謎宮会 1999/10

読書日記・八月

葉山　響

　三ヵ月遅れの公開という、ネット上では稀有の存在と覚しい我が読書日記ですが、三ヵ月も遅れてしまうと流石に「これは拙いな」と感じ始めてきます。この前書きを書いているのは十一月の頭なのですが、とにかく自分の中で時差のギャップが激しくなってきて……現時点で僕は既に加納朋子『沙羅は和子の名を呼ぶ』も貫井徳郎の『プリズム』も山本文緒『落花流水』も読んでしまっていて、今は恩田陸『象と耳鳴り』とブリジット・オベールの『カリブの鎮魂歌』を読んでいる最中なのですが、今月公開するのは八月分で、まだ『４０００年のアリバイ回廊』とか『第三閲覧室』を読んでいる、うーんかなり前のことだよなあ、という感じ。いずれこのギャップは努力して埋めねばなりますまい。
　それはそうとフクさん、ひとり雑誌なんて無理です、今の状況では（涙）。いずれ頑張ってみますので、それまでお待ちくださいね（いや、本当にネタだけは結構あるんですが、ワープロに向かう時間が……）。

No.367　『４０００年のアリバイ回廊』柄刀一（光文社）

　印象的には、蒼井雄の『瀬戸内海の惨劇』とオースン・スコット・カード『死者の代弁者』（傑作！）を組み合わせたような感じの作品。で、八百枚の長さの中に『瀬戸内海の惨劇』と『死者の代弁者』を一気に詰め込んだらどうなるか、と想像して貰えれば判る通り、ネタの詰め込み過ぎという印象を受けた。作者の気合は充分に伝わってくるのだが、『死者の代弁者』を彷彿させる古代習俗の謎解きと数多くの資料から引かれた人類学的・科学的知識の披露、『瀬戸内海の惨劇』のような雰囲気を漂わせる現代の殺人のアリバイ崩し、そして数多くの登場人物の人間関係とそれぞれが有するエピソードの書き込み、更には遺跡発見に絡む産業処理場建設問題などが八百枚の中に一気に盛り込まれるため、はっきり言って読んでいて非常に息苦しい気分にさせられる。もっとプロット造りに余裕があって良いのではなかろうか。これではあちこちに色目を使い過ぎて結局総倒れしてしまった印象を受けてしまう。
　個別的には、文化人類学的な謎解きが繰り広げられる古代パートはそれなりに面白かったが、現代の殺人のほうは残念ながら何ら面白味の無い仕上がりとしか言えず、過去と現代を結び付けようとする努力も前作より遙かに薄い。そして全体的には、作者の自負がどうあろうとも、本格ミステリを読んでいる気分には全くならなかった。というより、もし本格への拘りが無かったらこの作品、読み易くて面白かっただろうなあ、とさえ思ってしまう。例えば死体発見のプロローグなど非常にアクティヴな美しさがあり、まるで海洋冒険小説の導入部を読んでいるような楽しさを感じさせてくれるし、古代に思いを馳せるロマン的な部分も割と心地好く読ませてくれるのだが（但しラストは別。これは明らかに蛇足）、これらに対し本格ミステリ的には、謎解きに必要である細かな状況説明に入ると途端に筆に生彩が欠けてしまうし、また伏線などの技巧的側面においても感銘を受けるような箇所は殆ど無かった。謎は細々と個別に解決され続け、更に科学的知識が謎解きに絡んでくるのも好感が持てない。以上の点から考えて、この作者の素質が本格ミステリにあるのかどうか、僕は疑問に思うのだ。一度、夾雑物を一切排した純粋謎解き物の長編を書いてみて欲しい。この作者の本格ミステリ作家としての真価はその時に否応なく判明するだろう。たぶんこの作者、本格から離れたほうが絶対に実力を発揮できるだろうと思うのだけど。

No.368　『第三閲覧室』紀田順一郎（新潮社）→　７月号の井戸端ミステリ会議へ

No.369　『第一級殺人弁護』中島博行（講談社）

　当番弁護士・京森シリーズ五篇を収録した中嶋博行初の短編集（因みに本書収録の「不法在留」「鑑定証拠」は推理作家協会賞短編部門の候補に挙げられた）。京森弁護士は当番弁護士制度に登録してはいるものの、熱意に燃える正義感溢れた弁護士という訳ではなく、金にならないので登録したことを後悔しており、当番弁護士の職務を嫌々ながら引き受けている。そのためいつもある程度のところで事件から手を引こうとするのだが、手を引こうとする直前に事件の裏を見抜いてしまったり、打開策を思いついてしまうので、どうせ思いついたなら――といった具合に事件の解決に乗り出すのだ。その辺りの力の抜き方が非常に楽しく、コミカルな味付けもされていて、軽い読み物として充実した出来栄え。常に法律知識が作品の核となるが、リーガル・サスペンスというよりは軽ハードボイルドの味わいが楽しめる作品集と言える。最初の一篇を読んだ時は「こんなもんか」という程度の印象だったが、二篇三篇と読み続けていくとストーリーの方向性も判ってきて次第に味が出てくるので、これから読む人はできることなら一冊通して読んだほうが良いかも知れない。個々の作品では「措置入院」が、アイデアとしては民事事件と刑事事件の違いを利用した割と単純なものながら、それをとても効果的に活かしていて印象的な仕上がり。「鑑定証拠」はやや専門知識の面白さに偏っているような感もあるものの、京森の法廷尋問が楽しめる佳作であり、「民事暴力」は何といってもラストの処理が楽しい。いずれの短編も短編向きのアイデアを上手く選んで料理しているし、個人的には、こういう軽めのタッチの作品を書ける作家は尊重したいと思う。読んで損は無いでしょう。

