた秀作。加えて、推理を打ち立てては崩していくことで事件の難解性をアピールする手際が鮮やかだった。巻末「リターン・ザ・ギフト」の真相は集中最も簡単に見抜けるものだが、「何故（四文字自主規制）殺人などという面倒な計画を立てたのか」という点にまでしっかり気の利いた解答を用意する辺り（しかもそれを最後の一行で指摘して終わるところが本格短編として実にカッコいい！）、隙の無い作りを感じさせて非常に爽快。これほど虚心坦懐に楽しめた本格ミステリの作品集は久しぶりで、「最早評論しか書けない作家」という悪評を実作で見事に撥ね除けた法月に拍手。本格ミステリの魅力を熟知した作者だからこそ書けた作品集という印象を受け、予告されている長編『生首に聞いてみろ』の完成が実に楽しみになりました。間違いなく今年の収穫の一つ。

No.314　『よもつひらさか』今邑彩（集英社）

　ホラー＋ミステリ短編合わせて十二篇を収めた佳作揃いの作品集。正直言って個々の短編のネタ（真相）はどれもそれほど意外性に優れている訳ではないが、途中で真相に見当がついても支障無く楽しめる辺り、短編の名手だけあって流石に上手い。特に最近書かれた作品は「ネタが判るからつまらない」などと言わせないほど描写と展開の緊密さに富んでおり、中でも表題作「よもつひらさか」と「遠い窓」は短編として実に上質な仕上がりを見せている。長編『「裏窓」殺人事件』の設定を再び使用した「遠い窓」は一瞬「過去作品の焼直しか」と思わせたが、小説的完成度とネタの活かし方において『「裏窓」殺人事件』を軽く凌駕する出来で、短編ミステリとしての完成度は勿論、『「裏窓」』との比較の意味でも集中最も感銘を受けた。「よもつひらさか」は「大体こうなるだろうなあ」と容易に結末に見当が付くものの、結末までの経過を粘り強い文章でじっくりと書き込んでいって印象に残る作品に仕上げている。初期作品の中では「ささやく鏡」が、（矢張りネタ的には意外性に欠けるものの）幕切れの鋭さが見事な佳品。「見知らぬあなた」も結末の提出の仕方が巧みで、上手い短編というものは必ずしもネタの魅力が全てではなく、小説的な技術があってこそ生まれるものなのだと実感させてくれる。「時を重ねて」は「今邑彩はこういうタッチのものも書けるのか」と新鮮に感じられたし、「夢の中へ……」は悲しげな余韻が心に残り、「双頭の影」は導入部の不思議な雰囲気と語り口の上手さが印象的だった。ネットストーカー被害を扱った「穴二つ」は集中最も意外性の高い秀作で、主人公の計画を最後のメールで一気に瓦解させる手際が鮮やか。「家に着くまで」は中盤の面白さに比べると着地はやや腰砕けの感があるが、普通は真相として結末に持ってくるようなネタを中盤で次々披露していくところが読んでいてワクワクさせられた。「ハーフ・アンド・ハーフ」のように、もう少し真相を隠して書いたほうが良かったのではないかと感じられる短編もあるものの、大半がレベルの高い作品なので、読んで損の無い作品集だと思います。

No.315　『放浪探偵と七つの殺人』歌野晶午（講談社ノベルス） →　井戸端ミステリ会議へ

　名探偵・信濃譲二の推理譚七篇を収録したシリーズ作品集。小説的な肉付けが上手いので読み易く、無理めなロジックの作品も幾つか収録されてはいるものの、楽しい仕上がりの作品群だと言えるだろう。しかし、全編を問題篇と解答篇に分けた構成に対しては僕は批判的な立場をとる。例えば冒頭の「ドア⇔ドア」だが、これは「謎解きです」と大見栄を切って提出するような作品だとは思えない。雑誌で読んだ時は小味でちょっと気の利いた倒叙短編として楽しんだのだが、この構成のために今回は小味な面白さが消滅してしまい残念に感じられた。推理作家協会賞候補に挙がった「水難の夜」も無理矢理途中で分断して推理クイズに仕立てたという感じで、本来の面白さを殺してしまった憾みがある。「幽霊病棟」もトリックだけを抜き出すとバレバレな話なので（このトリックは森村『新幹線殺人事件』でも使われていた）、流れに乗って一気に読まないと面白くない話だろう。矢張りこれは、ストーリー展開を楽しみながら読むべき作品だと思うのだ。この作品集に収録された作品は殆ど雑誌掲載時に読んでいたが、正直言って雑誌で読んだ時のほうが面白かった（今回は二度目だから印象が弱いのだろう、と言われるかも知れないが、その理由によるものではない）。問題篇と解答篇に分けたことで折角のストーリーの流れが分断されてしまい、面白味が半減してしまっている。但し唯一「有罪としての不在」は分割する明確な理由が感じられ、この作品における試みは非常に興味深かった。その試みを作品化するにあたっての手法には疑問の点もあるのだが、取り敢えずは集中最高の意欲作と評価しておきたいと思う。
　結論：最初からゲーム・ミステリを目論んで書いた訳ではない作品をゲーム・ミステリとして提出するのは無理があったと思う。普通の短編集の形で読みたかった。

