枕流亭総合掲示板過去ログ46(2005年4月20日〜2005年7月2日) 川本芳昭『中国の歴史05 中華の崩壊と拡大』(講談社) 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 4月20日(水)10時47分30秒 どうも誤字や凡ミスが目立つ。チェックが甘いのだと思われる。 P49図16 「呉(孫子)系図」→「呉(孫氏)系図」 P58L16 「懐帝の皇后羊氏」→「恵帝の皇后羊氏」 P59表19 南涼は?でなくて鮮卑ですよ!ほかこの十六国表はいろいろと信用できない。 P134L8 「西府の劉牢之」→「北府の劉牢之」 P136L18 「?族の国家」→「羌族の国家」 P138L11 「匈奴の正統たる赫連勃勃」、何を根拠に「正統」と? P142L6 「武帝の後を継いで皇帝となった劉義隆(文帝)」、少帝(劉義符)無視ですか? 半分読んでこんなとこです。ほかにもありそうな予感がする。 -------------------------------------------------------------------------------- 「こうちょてい」では変換できないIME 投稿者:太白 投稿日: 4月20日(水)19時54分54秒 まぁ昨今のニュース見て、私が浅い知識なりに中国の歴史から学んだことの一つに、 「暴力では人の心は決して動かすことはできない」っていうのがあります。 馬謖の「城ではなく人の心を攻めよ」っていうか、とにかく、あんなやり方では何も解決しないのは明白でしょうし。 しかし映像としてああいうものを見せられると、やっぱり全部が全部そうなのかな?とか思い込みがちですよね。 よく考えればそんなことは無いんでしょうけどね。 >『珍妃の井戸』が文庫化 あ、前に書き込んだ時、それも書いとこうと思ってたんですよ。忘れてた(^^; (題名からつづき) 「こうしょてい」だと変換できるんですけどね。試しに歴代皇帝だと、 官報亭=だめ。準地底=だめ。康熙帝=OK。乾隆帝=OK。雍正帝=OK。 戦闘亭=あれ?だめなの? 胴地底=やっぱだめ。か系亭・動向亭=まとめてだめ。 あとIMEは全斗煥やら盧泰愚やらは一発で出るんですよね、何故か(笑) -------------------------------------------------------------------------------- おひさしぶりです。 投稿者:perdido 投稿日: 4月20日(水)23時58分46秒    編集済 トップページかなりリニューアルしましたね(^^) なんの切手なのかわからないのがくやしい。 ところで、Wikipediaの「石祗」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%97)が削除依頼に出されていますが、大丈夫でしょうか?ほかの投稿記事から考えて、別人の可能性も強いなと思いましたが一応念のため。しかし、別人だったらけしからん輩ですな〜。(同じ内容メールしましたが、文字化けしてると困るので -------------------------------------------------------------------------------- (無題) 投稿者:perdido 投稿日: 4月21日(木)00時49分16秒    編集済 殷景仁さま ご紹介のHP拝見しました。 >田中角栄さんと周恩来さんが乾杯している(角栄さんが頭を下げています)写真を掲げています。 故田中元首相の偉大さを証明するようなエピソードですね。中国の方の気持を汲んで自ら訪中して、電撃的に国交回復を成し遂げたわけです。反日運動は確かに不愉快ですがこちらも感情的にならずに冷静に対処する必要があると思われます。 -------------------------------------------------------------------------------- 中国の歴史 投稿者:生半可 投稿日: 4月21日(木)12時44分3秒 春秋と左伝が面白かったので 平勢陸郎の都市国家から中華へをアマゾンで買いました。 -------------------------------------------------------------------------------- 心を攻める策 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 4月22日(金)09時29分49秒 >太白さま 諸葛亮の南征の「七縦七擒」にまつわるエピソードですよね。 孟獲を七回捕らえて七回解き放ったのは眉唾としても、 馬謖が「心を攻めるが上策」と進言したのはおそらく本当で。 日中関係に当てはめるなら、蒋介石の「報怨以徳」や周恩来の「日本人民も 軍国主義の被害を受けた」などの発言が同じスタンスだったと思いますが。 しかし、最近になってそれではおさまらなくなったということで、何がまず かったのか、いろいろ読んでると意見はけっこう分かれてますね。 中国側だけや日本側だけに責任を押しつける議論は多分間違ってると思うな あ。 「暴力」について。 暴力で何かを変えられることはあるように思われます。 しかし必ずその力にあい反発する力が生まれます。 目的を達成する手段として、安易で効率的だと思うのは間違いでせう。 うちのATOKは「こうしょてい」だめですね。「こうちょてい」で変換します。 変換辞書をいじりすぎてるので、デフォルトがどうだったか、覚えてないん ですけど。清の帝号は全部出ますけどね。 >perdidoさま お久しぶりです。トップはいろいろと画像差し替えてるだけです。 そのときのお遊びとして。リニューアルというほどでもないです。 Wikipediaは僕もいじってみたことはありますが、 「石祗」の項については関知してません。 石祗の履歴を見させてもらいましたが、うちの人物事典の記述をそのまま流 用していたみたいですね。なぜ後趙石祗なんだろ? 僕がWikipediaに手を入れるとしても、枕流亭の記述をそのままでアップする ことはありませんので。 「けしからん」というか、人の記述をそのままコピペして持っていって、さも 自分のものみたいなふりをしてたのが、以前あって腹立ったことありますが。 Wikipediaは誰のものということもないので、さして腹は立たないですが、 もし持ってくなら巧妙に改良して、傍目で分からないようにしといてもらいた いですね(爆)。 そのまま持ってかれるとトラブルの元になって面倒ですから。 >生半可さま 講談社新版『中国の歴史02 都市国家から中華』は平勢隆郎氏ですね。 まだ購入してないんですが、そのうち買うつもりです 僕は氏の本は『『史記』二二〇〇年の虚実』しか読破してないんですが、 独特の学説の人ですよね。 氏の年代いじりにはあまり感銘を受けないんですが、その前提としてある 正統論は着眼点が面白いと思ってます。 史料中の記述が、春秋戦国列国のどの国を正統とした記述か?なんてのは ならではですよね。 平勢氏はHPもなかなか力入ってますが、 http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edo2/edo.cgi/hirase 画像が重たすぎるのがうちみたいな低速環境ではちっと難ですね。 -------------------------------------------------------------------------------- 方壺島主 投稿者:情感 投稿日: 4月26日(火)00時04分22秒 「オペラ座の怪人」「アビエイター」「コンスタンティン」と、微妙に今ひとつな作品ばかり 観てきたところで、今日ハリウッド版「シャル・ウィ・ダンス」を。 「なるほどなあ」という作り方。「オリジナル作品に忠実に」というコンセプトのうえで、味 つけをしているので、「なんじゃコリャ〜」という印象はないと思います。ただしどうしても 彼此の文化の違いから変えなければならないところがあり、じつはそういうところにこそ本質 的な違いが秘められていて、「なるほどなあ」と思うのですけど。 