150 そうですね NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/06/29 00:47 男性 27歳 B型 共和国 の星 >武州紫さま はじめまして。管理人の永一です。 歴史的にみて、日本は中国から多大な恩恵を受けていると、僕も思い ますよ。 まあ僕らの住むこの東の島国の人々が、不遜な態度とかはともかくと して、近くて遠いこの隣国に対して勘違いをしてる部分があるのはい なめません。そういう誤解をとければ…、僕自身少なからず抱いてい るはずの誤った先入見を除くことができればよいと(多少なりと)思 ってサイトを運営してます。(つもりです) 「世界中が沸き立っている賭博」というと麻雀ですか? 中国起源の賭博って、ほかにありましたでしょうか? 麻雀の起源は明代のころの「馬掉」というカードゲームらしいですけ ど、このころからもう既にかなり複雑なルールになっているようなの で、さらに前身があるのかもしれませんね。 >あんまり難しくない中国の小説の、読後感想をお聞かせ下さい。 僕もいろいろ読んではいますが、読んでは忘れ…というのを繰り返し ているので。(爆) 読後感想は、読んだ直後の新鮮なうちに書かないとだめですね。 なにか読んだらなるべく書くように心がけときます。m(_ _)m 現役では、陳(舜臣)、宮城谷、田中(芳樹)とかを時々読みます。 故人では、駒田、司馬遼、海音寺、安能、中島(敦)、井上(靖)く らいをいくらかですか。 149 中国の歴史からの小説について 武州紫 E-Mail: 2001/06/26 13:12 蝦夷 皇帝 中国の永い歴史から、または、人物を中心にした、小説ぐらい面白い ものはありません。色々の、ことわざや、古人の教えが皆中国から、来て いるのを、知って日本の先生は、何と言っても中国だと思うと、日本の 不遜な考えが恥ずかしいですね。世界中が沸き立っている賭博も中国から出て いるんですね。どこまで頭のいい民族か。 だれかさんあんまり難しくない中国の小説の、読後感想をお聞かせ下さい。 まだ、様子がわからないのでまた。 148 ごぶさたしてます NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/06/26 00:00 男性 27歳 B型 予州 布衣 >江原帝國皇帝へーか おひさしぶりです。 HP開設おめでとうございます。(^o^) 遅ればせながらご訪問して、跡を濁させていただきました。 絵を拝見させていただきましたが、さすがです。 ぜひとも大志を成就されますよう。応援してます。 リンクはこちらこそお願いしたいです。 こちらからもリンク貼ってよろしいでしょうか? 何年たっても未熟なサイトですが…。 今後ともよろしうお願いします。 147 お久し振りです。 江楚材、改め・・・・・・江原帝國皇帝。 E-Mail: URL 2001/06/24 01:09 男性 23歳 A型 帝国 皇帝 管理人さんは憶えておいででしょうか? 江楚材です。 学校も晴れて卒業して 今は会社で働きながら昇竜の志を持って日々暮らしています。 ずいぶんとご無沙汰しておりましたがこの度、 HPを開設しまして 是非是非リンクを張らせていただきたいのですがよろしいでしょうか? これからは不才ではありますが おもしろい話を聴きにこちらにまた遊びにきます。 ではでは 146 買いましたか… NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/06/08 00:30 男性 27歳 B型 陳留郡 太守 >かっしぃさま 『晋書』買いましたか…。 >上奏文とか会話とか、戦の描写になるともうちんぷんかんぷんですねぇ。 この部分、漢文読めない人間としてヒジョーに同感します。 固有名詞…人名、地名、官名、年号、書名なんか は半端知識でも分かります。 その点、固有名詞の多く出てくる正史の地の文は読みやすいですが、 微妙な表現の多い上奏文とか会話となると途端に読めなくなります。 