※　上記の文章は本作が井戸端のお題になる前に既に書いていたものです。破棄するのは忍びないのでそのまま残しておきました。

No.316　『名探偵の肖像』二階堂黎人（講談社ノベルス）→　井戸端ミステリ会議へ

No.317　『蜜の味』Ｈ・Ｆ・ハード（ハヤカワ・ミステリ文庫）

　シャーロック・ホームズの代表的な贋作。とはいえ謎解き的な趣向は殆ど無く、主軸は飽くまで探偵と悪の火花散る闘争にある。長編なのだが主要登場人物はなんと悪の権化ヒアグローブと語り手の隠遁者、そしてマイクロフトと名乗る老人（＝老境のホームズ）の三人しかいない。おまけに謎解きやドンデン返しの余地が無い設定なので、これでどうやったら長編になるのかと思ったが、破綻せずきちんと長編になっているから不思議なものである。この作品、イメージ的には渋い教養を湛えた如何にも英国らしい作品なのだが、よく考えてみると中身はヒアグローブとマイクロフトが殺人蜂をけしかけ合うというトンデモないもの。これまでずっと「『蜜の味』は真面目なパスティーシュ作品」だと思っていたが、実際に読んでみるとそれは単に外面だけで、中身は案外パロディ精神に富んでいた。結末も、老境のホームズの悲哀というよりはホームズをからかっているようにしか見えず、そうかこれはパスティーシュではなくパロディだったのだな、と今更ながら確認した次第。ホームズに愛着の無い人には退屈な作品かも知れないが、ホームズ・パロディとしては群を抜いた完成度だし、田園生活の雰囲気もしっかり描き込まれているから、イギリスの小説が好きな人なら割と楽しめるだろう。僕は楽しく読みました。

No.318　『月夜の晩に火事がいて』芦原すなお（マガジンハウス）

　ミステリとして評価するならもっと整理してキビキビと書けなかったものかと思ってしまうし、長さの割には事件に左程奥行きがなく、作者が頑張って書いていることは充分に判るのだが、ミステリ的には残念ながらいろいろ問題ある作品だと思う。巻末における探偵役の推理も直観的で根拠が薄弱に思えるし、伏線的なものも少ない。――だが、一つの作品としては予想以上に面白かった。例えば厳格にミステリ的評価を行えば、刑事との対話や聞き込み捜査の場面などはもっとテキパキと書けなかったものかと思ってしまうのだが、しかし会話文があまりに上手いので全く退屈しないのだ。特に第九章で描かれる探偵と家政婦イミコさんの対話は爆笑の連続であり、芝居の台詞や江戸の日常会話、果ては短歌の技法まで駆使して綴られてゆくイミコさんのピントのずれまくった会話には笑いを通り越して感服させられてしまった。田舎の雰囲気も実に良く描けているし（岡山辺りが舞台なので横溝作品と仄かに共通する雰囲気を持つ）、キャラクターの造形も上手い（田舎特有のあけすけでおおらかなエロティックさが良く出ている）。更に、会話文の上手さと共に印象的なのは、明るい作品世界の中に時折幻想的な場面を差し込む筆力。主人公は事故死した妻と電話で会話したり、幻覚を見たりするのだが（要するに精神が多少不安定）、周りが明るい雰囲気なだけに主人公がそういった幻覚に突然引き込まれると、すっと気温が低くなったような気分にさせられる。筆力が無ければできない芸当だろう。流石は直木賞作家、ミステリの部分に問題があっても楽しませてくれた。ミステリとしては失敗作だろうが、しかしミステリの部分が上手くないからといってこの作品が酷評されるのは納得出来ないような気もする。お薦めはできませんが、得難い作風の持ち主だと思うので、この作者にはこれからもミステリを書き続けて欲しいと思います（連作ミステリ『嫁洗い池』の続きも楽しみ）。