原作が好きなので見に行ったというのが本心。自分自身が中年になって、いっそうこの作品 の情感が分かってきたような、こないような。フン、どうせ、独りもんだし!! 現像に「コダック」とともに「フジフィルム」のロゴが。 LOTRは「フジ」一本でしたが。 -------------------------------------------------------------------------------- 最近の  投稿者:鹿角  投稿日: 4月26日(火)09時05分49秒 中国って、 サミュエル・ジョンソンの 「愛国はならず者の最後の隠れ家だ」 という言葉を思い出します 愛国無罪って かつての文革の 造反有理 -------------------------------------------------------------------------------- 私もちょっと指摘 投稿者:殷景仁 投稿日: 4月27日(水)14時15分16秒 >永一さま 川本芳昭『中国の歴史05 中華の崩壊と拡大』(講談社)を読んでみましたが、確かにケアレスミスが目立ちますね。私が気づいたのを下にあげます。 P127L1の記述(およびP124L1) 「王敦の乱のとき、その鎮定に大きな役割を果たした祖逖や祖約、ならびに蘇峻…」、祖逖は王敦の乱の前に死去しています。そもそも王敦は祖逖を恐れて、彼の存命中は叛乱に踏み切らなかったというのですから。 P147L9 「都や三呉の地域はもちろんのこと、長江流域を中心として、それと結ばれた漢水などの大小河川の流域において貨幣の流通はきわめて盛んであった。」 以前ソグド人の話で取り上げた、『世界歴史大系 中国史2―三国〜唐』(松丸道雄他、山川出版社)によれば、当時貨幣が流通していた地域は、南北朝の首都の建康・洛陽、南北の交易地である襄陽、そして対外貿易の拠点である広州や敦煌などに限られていたとあります。ここまで言い切っていいのでしょうか? このように一般向けの概説書の記述にしては、いささか荒っぽさが目立つように思え残念です。 あとは蛇足ですが、月報の「中国名詩選」(今回は沈約の名作「范安成に別るる詩」)を書いている植木久行先生は、『唐詩物語』(大修館書店アジアぶっくす)、『杜牧詩選』(岩波文庫)、『唐詩の風景』(講談社学術文庫)などを出している方です。いずれも類書を圧倒する優れた書物ですので、お薦めします。特に歴史に興味ある方は『唐詩の風景』がいいでしょう。長安・洛陽・揚州・南京などの唐代を代表する都市の状況を、ここまで詳細に紹介した書はないはずです -------------------------------------------------------------------------------- 東晋の経済 投稿者:コルテス 投稿日: 4月27日(水)22時20分39秒 >「都や三呉の地域はもちろんのこと、長江流域を中心として、それと結ばれた漢水などの大小河川の流域において貨幣の流通はきわめて盛んであった。」 確かに、東晋における貨幣の流通は限られており、おそらくそのために東晋では、独自の銭が 鋳造されなかったという世界歴史体系の考察とは全く逆」ですね。 個人的には、国家の徴税力が弱体だった分、民間に富が残り、 東晋の経済は建康を中心に急速に復興したという印象を受けます。 西域からの交易品も、販路の中心は華北ではなく建康周辺で、 金城郡、仇池、襄陽はその中継点だったのではないかと。 つまり講談社の記述の方が正しいのではないかとも思えるのですが、 それにしては銭の流通量がなぜ足りていたかという問題が残るのですが。 -------------------------------------------------------------------------------- 疑問点 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 4月27日(水)23時50分28秒 >方壺島主さま 情感さんとお呼びすべきかと思いました…。 映画最近見てないので、話に乗れないのですが。 「シャル・ウィ・ダンス?」が良いのですか。 日本発ハリウッドというと、「リング」と同じ…にしてはいけませんな。 「オペラ座の怪人」は見に行こうかと思ってましたが、流してしまいましたし。 僕が次に見にいくのはたぶん「宇宙戦争」か「スターウォーズ3」のどちらか。 十字軍ものの何やらを見に行くかもしれません。 レスになってないレスですみません。 >鹿角さま 「愛国〜」の箴言は、僕はA・ビアスのほうで覚えてるんですが。 今回の「愛国無罪」のスローガンがかつての「造反有理」を意識したものだと いうのは間違いないでしょう。空疎なものですが。 中国も都会だと西洋近代的潔癖さ(笑)に支配されてますが、 少し近郊に出ると猥雑なスローガンが壁になぐり書いてあったりしますから。 スローガンによって大衆が動くと、思われてるんですな、今でも。 ところで日本語アスキー(EUC)対応してない日本語の書きこみ環境ってどんな ものなのでしょう? どうもトラブルが多いので、掲示板乗り換えを真面目に考えてみます。 >殷景仁さま 川本芳昭『中国の歴史05 中華の崩壊と拡大』(講談社) 祖逖…ああ本当だ。亡くなった人が出てますね。 この本の目新しい点としては、「六章 江南の開発と民族間抗争」で南方での 漢民族と非漢民族の関係を書いていて面白かったのですが、 ここでもやっぱり疑問点が…。 P205L10「漢民族にはこのような形で毒虫を飼い、それを用いて殺人、盗財を 行わせるというような風習はない」 「畜蠱」の説明のあとのこの一文ですが、断定しちゃっていいのかなあ。 畜蠱っていわゆる蠱毒ですよね? 虫を共食いさせて残った虫を使って呪詛をおこなうというやつ。 漢の武帝のときの巫蠱事件で木の人形を埋め、南朝宋の太子劭が玉で作った 人形を埋めた、というような人形埋める方法の「巫蠱」があり、 のちには虫を埋めるやりかたも「巫蠱」と呼ばれたりして、ここらの混同は 避けなくてはなりませんが。 しかし畜蠱の風習が漢民族にはなかったと断定していいものやら?なにやら ひどく違和感があったのですが、誰かすっきりさせてください。 -------------------------------------------------------------------------------- 貨幣経済 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 4月28日(木)01時41分29秒 >コルテスさま 貨幣の流通…専門的で難しそうなテーマです。 『晋書』食貨志では、東晋元帝(司馬睿)が長江を渡ったあとも孫氏の旧銭を使って いたことが書いてありますね。 この孫氏の旧銭ってどうやら大銭のようです。 呉の嘉禾五年(236)発行の一あたり五百銭(相当の大銭)とか、 赤烏元年(238)発行の一あたり千銭(相当の大銭)とか。 あと呂蒙が荊州を定めたとき、孫権から銭一億を賜ったという記録とか。 呉興の沈充が小銭を鋳造し、沈郎銭と称された、というところからみると、 東晋の銭が全くなかったわけではなさそうですね。私鋳銭の記録ではありますけど。 桓玄が銭を廃して穀帛を用いるよう発議したとき、孔琳之が反対して取りやめたとか。 食貨志見るといろいろ面白いこと書いてます。 華北では魏の文帝(曹丕)が銭を廃して穀帛に代えてるけど、明帝(曹叡)が五銖銭 復活させてるとか、これが西晋に続いてるようで。 正史にすべて食貨志がついていれば、あっしみたいなシロウトでももう少しイメージ が湧くんでしょうが。 梁の武帝が銅が足りないために鉄銭を発行したためにひどい目にあったという話は よく聞きますが、そういうの聞くとデフレ懸念に陥るくらいには貨幣経済が発展して いたのではないかと思ってしまうところですが。 -------------------------------------------------------------------------------- 十字軍もの 投稿者:みな 投稿日: 4月28日(木)02時00分50秒 >NAGAICHIさま お久しぶりです。 「十字軍もの」って、『キングダム・オブ・ヘブン』のことですね? 私は内容以前の問題でパスしました。詳しくはブログ日記に書いてます。 http://blog.goo.ne.jp/shimizu-mina/e/9b5a4a4492c86f3059dbcfaf6daeb48c いまどき十字軍なんて、やっぱり、対テロ戦争を意識してるんですかね。 蠱毒は、どの時代についての記述ですか?隋では「猫鬼」という蠱毒の一種が流行してたそうですが。(『隋書』『北史』に記述あり。まあでもこれは、その名の通り「ネコ」を使うので「虫」じゃありませんが) また、川野明正『中国の<憑きもの> 華南地方の蠱毒と呪術的伝承』の前書きには、雲南省を中心とした現地調査で「漢族、非漢民族を問わず」信じられてきたことがわかった、と書いてました。 -------------------------------------------------------------------------------- これってだめなんでは? 投稿者:伍員 投稿日: 5月 1日(日)10時48分6秒 「都市国家から中華へ」を購入しようとして、ふとamazonのレビューを見たら… 漢文に弱い自分でも「紂の軍はみな兵器を逆にむけて戦い、武王のために(道を) 開いた」のくだりは知識で知っているというのに… ここでも指摘されていた、他巻(著者は違うけど)にあった誤字、誤認はともかく、 これはちとひどすぎるのではないんでしょうか?購入どうしようか? -------------------------------------------------------------------------------- そうですね 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 5月 2日(月)07時50分29秒 >みなさま お久しぶりです。ブログ始めたんだねえ。おやHPもですか。 そうそう『キングダム・オブ・ヘブン』です。まあ見ないかもしんないですが。 あえて前評判は調べてないです。 小ブッシュ君の「十字軍」失言とかあるし、今どきムスリムに全く配慮しない で大映画作るとも思えないし、現代の戦争を意識しないってのもありえないん じゃないか…と、まあ信じたい。 「猫鬼」はそのまんまの題名の短編小説があったような気が…。 引越準備中で梱包してしまったので、中身確認できず。 川本氏の本は魏晋南北朝でテーマで、時代は後漢末から南北朝ということに なります。 >現地調査で「漢族、非漢民族を問わず」信じられてきたことがわかった あっ、やっぱり?そんな気がしたんです。引用ありがとうっす。 >伍員さま 05の次は02か。問題続きだなあ。最初(03)が良かっただけに。(-_-; 平勢隆郎『中国の歴史02 都市国家から中華へ』(講談社) amazonのレビューって↓ですね。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062740524/250-1245738-4412248 「漢文を知らずに中国は語れない」 今まで見た中ではいちばん痛烈な批判になってますね。 このカスタマーレビューを書かれたかたの指摘箇所見ましたが、そのとおりの ようです。 僕の率直な感想としては、この本は、 1.平勢史観全開の内容であること。通説は気にもとめてません。 2.斬新な史論ではあっても、中国の歴史という通史の一巻たる内容ではない ので、一般向きにはとても勧められたものでないこと。 3.平勢氏はふつうの歴史家がやるように史料批判によって史料を取捨選択す るのではなく、自説の正統論や年代に合わせて史料の解釈のほうを変えてしま うこと。斉の威王と宣王をくっけて威宣王とかね。 〜てなところでしょうか。 批判は気にしないとか、それでもあえてとかいうなら、買ってもいいでしょう。 -------------------------------------------------------------------------------- 誤訳問題 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 5月 3日(火)05時38分14秒    編集済 P73「紂はすでに倒れた兵をもって戦い、武王と開戦したのである。」 P189「その龍を増やして食することができなかった。」 などの誤訳指摘について 平勢氏の反論らしきものがアップされてます。 http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edo2/edo.cgi/_DlFSiVg7Z-pIOAZmwrtwog.html 確信犯のそぶりですが、内容見るとamazonのレビュー意識して書いているように思えるなあ。 -------------------------------------------------------------------------------- 誤訳問題(いくら何でもこりゃひどい) 投稿者:殷景仁 投稿日: 5月 4日(水)11時22分4秒 >永一さま・伍員さま 平勢氏の例のページを読みました。それで平勢氏の意見といわれるものをみましたが、 やはり誤訳ですよ、これ。 とりあえず、牧野の戦いのところにのみ言及しておきましょう。 >「兵(武器)を倒して」という戦い方が、いまひとつイメージがわかないんだよね。 >「崩れる」に対応する戦い方だけどね。武王の徳になびくんだったら、最初から戦う >そぶりも見せなかっただろうし。かといって、「倒兵(兵隊)」という読みも、決して >感心しないんんだよね。 中国語が読めれば、こんなことで悩まなかったでしょうに… 永一様たちはご存じでしょうが念のためいいますと、「倒」には二つの読み方があり、 それぞれに意味が違うのです。一つは上声で「倒す」。もう一つは去声の「逆にする、 ひっくり返す」です。アマゾンのレビューの指摘するように、漢文をまともに読める人 (あるいは中国語が読める人)ならば絶対に間違えませんね。 あと、たぶん平勢氏はアマゾンはみていません。レビューも指摘する「倒」の意味について、平勢氏はまったく気づいていませんから。 >B:それくらいでしたら。勉強にもなりますし。ところで、世間には、学生にまるなげ >なんてのあるんでしょうか。 >A:どうなんだろうね。学生さんは勉強になるだろうし、レポートなんかを見てるかぎりでは、 >学生さんの訳だけでは使えないことが多いだろうから、まるなげはこわいよね。 私にしてみれば、平勢先生の訳を丸投げする方がもっとこわい。この掲示板は、中国史や中国史関係の書物を楽しむためのものですから、学問研究の方法をどうこう言うのは少々はずれるとは思いますが、あえていわせてもらいますと、何かを研究して論ずる場合、文献資料をきちんと読めていることは大前提でしょう。これははっきり言って、研究者としての資質を問われるようなミスですね。 -------------------------------------------------------------------------------- こぼれ話? 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 5月 4日(水)22時45分50秒 まず前置きですが、平勢氏はアマゾンのレビューを見てあの「こぼれ話」書いた のだろうと僕が憶断した最大の理由は、牧野の戦い・劉累(御竜氏)・『逸周 書』・助手(学生)に丸投げと、話題がかぶりすぎてるからです。もとの本の分 量から考えても、偶然にしてはできすぎだと考えたしだいです。 それと明言せずに、アマゾンの誤訳指摘に対して反論なり言い訳なり慎重な姿勢 なりを用意したのじゃないか?と思ったのですが。 もしかして逆だったり?「こぼれ話」見て怒ったかたが、アマゾンのレビュー 書いたとか。 