No.370　『ロマンチック街道』虫明亜呂無（話の特集）

　主にスポーツと恋愛・性の関係を考察した短編十編を収録（一九七九年刊行）。以前から特異な著者名が気になっていて、いずれ読んでみようと思っていたが（とはいえ僕は、『前代未聞の推理小説集』でこの作者が書いた恐らくは唯一のミステリ短編である「奇想曲」なら読んだことがあるのだが）、古本屋で著作を見つけて実際に作品を読んでみると、予想以上に確固とした実力の持ち主だったので驚いた。本書収録の作品はいずれもエッセイであり、ルポルタージュであり、そして小説でもある。これはエッセイとルポルタージュと小説を繋ぎ合わせた作品だという意味ではなく、本書は同時に（一度に）エッセイでありルポルタージュであり小説なのだ。それでいてそれが全く奇異に感じられず、こういう作品は余程強靱な筆力を持っていなければ書き得ないだろう。文章も理知的なもので、非常に感心させられた。個別的にも、ジャンパーに取材した「もっと簡単に」やマラソンランナーを扱った「英国庭園」はスポーツ・ドキュメントとして素晴らしい出来だと思うし（但し、僕はこの当時のスポーツのことを全く知らないため、正確に読めたかどうかは正直言ってやや疑わしい）、「スポーツは、所詮エロチシズムの変形にしかすぎない」と言い切って終わる「大理石の碑」も印象に残る。しかし最も鮮やかな印象を残したのは巻頭の表題作「ロマンチック街道」で、女性性に対する或る種の驚嘆と憧憬の念で締め括られる収束部が面白かった。明晰で、時には解剖的で、微かにエロティックな作品集。装丁も二十年前のものにしては洒落ている。著者が既に亡くなっていることが残念だが、この作者の作品は手に入るなら取り敢えず何でも読んでみたい。

No.371　『千里眼』松岡圭祐（小学館）

　主人公の女性は二十八歳、元自衛隊のパイロットで現在は心理カウンセラーのエキスパート、空手三段で剣道二段、時にはバイオリンまで弾いてしまう才媛。まあ、そういう話である（お前はティプトリーか）。新興宗教の手先が米軍横須賀基地に潜入し、ミサイルを発射させて無人の寺を爆破、そして今度は首相官邸に狙いを定める。まあ、そういう話である。官房長官の名前が野中ならぬ野口、経済企画庁長官の名前が堺屋ならぬ酒井。まあ、そういう話なのだ。つまり徹底的に、あざと過ぎる程あざとい。『催眠』の作者が書いた第三長編は、予想以上に荒唐無稽なＢ級サスペンスだった。デビュー作の『催眠』は、小粒なネタを組み合わせて長編にしたという骨格の脆弱さが気になったものの、割合好感を持って読んだのだが、早くもここまで荒唐無稽になってしまったのか……真剣に読むと白けてしまうような話だが、作者の狙いは小説的な深みやリアリティの方角には向いていないのだから、これはこれで良いのだろう。実際そこそこ売れたようだし、戦略的には成功しているのかも知れない。しかし個人的には、この作者が荒唐無稽な方角へ進むのは勿体ないと思う。何故と言って、国家組織を巻き込んだ荒唐無稽な大筋には殆ど興味を感じないものの、主人公が子供を救うために努力したり、子供の家に行って親の苛々の原因を探ったりするなどの日常感漂うシーンは素直に楽しく読めるのだ。それから犯人の隠し方、これも良いと思う。専門家の主人公と専門知識の無い刑事が張り合うという図式的な人間関係を描きながら、実は刑事の勘が核心を付いていて……というところはなかなか上手い。だからミステリを書く才能はあるのだと思う。この人は自衛隊やテロ組織を扱うよりも、日常的なサスペンスを描くほうが資質に合っているのではないか。もし小ぢんまりと纏まるのが嫌なら、徹底的に取材量を増やして精密な完成度の作品を目指すか、大ホラ吹きになって荒唐無稽と笑いを追求するか、どちらかしか無いと思うのだが、どうだろうか？