漢文のしっかりした知識がいると、つくづく感じます。 おまけ。 Q:日本語知識では読めない漢文。 「A大敗B。」(A,Bは人名) >ゲームならやっぱり「タクティクス・オウガ」の方が好きですねぇ。 「タクティクス・オウガ」は友人に借りてロウルートで一回解きました。 たしか4姉妹を全部集められなかったような気が。 面白かったと思いますが、ハマるとこまではいかなかったかな。 145 『晋書』 かっしぃ E-Mail: 2001/06/06 10:12 男性 25歳 A型 蝦夷 布衣 お久しぶりです、かっしぃです。 いや〜、ついに書虫で『晋書』を買ってしまいました。 昨日届いて早速「桓温伝」を読… もうと思ったのですが、全然わかんないです。(泣) まぁ内容は大体知ってますから、大まかな意味は取れるんですけど、 上奏文とか会話とか、戦の描写になるともうちんぷんかんぷんですねぇ。 既に知っている日本語知識からの類推ではなく、純粋に漢文から意味を読み取れるようになるのは いつまで経ってもできそうにないですねぇ。 これからじっくり、辞書を引き引き読下してみます。 …この前中村さんもおっしゃってましたけど、素人がいきなり手を出すと、 確かに一生かかりそうです。 >「ティアリング・サーガ」にハマりまくり、布教にはげむ管理人です。 >PS持ってる人、SLG好きな人は、ぜひやりましょう!(^^)/ SLGは私も好きなんですけど、ゲームならやっぱり「タクティクス・オウガ」の方が好きですねぇ。 このシリーズはやった事が無くて。 144 Re: 朝鮮戦争について NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/05/27 00:05 男性 27歳 B型 予州 刺史 >なつこさま お久しぶりです。 僕は朝鮮戦争は詳しくないですし、なつこさんの読まれた本を読んでない のでなんとも言えないんですが。 >中国が出兵したのは、結局はソ連にうまくのせられたということなんでしょうか。 どうでしょう? ソ連側から言えばそうも言えるって話ではないでしょうか? 朝鮮半島全体が西側のものになれば、中国にしろソ連にしろ状況的にまず いのはどちらも同じはずです。ただ、中国の政権のほうが、そうなった場 合の危険度はより高いですし、ソ連のほうが全面戦争に消極的だったとい うのがあるでしょう。ソ連のほうがより一国社会主義的・妥協的だったと いうべきでしょうか。 中国のほうが解放直後で、より社会主義原理的な政治意識が高揚していて、 主体的な行動を好んだといいますか。 ただ利用されたというだけでない中国の選択があるように、僕は感じてま す。それが賢明だったかどうかは別としてですが。 >そして朝鮮の独立を結果的にその時期を逸するような影響をおよぼしたのでしょうか。 すみません。意味が取れません。m(_ _)m (南・北)朝鮮は朝鮮戦争の前に独立していますが…。 それとも統一朝鮮の独立という意味ですか? 143 朝鮮戦争について なつこ 2001/05/26 20:58 女性 蝦夷 皇帝  中国が出兵したのは、結局はソ連にうまくのせられたということなんでしょうか。 そして朝鮮の独立を結果的にその時期を逸するような影響をおよぼしたのでしょうか。 今読んでいる本にはそのようなことが書いてありました。 他の見方もいろいろあると思いますが、きかせてください。 わたしが読んでいるのは、サイマル出版会 朝鮮戦争 金学俊 著です。 138 お読みになられましたか NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/05/08 21:56 男性 27歳 B型 >ルイシンさま 『長江文明の発見』お読みになられましたか。 僕もめずらしくハマったので、俎上に乗せたんですが。 現在進行形の発掘のロマンと古代史推理の楽しみがありますね。 NHKの放送というと、「四大文明・中国」か「四大文明の精華」か どちらかじゃありませんか? 