謎宮会 1999/12

MY FIRST 幾瀬勝彬

戸田 和光

 本HPで、幾度となく話題になったことがある幾瀬であるが、実を言えば、私は今まで一冊も幾瀬を読んだことがない。何冊か持っていた、というだけである。
 これじゃあまずいかなぁ、と思っていた矢先、この企画が持ち上がったため、これ幸いとばかり、便乗することにしたのだった。
 という訳で、私の幾瀬初体験の感想となる。


「死を呼ぶクイズ」

 元テレビ局の制作部長で、クイズ番組での八百長事件がもとで系列の音楽会社に移った男が自殺した。八百長事件を公にした新聞記者の白方真紀子は、責任を感じる一方で、死の裏側に疑惑の影を感じて、取材を開始する。そして、ビデオ・テープの新製品開発にからむ、謎の事件に行きあたる。
 その矢先、今度は八百長事件の証言をした男が事故死をした。こちらの取材も始めた真紀子は、この死の周辺にも何者かの意思を感じるのだった。
 一見すると、事件には見えない2つの死。しかし、死ぬ直前に、被害者たちは正体不明の中年の男と接点を持っていた。しかも、男たちにはいずれも、八百長事件という共通点がある。
 八百長事件の発覚がもとで失脚した男二人に的を絞って、2つの事件との関与を調べ始めた真紀子だったが、二人の男にはいずれもアリバイがあり、取材は大きな壁に突き当たってしまった。
 そんな矢先、3番めの事件として、クイズ番組のスポンサー企業の担当と、広告代理店の男とが、交通事故死した。彼らも、八百長が発覚した時、それまでの関与を否定し、失脚した男たちにすべての責任をなすりつけていた。
 ――次は私の番かも知れない。真紀子は、上司に相談して、グループによる取材を再開する。アリバイの歪みを見つけた彼らは、事件の裏側に少しずつ肉薄していく。そして、犯行の構図を解き明かし、いくつかの証拠をつかんだ。
 しかし、事件の終結の予感を感じさせた翌朝、最後の悲劇が起きて……。

 幾瀬のデビュー長編にあたる一冊である。乱歩賞の最終候補となった「ベネトナーシュの矢」をもとに、文庫書き下ろしとして刊行されたものになる。個人的には、二十数年前に、新刊として書店に並んでいた時に買い損なってから、昨年、本当に久しぶりに古書店で遭遇したものであり、一種の思い入れを感じていた長編であった。

 で、期待しながら読んだのだが……。どうも、余り面白くない。いや、全く取り柄がない訳ではないのだが、多少(かなり?)スレてきた目でみて、いろいろと考えながら読んでこその面白さであり、純粋に、ミステリとして楽しめる小説とはいいにくいのだ。少なくとも、二十数年前に読まなくて正解だった気はする。

 致命傷なのは、主人公の女性記者に魅力が全くないことだろうか。事件についての考え方が時として飛躍しているし、取材して回る部分も、行き当たりばったりの行動を繰り返しているようにしか見えない。この長編、一応本格ミステリの手法を採っているのだが、彼女が論理的な考察を進めているとは思えないのである。その他にも、仙台支局員を相手の会話の部分など、単なるイヤな人間としか思えない描写もされており、折角の主人公に対する幾瀬の描き方には、疑問を覚えてしまう。
(この辺の感じには、真紀子が文化部記者という設定になっているせいもあるだろうか。常識的に考えるなら、八百長事件の取材を出発点にするとしても、社会部記者という設定でも構わなかった気がするのだが。勿論、文化部という設定であるために、何か甘えてるようにさえ思えてしまう真紀子の事件記者としての心の動きにも合理性が与えられている面はあるのだろうけれど、如何せん、それが読者には何の同情心も与えないのだ。描写が単調で、単なる説明に見えるからだろうか。トータルで見ると、やはり、これは設定の誤りという気になってしまう)

 同じことは、脇役の描写にも言えそうだ。意外な犯人を演出しようとしているのは分かるのだが、余り成功している気がしないのだ。極端な表現をしてしまえば、事前に犯人を出しておく都合上、この辺に登場させておけばいいのかな、といった計算だけが先にあっての人物描写に思えてしまう。逆に、これ以上の描写をすると、読者に先入観を与えちゃうんじゃないか、といった作者の心配が、行間に見えるかのようだ。結果的に、犯人にするためだけの登場だったんじゃないか、という気さえしてしまった。