No.372　『ハサミ男』殊能将之（講談社ノベルス）→　７月号の井戸端ミステリ会議へ

No.373　『おしゃべり雀の殺人』ダーウィン・Ｌ・ティーレット（国書刊行会）

　《世界探偵小説全集》第二十四回配本作品。「雀が喋った」「木に向かって敬礼する男」という不可思議な謎に対する解答は何ら面白くない。それは或る意味当然で、本書の重点は其処には全く置かれておらず、本書の価値は矢張り一九三四年の時点でナチスドイツの蛮行を予見し、それらに対する怒りを露にしたところにある。そういった意味で本書は発表当時、時事問題を真正面から扱った非常に先鋭的なミステリであっただろうと思われる。ドロシー・Ｌ・セイヤーズの絶賛も宜なるかな、といったところだろう。展開が滑らかではなく、また文章が読みにくいのが残念で（但し後者は作者の所為ばかりとは言い難く、半分以上は翻訳者の文章力によるものだと推察される）、高い志と作家的力量が釣り合っていないように感じられる点が惜しまれるものの、しかしそれでも行間から立ち上ってくる当時の不穏な空気を何処かしら感じ取ることができ、予想外に立派な作品という印象を受けた。だが立派な作品が必ずしも面白い作品とは限らず、正直言って謎の設定やミステリとしての展開は魅力に乏しいため、この作品もそういう類のものと思って読んでいた――のだが、その油断があった所為か、この結末は見抜けなかった。意外な真相を支える論理も決してアンフェアなものではなく、最後まで読んで予想以上に本書がロジカルな本格ミステリだったと知って驚いた程で、読んでいる最中よりも読後のほうが好感度は高かった。ラストの処理も爽やかで、最初は単なる凡人と思われた警察署長クレシュの造形も暖かな印象を残す。最後まで読んで良かったと思った。
　なお、解説で森英俊氏がエリック・アンブラーに言及している点は卓見だと思う。

No.374　『透明な一日』北川歩美（角川書店）

　秀作。真相の意外性や構図の衝撃度は前作『金のゆりかご』に及ばないものの、プロットの洗練度においてはこちらのほうが上であるため、本書を北川歩美の最高傑作とする評者が居ても不思議ではないと思う。前向性健忘症という素材の面白さに頼りきらず、素材をミステリ的な意外性と上手く結び付けているし、アカデミックな世界を舞台にしている割には学術的蘊蓄も控え気味で好感が持てる。しかし何よりも計算されたプロットが綺麗で、多重のドンデン返しを仕掛けるエレガントな手付きは現在のミステリ界でも十指に数えられるものではないか。トリックはシンプルなものだが使い方が上手いので最大限の効果を引き出しているし、設定は複雑だが真相は明快という点も素晴らしい。但し今回は作者があまり真相を隠そうとしていないような感があり、そのためか終盤の意外性が少しばかり薄らいでしまっているのが残念に感じられた。また中盤の展開が地味でやや退屈させられる点、人物の描き方にメリハリが無い点など、幾つか欠点を数え上げることも出来る。しかしそういった欠点はあっても、矢張り本書はレベルの高い、システマティックな快作と言えるだろう。この作者は転機となった『猿の証言』以来見事な変貌を遂げたと思う（とはいえ『猿の証言』自体を褒めるつもりは無く、北川歩美が本当に作家的成長を遂げたのは矢張り『金のゆりかご』だと思うが）。以前と比べて筆力も安定しているので、次作が楽しみです。

No.375　『ＭＩＳＳ　ＹＯＵ』柴田よしき（文藝春秋）

　若手女性編集者を主人公に据えた作品で、実に上手い。プロットはかなり入り組んだものだが、滑らかな筆捌きで渋滞することなく書き進められているし、登場人物も個性豊かに描き分けられており、全体を通して危なげなところが無い。そして、本書は出版業界を舞台とした業界小説であるとか、複雑なプロットを有したサスペンス・ミステリであるというよりも先ず、ヒロインの成長小説として抜群に鮮やかだった。前述の通りプロットは複雑なものだが、ストーリーを本格ミステリ的な構成で描こうとせず、飽くまでヒロイン中心の物語として書き上げたことが本書の成功要因だと思う（だから真相の提示にやや唐突な箇所があっても、それは些細な事として認められる。とはいえ一応書いておくが、本書はミステリとしても良く出来ているので誤解の無いようお願いしたい）。仕事は順調で結婚も間近という安泰な境遇の中で、突然振り掛かった幾多の試練を、時には挫折しそうになりながらも力強く切り抜けていくヒロインの造形が素晴らしい。その主人公を取り巻く人物の配置も良く考えられたもので、これだけ多くの登場人物が登場していながら無駄な駒が一つとして存在しない辺り（ミステリ的には関わってこない人物でも、小説的な側面のほうで必ず何らかの形で活かされている）、流石と言う他無いだろう。また、様々な愛の形を描いている点も印象的で、とにかく処理に感心させられた（どうして感心させられたのか、その理由は残念ながら真相に関わることなので此処には書けない）。爽快な幕切れも見事で、これはかなりの出来栄えと言っても過言ではないと思う。方向性は違うが、本書は『少女達がいた街』と並んで現時点での柴田よしきの代表作と呼べる作品ではないか。今年の収穫の一つに数え上げられる秀作、面白かった。

