謎宮会 1999/ 7

葉山　響

・今年は翻訳の新刊を全然読んでいません。愛するゴダードの作品を後回しにしてしまっているし、リンゼイ・デイヴィスもイアン・ランキンもバーバラ・ヴァインも後回し、今月はカミンスキーの翻訳まで先送りにしてしまいました。昭和ミステリ作家再評価原稿のほうも遅れてしまっているし、そろそろ読書と原稿書きに気合を入れて取り組まなければ、と思っています。秋になればやる気も起きるだろうと思うので。

・いつのまにか政宗さんが個人ＨＰを立ち上げていらっしゃいました。いいなあ、葉山も挑戦してみようかな、と一瞬だけ思ったものの、パソコンに不慣れなので作成までに何度泣くか見当も付かず（笑）、夢のまた夢ですね。調子に乗って立ち上げたら更新地獄が待っていることは目に見えているし。フクさんの更新度は人間業じゃありません（笑）。毎日一冊読破というペースだけでも凄いのに。

　それでは今月も始めます。

No.336　『涙流れるままに（上下）』島田荘司（光文社カッパ・ノベルス）

　本書は十五年に渡って書き次がれてきた吉敷刑事シリーズの集大成的作品であり、加納通子という女性の半生を描き上げた国産推理小説には珍しい大長編大河ロマンに仕上がっている。島田の筆力は矢張り素晴らしい。文章としては雑な言い回しが散見されるのだが、それが傷にはなっていない。何故かというと、本書は文章の羅列というよりも、島田自身の語りで綴られたような印象を受けるからだ。文章としてなら多少変な印象を受けても、“語部”の語りとしてなら殆ど変な印象は受けないのである。例えば「そこまで話し、吉敷に徐々に気づかれることがある」という文章は矢張りおかしいのだが、そういった文章にやや無造作なところが却って強く“語り”ということを意識させる。そして其処に“物語を語る”という島田荘司の筆力の、野蛮なまでの力強さを感じ取ることができるのだ。近来これほど力強い語り口の作品は珍しい。本書で描かれる加納通子の半生も、冷やかな目で見れば不自然な箇所は多いかも知れず、過去作品の辻褄合わせばかり、と感じられるかも知れない。がしかし、島田は力強い筆力で充分に一人の女性の存在を立ち上げており、そのような疑問など迫力に捩じ伏せられてしまった思いがした（一応断っておくが、これは加納通子に対する印象の好悪とは全く別の次元に位置するものだ）。
　また、場面の創造力や演出力も際立っていて、例えば上巻で描かれる通子の義母の死の場面、結婚式に集まった親族たちの無表情な顔に囲まれながら布団の中で呪いの言葉を吐き散らして義母が死ぬあの場面は島田作品でも一、二を争う名場面だと思う。また、田中博の解説（これは良い解説ですね）でも指摘されている上巻の公園の場面は、他の作家が書いたなら矢張り不自然に過ぎるものだろうが、しかし島田が書くと不自然ではなくなる。これは祈りの奔流なのだ、と素直に了承することができるのだ。筆力、ということを強く意識させた作品。確かに欠点は多い。下巻は加納通子の性遍歴にあまりにも多くの分量を割き過ぎているし、逆に彼女の重要な転機となった筈の出産については殆どと言って良い程描かれず、物足りなさが残ってしまう。更に下巻中盤ではあまり意味の無い繰り返しや余計な場面の挿入が多くなり、語りたいことだけを作者が延々と語っているような印象を受けてしまう。洗練や構成美とは程遠く、完成度も高いとは言えないだろう。だが、だからこそ本書は他の作品には見られない、構成を度外視した一種異様な熱気に溢れているとも言えるのだ。長くなってしまったので触れないが、冤罪事件の処理にも感心させられた点があった。挙げる人は少ないかも知れないが、力強さを買って僕は本書を本年度のベスト５候補に押したい。問題は数多いが、それでも傑出した作品だと思う。

No.337　『ミレイの囚人』土屋隆夫（光文社）

　八十二歳（執筆当時は八十一歳か）の作者が新作長編を書く。しかも頭脳を酷使する本格ミステリの新刊を書く。これだけで感動ものなのだが、実際に読んでみて面白かったのだから感動は更に深まった。私見では、ここ三十年の間に発表された土屋の長編『妻に捧げる犯罪』『盲目の鴉』『不安な産声』『深夜の法廷』（中篇）『華やかな喪服』の中でも完成度の高い長編だと思う。作者には本当に申し訳ないが、いくら巨匠・土屋隆夫とはいえ八十二歳の著者が真逆贔屓目無しに評価できるような本格を書けるとは思っていなかったので、かなり力を抜いて読んでいたのだが、第三部の最後で明かされる真相には思わず「は？」と声をあげてしまった。正直言って犯人は読んでいて直ぐに見破れる、しかし……そのお歳で此処までヌケヌケとしたトリックを仕掛けるか土屋さん。意表を突かれてしまった。構成も、強い偶然下にあるのが多少気になると思って読んでいたが、（九文字自主規制）したという具合に書かれているのは流石に巨匠の仕事。そして最後には恒例の胸を打つ社会批判が展開され、最後まで読み応えがあった。『不安な産声』とあまりにも似た結末という批判もあるかも知れないが、そこはそれ、力強いパッションが漲っているから不満は左程感じない。現代風俗を的確に把握して書いているのも素晴らしいと言えるし（ふつう老齢の作者だと、現代風俗を書こうとするとおかしな点が目についてしまうものなのだが、目立って変なところは全く無い）、この作品の設定自体、スティーブン・キングの『ミザリー』を読んで「これをどうやって本格に活かそうか」と考えたものに違いなく、そういった作品を読んで自著に活かそうとする辺り、気持ちが若々しいのだろう。実に嬉しくなってしまう。土屋隆夫はまだまだ書ける。新作を期待します！