 あるいはこれは、構成にメリハリがないせいかも知れない。先の粗筋の事件を辿ると、最初の自殺事件にからむ部分をワーッと書いてから、次の事故死に絡むことを延々と書く。それらの関連性については、余り描写されないのである。合間合間に挿入される、主人公の周辺の記載も、何か単発的でふくらみがなく、エピソードとしての面白さには欠ける印象がある。
 そんなこともあり、半ばを過ぎて、複数の記者による、合同チームによる取材になってからは、(個々の事件を別な記者が調査し、それをお互いが報告しあう、という方式に変わることもあり、)物語がかなり整理されて来た印象を受ける。最初からこの構成を採っていたら、もっとずっと読みやすい長編になっていたのではないか、という気にさせられるのだ。

 また、要所要所で出てくる、ヒントを与えてくれるためだけの人物たちが、余りにムシがよい存在になってしまった感じも残る。本格ミステリとしての骨格を弱めている気がするのだ。捜査の手続きを一部省略しているだけじゃないか、といったら極端かも知れないが。
 同じことは、解決部分の作り方にもいえる。犯人のモノローグで、曖昧なところをすべて語らせてしまうのは、やはり損ではなかろうか。動機を説明する都合上、こうするしかなかったのかも知れないけれど、それでも、第一の死者についての説明は、そこでも十分に語られた気がしないので、小説全体の印象を悪化させているような気がする。

 勿論、欠点ばかりではない。
 本格ミステリとしての構成を別にすれば、トリック等は、よく考えられていると思う。飛躍したトリックはなく、既存のものをアレンジして組み合わせる、といった感じではあるけれど、提示されたアリバイの中の歪みをもとにアリバイを崩す、といった構成を採っていることもあり、印象は悪くない。同様に、密室トリックも、ちょっとズルくない、という気もするけれど、盲点をつかれた意味はあり、これはこれで評価してもいいかな、と考える。先行作品がなければ、所謂“コロンブスの卵”なのではなかろうか。但し、“暗号のための暗号”としか表現しようがない、最後に示される暗号には、笑うしかなかったけれど。

 また、社会派という側面から見ると、テレビ番組のヤラセといった、現代でも通用するだろうテーマを、30年前に既に取り上げていたことは、褒めていいと思う。責任は現場のチーフに負わせ、知らぬふりをするスポンサー、という構図は、そのまま現在にも成り立つのではないか。実際、全体的に、古さは殆ど感じなかった。テレビ局でディレクターをしていた、という幾瀬の経歴から見ると当然なのかも知れないけれど、この視点は現在でも通用すると思う。
 それに、上司の話として語られる、真紀子の書いた八百長告発の新聞記事の、一面的な表現の危険性も、現在にも通用するだろう。出来るなら、その真紀子の記事を(プロローグ、といった形で)冒頭に掲げる、といったことをしておけば、その後のストーリーの行方の暗示にもなりえて、物語に緊迫感を与える効果も期待できたのではなかったか。
 逆に言えば、それらが単なる話題の一つとして終わっているのは、ちょっとばかり物足りないのだ。あくまで、社会派ではなく本格を書こうとしたのだ、という作家の姿勢の問題になるのかも知れないけれど、やはり、ここはもう少し踏み込んだ書き方をしておいても良かったのではないか。
 ――これを進めると、本格ではなくなっていた可能性はあったにしても。

 なお、余計な話だが、乱歩賞の最終候補となった際のタイトルである「ベネトナーシュの矢」という言葉は、最後のページに出て来る。ベネトナーシュとは、北斗七星の7番目の星を指すアラビア語だそうだ。要するに、原題は“自分をその星に見立てた犯人が放った矢”といった意味になるらしいが、余りに象徴的に過ぎる気はする。と言いながら、現行のタイトルは、余りに即物的過ぎて、インパクトが皆無に思えるのも確かだろう。タイトル作成は難しいものである。