No.376　『密やかな結晶』小川洋子（講談社文庫）

　ある島を舞台とした、忘却と喪失の物語。鳥やリボンや香水など、物がひとつずつ“消滅”していく世界の中で、思い出を大切にしようとする者たちは忘れることを強要され（記憶狩りと称される）、いつまでもそれらを忘れることができない者は“秘密警察”に連れ去られてゆく。本書はそういう世界を描いた寓意の物語であり、ある意味非常に残酷な作品だった。島の住人たちは徹底的にあらゆる物を剥ぎ取られてゆく。好きなものを奪われ、職業を奪われ、それらに対する情熱や愛情さえ奪われ、何が大切だったのかを忘れ、やがてはそれを思い出すことさえ苦痛となり、遂には自分の存在までもがゆるやかに奪われてゆく。その世界を小川洋子はあまりにも澄み渡った視点で描いているため、生々しい悲劇性が強調される訳ではないが、恐ろしいことに変わりはない。特に情熱までが消滅していくのは恐ろしかった。ある朝、小説が“消滅”していることに気づいた島の住人たちは本を火に焼べ、図書館ごと燃やしてしまうのだが（此処がひとつの絶頂の場面）、これに小説家の主人公も唯々諾々として加わる。後日、主人公は同居人（秘密警察から隠れて主人公の家に住んでいる）から小説を書くことを強く薦められるが、彼女は書く情熱を既に失っており、逆に書くことが苦痛になるのだ。何が大切だったのかさえ忘れてしまう――これは恐ろしい。厳密に考えると本書にはおかしな箇所もあるのだが（例えば、何故おじいさんのフェリーは秘密警察によって撤去されていないのか、など）、こんな小説をよく書いたな、と思ってしまった。解説にもある通り、本書がナチのユダヤ人狩りを下敷きにしていることはほぼ間違いないだろうが、それを意識しなくとも自由な読み方が可能な作品と言える。ラストの余韻も素晴らしく、澄み切った悲しみに満ちた傑作。矢張り小川洋子は才能ある作家だと思う。

No.377　『カニスの血を嗣ぐ』浅暮三文（講談社ノベルス）

　『タブ（エ）ストン街道』で第八回メフィスト賞を受賞した浅暮三文の受賞第一作。純粋な幻想小説だった前作とは趣を変え、今回はミステリに傾斜した内容となっている。
　惜しむらくはプロットに弱点がある。殺人事件の真相を追いかける二人の男（主人公と刑事）の視点を交互に並べているのだが、これを交互に読んでいると読者にはかなり早い段階で事件の全体像が判ってしまうのだ。そのため二人の男は既に読者が知っている真相を延々と追いかけることになり、結果として中盤が退屈になってしまった憾みがある。また、本書に登場する刑事は非常に直感の鋭い人物として描かれているだけに、もう少しアクティヴな役割を持たせても良かったのでは、と思われた（こういう幻想味豊かな作品の中でなら、勘の鋭い刑事という設定も斬新に感じられるのだな――と興味深く読んだため、残念に感じられたのだ）。あと些細なことだが、様々なことに直感を発揮する割にはこの刑事、主人公が犯人だと延々と思い続けており、その点にも少しばかり疑問が残った。――というように重箱の隅を突つこうと思えば突つけるのだが、しかし本書は斬新な魅力を持った、優れた実験作であると思う。
　誰が言ったのかは忘れたが、小説で最も難しいのは音楽の感動、または音楽そのものを小説で書き表すことなのだそうだ。確かにその通りだろうが、それに次いで嗅覚を書き表すというのもかなり大変なことではなかろうか。ましてや本書の主人公は嗅覚が極度に発達した男であり、これを小説化するのは大変なことだろうが、作者は表現手段に幻想的手法を活用することで、現実世界を香りの迷宮として見事に描き出している。いわば本書は現実世界を描いていながら“もう一つの世界”を描いてみせた作品とも言える訳であり、これを描き上げた作者の筆力は賞賛されて良いものだと思う。また主人公はかなりの悪臭も嗅いでいる筈だが、それをありのままに汚らしく描写しない節度ある筆致にも好感が持てた。刑事を「冷たい銀色の匂い」と形容する表現のセンスも素晴らしい。この作者の作品は初めて読んだが、予想以上に基盤のしっかりした書き手のようで、語り口で勝負できる作家の登場は大いに歓迎したいと思う。

No.378　『烙印』大下宇陀児（国書刊行会〈探偵クラブ〉）

　戦前・戦後に渡って活躍した巨匠・大下宇陀児の短編九篇を収録した傑作選。今日的視点で読むならミステリ的技術に目を瞠らされるものは特に無いが、滑らかな語り口が素晴らしく、例えミステリ的不満があったとしても心地好い語り口が軽くその不満を払拭してしまう。前半は割合平凡だが後半の展開が見事なサスペンスを生み出している表題作「烙印」、全て書簡体で統一された戦前の貴重な本格推理短編の秀作「偽悪病患者」（個々の出来で言うならこの作品は集中一、二を争う完成度）も見事だが、特に感銘が深いのは「毒」「灰人」「不思議な母」「蛍」といった、より強く日常生活に基盤を置いた諸作であり、これらの作品を読むと大下宇陀児が国産ドメスティック・サスペンスの先駆者であったことがよく判る。子供の視点から犯罪の顛末を描き切った「毒」、犬と老人の関係が絶妙な「灰人」、殺人の発生と解決を通して或る女性の人生を暖かな視点で描き上げた「不思議な母」、そして玲瓏たる逸品「蛍」と、ミステリ的構成が弱いものも中にはあるがいずれの短編も印象に残る出来栄えで、この作者が提唱した“ロマンチック・リアリズム”という概念は現在でも研究対象と成り得るものではないかと改めて感じられた。また、ロマンチック・リアリズムとは作風の異なるグラン・ギニョル風幻想短編「魔法街」は並のホラーよりも余程悪魔的な余韻を残す傑作だし、一方「金色の獏」は軽妙洒脱なコン・ゲームで、本書は大下宇陀児の引出しの多さを窺わせる短編集としても楽しめる。今でも手に入るようなら、買っておいて損は無いでしょう。