No.338　『ヴィラ・マグノリアの殺人』若竹七海（光文社カッパ・ノベルス）

　若竹版コージー・ミステリとのことだが、いつも程ではないにせよ毒のスパイスはかなり効かせてあるため、スパイスがきつくて飲み込みにくい人も中にはいるかも知れない。しかしこの程度のスパイスの効かせ具合なら許容範囲内だと思うし、“ヴィラ・葉崎マグノリア”という如何にもコージー・ミステリらしい限定的な舞台が用意されているところが楽しかった。限定された社会の中で、その構成員たちの隠された人間関係が次々と浮上してくるという展開もある意味でコージー・ミステリの王道的なものと言えるだろう。コージー・ミステリは馬鹿にされることが多いけれど、日本人にはああいったタイプの作品はなかなか書けないと思うのだ（限定的・閉鎖的社会を舞台にすると国産ミステリは――それが悪いと言っている訳では決してないが――即座に横溝正史調になってしまう）。毒はあるが怨念や祟りの無い限定舞台ミステリを書き上げた作者にまずは拍手。
　で、本作を厳密に本格ミステリとして評価するならば、作品内で起こる事象が全て犯人の手になるもの（或いは犯人の計画したもの）とは到底言い難く、従って謎や事象がラストで全て一点に収斂する話では全くないのでロジックの華麗さには欠けているが、反面実に良く考え抜かれて執筆された作品には違いなく、よくもここまで様々なことを考えながら各事象を纏め上げたものだ、と感心させられた（もしかすると全ての事象がラストで一点に収斂する話を書いたほうが楽だったのではないかと思ってしまった程）。凄まじいトラブルメーカーが出てきて殺される辺り、或いは探偵役が容疑者たちの前で一人一人を犯人に当て嵌めていく行などはクリスティーかな、またはラスト辺りの犯人大追跡のドタバタは矢張りクリスピンのオマージュなのかな、と推測する楽しさもあった。国産では珍しいタイプの佳作。
　なおひとつ思ったこと。 188頁に名字だけ出てくるアルバイトの女性、矢張り『プレゼント』のあの人だろうか？

No.339　『網膜脈視症』木々高太郎（春陽文庫／探偵ＣＬＵＢ）

　短編「網膜脈視症」「就眠儀式」「妄想の原理」「ねむり妻」と戯曲「胆嚢」を収録した作品集。戦前の巨匠の中でも現在、木々高太郎は一際人気薄であるようだが、個人的に木々作品は大好きなので楽しんで読んだ（個人的に水上呂理・米田三星・独多甚九・海野十三・正木不如丘などの戦前奇想医学・精神物は何故か無性に好みに合ったりする）。「網膜脈視症」は木々のデビュー作で、患者の症状から犯罪を炙り出すという内容の話であり、この作品以降も同一テーマの作品が複数書かれてはいるが、矢張り現在でもこの作品の完成度は抜きん出ていると思う。続いて就眠儀式の鑑定が逆転する代表作「就眠儀式」、名探偵・大心池先生が学会のライバルと対決する静かな緊張感に満ちた「妄想の原理」、“睡り人形”テーマを扱った叙情的余韻を残す一篇「ねむり妻」と、収録短編いずれも秀作と言える。これらに対し巻末の戯曲「胆嚢」は如何にも古く、ネタも簡単に割れてしまい、それらを糊塗する程の魅力が他にある訳でもないのが残念だが、但しこの作品は秀作短編「恋慕」（講談社文庫大衆文学館『光とその影／決闘』収録）とほぼ同じ設定が用意されているため、「恋慕」との比較の意味では読んで損の無い作品だろう。
　それにしても（たぶん無理だろうけど）連作長編『風水渙』『詩と暗号』が復刊されたり、未完の長編『美の悲劇』が復刻されたりするようなことは起きないものだろうか。出たら喜んで買うんだけどなあ……。

No.340　『女刺青師／人形佐七捕物帳全集（九）』横溝正史（春陽文庫）
No.341　『本陣殺人事件』横溝正史（角川文庫）

　同人誌参加のための読み直し。まだ引っ張ってます（笑）。

No.342　『蘆屋家の崩壊』津原泰水（集英社）

　伯爵と呼ばれる怪奇小説家と、怪異に巻き込まれ易い体質（？）の男・猿渡の二人によるグルメ行脚集。というのは半分嘘で（半分は本当というのも凄いが）、なかなか一筋縄では行かない面白さを持つ七篇を収録した完成度の高い怪奇短編集である。非常に感心させられたのは笑いと怪奇が絶妙に調和している点で、読者は笑っているうちに異様な結末へ運ばれてゆく。中でも「カルキノス」は見事な出来で、トリック解明後の展開が実に愉快、且つ異様な余韻を残す。異様な結末という意味では「埋葬虫」も印象的で、引っ張ってきた緊張感をラスト近くの数行で一気に崩すところが（そう、本当に「崩れる」のだ）鮮やかな印象を残した。「ケルベロス」の伝奇ホラーのような趣向も楽しく、「水牛群」は幻想小説の領域にまで踏み込んだ一篇。山田太一の『異人たちとの夏』など、こういうテーマの話に僕は滅法弱い。面白かった。
　以上は怪奇幻想の視点からの感想だが、今度は違う角度からの評価。津原泰水がどの程度意識していたのか判らないが、私見では収録作品の殆どにミステリの骨格（痕跡）が見られるところが興味深かった。例えば表題作「蘆屋家の崩壊」だが、これはラストの“意外な真相”を提示する前に真相を推理するための伏線がきちんと張られてあるのだ。この試みには驚かされた。「カルキノス」にはチェスタトンのような奇想的ロジックが登場し、「猫背の女」は実に見事な怪異譚だがニューロティック・スリラーとしても読むことが可能な秀作。冒頭の「反曲隧道」も反転の切れ味が快い佳品で、これはホラーというよりミステリの醍醐味だろう。「埋葬虫」もホラー的な解決の後で、推理によってミステリ的な裏の事情が明らかにされる。もともと伯爵と猿渡の二人も心霊探偵コンビのような印象を受けるので、エラリイ・クイーンが《クイーンの定員》の一つにウィリアム・ホープ・ホジスンの『幽霊狩人カーナッキ』を選んでいたことを考えると、この短編集を強引にミステリ短編集と言い張っても良いかも知れないと思った。様々な点から楽しめた短編集でした。