 結局、ミステリ・センスは感じない訳じゃないけれど、構成が余りにも弱過ぎたんじゃない、ということを痛感した一編となった。



 しかし、一冊読んだだけで幾瀬の作風を断定してしまうのは、あんまりなのかも知れない。他のも読んでみよう、ということで、次の本に進んでみる。

「遠い殺意」

 大学で心理学を教える光本春吾のもとに、相次いで2本の電話が入った。1本は川北克己が失踪したという知らせで、もう1本は、一人の男が轢き逃げされ、死の寸前に「ヌーメア通信隊」という謎の言葉を残した、という連絡だった。
 川北は、父が自殺した理由を調べたいといって家を出たまま消息を絶ったもので、轢き逃げされた男は川北が調査対象に予定していた中の一人だった。
 川北の父は、戦時中、ラバウルに事実上幽閉されていた時期があった。復員した後は幸せな生活を送っていたが、ある日突然、神経症を発症し、発作を起こす度に、「空缶の山だ。豚と蟹!」といった謎の言葉を口走るようになっていた。そんな錯乱が続いた後に、自殺したのだった。
 謎の言葉の意味は何か。轢き逃げされた男と川北の失踪には、何か関連があるのか。
 光本は、自殺した男が錯乱を起こしたきっかけとなった出来事を探して、ラバウル帰りの一人の男に辿り着く。
 一方、光本と同窓の新聞記者保川は、同僚記者の協力を得て、失踪前の川北の足跡を探り、「ヌーメア通信隊」の正体と、轢き逃げされた男と川北の父らとの関わりを明らかにしていく。
 話は、戦時中のラバウル周辺での戦闘計画と、戦後間もなくの復員船からの男の失踪まで遡っていく。
 最後に明らかになった、事件の真相は……。

 幾瀬というと「戦争モノ」という印象が、私にはある。直接“戦争”を扱っている長編ミステリは、本編と「殺意の墓標」しかない筈だから、偏った見方なのかもしれないけれど、つい最近まで現役だった幾瀬の著書が戦記ものの非ミステリだったのも確かだから、完全な誤りとも言いにくいのではなかろうか。そんな訳で、幾瀬を語るなら、やはり一冊は「戦争モノ」を読んでおかないと、と思って選択したものである。

 感想を一言で言ってしまうと、それなりに面白いじゃん、という感じだろうか。少なくとも、「死を呼ぶクイズ」よりははるかに楽しめた。「死を呼ぶクイズ」を読んで、ちょっと……と感じた、という話を聞いたことがあり、確かに私もそれを否定はしにくいとは思ったけれど、作品によっては面白いものもあるじゃない、と思える小説にはなっていると思う。改めて幾瀬を見直した、というと大袈裟かも知れないが。

 但し、本編は本格ミステリではない。謎を解いていく過程はあるし、最後に犯罪が暴かれる、という意味では本格的な手法は採っているのかも知れないけれど、それは多くのミステリもどきの小説も同じだろう。やはり、この作品の面白さは、戦争モノとしてのそれであって、本格の面白さとは無縁なところにある。というか、本格ミステリとしては、やはり破綻しているように感じた。

 あと書きで、幾瀬は書いている。
“錯乱の言葉を解明する部分を独立させれば、推理小説的手法を用いた一般小説(戦争小説)になるだろう。作中人物の行方不明にまつわる謎の解明は、これはわたしが考えている推理小説である。だからこの作品は、推理的手法の一般小説と推理小説とが、ないまぜになっているのだ。”――

 まさにその通りの小説である。しかも、一般小説の部分も、推理小説の部分も、そこそこに面白い。一般小説の部分は、やはり戦争の悲惨な現実をストレートに描きだしたことによる深い内容によるものだろうし、一方の推理小説の部分は、小さな矛盾を元に、失踪した男の行動を想像する辺りの組み立て方の巧みさによるものだろうか。特に、戦争の現実を描く方は、構成に手を加える余地のない直球勝負になっているためか、「死を呼ぶクイズ」の失敗とは無縁な、スリリングなストーリーとなっていることは評価できる(希望を言えば、“謎の言葉”に相応な理由づけを与えただけでなく、もう一歩突っ込んだ説明が欲しかった気もするけれど、これは本格ミステリ好きの業だろうか。それとも、戦争を知らない世代故の妄言だろうか)。個々の素材の取り上げ方には相応のセンスを見せる、幾瀬らしい出来ではある。