No.319　『偏執の芳香』牧野修（アスペクト）→　井戸端ミステリ会議へ

No.320　『誘拐迷路』山本甲士（実業之日本社ジョイ・ノベルズ）

　前作『騙り屋』のような構成上の疑問が無く、前作と比べると格段に面白い。ラストの展開がやや唐突に感じられる憾みはあるのだが、全体を通して展開は滑らかだし、キャラクターの造形力も優れたものを持っている。特に第一部の語り手である少年が印象に残るし、爽やかな読後感を残そうとする努力にも好感が持てた。矢張りこの作者は僕にとって注目すべき作家と言えるだろう。だから本来ならば賞賛して良い筈なのだが、実は残念ながら今回も賞賛はできない。本篇の最も重要な核となるトリックが、夏樹静子の代表作で既に使用されているものなのだ。あまりにも印象的なトリックだったために、後続の作品で同じトリックを使ってしまうと早い時点で簡単に見抜けてしまうし、焼直しができない程に夏樹静子が見事な形でそのトリックを使ってしまっているから、このトリックを誘拐に絡めて使うのは最早禁じ手のようなものだと言えるかも知れない（夏樹の後で黒川博行が同一のトリックで長編を書いているが、それは誘拐と切り離して別の様式で使っていたから認められる。今回この作品を称賛できないのは、単にトリックが夏樹作品と同じだからという訳ではなくて、トリックの使い方までもが夏樹作品と殆ど同一のものだからだ。以上の点、誤解の無いように強調しておきたい）。おそらく山本甲士はこのトリックに先例があるとは知らなかったんだろうなあ……知っていて使ったのなら問題だか、そうでないことを願いたい（編集者もこれくらい気づかなければ）。という訳で残念なことに積極的な評価はできないが、しかし小説部分の上手さは買いたいし、ミステリの部分をもう少し充実させてくれると必ずやこの人は良いものを仕上げられると思うから、引き続き僕はこの作家の新作を楽しみに待ちたいと思います。

No.321　『血食　系図屋奔走セリ』物集高音（講談社ノベルス）

　昭和三年、三田魚籃坂で系図屋を営む名探偵・忌部は家系調査の依頼を受けて助手の物集と旅立つが、その途中で思いがけず一家皆殺しの惨状を発見する。家系と事件の真相を追う忌部たちの前に現れたのは、不平等条約の弊害として歴史に名高いノルマントン号事件の謎と、寒村で起きた惨劇だった――
　まず先に断っておくが、本作は本格ミステリではないので未読の方は見当違いの期待を抱えて読まないほうが良いだろう。探偵役・忌部は系図屋としての専門知識（土地と姓の関係、家紋など）を駆使して謎解きを進めるため、読者が推理に参加することは難しいだろうが、もともと本格ミステリを強く意識して書かれた作品とは思えないし、“系図屋”として創造されたキャラクターなので探偵の個性はこの展開で充分に発揮されていると言える（つまり、きちんと探偵の個性を活かした展開になっている）。この作品がミステリであることを意識してか、取り敢えず意外な真相も用意されていて（意外な真相を用意するなら犯人指摘などの伏線はもう少し張っておくべきだとも思ったが）楽しく読み終えることが出来た。探偵役が案外好人物である点にも好感が持てるし、最初は騒がしく思えた文章も慣れてみると非常に読み易い（但し冒頭の言い回しには疑問を感じるが）。そして何より評価したいのは、全編を通して作者の歴史に対する愛情が強く感じられることだ。参考文献の量も凄まじく、時代ミステリを書きたいのかファンタジーを書きたいのかよく判らない困った作品が多い昨今、この作者の姿勢は実に頼もしい。現実の事件（ノルマントン号事件／1886年）を土台にして虚構を構築する手際もデビュー作とは思えないほど手慣れたもので、昭和初期という時代を復元させるための細かなディテールの書き込みも好感度高く、この作者、久しぶりに現れた時代ミステリの新鋭と評価して良いのではないか。次の作品はどういった内容になるのか楽しみです。