No.343　『避暑地の猫』宮本輝（講談社文庫）

　軽井沢で別荘番として暮らす一見平凡な家族。だが平凡なのは見かけだけで、その裏には夏だけ軽井沢を訪れる主人一家との複雑な確執が隠されていた。何も知らなかった主人公の青年は、美しい自分の母を目の敵にする主人の妻を憎み、その憎しみは主人公自身さえ思いもよらなかった或る行為を引き起こしてしまうが――悪意を持っていたのは誰か、真実は何処にあったのか、そしてこの作品で“猫”とは何か？
　霧と美しさに満たされた悪意の物語。再読だが矢張り面白かった。この作品のテーマのひとつに「『愚か』は悪だ」というものがあり、作者は主人公に「枚挙にいとまがない人生におけるこの誤謬もまた、人間が抱えている悪のひとつである。『愚か』は悪だ。では何が人間を愚かにするのか。それは感情にとらわれた怒りであり、目先にとらわれた狂惑であり、エゴイズムにとらわれた欲望である」と語らせているのだが、このテーマを描く以上、本書の展開は主人公が目先にとらわれて誤謬を犯し、その後真実を知るまでの顛末を描いたものとなる。つまり本書では主人公の青年の知らなかった禍々しい事実が次第に明かされてゆくという展開を辿る訳であり、結果として上等なサスペンス・ミステリに成り得ているのだ。僅かずつだが確実に人間関係の全体像が見えてくる収束部は圧巻であり、猫というメタファーも巧みで、悪意の物語ながら高雅な余韻を残す語り口も素晴らしい。登場人間のデッサンにも乱れの無い傑作。ミステリ専門作家にこういう作品は書けないものか。

No.344　『ラブリーをつかまえろ』山本文緒（集英社コバルト文庫）

　みんのは中学二年生。突然銀行を辞めて便利屋になったお父さんのところにやって来た依頼人は、幼なじみで同じクラスの大空ハズム。彼の家で飼っている盲導犬のラブリーが行方不明になったので、探して欲しいのだという。みんのはしぶしぶながらお父さんに協力するが、実は事件は意外にも奥が深そうで……という内容。転身前の山本文緒が書いた“ご町内お騒がせミステリー”だが、まあ、ミステリ的に面白いという訳ではなく、きっちりとコバルト文庫のイメージから一歩もはみ出さない作品だった。とはいえ文章は滑らかだし、この作品、シリーズ第一弾だったらしいので、続きが書かれているようなら一応読んでみたいと思う。主人公を取り巻く二人の男、幼馴染の元気な少年と二十四歳の美形の坊さんというキャラ構成もある種の女性に受けるかも知れない（笑）。それにしても、最近になって山本文緒のコバルト作品が集英社文庫で刊行し直され始めたが（『僕のパジャマでおやすみ』『おひさまのブランケット』）、コバルト作品全部を収録する予定なのだろうか。個人的には『おまえがパラダイス』という凄い題名の本、どんな内容だったのか興味があるのだが（笑）。

No.345　『二つの密室』フリーマン・Ｗ・クロフツ（創元推理文庫）

　密室の謎をメインに据えた、クロフツには珍しい長編。だが、密室の解明自体は独創味に欠けるものなので、その興味だけで読むとさして面白い長編ではない（但し、片方は機械的トリック、もう一方は心理的なトリックと解明のタイプを分けている点は好感が持てるし、心理的トリックが解けた途端に犯人が限定できる展開も密室ミステリの王道を踏まえている）。この長編で最も素晴らしいのは何といっても健気な主人公アン・デイの造形だろう。第一部では、家政婦として雇われた家で不吉な三角関係を目の当たりにしたアン・デイの視点から、殺人事件発生までの一部始終が描かれてゆくのだが、この第一部はかなり読み応えがあった。他の登場人物はあまり印象的に描かれていないので、「クロフツは登場人物の造形が上手い」とは一概に称賛できないのだが（例えばグリンズミード老婦人はもっと丁寧に描けばかなり面白いキャラになったように思う）、しかし誰かひとり印象的な登場人物が登場すると俄然作品の印象も鮮やかになる訳で、その点では造形力を讃えても問題は無いだろうと思う。佳作でした。

No.346　『英仏海峡の謎』フリーマン・Ｗ・クロフツ（創元推理文庫）

　渋くて地味だが、読み込むとなかなか味のあるミステリ。写実派本格作家（たぶん評論家・大井廣介独自の表現だと思う。鮎川哲也の鬼貫警部ものや松本清張などが該当する）のクロフツだけあって、莫大な債務を抱えて倒産した証券会社の残務整理場面などを積極的に組み込みながらフレンチ警部の捜査を展開させていて、その辺りが実に臨場感あってじっくりと読ませる。この作品を読んでやっと気づいたが、結局クロフツは大人の読み物なのだ。だからミステリに目覚めた少年時代に読んでもクロフツの面白さは判らないだろう。毀誉褒貶ある本作のトリックも、トリックだけを抜き出して語れば確かに面白味は薄いだろうが、明らかに本作はトリックだけがメインの話ではない。英仏海峡を漂流するヨットから発見された二つの死体、その殺人の謎を巡ってフレンチ警部は英・仏二カ国を股に掛けた捜査に乗り出すのだが、そういった雄大なスケールが素晴らしいし、また終盤まで容疑者が二転三転し、その度にフレンチが推理を組み立て直していく辺りは確かにコリン・デクスターのモース警部を彷彿させる。地味だし退屈な一面もあるだろうが、無駄な場面は何一つ無く、ストーリーはむしろキビキビと進行し、作者の筆にも底力がある。警察小説の原点的作品とも言える、なかなか読み応えのある秀作と言えます。

No.347　『５年目の魔女』乃南アサ（幻冬舎文庫）

（真相を明かしています。ご注意ください。）
　折角の美味しいネタを上手く活かし切っていないという印象。結末の意外性や二人の女の二重合わせという趣向は上手く活かせば実に面白いものになったと思うのだが、惜しむらくは全体的に説得力に欠けている。或る女のために会社まで辞めざるを得ない状況に追い込まれたヒロインが、五年後にその女の消息を調べ始めるのだが、その調査開始にこれといった理由が無く、更に最後まで読むと（これ以降は本当にネタバレ発言です）、彼女を見つけてしまうと身の破滅にも繋がってしまうような事情がヒロイン側にあると判るので、一層調べ始めた理由が希薄になってしまう。作者は結末で「全然違う二人の女が実は同じ種類の女」という意外性を用意しており、「だから二人の女は理由など無くとも互いに引き合ってしまったのだ」という理由を付けているのだが、しかしいまひとつ説得力に欠けている感は否めない。「自分でも何故なのか判らないが、どうしても消息を調べなければならない」という突き上げるような焦燥感をもっとはっきりと打ち出したなら、調査開始理由の曖昧さがその情念の影に隠れて目立たないようになり、その結果秀作になったかも知れないと思うので、やや残念に感じられた。秀作『結婚詐欺師』や『鍵』の作者にしてはやや頼りない出来だと思う。