 ただ、最大の不満も、そこにある。つまり、この二つのストーリーが交差しないのだ。勿論、父親の錯乱の原因を調べる行為が、戦争中のある秘密を背景にした事件を暴き出してしまう(そのキーワードが“ヌーメア通信隊”になる訳だ)、という接点はある訳だけれど、やはりこれでは交差とは言えないだろう。結局、一般小説の部分は、父親の錯乱を生み出した要因を一通り解明した時点で完結してしまい、小説の本筋からも切り離されてしまう。後は、推理小説部分の後片付けが残るだけになってしまうのだ。
 そうなってしまうと、幾瀬の本格ミステリを構成する上での中途半端さがクローズアップされてしまう。何せ、最後の僅か10ページで、作家の苦労を感じさせるような急展開を見せるのだ。暗号もどきの言葉が出てきて、常識的な解釈が否定されたと思ったら、事件の解決を伝える新聞記事の内容が次に来る。その後で、実はこの暗号はこう解釈するのでした、という報告があって、そのままエンディングを迎える……。気持ちは分からないではないけれど、これでは今までの物語は何だったの、と言いたくなるようなストーリーではなかろうか。多分、この辺りに、幾瀬の最大の弱点があるのかも知れない。

 それに、この暗号もどき(「くろいたまごいつつ、しろくなった」)が、実にまた、本当に暗号もどきなのである。アイデアは分かるけれど、これではやはり単なるクイズのネタに過ぎないんじゃないの、と言いたくなるようなシロモノなのだ。確かにこれで長編ミステリを支えられる訳もないだろうし、こんな扱いになっちゃうかもね、ということもよく分かるのだが、それでも、最後の関門にしてしまう。暗号テーマが多い作家だ、と聞いたこともあるのだけれど、それがこんな暗号ばかりだったら……。ちょっと笑っちゃうかも。
 それまでが、重いテーマを持ったストーリー(まあ、戦争モノなのだから当たり前だが)であるだけに、この拍子抜けはすごい落差である。

 幾瀬の良さも欠点も、最も色濃く現れている、そんな長編なのかも知れない。だから、春陽文庫に入ったのも、長編としては2番め(1番は当然、文庫書き下ろしの処女作である)になったのだろう。そんな気がする。



 長編2冊を読んだ感想としては、ストーリー・テリングの力はあるにしても、本格ミステリとしての構成は弱いかも、ということに集約されるかも知れない。このタイプの作家は、ひょっとすると、短編には光るものがあっても不思議はない。一つのアイデアで、物語を持たせることができるからだ。
 そんな期待もあって、短編をいくつか読んでおくことにする。今回の企画では、短編集は葉山くんの方で書いてくれる筈なので、手元にある「女子大生殺害事件」から、気になった短編を2編だけ読んでみたのだった。

 「三月が招いた死」。犯人あて小説として書かれたもので、中島河太郎編のアンソロジーにも収録された作品だそうだ。
 変わった形式の小説で、殺人が起こるまでのストーリーが長く、被害者(と探偵役)の人間関係を描いておくことで、犯人像を推理する材料を与えておく、というものである。変に凝った構成を必要としない分、幾瀬らしい犯人あて手法とは言えるかも知れない。
 が、やはりこれでは犯人当てのカタルシスには結びつかないだろう。あ、そうなの、で終わってしまうのは否めない。まあ、やりたいことは分かるけれど、成功とは言えないんじゃない、といったところか。

 「謎のウイニング・ボール」。プロ野球界を舞台にした、殺人とは無縁の、ちょっと心暖まる野球ミステリである。
 とある試合の終了時に起きた、ウイニング・ボールの投げ込み事件の真相を、実在した野球選手たちをモデルにして描いたものになる。
 多少なりともプロ野球を知っている人には、十分楽しめる物語だと思われる。事件の推理の過程も自然で、ミステリとしても、好感が持てるのではないか。ただ、フィクションに徹しようとする余り、必要以上に複雑な多重構成となっているにも関わらず、今一つ整理がされきっていない感じがした。これなら、もう少しフィクション度を弱めて、一種のドキュメントとして仕上げても良かったのではなかったか。出来は良いと思うだけに、もったいないよなぁ、と思ったのは私だけだろうか。

 結局、読んだ範囲では、短編の長さでも、ミステリとしての構成は整理しきれていない感じが残った。物語を語る能力を生かしきることが出来ていれば、もう少し印象に残る作家になっていたのだろうか。今となっては、結論の出ない命題なのかも知れない。

[UP]


謎宮会 webmaster:meikyu@rubycolor.org

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!