No.379　『隕石誘拐　宮澤賢治の迷宮』鯨統一郎（光文社カッパ・ノベルス）

　全体的に破綻しており、細かな点でも納得の行かない箇所が散見される。例えば冒頭で、壁に叩きつけられた子供が「目を開いておとなしくな」り「首が嫌な角度に曲がってい」たというのに、次に登場する場面では何一つ怪我をしていないのは矢張り変だと思うし、「『銀河鉄道の夜』には星の描写がない」と書いた七頁後で、その『銀河鉄道の夜』から「そしてジョバンニは青い琴の星が、三つにも四つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、とうとう蕈のように長く延びるのを見ました」と星の描写を引用しているなど、面妖な箇所が非常に多い。『銀河鉄道の夜』と夏の大三角形を結び付けるアイデアも慥か以前ますむら・ひろしが主張していたもので（北村薫がこれを主張した扶桑社文庫『銀河鉄道の夜』収録の「未来圏からの質問／文庫本あとがき」を絶賛している）、全体に漂う変な残虐性も良い印象を持てないし、日本を変えるためと称して催淫剤の開発に励む首領の造形など正直言って阿呆過ぎる。要するにこれはミステリというより所謂トンデモ本であり、それ以外の視点では楽しみにくい。但し、破綻した推理をまともに見せかけるべく腐心していた『邪馬台国はどこですか？』よりは、「何処まで行っても変は変」を貫いているこちらのほうが個人的に好感は持てた。まず絶対に少数意見だろうが、私見では『邪馬台国はどこですか？』に書かれていたことは本書の内容と大差無く、僕としては「変は変」を貫いたこちらのほうが苛々せずに読めました。

No.380　『妖精たちの回廊』赤江瀑（中公文庫）

　“異色推理”と銘打たれた赤江瀑の長編。絢爛たる錦鯉の美に狂わされた男たちを描こうとした作品だが、赤江瀑は『オイディプスの刃』など幾つかの例外を除くと長編は必ずしも上手くなく、正直言って本書も“長い短編”で終わっているような印象を受けた。しかも錦鯉の美を描くのにミステリ的構成を用いたのは失敗だったとしか思えない。ミステリとして読むと本書は明らかに出来が良くないし、左程ミステリに拘った作品とも思えないのだが、何故か本書は他の赤江作品よりもミステリ的構成に則って書かれているため、どうしても錦鯉の存在よりも謎の興味（殺人事件とその真相）のほうへ目が行ってしまい、結局は錦鯉業界という特殊な世界の空気や錦鯉の妖美さが読者を納得させる程には伝わってこないのだ（だからやや特殊な人間心理も観念的過ぎるように見えてしまう）。ミステリとして読むと凡作だが内容は面白かった『金環食の影飾り』とも一線を画してしまう完成度（とはいえ『金環食』も、本筋より作中作の歌舞伎台本《大内御所花闇菱》のほうが圧倒的に面白いという困った長編ではあったが）。期待して読んだのだが、失敗作としてしか評価できないのを残念に思う。
　因みに錦鯉を扱ったミステリは殆ど無く、太田蘭三『三人目の容疑者』と吉岡道夫の乱歩賞候補作『メビウスの魔魚（文庫化に際し『《稲妻》連続殺人』と改題）』の二作品が思い浮かぶ程度。この業界、ミステリ的には案外盲点かも知れません。

No.381　『死の花の咲く家』仁木悦子（角川文庫）

　随分と手に入れるのが遅くなったが、最近やっと手に入ったので早速読破。これで文庫化された仁木作品は全て読破したことになる（単行本にさえ未収録のまま放置されている中編二つの刊行が待たれる）。他の作品集と同じように本書も乱れの無い完成度で、多少ミステリ的に弱い箇所があっても、其処を小説的余韻などで見事にフォローしている辺り、職人芸と言っても良いだろう。楽しい犯人当ての表題作「死の花の咲く家」ほか、「空色の魔女」「赤い真珠」「巷の騎士」「夏雲の下で」「毒を制する法」「鬼子母の手」の七編が収録されており、いずれも短編も好感の持てる仕上がりだが、特に「巷の騎士」における子供の描き方には唸らされた。子供を愛玩物としてではなく、人格を持った一人の人間として描く作者の凛とした姿勢が読み取れる印象深い佳品。だが、本書から一編だけ選ぶのであれば、敢えて「毒を制する法」を挙げてみたい。巧妙なミスディレクションが仕掛けられた傑作だが、この短編の作者が仁木悦子である、ということが一層意外性を引き立てている。ハートフルな小説を書く作家という前に先ず、仁木悦子は優れたミステリ作家であったのだ、ということを改めて感じさせてくれた（あまり言及されないようだが、仁木悦子のミステリ・テクニックは素晴らしい）。現在仁木作品は殆どが絶版で、全作品復刊ということは難しいだろうが、せめて傑作選くらいは文庫で簡単に手に入るようにしてくれないものだろうか。