さておき、僕は漢文翻訳について偉そうなことをいう資格はないのですけども。 なにせ、『晋書』列女伝第一稿について二十数カ所くらい指摘を受けて、駢驪 文は難しいなあ…とか頭掻いてごまかす(爆)ようなやつですから。 ただ平勢氏の「こぼれ話」見ていて思ったのは、 僕などは漢文見てて頭の中で意味が通らないなと思ったら、手元の漢和辞書引 きたおすということをやるのですが、東大教授ともなるとそういうことはやら ないのかなあ?という疑問でした。どうも文章がひとりよがりというか、自己 完結してるというか。 なにか自分のことを批判しているような気がしてきました。(-_-; あと平勢先生! >関ケ原の戦いもそうだけど、主力が崩れて大混乱になり、反乱者が出る、と >いうことかな、と思ってさ。 これ逆ですよ。関ヶ原は松尾山の小早川秀秋が東軍に寝返ってから西軍の主力 は崩れたんです。それまでは西軍主力は善戦してましたよ。 -------------------------------------------------------------------------------- 引越のため 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 5月 5日(木)06時47分11秒 明日、管理人は引越なので、これからPC梱包します。 ネットにはしばらくつなげません。 引越終わったらなるべく早く復帰したいとは考えています。 それまでWEBの更新と掲示板の管理はできませんが、掲示板はこれまでどおり適当に使っていただいたらと思います。 ではフェアウェル、皆さん。 -------------------------------------------------------------------------------- 代書 投稿者:生半可 投稿日: 5月 7日(土)18時21分4秒 大昔 教授に雑誌原稿を書かされた事がありました。当然原稿は教授の検閲があります。 かなり直されなした。勘違いのところなどもありましたし。 丸投げでも目は通しているので本になれば検閲済みのはずです。 -------------------------------------------------------------------------------- はじめまして 投稿者:ryo_i_ 投稿日: 5月15日(日)02時35分48秒 そのレビューを書いた本人です。 google で遊んでたら この掲示板にたどり着きましたので、 ちょっとだけ御邪魔させてください。 (といっても、管理人さんはしばらくお休みだそうですが) まず事実から述べますと、平勢先生が「余話2」の末尾を 増補されたのは、私がアマゾンの書評を書いた後です。 (「こぼれ話」をアップされたのは、さらに後です。) 平勢先生がアマゾンを見てるのかどうかは知りませんが、 すくなくとも時間的にはアマゾンが先です。 >「倒」の意味について、平勢氏はまったく気づいていませんから。 これはおそらく、気付いてないふりをしてるだけでしょう。 反論できないツッコミを受けると、平勢先生は往々にして 「無視」という対応をされますので。 あと、アマゾンでは字数制限があって書けなかったものを いくつかブックワンのほうに書いときましたので、興味の ある方はご覧ください。 あの本のミスは、まだまだこんなもんじゃないのですが、 まあ字数の許す限りってことで。 (bk1のほうは、平勢先生もまだ見つけてないようです。  見つけたら「こぼれ話」がまた書き換えられるかも。) 板汚し失礼いたしました。 http://www.bk1.co.jp/product/2454015/review/428926/index.html -------------------------------------------------------------------------------- 漢文の教授者が必ず参照すべき誤訳の宝庫 投稿者:殷景仁 投稿日: 5月15日(日)19時50分51秒 >ryo_i_様 >まず事実から述べますと、平勢先生が「余話2」の末尾を >増補されたのは、私がアマゾンの書評を書いた後です。 >(「こぼれ話」をアップされたのは、さらに後です。) 前後の事情を教えていただき、ありがとうございます。BK1の レビューも拝見しました。非常に読み手に役に立つレビューである と思いました。「初学者が陥りやすい誤訳・誤解のきわめて豊富な 実例集」とのことですが、私も手元に置いて参照しようかという 気になりました。 >反論できないツッコミを受けると、平勢先生は往々にして >「無視」という対応をされますので。 そ、そうでしたか。 仮にも研究者たる人が、これほどのことを指摘をされて無視できるとは、 いくら何でも信じがたかったのですが… >永一様 >僕は漢文翻訳について偉そうなことをいう資格はないのですけども。 そんなことは決してありません。このコメントはあまりに謙虚すぎます。 翻訳のない『晋書』を訳すのと、『史記』のようないくらでも参照できる ほかの訳がありながら、それすら見ないというは、大いに次元の違う話だと 私は思います。 なお一つ言い添えておきますと、対句の機能に注意すれば、駢儷文を 読むのはかなり楽になります。わかりにくい語句を多用していることは 確かですが、対になっている部分は、それぞれ対応する内容であるという 仕組みになっているので、ある一カ所の意味がわかれば、対になっている 箇所の意味も、自ずと推測しやすくなるはずです。 >手元の漢和辞書引きたおすということをやるのですが、 >東大教授ともなるとそういうことはやらないのかなあ? 私のいた大学のとある中国史の教授は、正史の列伝を翻訳する際、 不明箇所は中国文学を研究している院生に聞いていました。 解釈に確信がないのなら、ほかの研究者に聞いてみるという考えすら 思い浮かばないというのも不思議です。 -------------------------------------------------------------------------------- 復活? 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 5月18日(水)17時18分13秒 引っ越し完了から予想以上に経ってしまいました。 ネット環境がどうもよろしくないので、 パソコンをおニューにすることと、ブロードバンドに切り替えることを 検討中です。 引っ越してきた先は、松山でも海寄りのとこです。 釣り道具でも買って20年ぶりくらいに釣りしようかとも考え中。 文王が釣れるかどうかは分かりませんが。 >生半可さま 代書・代原・ゴーストライター。 やっぱりいるんですね、そういうことをしている先生。 平勢先生はやっていないとおっしゃってるので、そこは信じることに いたしましょう。 >ryo_i_さま はじめまして。ようこそいらっしゃいました。(^_^) >まず事実から述べますと、平勢先生が「余話2」の末尾を >増補されたのは、私がアマゾンの書評を書いた後です。 >(「こぼれ話」をアップされたのは、さらに後です。) やっぱり事実関係はその順ですか。 >反論できないツッコミを受けると、平勢先生は往々にして >「無視」という対応をされますので。 完全に無視してるならまだしも…。 あの「こぼれ話」は、アマゾンの指摘を論点ずらししてるだけで。 素人目にも恥の上塗りに見えます。 >あと、アマゾンでは字数制限があって書けなかったものを >いくつかブックワンのほうに書いときましたので、興味の >ある方はご覧ください。 読ませていただきました。うーん、問題多すぎですね。 >見つけたら「こぼれ話」がまた書き換えられるかも。 僕がちらっと言った「関ケ原」のくだりが消えてるので、 先生はこの掲示板すら見ておられるのかもしれません。 ブックワンもとにまた書き換えられたら、笑いますけどね。 >殷景仁さま >このコメントはあまりに謙虚すぎます。 いや、ありがとうございます。でも、ちっとも謙虚じゃないです。 