No.348　『紅蓮亭の狂女』陳舜臣（読売新聞社）

　長編は「いずれ感想を書く」と言っていたが、これは短編集なので此処で感想を書いてしまおう。日清戦争から第二次世界大戦後辺りまでの時代のアジア各国（日本を含む）を舞台にした短編ばかりで構成されており、一応はミステリ短編集なのだが収録された作品はどれもミステリがメインの話ではないので、ミステリ味を盛り込んだ歴史小説短編集と言ったほうが的確だろう。しかし別にそれが問題という訳ではなく、他の作家の作品ではなかなか味わえない悠然とした語り口に浸りながら読み終えた。表題作「紅蓮亭の狂女」は日本探偵作家クラブ賞の候補に挙げられた作品で、一種異様な印象を残す秀作短編。「スマトラに沈む」は文学者の死の謎を扱った作品で、（それほど手法が徹底されている訳ではないが）故人を知る人たちへのインタビューを積み重ねることによって一人の人間の存在を立体的に浮かび上がらせようと試みた一篇。「七十六号の男」は完全な歴史小説で、独特の余韻が味わえるが、ラストの纏め方がやや緩いのは惜しい。「角笛を吹けど」は集中最もミステリ味の濃い一篇で、見事なラストの処理から考えても表題作と並んでこの短編集のベストと言える出来だろう。クーデターを背景にして二人の青年の友情を描いた「ウルムチに消えた火」は書き方を変えれば爽やかな青春小説になる話だが、奇妙な味わいの綺譚を読んだような読後感を残す話に仕上がっているところが面白い。それほどの出来ではない短編も収録されてはいるが、楽しんで読めました。

No.349　『カナリヤは歌わない』近藤史恵（祥伝社文庫）

　これは良い。軽いタッチの作品なので近藤史恵の代表作と呼べるような作品ではないが、従来の近藤作品の長所を上手く残しながら新しい方向性を模索していて、自分の作品世界を押し広げようとする積極的姿勢は評価に値するものと言えるだろう。ミステリ味は薄いといえば薄いが、この作品はむしろ「何処にミステリ的な趣向が隠されているか」を探しながら読むと面白味が増すのではないかと思う。ストーリーも滑らかに書かれていて、文章も大変読み易く、近藤作品にしては珍しく後味が爽やか。但し中心人物のロマンスはちょっと都合良く書かれているような印象を受ける（加えて、相手の少年があんなに素直な性格ならば、万引きを行うもっと切実な理由が欲しかった）。ラストの展開も山本文緒の『眠れるラプンツェル』と殆ど同じ印象で、女性作家はよくこういったラストを付けたがるようだが、はっきり言って「たまにはくっつけちゃっても良いんじゃないか？」などと思ってしまう。こういったラストは何度も読んでいると次第に（意地悪な言い方だが）男の陶酔型ハードボイルドと似たような印象を受けてしまうので、今後は何らかのヒネリを加えても良いのではないか。まあそれはともかく、整体師の探偵役が魅力的な人柄に描かれているし、ワトスン役を振られる雑誌記者もどこかとぼけた感触があって好印象。たぶんシリーズ化されるだろうから、次の作品を楽しみにしたいと思います。

No.350　『黒い果実　ブラック・フルーツ』竹内義朗（講談社）→「絶版本の快楽」へ

No.351　『ギヤマン壺の謎』はやみねかおる（講談社青い鳥文庫）

　幕末を舞台とした、名探偵夢水清志郎事件ノート外伝・上巻。夢水は「夢水清志郎左右衛門」という無茶な名前で登場し、英国から海を渡って日本に帰還、長崎を通過して江戸へ入る（当時、民間の日本人が単身英国に渡って簡単に英国から帰ってこれた筈はないが、一応舞台は開国後の一八六〇年辺りに設定されているようだ。新撰組が組織されたのは一八六三年、坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介で薩長同盟が成立したのは一八六六年だから、本書はおそらくこの間の物語ということになる）。ミステリとしては小ネタの連続で纏めたという印象だが読んでいて楽しいし、「事件は番屋で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」などといったいつもながらのパロディネタにも和ませてもらった（因みに94頁に出てくる謎々の答えをどうしても知りたい方は都筑道夫『朱漆の壁に血がしたたる』を古本屋で探してお読みください）。但し江戸を舞台とした「大入道事件」はプロットの処理がやや荒く、また中心ネタも江戸時代を舞台にして書くべきものではないという印象を受け、ちょっと残念な出来。これと関連してひとつ注文を挙げておくと、折角江戸時代を舞台に据えたのだから、江戸時代でしか成立しないような謎解きやトリックをひとつくらいは混ぜて欲しかったと思う。そういう意味で本書はミステリとして評価するならやや不満の残る出来だが、これと同時に指摘しておきたいのは、本書には幕末＋捕物＋道中記＋実在人物とのクロス＋剣客といった様々な時代小説の楽しみが絶妙に詰め込まれている点で、これは時代小説の面白さをきちんと理解していなければ書けない作品と言えるだろう。言うなれば今回は時代小説のパロディに挑んでいるという訳で、「この作者、ミステリだけの人ではないのだ」と感銘を受けた（更に作中「江ゐ里庵」というそば屋が出てくるが、これは矢張り梶尾真治の『ゑゐり庵綺譚』が元ネタか？）。下巻では江戸城消失というスケールの大きな謎解きが行われるようでもあるし、下巻の刊行が楽しみです。
　最後にひとつ。第二の事件に出てくるギヤマン壺の名前は「光一」と書いて「ピカ一」と読ませるのだが、これの元ネタは果して『不連続殺人事件』なのか、それとも堂本光一のコントなのか悩んでしまった。――ってそんなことで悩むなよ。