No.322　『死の影』倉阪鬼一郎（廣済堂文庫）

　恐らくは最も一般受けし易いだろう倉阪作品。マニアックな知識を鏤めつつ通好みの展開を辿る、という印象がこれまでの倉阪作品にはあったので（それが悪いと言っている訳ではなく、個人的な好みではむしろそちらのほうが断然好みなのだが）、この作者が読み易く誰でも簡単に手に取れそうな長編を書いた、ということがとても新鮮に感じられた。本作は小池真理子の『墓地を見下ろす家』に触発されて書かれた（らしい）マンションを舞台としたホラーで（他にマンションが舞台のホラーでは赤川次郎の短編「家主」が印象に残っている――って最近赤川作品ばかり引き合いに出してますね僕）、前半の流れはややもどかしい感があるものの、加速を付けて崩壊へ突き進んでゆく後半三分の一はスピーディーで読み応えがあった。ミステリ的な趣向もホラーの装飾としては問題無し（これをもっと「謎」「仕掛け」として押し出していたら不満を感じたかも知れないが、飽くまで装飾のレベルに抑えられているから文句は言わない）。
　但し不満を二つ挙げると、まず第一点、例えば 152頁の「人類に代わって地球を支配するんですよ」という「あまりと言えばあまりにも」な台詞だが、笑って良いのかどうかよく判らない。いや、ここまでベタな台詞なのだから恐らく笑って良いと思うのだが、少なくとも僕は別に此処で笑いたくはなかったので違和感を感じた。本書の中にはこういう「笑って良いのかどうか戸惑う箇所」が散見され、その辺りの狙いは必ずしも上手く行っていないという印象。第二点、マンションと新興宗教と洗脳とサイコな殺人鬼という比較的現実味のある（？）設定・展開なのだから、双頭の蛇や大蜘蛛（のような虫）というダーク・ファンタジー的なアイテムまで加えるのは如何なものだろうか。とはいえ天井の顔は全然ＯＫだと思うから、その辺りの線引きはなかなか難しいが（もしかすると結局は個人的な好みに収斂されてしまうのかも）、しかし大蜘蛛などはちょっと荒唐無稽な印象を受け、存在が浮いてしまっているように感じられた。ホラーもまたエンタテインメントなのだからエンタテインメントに徹するのは何ら悪いことではないが、この辺りは一般受けの要素を意識し過ぎているような憾みがある。――とはいえ『死の影』の方向性は戦略的に間違っていないと思うし、場面の演出力などどんどん上手くなっている。読後の印象も良く、好感の持てる作品だった。次回作にも期待。
　ところで 133頁の歌詞は中島みゆき「子守歌」のパロディなのだろうか？

No.323　『「黒い箱」の館』本岡類（光文社カッパ・ノベルス）

　『奥羽路　七冠王の殺人』『花の罠』に続く将棋棋士・水無瀬翔五段シリーズ第三弾。このシリーズは今回初めて読んだのだが、同じ作家が書いているにも関わらず、一連の社会派サスペンスの出来と本作のような本格ミステリの出来との間に何故こんなにも激しい落差が生じてしまうのだろう？　本格ミステリを目論んで書かれた本書の出来は、『鎖された旅券』『羊ゲーム』『神の柩』などの社会派サスペンスの完成度とは正直言って雲泥の差がある。深みが無く、本格ミステリとしても味気無く、そして最近これほど頼りない印象の探偵役も珍しい。三月に『神の柩』を扱った時、「たまには本岡さん本格にも戻ってきてください」と書いたけれども、あれは「今この人が自分のフィールドで本格ミステリを書けば、新本格作家には書き得ないタイプの本格が生まれる」のではないかと思ったからで、つまり僕は社会派サスペンスの複雑な構成の中に本格ミステリの手法（伏線やロジック）を持ち込んだ作品を執筆して欲しいと思ったのだ。こういった「如何にも本格」という舞台設定の作品をもう一度書いて欲しいと期待した訳ではない。但し、文体が非常に軽く書かれているから、たぶんこれは真剣に本格ミステリに取り組んだ作品という訳ではなく、短時間ですらすら読める軽ミステリを狙ったものなのだろう。その意味では目的はある程度達せられているのかも知れないが、しかし……実力のある人がこんな作品でお茶を濁してはいけない。次こそ気合の入った作品を期待したい。

No.324　『血ぬられた法王一族』桐生操（福武文庫）

　あの桐生操がレオナルド・ダ・ヴィンチを探偵役にした時代ミステリを執筆していたことをつい最近まで知らなかったので、書店に行った時に早速購入して読んでみた。で、ミステリとしては一応犯人の設定に意外性を持たせようとしているし、更にこの本で歴史の勉強もできたから読んで損をしたという印象は受けなかった。しかし視点が気儘に変わる点、そして時制が整理されずに次々に移り変わる点が非常に煩わしく感じられる。説明的な会話文（主に歴史的背景の説明が目的）が散見されるのも気になり、少なくとも小説は上手くないという印象。文章は非常に読み易いので、現在桐生操が小説ではなく歴史ノンフィクションを執筆のメインに据えているのは正解だと思う。
　ひとつ疑問を。「運命に逆らえと？　わたしは弱い女にすぎませぬ。ただ父上と兄上の敷かれたレールの上を、言われるままに歩んでいくだけ」という会話文が 183頁にあるが、この時代にレールって存在したのだろうか？