No.382　『空想工房』安野光雅（文春文庫）

　画家・安野光雅の第一エッセイ集（安野光雅と言って判らない人は、新潮文庫の井上ひさしの表紙絵を思い浮かべてくれれば判るのではないか）。以前鴨下信一が見事な文章読本『忘れられた名文たち』の中で書いていたが、文章練達の画家の輩出は日本の伝統と言えるそうで、しかも画家の書いた文章はみな何処か優れたユーモア感覚を持っているのだという。本書もその例に漏れない、というよりも画家随筆の筆頭に推されるべき優れたエッセイ集だろう。モノを見る眼差しが深く、深く感じ入る場面や鋭い指摘が全体に鏤められていて、しかもイノセントなセンスに溢れている。一連の数学的思考エッセイ「座標感覚」に始まり（正直なところ“トポロジー＝位相幾何学”なるものがどういうものか僕は本書で初めて知った）、著者が刊行した絵本に纏わる文章を集めた「絵本」、ファンタジックな作品（半エッセイ半小説）と過去のエピソードの集合体「砂時計」、そしてやや硬派な話題を扱った「視点」と四つの章に分けられているが、中では「砂時計」が最も好みの内容で、特に二十二年分の年賀状を一度に披露した「年賀状」は笑いながらも豊かな発想にひたすら感心させられた。この「年賀状」の直ぐ後に収録されている、一九七〇年の年賀状を巡って起きた波紋を半小説仕立てで描いた「空想犯」など、優れたユーモア感覚と「如何に書くか」という計算無しには書き得ない傑作だろう。胸に沁み入るエピソードが綴られる「赤がね」、イノセントなセンスが素敵な「蜜蜂」や「キリギリスと白菜」も印象に残った。この本、友人に薦められて読んだのだが、確かに面白い。機会があれば今度は本職の絵本も手にとってみようと思う。

No.383　『蛇神』今邑彩（角川ホラー文庫）

　文庫書き下ろしホラー長編。展開が上手く文章も滑らかで、楽しみつつ一気に読み終えたのだが、残念ながら読後に印象に残るものが無い。閉鎖的村社会に昔から伝わる異様な祭に心ならずも巻き込まれてしまった二人の女性の運命を二部構成で描いた作品で、出来が悪い訳では決してないが、どちらかと言えば内容は平凡で、その平凡な内容を巧みな展開と描写力だけで纏め上げた作品、という印象を受けてしまった。また、ホラーやサスペンスにありがちな、「危険な状況に置かれているのが判ってるならさっさと逃げれば良いのに」という心理の不自然さをこの作品も踏襲してしまっているので、結果的にはちょっと推しにくい。但し一箇所だけミステリ的な意外性を持たせたところがあり（それは第二部の途中で割れる）、その辺りは割と上手いので、プラス部分とマイナス部分が相殺されて、イメージ的には無難な佳品というところか。文庫書き下ろしで出た作品ということもあるし、過度な期待をしなければ楽しめるでしょう。

No.384　『屑籠一杯の剃刀』原田宗典（角川ホラー文庫）

　隠れたニューロティック・スリラーの名手、原田宗典の自選恐怖小説集。……とはいえ本書がこの作者の頂点を示す恐怖小説集だと考えるのは間違いで、『あるべき場所』や『０をつなぐ』のほうが作品集としての完成度は高いと思う。本書最大の売り物は矢張りデビュー前に書かれたという二つの未発表作品が収録されている点だろうが、「いやな音」は正直言って平凡な出来、掌編を集めた連作「屑籠一杯の剃刀」はやや物足りなさの残る完成度で、矢張り「デビュー前の作品だから上手くはないな」という印象を受けてしまった（連作の一編「西洋風林檎ワイン煮」は『優しくってすこし馬鹿』に収録されたロング・バージョンのほうが異様な熱気を味わえる）。他は全て以前刊行された作品集に収録されているものだが、多岐川恭の名編「落ちる」の裏返しのような「ミズヒコのこと」、洒落た傑作スリラー「ポール・ニザンを残して」、ドンデン返しが鮮やかな「空白を埋めよ」など秀作揃いと言える。だが前述の通り、これが原田作品の最高峰と思うのは早計で、本書で初めて原田作品に触れた読者は、是非とも他の短編集も手にとってみて欲しい。

No.385　『Ｔ.Ｒ.Ｙ.』井上尚登（角川書店）→　７月号の井戸端ミステリ会議へ

No.386　『ホテル・ディック　探偵は眠れない』都筑道夫（新潮文庫）

　『殺人現場へ二十八歩』『毎日が十三日の金曜日』の二短編集に続いて書かれたホテル・ディックシリーズ初の長編（そして現在のところこのシリーズ唯一の長編）。ホテルの警備室にかかってきた「客を殺す」という殺人予告の電話を発端として、事件が終わりを告げるまでの一日半を描いたサスペンス・ミステリである。如何にも小味な佳作という印象で、欧米の警察小説やサスペンス・ミステリと比べると内容のスケールが小粒である感は否めないが、作中に書き込まれる浅草の風俗や多彩な登場人物が欧米作品には見られない渋い味わいを引き出していて（スピーディーな展開を重要視する欧米作品には見られない、或る種のゆとりが感じられるのも嬉しい）、総合的には満足できる出来だった。殺害予告者、および彼が狙うターゲットの両方を見つけ出さなければならない、という設定の面白さに加え、「殺害予告電話をかけてくることに何の意味があるのか」という理由もしっかりと押さえられてあり、文庫書き下ろしではあるが馬鹿にはできない完成度と言えるだろう。本書執筆当時、都筑道夫は文庫書き下ろしで『髑髏島殺人事件』や『前後不覚殺人事件』など褒められない出来の作品を発表していたため、この作品も一応買ったまま今まで読んでいなかったが、どうやら文庫書き下ろし作品の中ではこれが一番出来が良かったらしい。手堅く纏められた佳品でした。

