謎宮会 1999/ 7

葉山　響

「『パラサイト・イヴ』や『リング』の先駆けともいうべき、幻の傑作」（新書館『ミステリ・ベスト２０１　日本篇』より）

　97年末に刊行された池上冬樹編『ミステリ・ベスト２０１　日本篇』中、その存在さえ全く知らなかった作品が三冊あった。言及順に並べると、和田頴太『大森林の逃走』（朝日ソノラマ文庫）、船知慧『大暴走――駆けよ、駆けつづけよ』（弘済出版社）、竹内義朗『黒い果実　ブラック・フルーツ』（講談社）である。
　一冊目の『大森林の逃走』は和田頴太が“サウンド・ハンター”と題して書いていた連作の第一弾で、このシリーズは『白いオオカミは撃つな』『南海の密輸船』『スーパー・スターを奪回せよ』『豪華客船危機一髪』と計五冊書かれたらしい。十七歳にして既にプロの録音エンジニアである矢島響が海外で事件に巻き込まれるという内容で、一冊も読んでいないから判らないが、設定から考えてデイヴィッド・ローンの『音の手がかり』に先駆けるような趣向でも用意されていたのだろうか、とちょっと気になる作品である。しかし未だに見たことがない。
　二冊目の『大暴走――駆けよ、駆けつづけよ』は実は後編で、『破れても突っ込め』という作品がその前編だったらしい。船知慧という名前は何処かで目にしたことがあるような気がするものの、何処で見たのか忘れていたが、慥か北上次郎が『破れても突っ込め』を《本の雑誌》で国産ハードボイルド・ベスト20に挙げていた、ということをつい最近になって思い出した。ということはそれなりに評価されている筈の作品なのだろうが、二冊とも未だに見たことがなく、復刊の予定も無いらしい。
　で、曲がりなりにも以上二冊は何らかの情報を掴むことができたのだが、三冊目『黒い果実　ブラック・フルーツ』となると、どういう作品で作者はどういう人なのか、全く何も判らない。紹介文には「『パラサイト・イヴ』や『リング』の先駆けともいうべき幻の傑作」なる凄まじい惹句が附されており、紹介文執筆者の川出正樹も

　ホラーの体裁をとった、青春小説とでもいおうか。〈黒い果実〉の正体はかなり不気味だが、作者はそれよりも、主人公である若いカップルの恋愛を描くことに、より比重を置いている。その結果、結構怖い話であるのだが、爽やかな読後感を与えるという、不思議な魅力を醸しだしている。
　本書は、現在のバイオ・ホラー・ブームの祖といえる『リング』が刊行される二年前の八九年、「新本格」系の作家がこぞってデビューし、冒険小説にも活気があった時代に出版されたが、ほとんど話題に上ることもなく、店頭から消えていった。埋もれた傑作である。

と絶賛している。読んでみたくなるのは当然だろうが、あまりにもマイナーな存在なのでおそらく手に入らないだろうな。――と思っていたのだが、今年の六月に上京した折、新大久保のブックオフに足を運んだら『黒い果実』が売っていた。これは買って読まねばなるまい、という訳で、この原稿に至る。

　恋人・サトミが荷物を纏めて出ていってしまった。落胆して渋谷で暴れ、殴られて気絶したボクを拾ってくれたのはホテトル嬢のカンミ。「気分が落ちつく薬」として渡されたのは“黒い果実”と呼ばれる黒い粒だった。麻薬ではなく安価で手に入り、人間の感情を抑制する効果がある“黒い果実”だが、僅かな確率で常用者が突然の自殺を図るケースがあるらしい。更に“黒い果実”の売人ノリコも、ボクに「飲むのは止めなさい」と言い残して突然自殺してしまう。しかし既に“黒い果実”を飲んでしまっていたボクは左手に不気味な痺れを感じ始め……サトミと再会したボクは、二人で“黒い果実”の秘密を調べ始める。

　実際に読んでみてどうだったかというと、先駆的な作品であることは認めるものの、正直言って無邪気にお薦めはできない（因みに『パラサイト・イヴ』がＳＦであったように、本書もまたホラーというよりＳＦである）。先に弱点から書いてしまうが、この作品の最大の弱点は既に作品自体が古びてしまっていることなのだ。この作品の刊行は一九八九年、八九年といえば『空飛ぶ馬』『生ける屍の死』『奇想、天を動かす』『私が殺した少女』『魔術はささやく』などが発表された年であり、古びるほど昔の作品ではないだろうと思われるかも知れないが、これが無残な迄に古い。帯の惹句「ニューエイジノベル！」を見た途端に厭な予感がしたのだが、その予感は残念ながら的中してしまった。作者が青春小説の骨格を意識するあまり、当時の時代背景をそのまま書き込んでしまったことがその原因。例えば、