No.352　『死者の贈物』中町信（講談社ノベルス）

　帯の文句が凄い。「『特にナシ』は死の伝言!?　ブロッコリーは見ていた…!!」。著者の言葉も凄い。「最近、家庭菜園に凝っている」。家庭菜園にかける意気込みばかりでミステリとしての出来には一言も言及されておらず、これで「わぁ、面白そう」と思う読者はそれほど存在しないだろうと思われる。むしろ僕などは「面白くなさそう」と思ってしまったのだが、しかし予想を裏切って本書は初期作品を彷彿させる、中町久々の秀作なのだ。田中成穂さんもそう言っていたから間違いは無い（田中さんの名前を知らない人は『このミス』の投票者をチェックしましょう）。何の魅力も無い登場人物、あまりにもチープなので呆気に取られるダイイング・メッセージの意味（よく作品化したなあ）など欠点は厳然と存在するのだが、第二の殺人における複雑な状況設定（ごちゃごちゃしている割にはすんなり頭に入ってくる）に新味があって面白いし、実にオーソドックスな手法で“意外な犯人”に挑んでいる点が魅力的。最近こういうオーソドックスな作品が少ないので、たとえ途中で犯人が判ってしまってもその方向性には好感が持てるのだ（しかし、そうは言ってもこの“意外な犯人”はかなり成功しているほうではないかと思う）。声高に完成度を讃える作品では決してないが、パズラー好きの同好の士にはそっと「あれ、割と面白いよ」と耳打ちしたくなる作品。昔を思い出して、ちょっと嬉しくなってしまうような出来でした。

No.353　『東京大學殺人事件』佐藤亜有子（河出書房新社）

　『ボディ・レンタル』で第33回文藝賞を受賞した作家が書いた初のミステリ……なのだが、ミステリと言うよりも「ミステリ風殺人小説」或いは「疑似ミステリ」と言ったほうが的確かも知れない（二時間サスペンスにはぴったりな内容）。ミステリの面白さを判っていない人が書いた、根本的なところでミステリに成り損ねた作品という印象で、殺人事件が起きて探偵役が出てきて解決が書かれているものの、ミステリの面白さは不思議なほど欠落している。一番問題なのは探偵役の造形で、文藝賞を受賞した作家が書いた割には随分とマンガ的な人物造形だが、別にそれが目立った問題だという訳ではなく（どこにでも彼の信奉者がいるという設定にははっきり言って白けてしまうが）、問題なのはこの探偵役・桂木圭太の情報収集能力なのだ。あらゆる方面に知り合いがいるので、推理したり聞き込みをしなくても電話やメールで情報が簡単に手に入り、果ては警察までが彼に協力するため（つまり探偵の情報収集を妨げるようなものは一切用意されていないのだ）、全てを情報収集レベルで片づけてしまい、だから推理や捜査展開の面白味など微塵も無いという悲しい結果に終わってしまっている。集積されたデータを推理により選り分けて正しい道筋を探ることもなく、起こる筈の殺人を止めようという気力も無く、探偵役は用意された結末へと読者を導く狂言回しの役割しか果たしていない。根本的なところでミステリの面白さを勘違いしている、というのはそういう意味だ。これで真相が意外であればまだ救われたのだが……
　また、文章自体は下手ではないようなのだが、正直言って読みにくい。時には間延びした描写が延々と続くため、もっとテキパキ書けないものかと苛々してしまうし、主語の使い方も的確とは言えず（既に名前が判っている登場人物を「男」「女」などと書き表すため、新しい登場人物が出てきたのかと錯覚してしまい煩わしい）、更には「長津は嘘か本当かしれない桂木圭太の発言に、危うい部分を委ねた男に少し後ろめたさも覚えて、視線を前に戻した」なる意味の掴みにくい文章も見られる。……なんか相当キツい文章になってしまって申し訳ないが、読んでいて久しぶりに強い拒否感覚を感じてしまった作品だったので。冷静になっても訂正しないぞ。

No.354　『そして二人だけになった』森博嗣（新潮社）

　率直に言って案外面白く読めた。真相は判り易いが別にそれが問題という訳ではないし（それを問題とするなら森作品は殆どが失敗作と判断せざるを得なくなる）、材質の違う球を死体に握らせておいた理由がやや薄弱と言えば言えるのだが、トリックの扱い方が割合綺麗で森作品の中では完成度が高い。シリーズキャラクターを登場させていないため硬質な持ち味が上手く作品に反映されているし、日常とは違った異世界を構築する力はなかなかのもの。こういった雰囲気は森作品でしか味わえず、独自の作品世界を所有しているところは明らかにこの人の強みだろう。初期作品とは違い筆力も向上しているからサスペンスの盛り上げにも成功していて（この作者、もしかすると本格ミステリよりもサスペンス・ミステリの書き手として評価が高くなるかも知れない）、更にはこういったラストの付け方も好みなので楽しめた。橋を壊す理由も、如何にも森作品の動機らしい。個性が良く出た作品という印象。
　但し、閉じ込められた状況の中で人が一つずつ殺されていき、最終的に二人残るのだが、この二人になってからが長過ぎるため、結局は誰でも（これ以前に真相に気づかなかった人でも）真相に気づいてしまうような気がする辺りはやや残念。加えてこの作品で最も「上手い」と思ったのは、各章の終わりで物理学者・勅使河原潤の質疑応答が挟み込まれるところなのだが（これが実に効果的なストーリーのアクセントとなっていた）、これを最後まで続けず五章で止めてしまったのは非常に残念に感じられた。他にも真相の中心部分について一つ不満があるのだが、それを此処で書くのは止めておく。――といったように不満も幾つか存在する訳だが、好感は持てる作品でした。初期の森作品が嫌いだった人も、これなら読んでみて良いかも知れない。

No.355　『火恋』連城三紀彦（文藝春秋）

　香港が舞台の五篇を収録した作品集。『戻り川心中』『夜よ鼠たちのために』というよりは『少女』『蛍草』『前夜祭』傾向の短編集で、殊更にミステリ的な内容を扱った作品は収録されていないが、殺人や犯罪が無くとも各篇それぞれに技巧的な仕掛けが凝らされていて、単なる小説としてもミステリとしても優れた出来栄え。殊に表題作「火恋」の結末は素晴らしく、ドンデン返しと小説的余韻が見事に合致していて非常に強い感銘を受けた（ドンデン返しが単なるドンデン返しに終わらず、ひとりの女性の人生を劇的に浮かび上がらせる仕掛けとなっている）。たぶん今年読んだ短編のベスト。「騒がしいラヴソング」と「灰の女」は対を成すような作品で、複雑な色恋沙汰に巻き込まれた主人公（「騒がしいラヴソング」は男、「灰の女」は女）の恋の顛末を、幾重ものドンデン返しを仕掛けながら描いた秀作。軽みのある結末の余韻も素晴らしい。対して「情人」「黒夜」は冷えきった夫婦関係をやや暗めのトーンで描いた佳品で、品良くも濃厚な艶めかしさを味わえる。最早作家生活は長いのに、現在でもドンデン返しの切れ味が衰えないのには驚かされるばかりで、手応えの確かさは流石にこの作者ならではのもの。また、「植民地」という言葉が数カ所で使われている辺りには（旧作にも「植民地の女」という作品がある）連城三紀彦が「植民地」という概念（植民地政策そのものにではない）に魅力を感じていることを窺わせ、興味深かった。異国情緒に彩られた質の高い作品集。これを露払いにして長編『女王』が近日刊行とは、本当に贅沢極まりない。『女王』の一日も早い刊行を望みます。