同時期に見たのでちょっと記憶が混乱してますが、青銅器の原料の銅 と錫が取られた場所が共通してるって説明は覚えてます。 縦目仮面がどう崇められていたか…までは、まだ分かってないんじゃ ないでしょうか。あれが「蚕叢」だというのも、未だ有力な仮説の段 階でしょうし。 「我蛮夷也」のくだりの裏側には、たしかに強烈な自負がひそんでいる でしょうね。中国の習慣など知ったことかと言ってるわけですから、 自らを貶めたり、韜晦したりというわけじゃないでしょう。 面白そうな本ですか…中国史ものでってことですよね。 陳舜臣さんの本とかはすでにお読みでしょうね。 陳さんの通史ものは、ボリュームありますが面白いと思ってます。 少し変わったところで、井波律子『破壊の女神』(新書館)なんてど うでしょう?中国史上の女性を扱った本ですが、これまた面白いです。 数年前の本ですが、今はちょっと手に入りにくいかもしれませんけど。 137 長江文明の発見… ルイシン E-Mail: 2001/05/06 23:42 男性 52歳 B型 永一さんへ 先にご紹介頂いた徐朝龍著「長江文明の発見」を面白く読ませていただきました。 以前三星堆の出土品の形状の異様さに少なからずショックを受けた記憶があります。 今年の一月頃、NHKで三星堆の遺跡に関する放送…再放送だったか…がありまして、その時三星堆の青銅と殷墟の青銅の銅原料が同じ場所での出土と知りました。 ならば当然文字も含めた文化的な交流があったはずで、中原の歴史のみが「ひとの歴史」とはいえ、あの記録好きの民族がどうしてその記録を残さなかったのかと思っていましたが、実際には残していたのですね。 仮に縦目仮面が燭龍の頭部として、それが崇められていたとしたらどのような崇められ方をしていたのでしょう。祭りの神輿のようにか、はたまた神殿にきらびやかな衣装を着けて鎮座していたか、それを考えるとあの異質な造形も身近に感じ、楽しいものがあります。 三苗が長江流域の複合民族という説も面白かったですね。 楚王熊渠(?)が「我蛮夷也…」と宣べた時、単に中原のエリート集団に対する反発心のみでなく、その語には長江文明に裏打ちされた強烈な自負心があったのかもしれませんね。 久し振りに面白い本を読ませていただきました。 ありがとうございます。 また面白そうな本がありましたらご紹介下さい。 本の内容に対する価値観の違いからのクレームは一切つけませんのでご安心を…。 ただ、この掲示板で述べている皆さんが読んでいるであろう、あまりに専門的な本だけはご容赦下さいね。 136 不勉強… NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/04/25 13:10 男性 27歳 B型 >かっしいさま 桓温については、コロ助さんがまた出てこられるまで、レスを控えさせて ください。僕自身不勉強で…って、こちらのほうが本音か。 (院生ってのもお忙しいんだろうなあ。) >>まあ、明徳出版社版の『晋書』とか『遼史』とかに騙されるよりはいい >>かもしれませんけど。 >そんなのあるんですか? 全く知りませんでした。 いやパチモンとかそういうことではなくて、訳はしっかりしてると 思いますけど、抄訳というより抜粋ってかんじなんですよ。 訓点つきの漢文や書き下し文に訳と解説が付されてるんですが、ま るで大学の講義用テキストで、抜粋された部分も九品中正法がどう とかいろいろ高尚なテーマでまとめられてて、ちょっと……です。 むかし、今よりもっと物を知らなかったころ、僕は勝手に誤解して 買ってみごとに騙されました。 そういやちとズレた亀レスですが、 F.S.S.もマジェスティックスタンド突入ですね。 何人死ぬのかなあ…。 135 もっかい桓温 かっしぃ E-Mail: 2001/04/23 14:06 男性 25歳 A型 >コロ助さん 大変そうですね。 私の友人にも院生がいますが、大変ではあっても、 自分の好きな事に打ち込めるのは羨ましくもあります。 