　彼女が使っているシャンプーは何かということで、ボクたちは真剣にモメたのだ。花王のピュアだと言う奴もいれば、エッセンシャルだと言う奴もいた。ボクは、資生堂恋コロン・フルーツカクテルを主張した。（９頁）

　作者には申し訳ないが、十年後の一九九九年にこれを読むと「うわぁ」と思わざるを得ない。「ボク」「サトミ」「ノリコ」「カンミ」「タカジイ」と名前が全てカタカナ表記なところにも何やら懐かしい感じが漂っていて、「うーん、そんな時代もあったねぇ」と思わずしみじみとしてしまった。此処まで古びていると、時代を経て更に古びなければ読んでいて辛い。時代背景や流行り物を書き込むと作品は急速なスピードで古びてゆくのだが、これはその最も極端な例だろう。
　もう一つの大きな弱点は、この作品が書かれてから十年の間に、もっと複雑な展開でもっと緊密な構成を持つ同一ジャンルの作品が幾つか書かれてしまったことなのだ。だから今日的な視点で読むと、古めかしさに目を瞑れば割と面白くは読めるものの、残念ながら構成の点において甘いところが散見され、お薦めできる程のレベルには到達していないと言えてしまう。この作品に対しては、時代はあまりにも残酷だったと言えるだろう。

　が、では本書が忘れ去られても構わない程度の作品かと言えば、そうは言わない（そうでなければ取り上げない）。先程「先駆的な作品であることは認める」と書いたが、本書の先駆性にはちょっと驚かされるのだ。まずはこの文章を読んで欲しい。

　ボクはその次の瞬間、全身の力がすうっと抜けるのを感じた。高速エレベーターで下に降りる時のような脱力感だった。さっき左腕に感じた感覚が全身に広がったのだ。そして、いったん引いた波がまた押し寄せるように、脱力感の中に新しく別の異様な感覚が生まれ、それが身体の奥底から湧き上がってきた。
　その感覚はまるで身体中の細胞という細胞が突然分裂を起こして増え始めたようなものだった。ボクの身体はさながら大観衆に埋めつくされた競技場で、拳を突き上げ意味不明の言葉を叫ぶ大観衆が、競技場の床を踏み鳴らし踊り狂っていた。

　要するに本作は『リング』刊行の二年前、『パラサイト・イヴ』の六年前の段階で既に“細胞の異常な変質”を扱っていた作品なのだ。そして『リング』では“貞子”、『パラサイト・イヴ』ではミトコンドリアだった変質への引き金が、本書では“黒い果実”ということになる。身体がどのようにして“黒い果実”に乗っ取られてゆくか、作者は簡単な図を加えて説明しているのだが、これが単純なアイデアながら実に「あ、本当に乗っ取られてる」という印象を与えるもので見事。更に、乗っ取られた結果どうなるのか――ということになると、これは突然死を迎えるだけだった『リング』よりもかなりグロテスクなものと言えるのではないか。取り敢えずこの辺りのアイデアには感心させられてしまった（近年の漫画にもこれと良く似たアイデアを使ったものがあったように記憶している）。

　また、本書には“黒い果実”の謎を解くため、サトミの父が遺した傘の柄の楔形文字を解読する暗号趣向が盛り込まれているのだが、これはそのまま『らせん』に通じるので呆気に取られてしまった（『らせん』には死体から出てきた数字のメモを解読する場面がある）。二重螺旋への言及にも同じことが言えるだろう。本書の帯に書かれた内容紹介文は「若い感性が切り拓いたエンターテイメントの新しい姿！」という文章で締め括られているが、本書刊行の八九年当時、確かにこの内容は斬新だっただろうと思われる。今でこそこれらのアイデアは珍しくもないものになってしまったが、当時ではこの表現は嘘でも誇張でもなかっただろう。現在では残念ながら完成度を云々することはできないが、先駆的な作品としてなら記憶に留められても良い作品、とは言えるかも知れない。

　扉書きの著者紹介によると、竹内義朗は1960年生まれ、学習塾講師やコンピュータ・オペレーターなどを経てフリーライターとなり、この作品でデビューを飾ったそうだ。本書以後の活動内容を僕は全く知らない。が、『黒い果実』が先見性を有した作品であったように、この作者が再び作品を発表するとしたら、果して今何を書くのか、読んでみたい気もする。

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