No.325　『消えた十二支の謎』東野司（ハヤカワ文庫ＪＡ）

　電脳冒険ＳＦ《ミルキーピア物語》第六弾。とはいえこのシリーズを読むのはこれが初めてで、『幻想文学５５』に掲載された幻想ミステリ・ブックガイドを読むまでは作者の名前さえ知らなかった。いつもはこのシリーズ、ミステリ的な展開など全くしないらしいのだが、本作はミステリ的な面白さを狙って「密室からの消失」を扱った異色作となっている。前述のブックガイドによれば「惜しむらくは、このシリーズが出た当時は、ＷＷＷはまったく一般的ではなかった。つまり、一般人にはどんな状況で事件が展開しているのか具体的に把握できないので、密室もなにも、謎解きに参加する余地が無かっただろうと思われる」（以上、石堂藍氏の文章）ということなのだが、確かに現在読んでもやや謎解きとしては状況が判りにくい箇所があるのに、ＷＷＷが一般的ではなかった当時に読んだら何が何やらさっぱり把握できなかっただろう。今回古本屋で見つけて読んでみて、この作品の噂をミステリファンの口から全く聞いたことが無い理由がよく判った。が、今ならこの僕でも楽しんで読めたので、広範な読者に受け入れられるだろうと思われる。謎解きのミステリとしては多少不親切に思える箇所もあるのだが、電脳ＳＦの世界にあまりにも古典的なトリックをぶち込んでいるのには笑えた（馬鹿にしている訳では無く、素直に愉快だったと言う意味）。密室状況の「電脳占い倶楽部」から十二支が一瞬にして消失し、その後すぐに密室状況の中で首を切られた電脳羊が忽然と部屋の中に現れる。この事件は四十年前に起こった密室データ消去事件と関係があるらしく……という内容で、本当にミステリファンにも楽しめるような結末を付けてくれるのか、と多少眉に唾をつけつつ読み進めたのだが、前述の通り実に古典的なトリックを使ってミステリファンにも納得の行く結末を付けてくれたので好感が持てた。軽い文章が最初のうちは取っ付きにくかったのだが慣れると読み易くなるし、キャラ的にも割と愉快だったので、ミステリ的展開を辿らなくても古本屋で見かけたら他のシリーズ作品も読んでみるかも知れない。取り敢えずこの作品、案外しっかりした出来だったので、珍品好きの方はどうぞ。

No.326　『ＭＩＳＳＩＮＧ』本田好孝（双葉社）

　二十三歳で小説推理新人賞を受賞した本田好孝の初の単行本。受賞作「眠りの海」以来、一年に一作という悠々たるペースで書き継がれた短編五篇が収録されている。
　作者には失礼ながら正直言ってそんなに期待していなかったのだが、これがなかなか雰囲気が良い。しかも徐々に上手くなっている（つまりは受賞作が一番下手だということで、これは近年の新人賞作家では珍しいことだと思う）。ミステリ味は非常に薄く、小説的側面が上手くなるに連れて更にミステリ味は薄くなってゆくが（四篇目の「瑠璃」は最早広義のミステリとも呼びにくい）、かなり文章に気をつかって書いていることが窺われるし、会話文にも洒落た味わいを持たせていて、全体的に斉藤純や初期の村上春樹（それは言い過ぎかも）を思わせる雰囲気がある。どちらかと言えばやや甘めなタッチの作品群なのだが、それが心地好く、手触りの良い小説を楽しんだという印象。まだまだ弱点は指摘できるが、先物買いをしたい人はチェックしておいたほうが良いかも知れない。
　個々の短編について触れておくと、「眠りの海」は全体的に平板な印象を受けるが、聞き役となる少年の造形に光るものがあり、これを受賞作に選んだ選考委員は炯眼だったと思う。二篇目「祈灯」は話を作り込もうとしてややゴテゴテしてしまった印象を受けるが、三篇目「蝉の証」は滑らかな展開で、印象に残る場面も多く（特に印象に残るのは矢張りラストか）、作家的成長を遂げたことを窺わせる。四篇目「瑠璃」は何といってもヒロインの造形が印象に残り、そして五篇目「彼の棲む場所」は心の中に巣くってしまったやり場の無い悪意を描いた佳品。この作品はほんの少し他の作品とトーンが違い、ストレートな青春小説から作者が少しずつ脱却しつつあるのかな、という印象を受けた。作家としては少しずつ骨太になっている訳で、この作者が次に何を書くのか楽しみになる。ミステリ的に期待できる作家ではないと思うが、次回作が出たら読むだろう。早めに次回作を書いて貰いたい。