No.387　『殺意のプリズム』川奈寛（産報ノベルズ）

　乱歩賞落選経験者・川奈寛が（たぶん）一冊だけ刊行した長編ミステリ。この作品は（何時になるかは判らないが）いずれ何らかの形で謎宮会で取り上げられるだろうと思うので、此処で感想を書くのは止めておきます。

No.388　『高野聖・眉かくしの霊』泉鏡花（岩波文庫）

　鏡花の代表中編「高野聖」と「眉かくしの霊」の二篇を収めた作品集。「眉かくしの霊」をまだ読んでいなかったので、岩波文庫を買ってきて、ついでに「高野聖」も読み返してみた。
　「高野聖」は鏡花の最高傑作と称されることもあるものの、個人的には淡い印象しか残っていない作品だったのだが（「歌行燈」や「龍潭譚」や「茸の舞姫」のほうが印象は強い）、読み返してみたところ予想以上に楽しめた。と同時に、何故初読時には印象が薄かったのかも読み返して納得。この作品、長閑というか、妙に明るいのだ。また説話的な色彩の強い内容でもあるため、初読時はその辺りが物足りなかったのだろう。しかしそういった話だと知って読むとこの話は大変良く出来ている。旅の途中で出会った僧侶から諸国行脚の話を聞くという巧みな導入部、旅僧が森に迷い込む箇所での鬱蒼とした森の描写、山中の孤家に住む美女と白痴の（何処かしら異様な）取り合わせ、白痴の少年が発する唄声の清らかさ、可憐にして婉麗な美女、そして簡潔に纏められた最後の一行と、いずれもが鏡花の良さをよく示している。
　「眉かくしの霊」は幽霊が登場する小説だが、個人的には幽霊の怪異譚を楽しむというよりも、舞台となる鄙びた温泉宿の情緒であるとか、鶫料理が美味しそうであるとか、周りの景色が鮮やかに目に浮かぶようであるとか、そういったところを楽しんで読んだ。後半になって幽霊が登場するが、この幽霊が如何にも鏡花的美女であるところも楽しく、“百畳敷程の真青な池の上で鏡台を置いて化粧をする婦人”という芳醇な美的感覚は正に鏡花の真骨頂だろう。但し、後半で語られる怪異の原因は（前半が美や情緒に溢れているだけに）やや生臭い印象を受けてしまう。解説によると怪異の原因である人間関係は未完の長編『彩色人情本』で既に描かれていたものだそうだが、長編のプロットを短い枚数で一気に説明してしまったために生臭さが浮き出てしまったのかも知れない。其処が残念ではあるが、しかしまた一つ好きな作品が増えた。鏡花は絶対に焦って読むまいと決めているのだが、思わず焦って乱読したくなりますね。

No.389　『月と炎の戦記』森岡浩之（角川Sneaker Books)

　森岡浩之初のファンタジー長編。時は神話の時代、村人たちの懇願により化け物退治へ出掛けざるを得なくなった人間の少女・カエデは、旅の途中で半人半熊の狩人に夕飯の対象にされそうになり、我が身の不運を嘆いた彼女は天に向かって月神ツクヨミに対しあらん限りの罵声を投げつけたところ、却ってツクヨミの召還に成功する。ところがこの青年神は一筋縄では行かない性格で……というストーリー。プロット的にはさして優れている訳ではないような気もするが（着眼点は面白い）、とにかくカエデとツクヨミと兎の騎獣ツユネブリの掛け合いが圧倒的に楽しく、真に「キャラが立っている」とはこういう作品のことを言うのだと否応なしに納得してしまった。このくらいキャラが立っていると何の迷いも無くキャラ読みに徹することができる訳で、文句無しに楽しめる。今回初めて森岡浩之を読んでみたが、確かにＳＦ方面で話題になるだけの筆力は備えている作家だと思う。『星界の紋章』は表紙が好みのタイプとは言いかねるので読むのを敬遠していたが、少し興味が湧いてきた。

No.390　『夜想曲』依井貴裕（角川書店）→　「探偵小説を読む４」へ

No.391　『白夜行』東野圭吾（集英社）

　東野作品中、最長の作品。一九七三年から九二年までの十九年間を年代記的方式で書き進め、更に各章ごとに中心視点人物を変えてゆく多視点描写を採用した長編だが、書くのが非常に面倒と思われるこの構成を破綻せずに纏め上げているのは流石東野圭吾、構成の点だけを取り上げても作家的実力に溢れていることが判る（但し、年代を示す記述が作為的過ぎるように感じられる箇所が無い訳ではないが）。更に、本書は非常に緻密に計算された作品で、細かな描写に後から次々と重要な意味付けが成されてゆく辺りの手際には瞠目すべきものがあり、確かに今年の収穫のひとつとして数え上げられる秀作と言えるだろう。――だが、雑誌連載中の連作短編という形式が長編化により消滅してしまった以上、果して本書の内容が巧緻な計算を必要とするものだったか、ということには若干首を傾げざるを得ない。もともと本書の内容を描くのに、緻密な計算による連作短編形式が適していたとはあまり思えないのだ（この構成はストーリーの奔放な展開を許さず、ストーリーを小さく縛り上げてしまったように思える）。もし連作短編形式が最後まで貫かれていたとすれば、それはそれで素晴らしい出来になっただろうと思うのだが、結局本書は加筆訂正の末に長編として刊行され、しかしプロットには連作短編形式の跡が残っているから、連作形式としては中途半端な出来、長編としては連作短編的構成がストーリーの奔放な展開を邪魔している、という或る種の苦しさを感じてしまう。筆力には感嘆させられるし、読んで損の無い作品だと思うのだが、それでも本書は青写真に狂いが生じてしまった作品ではないかという印象を振り切ることが出来ないので、実力派・東野圭吾のベストとしてこの作品を推す気にはなれません。