No.356　『東京開化えれきのからくり』草上仁（ハヤカワ文庫ＪＡ）

　軽妙痛快時代空想活劇。〈ＳＦマガジン〉に連載され読者賞を受賞した長編だが、歴史改変ＳＦというよりは明治初期のパラレルワールドを舞台とした冒険活劇といった印象で、ＳＦが苦手な人も楽しんで読めるであろう作品に仕上がっている。発明王トーマス・エジソンが来日していたり、黒人の花魁が登場したりするなど虚構性は高いが、現実の歴史をかなり綿密に調べた上で執筆していることが作品の端々から窺われるため、時代小説ファンでも楽しめるのではないか。個人的に西洋科学礼讃的ストーリーは好みではないのだが（最後はたますの科学の威力で困難を切り抜けるため、やや「科学万歳」調な終幕になっているのが惜しい）、本書では単に瓦斯男爵対発明王の対立が描かれるのではなく、岡っ引きや火消し、波止場人足の元締に（黒人だが）花魁など、江戸と明治の過渡期の中で急激な変化に翻弄された江戸時代的職業の人間たちを（意識的にか）主人公グループに集結させているため、一面的な「科学万歳」の物語になっておらず、その辺りの作者の姿勢には好感が持てた。女性キャラが元気なのも嬉しいし、如何にも大団円という感じのラストも楽しい。また個人的には、取締組の少警部が元岡っ引きを「探偵」として扱い、警察に助力させるというアイデア（93頁）が面白かった。単に「十手が無くとも岡っ引きの魂が事件を追わせる！」という説明しか成されない凡百の捕物帳（或いは刑事魂を売り物にする元刑事主役のハードボイルド）よりどれだけマシか知れない。
　但し、前半はかなり淡々と話が進むため、もう少し見せ場など作っても良かったかと思うし、この素材にこのキャラの魅力なら、もっと心踊るような面白い話になっても不思議ではないと思うのだ。今のままでも佳作ではあるが、設定の使い様では更に面白い物語が期待できると思う。つまり僕は続編を書いて欲しいのだ。これだけでこの設定を手放すのはあまりにも勿体ない。続編執筆を期待しております。

No.357　『殺人ドライブ・ロード』井沢元彦（徳間文庫）

　南条圭シリーズで、井沢作品には珍しく、歴史が全く絡んでこないトリッキーな長編。但しトリックの構成を尊重するあまり、人間心理を無視してしまったような感がある。被害者を始めとして殆どの登場人物が、どうしてこんなに揃いも揃って真犯人の計画どおりに行動するのか不思議に感じてしまう程なのだ。そのため作者に都合の良過ぎる展開という印象を受けてしまうのだが、しかしそこまでして書いたものだけあってプロット的にはなかなか手が込んでおり、トリッキーということでは井沢作品の最右翼に位置する。技巧面が少しばかり不器用なので、真相に辿り着く前にドンデン返しの予測が付いてしまうのだが、構成はしっかりしているから（綿密に図面を引いた上で執筆したことが窺われる）図式的な人物の動きに目を瞑れば割合楽しめるのではないか。犯人の設定は1984年に刊行された井沢の長編を思わせ、こういったタイプの犯人隠しがこの作者の好みだったのかな、と思わせた。『猿丸幻視行』『忠臣蔵　元禄十五年の反逆』『修道士の首』『マダム・ロスタンの伝言』『欲の無い犯罪者』のベスト５（私見）に続く作品として挙げられるだろう佳作だと思う。

No.358　『柔らかな頬』桐野夏生（講談社）

　本年度上半期直木賞受賞作。文学的評価は最早多くの評者が行っているので、今更僕如きが行わなくても良いだろう。ミステリを離れた作品としても高く評価できる、現実と折り合えない男女の心の荒廃を描いた質の高い傑作だと思うが、但し僕はそれでも敢えて本書をミステリの方角から読んでみたので、一層面白味が広がったような気がする。
　本書はもともと『天使に見捨てられた夜』に続く村野ミロシリーズの第三作として書き上げられたが、しかし作者が気に入らずにミステリの構成を捨てて書き直したものだという。ということは、本書では誘拐事件の真相は藪の中のままで終わるのだが、村野ミロが活躍していた元版では真相が明かされていた筈。言い換えれば、この誘拐事件は真相もきちんと構想されていた筈なのだ。――とすると、本書の中には犯人を指摘するデータが幾つも残されているかも知れない。まずはこの興味があってとても面白く読んでいた。だが途中でもっと面白くなったのは、元版がどんなストーリーだったのかを推測することだ。そして、ある程度「こんな内容だったのだろう」と元版の推測を立てながら、今度はその元版（＝ミステリ）をどのように壊して『柔らかな頬』（＝文学作品）へと変貌させたのか、その過程を推測しながら読んだのだが、これが凄まじく面白かった。例えば、病魔に蝕まれた元刑事が苦しみの中で事件の真相を幻視する場面があるが、これはたぶん元版では誤った推理のひとつとして書かれていたものなのだろう、という推測をし、そして今度は翻って、そういったミステリ部分を如何に利用して文学作品へと書き換えたか、という桐野夏生の小説作法を想像しながら読んだのだ。こういう楽しみ方ができる作品など今まで読んだことが無い。そういった推測はたぶん外れているだろうから、単に徒労に過ぎないではないか、と言われるかも知れないが、僕は本書をそうやって読んで、何とも言えず面白かった。満足。
　但し、別にそういう読み方をしなくても、この作品は自分にしか書けない小説を目指そうとする熱意が感じられ、充分に文学賞を受けるに値する野心作だと思う。なお、本書の記述によって犯人を指摘できるかどうかという点だが――それは御自分で確かめてみてください（笑）。個人的には、58頁に登場している男が一つのポイントではなかったかと思いますが。