古文だろうが駢驪文だろうが、僕の漢文読めない能力はなかなかのも のですから。(-_-;) >『史記』のようないくらでも参照できるほかの訳がありながら、それすら >見ない 最初に既訳を見てしまう僕などからは、ある意味うらやましくもある のですが。他の日本語訳ではこうなっているというのを編集に教えて もらう教授の図ってのが、すごいです。 >解釈に確信がないのなら、ほかの研究者に聞いてみるという考えすら >思い浮かばないというのも不思議です。 いろいろ不思議な文章ですねえ。 -------------------------------------------------------------------------------- 往来物 投稿者:方壺島主 投稿日: 5月20日(金)02時36分7秒 「女四書」に興味あり。 地元の図書館に手配して取り寄せ中。 「女論語」と「女孝経」の部分を全ページコピーかな。 -------------------------------------------------------------------------------- 女四書 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 5月21日(土)01時56分35秒 >方壺島主さま 「女論語」は、唐の宋若?の撰、宋若昭の註と伝えられてる…けど、多分別 物なやつですね。 正史の后妃伝では、宋廷芬の五人のむすめはみな聡明で文章をよくし、唐の徳宗が 禁中に召したとか。中でも長姉の若?と次の若昭が優れていて、若? は女論語を著し、若昭は唐の穆宗のもとで尚宮に任ぜられたとか。 「女孝経」は、後漢の曹大家(班昭)『女誡』のほうですか? 唐の侯莫陳?妻鄭氏『女孝経』のほうですか? 王相『女四書集註』に入ってるのは、 曹大家『女誡』、宋若?『女論語』、仁孝文皇后『内訓』、王節婦『女範捷 録』らしいので、班昭のほうですかね? 曹大家『女誡』のほうは、『後漢書』列女伝にも入ってたりするので、比較的目に つきやすいとは思いますが。 曹大家にしろ、鄭氏にしろ、山崎純一氏の翻訳があって、いちおう手元にあるので、 もしお入り用なら声をかけてくださいな。 -------------------------------------------------------------------------------- 松山 投稿者:コルテス 投稿日: 5月27日(金)20時12分32秒 永一さん、遅くなりましたが晋書食貨志の解説、ありがとうございました。 なんとなく東晋時代は、銭不足だったんじゃないかというかんじがしてきました。 ところで海の方というと三津浜とか高浜とか空港の近くですか? -------------------------------------------------------------------------------- ご機嫌 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 5月29日(日)00時58分48秒 パソコン新しいの買いました。といってもこれは古いのから書きこんでる んですけども。 旧Win98機から新WinXP機へ。CPUクロックは十倍超、HDDは五十倍以上にな ってます。七年も経つとハードの進歩も随分なもので。 今や昔のATOK11のユーザー辞書を新機のATOK2005に移してみたり。 微妙に感触が違うのが楽しいですね。次はブロードバンド導入だ! 周公廟遺跡のニュースが共同配信されたり、殷墟の殉葬車馬坑の話が流れ たりする今日このごろ。 「罪を憎んで人を憎まず」、孔子の言葉じゃないのは確かみたいです。 >コルテスさま >なんとなく東晋時代は、銭不足だったんじゃないかというかんじがしてきました。 同感です。 同じく食貨志ですが、 孝武帝の太元三年の詔で、広州夷人(たぶん荘族系)が銅鼓を尊んでおり、 銅銭を鋳つぶして銅鼓を作っているのを禁制としています。 あと沈郎銭が作られたときも、「銭既に多からず」とか書かれてますし。 実体経済にたいして銅銭じたいが足りなかったのではと。 >ところで海の方というと三津浜とか高浜とか空港の近くですか? 三津ですよ。職場には遠くなったんですけどね。経済的には助かってます。 -------------------------------------------------------------------------------- いろいろ 投稿者:方壺島主 投稿日: 5月29日(日)01時23分9秒 「孔叢子」かな。 http://211.89.225.4:82/gate/big5/www.cnradio.com/news/200505250318.html 聖書説も喧しいけれど。 -------------------------------------------------------------------------------- PC 投稿者:しみずみな 投稿日: 5月30日(月)15時54分49秒 買ったんですね。うらやましいな。 でもよく7年も持ちましたね。私のは5年目だから、 まだ大丈夫かな?(最近ちょっと調子悪いけど) うちは光回線なんだけど、WinMeなので、あまり意味なし。 NTTの陰謀で、Yahoo!BBと契約できなかったんです。(涙) 私も早くXP機に買い換えたいな。 「罪を憎んで、、、」といいつつ、A級戦犯に罪なし とする政府。(戦犯は「法務死」なのだそうで) 「非国民」も許してくれるなら話は別ですけど。 それに中国って、儒教国とは思わなかったんですが、 実際のところ、どうなんです? -------------------------------------------------------------------------------- その意を惡んでその人を惡まず 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 5月31日(火)06時17分36秒 『孔叢子』刑論第四 http://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/01/contz.htm ざっと読んでみますと、刑罰の濫用をいましめる文章のようです。 当該部分も 「古之聽訟者。惡其意不惡其人。求所以生之。不得其所以生乃刑之。」 いにしえの訟を聴くもの。その意をにくんでその人をにくまず。求むるゆえん はこれを生かさんとす。〜 「罪を憎んで人を憎まず」 ではないですね。「罪〜」は孔子の言葉でないわけです。 日本の慣用は大岡政談かなんかから生まれたわけで、孔子の言葉と言われても 大半の中国人には?でしょう。孔子の言行なら『論語』を引くべきです。 >方壺島主さま 孔鮒撰と伝わるところの『孔叢子』七巻、いろいろ調べてみたら、 清代にはかの曹魏の王粛による偽託説も唱えられていたらしいですね。 同じく王粛偽書説が根強い『孔子家語』と同様、内容も鄭玄の説への批判を意 図したものらしいですし。 さておき、しかしこんなマニアックな話を引用も用法も間違えて引けるわが首 相の機知には感心しました。さすが変人! 『孔子家語』なら偽書でも貴重な資料と言われて岩波文庫に入れられたりする わけですが、『孔叢子』は聞かないなあ。 孔子九世の孫の孔鮒という人も、秦の焚書坑儒の魔手を逃れ、陳勝のもとで 博士となり、陳で死んだということで、へえ〜ってな感じで。 いろいろ勉強させていただきました。 >しみずみなさま >A級戦犯に罪なし そんなこと言ってた次官いましたね。 靖国はA級戦犯イコール昭和殉難者という主張でしたし。信者なんでしょう。 東京裁判否定するのって、ポツダム宣言否定するのにつながるんですけどね。 前者の根拠は後者だから。 YP体制打破ならば、もいっかい連合国と戦いますか。(^_^;) 筋からいうと常任理事国入りもおじゃんですね。 連合国に加わっている現在の日本は、靖国の英霊に対する裏切り者だ!(^^; まあしかし、お年寄りはともかく若い世代が、地主と小作がいて、憲兵や特高 がいて、農家の次男三男が兵隊に出る時代に郷愁を感じるというのは、なんで すかね。