No.327　『ペンギンは知っていた』スチュアート・パーマー（新樹社）

　長らく翻訳が待望されていた女教師ヒルデガード・ウィザーズの第一長編。ヒルディーの登場作品は短編なら既に二十以上の翻訳があるが（作品集の刊行を望む！）、長編が翻訳されるのはこれが初めてのことになる。名高いヒルディーの初長編ということで大いに期待したのだが、実際に読むと正直言って「うーむ、期待は大き過ぎたか」という印象。本格ミステリとしては左程論理構造が美しくなく、犯人の見当も付け易い。犯人指摘の場面も、大詰めのところで犯人が調子に乗り過ぎてボロを出したのをヒルディーが指摘して解決する、といった具合なので「そうか、そんなところに伏線が！」といった快感は無かった。但し、それでも矢張りヒルディーの活躍が長編で読めたという喜びは何物にも替え難く、この先もどんどん長編を翻訳して貰いたいと思う（あと、マローン弁護士とヒルディーが競演した六短編を創元は刊行しないのだろうか？）。シーンは僅かしか無いが、ヒルディーと生徒たちの遣り取りも楽しく、だから個人的には彼女が教鞭を取る学校で殺人事件が起きるという内容の第三作“Murder on the Brackboard" を是非翻訳して欲しい。勿論、森英俊氏が「とりわけ秀逸」と推奨している“The Puzzle of the Happy Hooligan" も是非読みたい。翻訳が途切れずに刊行されることを願っています。

No.328　『マザー・グースは殺人鵞鳥』山口雅也（原書房）

　ちょっと残念な本。マザー・グースとマザー・グース・ミステリに関する原稿で統一された本だろうと喜んで手に取ったら、後半三分の二はマザー・グースとは全く関係の無い過去のコラムを纏めたものだった。で、まずは本題のマザー・グースに関する記述が続く第一部だが、これは《ＥＱ》連載時に目を通していた当方としては、ひらいたかこ氏の手による見事なイラストと共に読まないとエッセイの魅力も半減してしまうような気がして、やや物足りない感が残る。が、縦横無尽にマザー・グース・ミステリの魅力を語った箇所は、流石に筆者の気迫と愛情が伝わってきて読み応えがあった。第二部は《ＨＭＭ》に連載された、ミステリの登場人物をひとりずつ抜き出して紹介する短いコラムだが、あまりに短すぎるので作品の魅力までを伝えるには至らず（但し、これはそういう方針のコラムではないのだから筆者の責任ではない。読者である僕がこういった登場人物紹介コラムにあまり面白味を感じないというだけのことなのだが）、矢張りこういったコラムは取り上げた作品が新刊として刊行された時に読むのが最も適していると感じられた。なお、取り上げられた作品にはカバー写真と出版社名が付記されているが、たぶん雑誌連載時の情報をそのまま載せただけなので、各作品の出版社や刊行形態は現在では殆ど変わってしまっている。編集部のほうで追跡しなかったのだろうか？　第三部はミステリの住宅事情のいわば「部屋」編で、新保博久の『推理百貨店　別館』でも「館」編が行われていたが、取り上げた屋敷の挿絵が付けられていた（『黒死館』まで！）新保コラムのほうが見た目にも楽しかった印象。クイーンの部屋のように全編に見取り図がついていたらこちらの方が上だったかも。
　このコラム集、全体的に物足りないという印象を残した。軽い手触りを狙ったのだろうが、山口雅也が本気で編集したらこれ以上の出来栄えになるのは火を見るよりも明らかなので、本腰を入れたミステリ解読書もそろそろ読みたいと思います。

No.329　『バスカビルの魔物』坂田靖子（早川書房）

　《ミステリマガジン》に隔月連載されたミステリ・コミック、待望の単行本化。ミステリ・コミックといっても謎解きやサスペンスの面白さで読ませるものではなく、眼目はパロディやシチュエーション・コメディであるが、おそらく下手な謎解き物を読むよりずっとこちらのほうが楽しめるだろう。上品なセンスが全編を貫いていて（流石は傑作『バジル氏の優雅な生活』の作者）、心地好く楽しめる作品ばかり。更に、この単行本には明記されていないが、収録作品の大半は《ミステリマガジン》の特集内容に合わせて書かれたものなのだ（例えば「目覚め」は「特集：目覚めない悪夢」、「冬の猫」は「特集：猫たちのミステリ」といった具合）。与えられたテーマを如何に料理するか――というと最近では『異形コレクション』を思い出してしまうが、きちんとテーマに沿って独自の世界を造り上げる坂田靖子のセンスは素晴らしい。個人的には「イヴのゴースト」（この柔らかな優しさが素晴らしい）、「スパイ攻防戦」（ああ、それでオカマが前振りに使われていたのね）、「エルシノア城殺人事件」（ハムレットの爆笑パロディ）、「パートナー」（とてもよくできたコメディ）などに愛着がある。集中最もシリアスな「冬の猫」は若干意味が掴みにくい憾みはあるが、この雰囲気が捨て難く、もっとこういったタイプのミステリ・コミックにも挑戦して貰いたいと思った。単行本なので値段は高いが、お薦めのコミック集です。
　《ミステリマガジン》を読む楽しみの一つとなっていたこの連載コミック、隔月連載が終わってしまって寂しいが、是非とも再登場して貰いたい。お願いします。