No.359　『不変の神の事件』ルーファス・キング（創元推理文庫） →　井戸端ミステリ会議へ

No.360　『百鬼夜行―陰』京極夏彦（講談社ノベルス）

　妖怪小説というジャンルが見事に確立されている。全十篇収録中白眉は何といっても「目目連」であり、長編のサイドストーリーとしての出来は勿論、妖怪小説として目を瞠らされる完成度だと思う。これはまさに目目連の物語であり、『絡新婦の理』を読む前に読んでいたらさぞや圧倒的に気持ちの悪い短編だっただろう。発表順は『絡新婦の理』よりも「目目連」のほうが先だから、勿体ないことをしたかとちょっと悔やまれたが（目目連が出てくる合理的理由は『絡新婦の理』で明かされており、そちらを先に読んでいるため憑き物は最初から落ちているようなもの）、しかしそれでも妖怪小説としてこの作品は傑出していると思う。続いて完成度で「煙々羅」と「襟立衣」か。前者は結末の余韻が見事、後者は妖怪・襟立衣を描こうとした時、これ以上に襟立衣を活かしたストーリーは考えられないだろう。巻末の「川赤子」は、妖怪小説としては「目目連」にも迫る完成度だと思うが、サイドストーリーとしての色彩が強く、独立した作品として考えにくいのがやや残念。「倩兮女」は妖怪とストーリーの結びつきがやや弱いという感を受けるが（というか、倩兮女の存在を抜いても成立する話だと思った）話自体は面白く、「毛倡妓」は結末の着地が素晴らしい。『姑獲鳥の夏』に直結する「文車妖妃」も印象に残った。十篇全て優れた出来の作品集で、個人的には前長編『塗仏の宴』よりもこちらの作品集のほうを買う。矢張り京極は目の離せない作家だと実感。読む価値はある。

No.361　『田舎の事件』倉阪鬼一郎（幻冬舎）
No.362　『活字狂想曲』倉阪鬼一郎（時事通信社）

　思わず鍵括弧を付けたくなるほどにステロタイプな「田舎」が舞台の十三編を収録したユーモアミステリ（と言って良いのだろうか……）短編集。パターンはある程度共通していて、「その道のプロ（だと思っている人）が挫折する→発狂する（または似たような精神状況に追い詰められる）→歯止めが効かなくなって崩壊していく」という展開を辿る。蕎麦を追求し過ぎた若者の悲喜劇「無上庵崩壊」、のど自慢で屈辱（カーンッ！）を受けて人格崩壊した青年が大量殺人に及ぶ「頭のなかの鐘」、伝説の校正者が辿り着いた境地を荘厳に描く「赤魔」などはそのままこのパターンを踏襲していると言えるだろう。中でも最終話「梅の枝が」は読後暫く「（五文字自主規制）」が頭の中でリフレインする怪作で、これが巻末に収録されているのは正解だと思う。これ以上突き詰め様が無いという結末を付けた「涙の太陽」も印象的。また、そのパターンからやや外れた作品も面白かった。「亀旗山無敵」は結末がバレバレな話ながら、そのバレバレな結末に向けて脇目も振らず突進していく様が非常に愉快。チェスタトンの（良く考えなくても阿呆な）トリックを徹底的にバカにした「村の奇想家」は特にミステリファン向けだろう。
　とはいえ。正直言って最初のうちは左程爆笑することもなく、割と淡々と読んでいたのだ。ところが途中で『活字狂想曲』と併読するようになった途端、俄然面白さが倍増して呆気に取られた。そうか、これは『活字狂想曲』と併読すべき本だったのか！　単独で読んでも面白いが、『活字狂想曲』と併読すると五倍面白くなると僕は思う。どちらもまだ読んでいない人はセットでお薦めです。
　なお、『活字狂想曲』はひたすら面白い本でした。余計な説明は一切不要、本年度読破本総合ベスト候補。

No.363　『夢想の研究』瀬戸川猛資（創元推理文庫《創元ライヴラリ》）

　副題は「活字と映像の想像力」。本書の眼目は活字メディアと映像メディアの作品を同時に論じることにある――と言ってしまえば簡単そうに聞こえるが、扱われる作品のジャンルは凄まじいほど多岐に渡っており（というか多岐に渡らないと出来ない趣向なのだ）、取り上げている作品はほぼエンタテインメントで占められてはいるが、瀬戸川猛資という人は本質的に教養人だったのだな、と今回読み返して改めて感じられた。ジャンルの壁を悠々と飛び越えながら大胆な仮説・論証を次々と展開する過程を読んでいると、さながら想像世界の万華鏡を覗き込んでいるような気分にさせられる。教養や想像力の持つ燦めきを文章の力だけでこんなに鮮烈に切り取れる人はそうは居ない。こういう気宇壮大な論を展開できる人を僕たちは失ったのだ、悲しんで然るべきだろう。
　本書の中で最も印象に残っていたのは「21 太古の祭り」だが（討入り・冬至・クリスマスを“太古の祝祭”というキーワードで総括してしまうあまりにも壮大な仮説には呆然とさせられた）、今回読み返してみていずれの説も魅力的なのに改めて驚かされた。本格ミステリファンなら冒頭の「理屈なのである」で早くも快哉を叫ぶだろうし、俳優ヴィンセント・プライスを取り上げた「６　獅子王伝説」など異様なまでに面白い。他にも宗教と文学の問題、映画人の文学コンプレックス、科学者列伝、倫敦と漱石、白ナイル……関係図書も簡単に手に入るようなら片っ端から読みたくなってしまう。本当に、これが《ミステリマガジン》に連載されていた時は毎月が楽しみだった。普段殆ど映画を観ない僕が〈市民ケーン〉や〈ピーター・ラビット〉をビデオで借りて観たのも当然この本の影響だし、『忠臣蔵とは何か』を買いに行ったが売ってなかったので代わりに『横しぐれ』を買ってきたりしたこともある。いろいろ思い出のある連載なのだ。また、巻を締める丸谷才一の解説も非常に上質なもので、久々に丸谷の本を読みたくなってしまった。
　最近、巷では知識や興味の極端な専門化・分割化が進んでいるようだが、こういった“情報の集積”的な作品を読むと、その膨大な知識量には矢張り憧れてしまうし、何より読んでいて面白い。遊び心も素晴らしい。本当に、いつ手に取っても魅了されてしまう、魔法のような一冊です。