いずれは講師や助教授になられるのでしょうか。 >桓温について 陳氏の『中国の歴史』や『小説十八史略』を読んだらもう最初から簒奪を考えていたように書かれてたので、そんなものかなと思ってましたけど、 そうでもないんでしょうかね。 >本伝を通読してみると、賊臣に近い扱いをうけながらも、性格の欠陥を伝え >る記事が少なく、意外な感じがしました。 うっ、いいなぁ。ホントはちゃんと本伝を読んだ上で話をしたいのですが、不勉強は承知の上で、もう少し妄言を吐きます。 ∽∽∽∽∽∽ 妄言開始 ∽∽∽∽∽∽ コロ助さんのおっしゃる、『憂国の志をもった野心家』には賛成です。 ただ、その野心は、必ずしも桓温自身が皇帝になる事ではなかったんじゃないかと思うのです。 むしろ、北伐を成功させ、晋の故地を回復して再び中華を統一するという事業そのものが、彼の本懐ではなかったのではないでしょうか。 そうした大事業を完成させる為の手段の一つとして、自分が皇帝になるという事は考えていたかも知れません。 しかし、永一さんのおっしゃる通り、皇帝になった後の事も十分に考えていたでしょう。 劉タン(でしたっけ?)が言った通り、桓温は「勝てる博打しかやらない」という、慎重で頭のいい人だったと思いますから。 だからこそ、皇帝になるなら簒奪によって晋を丸ごと乗っ取り、しかもその後の抵抗が無いようにしなければならないと意識していたでしょうね。 若い頃は、そっちの方が大変だろうと言う事で、晋王朝の枠の中で権勢を握る事に腐心していたと想像します。 >桓温が、何時、野心をもったか?という話は、私は北伐成功後、建康政権と >溝ができた頃だと思います。 私はもう少し遅いと思います。365年の洛陽失陥や、369年の北伐失敗の頃だと思います。 このせいで今まで黙らせていた既成勢力(=名門貴族)が桓温の失策を責めて、随分やりにくくなったでしょう。 その頃は桓温も五十の半ばを過ぎてますから、「もう悠長な事は言ってられん」ってな具合かと。 皇帝になって全権を握り、一気に中華統一を考えたかと思われます。 そしたら今度は、道理を話せば行政改革に納得してくれた謝安や王彪之あたりに、「それだけはまかりならん」と抵抗され、 遂に寿命が尽きたと言ったところでしょうか。 ただ桓温自身はそうでも、コロ助さんのおっしゃるように彼の幕僚は桓温をけしかけたでしょうし、 周囲に対しても具体的に何か行動を起こした事もあったでしょう。 周りからは、「桓温集団」は確かに簒奪の意識を持っているように、早い時機から見えていたのだろうと思えます。 とまぁ、私は桓温を弁護する方向で話しましたが、そのきっかけはこういう事です。 桓温が廃帝を廃する前にも、穆帝・哀帝と代替わりしてますよね。 この時、桓温が干渉したという記事が見当たらなかったからです。 (まぁ、首都から離れていたから何もできなかっただけだとも思うんですけど) この頃から簒奪を考えていれば、皇位継承には必ず嘴を突っ込んでくるはずだと思うのです。 普通では候補に上らない皇族を無理矢理皇位に即かせるというのは、野心家の権臣の常道と言うべきでしょう。 ただ、これは私の勉強不足なだけかなと、実は戦々恐々です。 コロ助さん、本伝をお読みでしたら、是非ご教示願いたいところです。 穆帝・哀帝・廃帝までの皇位継承はホントにスムーズに行われたのでしょうか? この皇帝達は皆若死にしているので疑う余地はあるのですが、五石散とかの麻薬のやり過ぎであろうと思われますし。 で、こういう風に桓温を想像すると、最後には桓沖(私も桓温の弟だと思ってましたが…)にこんな事遺言をしたかもしれないと思うのです。 「俺が死んだ後は無理をするな。と言うより、俺が積上げたものを無謀な反乱で台無しにしてくれるな。  司馬氏に忠義を尽くせとは言わんが、天下の利を考えろ。俺達の敵はあくまで北の蛮族だからな。」 桓温が死んだ時、桓玄は4歳。当然、桓温から直接教えを受ける事はなかったでしょう。 代わりに、彼の幕僚達から、彼ら自身が望んだ桓温像を吹き込まれたのでしょう。 