No.330　『イベリアの雷鳴』逢坂剛（講談社）→　井戸端ミステリ会議へ

No.331　『夏と花火と私の死体』乙一（集英社ＪＵＭＰｊＢＯＯＫＳ）

　第六回ジャンプ小説・ＮＦ大賞受賞作で、執筆当時作者は十七歳。その割には達者な文章だし展開も非常に滑らかで、一般の小説と比較しても遜色が無く、十二分に読む価値がある。本書には受賞作である表題作と「優子」の二篇が収められていて、受賞作のほうが明らかに出来は優れているが、両方共に楽しめた。予想より遥にレベルが高い。
　「夏と花火と私の死体」は“邪気”を夏の気怠さと田舎の懐かしさに絡めて描いた印象的な一篇で、死体の一人称という設定が非常に面白いが、それだけが魅力の作品ではない。特筆しておきたいのは、語り手の憎しみや悲しみ（あって当然の筈）を敢えて一切描写せず、冷徹とも言える程の澄んだ視点で全体を描き切ったこと。これが作品に不思議な透明感を与えていて、実に巧妙な描き方だと思った。サスペンスの盛り上げも堂に入ったもので、ラストも綺麗に着地している。最近になって北村薫編『謎のギャラリー』に名品と肩を並べて収録されたが、確かに高く評価されて然るべき作品だろう。
　もう一つの作品「優子」は「夏と花火……」より完成度は落ちるものの、ミエミエの真相と見せかけて密かに別の陥穽を忍ばせているところなど好感が持てる。この時代を描くにはまだ多少文章が若いという印象を受けるものの、なかなか善戦しているほうだと思うし、下手に凝った文章を書こうとしていないからすらすらと読めた。読んで損はない。
　以上二篇、共に才能の燦めきが感じ取れる作品であり、他の作品も読んでみたいと思わせた。第二作品集『天帝妖狐』以降新作が出ていないようだが、頑張って書き続けて欲しいと思います。

No.332　『９人の仕事人』本岡類（実業之日本社）

　93年に刊行された本岡類二冊目の短編集。刊行当時は見逃してしまったのだが、古本屋で見つけて読んでみた。ブラック・ユーモアで味付けした軽いタッチの短編で占められていて、特筆するほど突出した出来の短編が収録されている訳ではないが、「幸福な犯罪」のような淡い余韻を残す短編もあって必ずしも印象は悪くない。注文があるとすれば随分と無造作なタイトルの付け方か。「バブルの黙示録」や「命の交換レート」など、題名を見ただけで読む気が失せてしまいそうな題名の付け方は損だろう。……そういえば面白いことに、「幸福な犯罪」「傘がない」「死ねない身体」といった題名に一工夫ある短編のほうが内容的にも面白かった。矢張り題名は大事ということか。

No.333　『やぶにらみの時計』都筑道夫（中公文庫）

　才人都筑道夫のデビュー長編、今回が初読。目覚めたら別人になっていた主人公の行動を二人称で描いたサスペンス・ミステリで、約四十年前の作品ではあるが今なお古びていない、モダンでとんがった秀作と言える。ひねくれた展開とシンプルなトリックに感心させられるが、中でも楽しいのは主人公に力を貸そうとする二人の男女が主人公の境遇の謎を推理するシーンで、様々なミステリの題名が次から次へと登場し、果ては主人公までもが映画の話で脱線する。この中で「なんとかテイラーって作家、ファースト・ネームが思いだせないけど、そいつがThe Man with My Face――《わたしの顔をもった男》という長編を書いてる。ぼくはペンギン・ブックスで読んだんだが、いつか週刊誌の別冊かなんかに抄訳がのったそうだ。見なかったかい？」という会話が出てくるが、これは昨年新樹社から漸く翻訳が刊行されたサミュエル・Ｗ・テイラーの『私とそっくりの顔をした男』であり、さすが都筑は四十年前にしっかり押さえていると感心させられた。こういった話題が頻出するのでどちらかと言えばマニア向きの作品かも知れないが、兎に角最近の作品には滅多に見られない洒落た味わいと教養に溢れた作品であり、話自体も面白いので（殺し屋が電話を掛けてくる箇所など如何にも都筑らしい諧謔）、一読の価値は充分にあるだろう。只今絶版中だが古本屋で見かけたら、是非。