No.364　『イツロベ』藤木稟（講談社）

　もともとこの作者は論理的展開を書くのが得手な人ではないと思っていたので、藤木稟が疑似本格ミステリとは違う方向に進路を向けたのは大賛成。実際、こちらの予想以上に藤木稟は本書で自らの個性を開花させている。特に前半百五十頁までのアフリカのパートは、あちこちに飛び火しながらふらふらと進む不安定な書き方（というより各要素をイメージのまま放り出す書き方と言ったほうが良いか）が作品の異様な雰囲気を高めていて、従来の朱雀シリーズでは弱点でしかなかったものがこちらの作風では効果的な武器になっている。矢張り朱雀シリーズはこの辺で幕を下ろし（慥かこの人はホラーを書きたかったのに、編集部サイドから「ミステリを書いてください」と言われて無理矢理ミステリを書いていた筈）、迷わず自分の作風を活かす方向に邁進してもらいたい。
　但し、そういった具合に作者の進路変更は評価できるのだが、作品自体の出来について言うなら、ホラーのまま終わらせずにＳＦ的な終わり方をしてしまった点が褒められない。話を全てアフリカで終始させていたなら一種の傑作、日本に移ってしまったもののホラーで纏め上げていたなら秀作だったろうが、結末でＳＦに転んでしまったため佳作止まりになってしまった感がある。但し文章は非常に読み易く、朱雀シリーズよりも高感度は遙かに高いので、この路線の新刊を期待したいと思います。

No.365　『幽』松浦寿輝（講談社）

　芥川賞候補作を含む四篇を収録した作品集。但し芥川賞候補になったとはいえガチガチの純文学ではなく、本書収録の四作品は不思議な余韻を残す秀作揃いで、非常に良質な幻想譚として楽しめた。冒頭「無縁」は淡々と進んでいた話が突如過激になって唐突に終わる、という展開が面白い。二篇目「ふるえる水滴の奏でるカデンツァ」はサラ金から逃げる男と片腕を失った女が東南アジアのホテルで愛欲の日々を送る情景を描いたもので、特に幻想的な趣向は無いが、全編に鏤められたオパールの抑えた燦めきが鮮烈な印象を残す逸品。片腕の無い女が登場する辺りは川端康成の超絶幻想短編「片腕」の裏返しを狙ったものかも知れないと感じられた（或いは「片腕」の裏返し＋「眠れる美女」？）。三篇目「シャンチーの宵」は横浜の中国人街に迷い込んだ主人公が不思議な老人と出会う話。シャンチーとは中国象棋のことで、久生十蘭風の物語展開になりそうな話だが、どちらかと言えば幻想的雰囲気よりも社会批判の印象が勝ってしまったのは残念。そして巻末の中編「幽」は吉田健一の幻想世界を連想させる傑作で（もともと独特な文章自体が吉田健一を彷彿させるのだが）、幽寂な趣の作品世界に静かに浸りつつ読み終えた。隣人の女、変容する家、古ぼけたテーラーなど道具立ても実に巧妙だが、人間の孤独感が淡く漂っているところ（これも吉田健一を思わせる）も非常に素晴らしい。読み心地の良い作品で、こういった方向性から幻想文学に接近しようとする試みは大歓迎。積極的に吉田健一の作品集『怪奇な話』と読み比ベてみても面白いかも知れないし、個人的にも様々な幻想文学と読み比ベてみたくなる作品集だった。この作者の作品、もっと読みたい。
　ところでこの作者、「Ｂ墓地事件」の松浦美寿一とは何か関係があるのだろうか。……関係無いだろうな。

No.366　『眠れる美女』川端康成（新潮文庫）

　「個人的にも様々な幻想文学と読み比ベてみたくなる作品集だった」と上に書いたので、折角だから一冊くらいは実際に読み比ベてみようと思って本棚の奥から引っ張り出した（今年は川端康成の生誕百年に当たるので、何か一冊読もうと思っていたことでもあるし）。いやもう本当に、川端康成を「ノーベル文学賞受賞者」で『雪国』で『伊豆の踊子』で「美しい日本の私」というイメージでしかとらえていない人がいたら、是非とも実際に川端作品を読んでみて欲しい。僕自身、初めての川端体験は中学校の図書館で何故か『花のワルツ』だったのだが、なんかこの作家イメージ違うよなあ、なんか変だよな――と思ったことをはっきり覚えている。で、その後にこの『眠れる美女』と『みずうみ』を読んで疑いは確信に変わった訳だ、「ああやっぱり変だ」と。長編『みずうみ』なんて尾行癖のある男性教師がソープランドでサービスしてもらっているところから始まる話なのだ、『雪国』のイメージしか持っていない人が読んだらさぞや驚くに違いない。
　で、本書『眠れる美女』は中篇「眠れる美女」と短編「片腕」「散りぬるを」の計三篇を収録した作品集。表題作は主人公の江口老人が老人専門の曖昧宿（薬で眠らされ活人形のようになった若い娘を客と同衾させる趣向の宿）を訪れ、娘たちと同衾しながら過去の自分の女性遍歴を思い起こすという話。但し谷崎の『瘋癲老人日記』のように老人の性をテーマにしたものではなく、濃厚なフェティシズムが漂っているところに非常に幻惑的な味がある（それだけの話ではないのだが、それを書き出すと長くなるので此処では割愛する）。そのフェティシズムが極限に達するのが次の短編「片腕」であり、「片腕を一晩お貸ししてもいいわ」という娘が本当に右腕を外して主人公に与え、主人公はそれを家に持ち帰って片腕と会話しつつベッドに入るという内容。幻想小説の名品としても名高いので、そちらの方面に興味のある人は取り敢えず必読の短編だろう。巻末の「散りぬるを」は殺された二人の女と殺害した男の犯罪模様を描いた作品だが、犯罪心理小説を狙ったものというよりは、二人の女の世話をしていた主人公の小説家を通して“事件を見る小説家の目”を描いた作品。正直言って好きな作品ではないが、読む人によっては興味深い作品だろうと思われる。以上三篇、御興味がおありの方は矢張り先ず短編「片腕」から読まれることをお薦めします。

　次回はNo.367／柄刀一『４０００年のアリバイ回廊』（光文社）から。正直言って問題の多い作品だと思いますが、それについてはまた来月。それでは皆さま、御機嫌よう。

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