僕みたいな歴史フリークがそうならともかくね。 >それに中国って、儒教国とは思わなかったんですが、 清代以前ならともかく、現在ではそういうことはないでしょう。 魯迅が強烈な儒教批判をやったり、文革中に批林批孔の運動があったり、 いっときはむしろ反儒教国のおもむきすらありましたが。 現今は改革・解放の流れで、いくらか再評価されてる部分もあるといっ たところだと思います。 -------------------------------------------------------------------------------- 竹書紀年 投稿者:生半可 投稿日: 6月 7日(火)10時22分46秒 竹書紀年を購入しました。古本と今本に分かれています。今本は偽書とどこかで読んだ記憶が有るのですが。 -------------------------------------------------------------------------------- これ? 投稿者:竹書紀年 投稿日: 6月 7日(火)22時23分19秒 平勢隆郎「今本『竹書紀年』の性格」(『九州大学東洋史論集』20,1992年) http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edo2/edo.cgi/_rudEBvvDLKORABBScW-ukQ.html -------------------------------------------------------------------------------- 竹書紀年 投稿者:生半可 投稿日: 6月 8日(水)16時31分35秒 釈注 張玉春。二十二子詳注全釈。黒竜江人民出版社。 簡体字で読みにくい。 -------------------------------------------------------------------------------- 汲冢竹書紀年 投稿者:方壺島主 投稿日: 6月 9日(木)00時52分11秒  自分が持っているのは、台湾中華書局の四部備要本の「今本」。標点がないので、これも 読みにくいシロモノです。「古本」は輯本で、史記や漢書・後漢書、また経書の古注などに 引かれた文章を拾ったもの。澣典に公開されているものを見ると、「夏」から始まっている ようですね。  手元の今本だと「黄帝軒轅氏」の元年から始まっています。 -------------------------------------------------------------------------------- 『竹書紀年』 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 6月10日(金)06時50分49秒 『竹書紀年』は、晋の武帝司馬炎のころに汲郡の魏襄王墓から出てきた年代記ですね。 しかし、宋代に散佚してしまったので、現存のものは諸書の注釈などから再構成した もの。古本と今本がありますが、今本のほうは清の朱右曾が信じてはいけないと言っ ているようです。 僕はテキスト持ってないんですが、ネット上でも見られるので、それは多少活用して ます。 http://www.chinapage.com/big5/history/year1.htm http://www.chinapage.com/big5/history/year2.htm 『史記』にはない記述が結構あるので、古代史好きならチェックしておくべきかと。 伊尹簒奪の説(^^;)とか個人的にはすごく面白いと思ってます。 あと夏の啓が益を殺した話とか、殷の文丁が周の季歴を殺した話とかは『史記』に ないですよね。 あと西周以前の年代を議論するときは必ず使われる史料ですね。 -------------------------------------------------------------------------------- (無題) 投稿者:むじん 投稿日: 6月11日(土)00時48分25秒 どうも、こんにちは。 NAGAICHIさん、通鑑邦訳の方の掲示板ごらんになってます? お留守のあいだに二三の書き込みがありましたよ。 http://mujin.parfait.ne.jp/mujins/ -------------------------------------------------------------------------------- どうも 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 6月12日(日)01時41分49秒 >むじんさま こんにちは。そちら復活されたようですね。 こちらはあんまり復活してないんです。(我ながら日本語が変;) 引っ越してからこのかたネットの接続がどうも良くなくて。 通鑑の書きこみも気づいてはいたんですけどね。 >ネタふり二題 ひとつめ。学研の歴史群像シリーズで『争覇春秋戦国』が出てます。 イラストや図像が多いのがこのシリーズの美味しい点ですね。 文章のほうは、軍事史の来村多加史氏と思想史の浅野裕一氏のものが 目立ちます。あと、ちらっと作家の森下翠女史のものがあったり。 こないだ話題にのぼった平勢氏の文もあります。あいかわらず文化地 域とか正統観とかおっしゃってますね。 一冊の本としての統一性があるのか分からないですが、一時代にしぼ って複数の人の所論が読めるというのは、一般書としては稀有のこと ですので、興味あるかたは手に取ってみてください。 ふたつめ。北斉の陸法和という人を調べていたのですが、頭のてっぺ んで妖気をびんびんに感知してしまいました。 端的に言って予想以上に変な人でした。 陸法和は出身地不明♂。 江陵百里洲に隠遁し、苦行僧のような生活を営む。 文道期の乱を予知して、紫石山にこもる。 侯景が梁に降ると、みんな喜んでたところ、陸法和は「それがしは檀 越とともに侯景を撃つ」と言い出す。 侯景が乱を起こすと、任約をつかわして江陵を攻めさせたが、陸法和 は「諸蛮」の弟子八〇〇人を率いて梁の湘東王(のちの元帝)を助け、 任約を破る。 つづいて王琳とともに武陵王を破る。 元帝が立つと、梁の郢州刺史となる。 司徒を自称し、元帝に追認させる。そのくせ臣と称さない。 元帝が敗亡すると、泣いて弔意を示す。 寿王寺を造りながら、四〇年後の廃仏(北周武帝)を予言する。 北斉の高岳が攻めてくると、あっさり北斉に降る。 文宣帝高洋に十州諸軍事・大尉公・大都督・荊州刺史などの位をもらう。 北斉でも文宣帝に気に入られながら、やはり臣とは称さない。 文宣帝にもらった奴婢二〇〇人を全員解放。 自分の死期を予言する。 死後、文宣帝が棺の中をのぞくと陸法和の死体は消え失せていた。 ・・・・・・ ここまで、オカルトで波瀾万丈荒唐無稽だと気持ちがいいですね。 道士なのか、仏僧なのかよく分からないってのもあれですが。 歴史的意義なんて考えるだけムダっぽいです。 こういう困った人がいるから、歴史は面白いんですけど。 -------------------------------------------------------------------------------- 陸法和 投稿者:宣和堂 投稿日: 6月12日(日)11時05分33秒  ども、お久しぶりです。全然《資治通鑑》読めてません。代わりに武侠ドラマが溜まっていく一方…。嗚呼…。 ◆陸法和  その昔、高崎様の頁でトキーヨさんが書き込んでおられる記事を見て変なオッサンがいたモンだなぁ…と思ったモンです。 http://www2g.biglobe.ne.jp/~stakasa/china/toupiao/zitokida10.html  川本芳昭『中国の歴史 5 中華の崩壊と再生 (魏晋南北朝)』 講談社 では蛮であったとか書かれていて、益々変なオッサンだと思ったんですけどね…。永一様の記事を見てもっと変な人だと思った次第。 -------------------------------------------------------------------------------- 陸法和 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 6月14日(火)23時22分24秒 >宣和堂さま こちらも通鑑読めてないので。 渡邊さんの訳のペースについていくのでいっぱいいっぱいな感じですね。 自分で何かやるって感じではありませんわ。 陸法和ですが、『北斉書』巻32に書いてるとおりなら、この人は妖術師ですね。 予言者・奇術師・オカルティスト…だけでは言い足りない。 白羽ひらひらで風向き変えるんじゃね。 演義の孔明以上でしょう。七星壇築く必要ないですもの。 最期は尸解して、仙人になった…とは書かれてないけど、そう暗示されてます。 ただの仙人譚ではないところは、やはり将軍として活躍してるってところです かね。 本人が「蛮」であったとはっきり書いてはいないのですが、「諸蛮弟子八百人」 とかいうところをみると、そういう人脈の中にあった人なんだろうなと。 時世さんの紹介文のほうが、はるかにこの人の面白さをよく伝えてます。 「諸葛孔明名将と謂うべし」とか言ってる人ですし、孔明からめたほうが、 確かに良さげです。 だれか陸法和をモチーフにした面白小説書いてくれないかなあ。 -------------------------------------------------------------------------------- 陸法和 投稿者:殷景仁 投稿日: 6月15日(水)21時11分58秒 >永一様・宣和堂さま 陸法和の「諸葛孔明云々」の後に続く文章も面白いですよね。「私はかつて彼に会ったことがある。(そのとき)この城(白帝城)のそばに弩や矢を埋めたのだ」といって、掘ってみたらその通りだったなんてエピソードも、実に怪しくて楽しいです。 もっとも、風向きを変えたというようなエピソードも、今からみれば荒唐無稽ですが、当時は戦の前に、こういうオカルトめいたことを行うことが結構あったし、ある程度信じられてもいたようです。東晋の郭璞なども、王敦に謀反の成就を占うよう強制されていますが、陸法和の魔術も、こうしたことの延長上にあると解釈すべきなのかもしれません。 -------------------------------------------------------------------------------- まだまだある陸法和ばなし 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 6月15日(水)23時58分59秒 >殷景仁さま 掘り出すというと、もうひとつ話がありますよね。 陸法和が襄陽城の北の大樹の下にやってきて、二尺四方を画して、弟子に掘らせたところ 亀が出たので、杖でこつこつ叩きながら、 「おまえは出たいと思いながら出られず、すでに数百年、私に会わなかったら、お天道 さんは拝めなかったぞ」と言ったとか。 何かを掘り出すには、ゴッドハンドよろしく前もって埋めておけば、仕込みとして単純 ですが、(亀を生かしたまま埋める方法はさておき、)しかし引っかけるには演出もう まかったんだろうなと。 孔明に会ったというと、東晋の桓温が成漢を制圧したときに、孔明に会ったことがあると 称する翁に出会ったという話を思い出します。こちらはまだありえないとは言えない話で すが、陸法和が生きた時代まで下ると、もうヨタ話のレベルですけど。しかし、孔明に会 ったことがあるというのは、ステイタス・シンボルなのでしょうか?(^^ 占いは『易経』の国ですから…。甲骨文字の時代から占ってますし。いまだに八卦は生き 残ってますし。 占いと風向きを変えるのでは、ずいぶんレベルが違いません? -------------------------------------------------------------------------------- 卜者と妖術師 投稿者:殷景仁 投稿日: 6月16日(木)20時45分6秒 >永一様 易は時代によっていろいろと解釈が異なってきますが、次の郭璞のエピソードをみれば、少なくとも六朝時代では、卜者と妖術師はかなり近い存在なのではなかったかと思われます。 盧江に来た郭璞は、太守胡孟康に急いで長江の南に避難するよう勧めたが、聞き入れてもらえなかった。旅支度をしてこの地を去ろうとしたのだが、太守の婢が気に入ってしまって、(一緒に逃げたいけれど)そのつてがなかった。そこで小豆三斗を主人の家の周りに撒いた。翌朝主人が目覚めると、数千人の赤い衣を着た人が家の周りを取り囲んでいた。近づいて見てみようとすると、すぐさま消えてしまう。気味悪がって、郭璞に占ってもらうと、郭璞は「この婢を東南二十里のところで、相手の言い値で売りなさい。そうすればこのあやかしは消えます」と答えた。郭璞は密かに人をやってこの婢を安値で買わせると、お札を井戸に投げ込んだ。すると数千人の赤い衣を着た人は、一人ずつ井戸に飛び込み消えていった。主人は大喜び。郭璞は婢と一緒に去っていった。数十日後、盧江は陥落した。(『捜神記』巻三より) また、陸法和と同じく、郭璞も尸解して仙人になったという伝承があります。さらに彼のパトロンであった王導は、郭璞以外にも多くの方術者を抱えており、彼らの様々なまじない、占いをの助けを借りていたといわれています。こうしてみれば、この時代、占いはやはり妖術と重なるところがあったといっても、あながち間違いとは言えないと思います。 -------------------------------------------------------------------------------- 争覇 春秋戦国 投稿者:生半可 投稿日: 6月19日(日)18時31分30秒 読んでいて少し違和感の有る場所がありました。 前633年、晋の文公が始めて三軍を作ったときに趙衰が卿になったとありました。 このとき三軍の将と佐を流浪組、と国内組 を各三人ずつ推薦して自分は身を引いた。 前629年に新上軍の将に成ったと思います。 晋の霊公の時に趙衰が卿と表になっています。 この時は既に死んでいて、子の趙盾が卿だったはずです。 孟姫の乱の時に趙朔、趙同、趙括、嬰斉及び一族が族滅と解説がついています。 趙朔は既に死亡しており、未亡人で景公の姉が趙朔の叔父の趙嬰斉と通じて 嬰斉は一族から追放され斉に亡命していたと思います。 教授連中の名前が載っていますが、丸投げしたのでしょうか。 -------------------------------------------------------------------------------- 一般に知られている「史実」とは異なっても…… 投稿者:ryo_i 投稿日: 6月20日(月)06時25分15秒 >教授連中の名前が載っていますが、丸投げしたのでしょうか。 あの教授に限って言えば、「丸投げはしていない」旨を明言しておられるので……(笑 きっと「ステレオタイプな理解」ではない、新たに発見された「事実」なんでしょう。 -------------------------------------------------------------------------------- なるほど 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 6月23日(木)20時36分37秒 >殷景仁さま 東晋の郭璞ですか…、なるほど。 『晋書』巻72にもほぼ同じ話が見えます。 この人も尋常な人ではなさそうですね。 卜筮と神仙道と、元は別の体系のはずの術が混じり合ってるってのは、面白いです。 陸法和も道教と仏教が混じってますしねえ。 『捜神記』書いた干宝も、自分の父親の愛人が墓の中で十年生活していたという実 体験(!)からその手の話を蒐集しはじめたとか伝わってますし。 趙翼『箚記』でも、晋書・南北史に怪異の記述が多いと言ってますし。 六朝の人たちって志怪好きだったんだなあ、と。 >生半可さま 学研『歴史群像シリーズ78 争覇春秋戦国』ですが… >前633年、晋の文公が始めて三軍を作ったときに趙衰が卿になったとありました。 