No.334　『抱擁』桐生典子（幻冬舎）

　　心臓移植を受けたヒロインが、その後に待ち受けていた数々の試練を乗り越えていくサスペンス。凡手ではないが、まだ上手いところと下手なところがあるといった印象を受けた。敢えて言えば前半は上手いが、後半はあまり上手くないといったところか。手術後、嫌な女だったヒロインに向けて周囲の悪意が一斉に噴出する前半部は力強さがあってなかなか読ませる。特に幼馴染の看護婦の造形が上手く、彼女の存在が醸しだす哀れさと嫌らしさはかなり良く描けていると思った。そういった悪意の露出の中で、主人公は次第に自分の記憶には無い筈の光景を夢に見たり、嗜好が少しずつ変わったりする。「もしかするとこれは自分に心臓を提供したドナーのものではないのか？」と考えた彼女はドナーの経歴を調べ始めるが、それと同時に彼女の身には徐々に危険が迫ってきて――という内容。これらのことを綴っていく前半は割合滑らかに読ませてくれるし、結果的にはヒロイン最大の敵となるキャラクターの造形も憎々しげで不気味に書けていて、結構期待させてくれたのだが、後半部になるとややガタガタし始め、弱い箇所が幾つか目につくようになったのが残念。取り敢えず弱点と思ったものを箇条書きにして記すと、
１、嫌な女だったヒロインが移植後の辛い試練を経て次第に人間的に成長するという展開になるのだが、惜しむらくは人間的に成長したことを示す決定的な場面が用意されていない。別に「私は善人になったのよ」とでも宣言するような華々しい場面は求めていないのだが、巧者ならばさり気なくも人格的成長を印象づけるシーンを用意してくれる筈。
２、ドナーの恋人だった青年とヒロインは互いに好意を持つようになるが、この青年の造形がやや不満。恋人を失ったことには責任と苦悩を感じるものの、新しい恋に踏み出す葛藤は殆ど描かれず、良くも悪くも王子様的なキャラになってしまった感がある。
３、これは個人的な好みだが、最大の敵キャラを最後の最後で改心させたのは如何なものだろうか（特に青年の身を庇うところ）。ドンデン返しを用意した努力は買うが、それによってあっさりとこのキャラが改心してしまうのには拍子抜けしてしまった。
　以上三つの不満があるため高く評価することはできない。がしかし、化ければかなり良いものが書けるかもしれず、個人的には次回作もチェックしたいと思います。

No.335　『ミステリは万華鏡』北村薫（集英社）

　素晴らしい。第三章では夢野「瓶詰地獄」を通して“読み”の怖さが語られる。「この二点は、立場によって見方の変わる《論》ではなかろう。それしかない、という次元のことだと思う。となれば、わたしは、『瓶詰地獄』を本当には読んでいなかったことになる。これは恐ろしい」。本当に恐ろしい。そして此処から、「となれば、初心の読者のための、落ちやすい穴を示す立て札にも、意味があるのではないか。それは、ただの甘やかしとも思えない」「ミステリの範囲に分類される作品には（中略）立て札が少ないように思われる」という提言へと繋がってゆく。この章は殊に内容が衝撃的なものだけに（大方の「瓶詰」読者はあっと言ったのではなかろうか）、実に強い説得力がある。
　対して第四章では、小栗の『黒死館』を通して“読み”の豊かさが語られる。「わたしにとっては、『黒死館殺人事件』とは、こういう物語である」。これこそ、第三章で若干触れられた「立場によって見方の変わる《論》」なのだ。各人の“読み方”で作品は様々な顔を見せ、その読みが作品を豊かにする、という非常に大切なことが語られている。
　第五章では再び転じて久生十蘭「湖畔」の、「それしかない、という次元のことだと思う」内容理解が語られ、それが第六章の「ハムレット」読解へ繋がる。――というふうに書き続けて行けばキリが無いが、この後も本書では、謎解きとは、読解とは、名探偵とは、本格の精神とは、本格の謎とは、本格の謎とはならない謎とは、本格のルールとは、といったことが次々と語られてゆく。つまりこれは、「本を読むとはどういうことか」「ミステリを読むとはどういうことか」を語る本質論のようにも読めるのだ。軽い文章で書かれていても迫力がある。これは本格ミステリを考える上で非常に役に立つ素晴らしい“作品”だと言えるだろう。そして、本質論を彩る数々のエピソードもまた面白い。熟読に耐える本だと思う。お薦め。

　次回七月はNo.336／島田荘司『涙流れるままに（上下）』（光文社カッパ・ノベルス）から。これは傑出した出来です。それでは皆さん、ご機嫌よう。

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