No.392　『吃逆』森福都（講談社）

　中国は宋の時代を舞台に据えた連作ミステリで、捕物帳を思わせる雰囲気の作品だが、困ったことにミステリの構成も捕物帳同様非常に頼りない。一作ずつ進歩しているのは認めるが、ミステリを期待して読んで腹を立てた読者もいるのではないか。激しい吃逆（しゃっくり）をする度に奇妙な光景が頭に浮かぶという不思議な能力を持った男が、新聞発行人に探偵としてスカウトされ、彼と二人で事件解決に乗り出す――という内容なのだが、主人公の奇妙な能力が不可解な謎の設定や解決などに活かされる訳ではなく、単に推理によって解き得ない裏事情を読者に明らかにする目的で使われるだけなので、ミステリを読む喜びを感じさせてくれないのだ。特に第一話「綵楼歓門」はその印象が強く、正直言って読み終えた時は非常に困ってしまった。後続の作品ではそういった不満は薄れたが、しかしそれは改善されたために薄れたのではなく、「吃逆探偵」という設定自体に重点が置かれなくなったためであり、いくら不満を感じなくなったとはいえども連作としては矢張り問題がある。という訳で本書は弱点の多い連作なのだが、――しかしストーリーは面白い。中でも最終作の第三話「鬼市子」は読み応えがあって、流石は第三回松本清張賞受賞者だと思わせた。全体の雰囲気も悪くなく、登場人物も個性的で、どこかおおらかな味がある主人公の人柄にも好感が持てる。結局読んで損をしたという印象は受けなかった。この作者、無理にミステリに留まる必要は全く無いと思う。ミステリ作家としてではなく、物語作者としての今後の成長を期待したい。
　あと、他に興味を引いたのは、本書にはどれくらい歴史的な嘘が混じっているのだろうかという点で、例えば第二話「紅蓮夫人」で苦羅礼という矢毒が出てくるのだが、これは明らかにクラーレのもじりだろう。という訳で、こういうヌケヌケとした遊びが好きな僕としては、本書の中にどのくらい嘘が混じっているのか知りたくなってしまった。他に何か気がついた方、教えてください。

No.393　『月の砂漠をさばさばと』北村薫（新潮社）

　おーなり由子の絵との相乗効果で暖かな雰囲気に包まれた掌編集。だが、内容的にはあまり楽しめなかった。雰囲気は良いが、日常生活に寄り添い過ぎて物語に飛躍が殆ど無く、子供が読んで面白いとは思えない。母子関係を優しく描いた作品集とは言えるものの、やや教育指導的内容（これは子供に向けてではなく大人に向けたもの）の色彩が強くなってしまっているような感を受け、個人的にはあまり好みではない。中では本当に微笑ましいだけの話である「さそりの井戸」「連絡帳」が最も虚心坦懐に楽しめた。

No.394　『幽霊が多すぎる』ポール・ギャリコ（創元推理文庫）

　ポール・ギャリコがここまで本格的な長編ミステリを書いていたとは意外だった。カントリークラブとして開放された貴族の館でポルターガイスト騒ぎが勃発し、心霊研究家の私立探偵ヒーローが事件解決のために屋敷を訪れるという内容で、怪奇現象を扱いながらもユーモラスなタッチで全体を纏め上げており、なかなか楽しい作品に仕上がっている。ミステリとしては、小さな事件と小さなトリックを積み重ねて長編に仕立てたという印象で、ポルターガイストのトリックにさして見るべき点は無く、また犯人指摘のロジックにも特に優れた箇所がある訳ではないが、冒頭は（ミステリ的に）非常に丹念に描かれていて感心した。真相を知ってからもう一度読み返すと様々な意味で感慨深いので、読み終えた人は冒頭を再読してみると興味深いのではないかと思われる。ほか、全てが一本の糸で繋がる訳ではない構成も普段なら不満を表明するところだが、本書は用意周到にも始めから題名で「幽霊が多すぎる」と謳っているため、その点に文句をつけると野暮になってしまう辺り、ズルいが上手い逃げ方だと思った。――が、そういう長所はあっても、矢張り本書はどちらかと言えば趣向の面白さとストーリーテリングで読ませる作品と言えるだろう。恋愛の描き方にやや強引な印象は受けるものの、登場人物の描き分けが抜群に巧みで、中でも少女ノーリーンはギャリコの真骨頂たるキャラクターと言える。探偵役ヒーローの継妹メグや寡婦ジェラルディン・テイラーも実に活き活きとしたキャラクターで印象に残った。最後に浮かび上がる犯人像も上出来なものだし、ストーリーの捌き方・纏め方も堂に入ったもので、ギャリコの小説家としての手腕を感じさせる。よく出来た佳作だと思います。

　以上、八月に読んだ本は二十八冊。次回はたぶん、九月ではなく十月の読書日記を先に公開することになると思います。それでは皆さん、御機嫌よう。

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