P64の略年譜ですね。 『左伝』僖公二十七年の記述では、たしかに「趙衰を卿に任命しようとしたが、欒枝・ 先軫に譲った」むね書かれています。 ただ『史記』晋世家では、「趙衰に命じて卿とした」とあります。 僕も現行『史記』のほうが欠落があるのではないかと思うところですが、『史記』のほ うを採ったとしても間違いだとは言い切れないと思います。 >晋の霊公の時に趙衰が卿と表になっています。 P75の略年譜。これはミスだと思います。確かに趙衰は亡くなっていますね。 >孟姫の乱の時に趙朔、趙同、趙括、嬰斉及び一族が族滅と解説がついています。 これも『史記』趙世家では、屠岸賈が趙朔・趙同・趙括・趙嬰斉を殺し、一族が皆殺し になっています。趙朔の妻が身ごもっていて、生まれたのが趙武。趙氏孤児のお話ですね。 『左伝』成公八年の記述では、おっしゃるとおり殺されたのは趙同・趙括とその一族で、 趙嬰斉はそれ以前に国外追放になっているわけです。 これも『史記』と『左伝』の記述が矛盾している例なんですが、これも『史記』を採って 間違いと言い切れるかどうか。どうなんでしょう? >ryo_iさま ええと、東大H教授はこの件には関係ありませんので、何か勘違いされているのでは? -------------------------------------------------------------------------------- 司馬遷・史記 東周列国 投稿者:生半可 投稿日: 6月27日(月)15時28分18秒 争覇春秋戦国・・間違いでなく 違和感ということで。 上記のDVDを買いました。中国中央電視台。映画用に少し変えてありますが、面白い。 斉の大史が催チョ に殺されたときに 次が叔、その次に仲も殺され、そして季であきらめていました。 馳 車 千 馬四 の数え方で孫子に出てくるのに 戦車は全て二頭引きでした。 邦主は全て黄色のリボンを両側にたらしていて初めて見ました。国王で統一して呼んでいました。 正式の竹簡は約3センチぐらいの幅でこちらが本当なのか・?等々映像で見られて良い。 -------------------------------------------------------------------------------- 勉強不足 投稿者:NAGAICHI Naoto 投稿日: 6月30日(木)00時23分40秒 羅宗真『古代江南の考古学』(白帝社)を探しに行って見つからなかったので、 氣賀澤保規『中国の歴史06 絢爛たる世界帝国』(講談社)を買ってきました。 …なんだそりゃ。 さておき、いきなり隋のところで考えさせられましたね。 廃太子揚勇・高?が関中本位路線で、 煬帝(楊広)・楊素が脱関中本位路線で、政策的な対立っすか…。 三階教の弾圧と高?の失脚がつながってるとかも。 唐初の李建成と李世民の対立も、関中系と山東系の対立が絡んでいたように、示唆 されてますね。 前から思ってるんですが、陳寅恪読みたいよなあ…。 話変わって、通鑑邦訳にWiki導入したいと思いつつ、具体的にどうしたらいいのかは、 さっぱ見当つきませんねえ。 >生半可さま ほほう、いいですねえ。 こちとらあまり映像系に金かけてない人間なので、 歴史映像コレクションみたいなのも何もないですしね。 レンタルビデオ100円とか映画館レイトショー1200円とかもっぱら利用してると、 視野の幅が狭くなってきてるかも。 中国中央電視台「三国演義」欲すぃとか何年も前から言ってるけど、いまだに何らアク ション起こしてないから、こりゃいかんなあと自省中。 一般の竹簡は0.5〜1.2センチくらいの幅じゃないですかね? 物を見てないので、よく分かんないですけど。 -------------------------------------------------------------------------------- なんども謝家 投稿者:独狐 投稿日: 6月30日(木)12時02分25秒  こんにちは。  妖術で、思い出しました。  謝霊運は、生後まもなく銭唐の杜明師の杜治に送られ、そこで養育され、15歳で都に還る、と「詩品」にあるそうですが。 銭唐の杜治といえば、晋末の大乱を起こした孫恩の叔父、孫泰(彼も乱を企図し、発覚して殺されています)に、秘術を伝えたとされる杜恭がいます。  杜恭は、よく妖術をつかったそうです。  じきに返す、と彼にいわれて刀を貸した。その後、持ち主が旅をしている途中で、魚が船に躍りこんできた。その腹の中から貸した刀が出てきた、など。  杜恭がつかったなら、杜明だって妖しい、と思うが、素人のまっとうな反応でしょう。  で、疑問。  謝家のような名家が、期待の新星をなぜ15年も預けたのでしょう。  この話が眉唾であったとしても、こう伝えられていることに、15年の長さへの疑念がふっきれない。  15年ですよ !  このころ、謝安が亡くなって、その他、家庭の都合での厄払いなら、15日でよかろうものを。  この時代、名家と道教の結びつきは、(謝家と並ぶ王家もそうでしたが)強かった。  それにしても、15年と、子捨てに等しい長期は、当時として不思議ではなかったのでしょうか -------------------------------------------------------------------------------- 易もいろいろ… 投稿者:中根東竜 投稿日: 7月 1日(金)23時36分46秒 お久しぶりの中根です。東京は毎日暑いです。今年は例年になく暑いですね。 >永一さん >占いは『易経』の国ですから…。甲骨文字の時代から占ってますし。いまだに八卦は生き 残ってますし。 易とはいっても、東晋期の易占いは易経とかなり異なったもののようです。 前漢宣帝の頃、易の専門家として学官となった孟喜が、各地の陰陽家から陰陽災変の説を 学んで、本来別物であった陰陽説で易を解釈(というより「箕子の明やぶれたるは、 陰陽の氣、箕子を亡ぼすなり」と易経と何の関係のないことを主張してもいるので 改竄というべきか?)し、それが大流行してからというものかなり変化していたようです。これを特に漢易といいます。 この一派が用いていた「焦氏易林」などを以前ちらっと読んだのですが、易経の解釈というよりも、別の占いという感じのものでした。 この系統には鄭玄・虞翻のような有名人も属しており、干宝の易解釈も本田済氏の 紹介によればたぶんに漢易風のものです。王弼の易解釈が漢易を駆逐するのは高田真 治氏によれば南北朝まで下るそうでして、妖術的なのも無理からぬ話だったりします。 -------------------------------------------------------------------------------- (無題) 投稿者:殷景仁 投稿日: 7月 2日(土)21時04分41秒 >中根東竜さん 漢易についての説明ありがとうございます。こちらも非常に参考になりました。 >独弧さん この謝霊運の逸話を問題に取り上げているものはいくつかありますが、そこで論じられているのは、文中の「謝玄」というのが「謝安」の間違いではないかとか、杜明師の治(靖室)に預けられたのは、謝安らの近親が前後して亡くなった不祥をさけるためであるとか、『詩品』がこのエピソードを載せるのは、謝霊運の詩風(山水と玄学)の由来を説明するためである等々で、それが15年も続いたのかという理由を論じたものはありませんね。 謝霊運というと、道教以外に後年の仏教への傾斜も無視できないところがあります。胡語に通じていた彼は、南本涅槃経の共訳や『十四音訓序』のような梵語の入門書を著していたりもします。ただ、謝霊運など当時の中国知識人の仏教理解は、おおむね老荘の理論を媒介とした(時に易の理論も加わる)ものですので、仏教への傾倒も道教からの鞍替えということは決して言えないのですが… --------------------------------------------------------------------------------