つまり、彼ら寒門出身者を名門に引き上げてくれるリーダーと言う訳です。 長じてから桓玄が実際に簒奪を行い、最後に身を滅ぼしたのも故の無い事ではないかも (…最後は蛇足だったか (^^ゞ) ∽∽∽∽∽∽ 妄言終了 ∽∽∽∽∽∽ >でも長年漢文読めないくせに中国史迷をやってる人間としては求めてし >まうんだなあ、これが。(>_<) ねー、出版して欲しいですよねー。 多少解釈間違ってても、ちゃんと解説入れてくれればいいから。 >『漢書・後漢書・三国志列伝選』でしたっけ? 多分、高校の時に図書室で見掛けてたやつだと思います。 内容も永一さんのおっしゃる通りでした。 >まあ、明徳出版社版の『晋書』とか『遼史』とかに騙されるよりはいい >かもしれませんけど。 そんなのあるんですか? 全く知りませんでした。 所謂パチモンってことでしょうか? 133 天のみぞ知る NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/04/22 23:28 男性 27歳 B型 >コロ助さま お疲れさまです。 院生もたいへんですね。 >桓温が、何時、野心をもったか?という話は、私は北伐成功後、建康政権と >溝ができた頃だと思います。 僕が考えてるより早いですね。 洛陽遷都が容れられなかったときに、自前で操縦できる政権を作ろうと は考えたでしょうね。簒奪=禅譲まで考えていたかどうかが分かれめで すが。 >本伝を通読してみると、賊臣に近い扱いをうけながらも、性格の欠陥を伝え >る記事が少なく、意外な感じがしました。 『晋書』読んでらっしゃるんですか。いいなあ。『晋書』は、 http://www.jin-shu.com/ にでも期待しますか。 それは置いといて、『晋書』は唐の房玄齢の編纂で、時代も離れてます し、それだけ筆致が冷静なんでしょう。 僕も桓温は単なる上昇志向や富貴を求めるだけの野心家ではなかったと 思います。晋の功臣としての美学を追求していたとも思いませんけど。 かれは野心家であると同時に政治家としての政策的発想も持ち合わせて いたと思います。でなければ土断とかはやらないでしょう。 >もし、桓沖が、覇業を継承したなら、桓氏王朝の正史では『魏志』における >曹操のような扱いをされたと思われます。 同感です。桓温と桓玄の間の中継ぎをつとめた桓沖に野心がなさすぎた んでしょう。桓沖の代に簒奪も不可能ではなかったでしょうけど、むし ろ後退してしまったわけで。 ちなみに桓沖は桓温の息子ではなくて弟のはず…。 >仮に翻訳完成に至っても、「あの読み方はおかしい。」とか、「訳が変だ。」 >とか、議論百出してしもうものです。つまり、「大変な仕事なのに、文句言わ >れる、やってられない」という仕事なのです。 似たような話は聞いたことあります。 正史の翻訳は苦労が多いわりには、学会での評価に結びつかないとか。 研究者は漢文読めることが前提だから、日本語訳いらないとか。 でも長年漢文読めないくせに中国史迷をやってる人間としては求めてし まうんだなあ、これが。(>_<) >あと『後漢書』については、平凡社の中国古典シリーズで、抄訳があったはず >ですが…。 『漢書・後漢書・三国志列伝選』でしたっけ? あれは『後漢書』の列伝部分が4、5篇入ってただけだと思います。 まあ、明徳出版社版の『晋書』とか『遼史』とかに騙されるよりはいい かもしれませんけど。 >内容は、まだ、党錮の禁前史で、後漢時代の儒教界の話です。四知の故事で知 >られる弘農の楊震や、光武帝がでてきます。 宮城谷『三国志』の出来は、 「天知る地知る我知る子知る何ぞ知る者なしと謂はんや」じゃなくて 「天のみぞ知る」のような気が…。(-_-) >当初、予定していた出版社と違いますね。てっことは、徳間書店の中国古典 >翻訳シリーズは、諦めたのかな…。あの人は…。(−−; そうですね。徳間も経営危機が囁かれて久しいから、危ない企画からは 手を引いたのかも。(^^;) 132 桓温の話 コロ助 E-Mail: 2001/04/22 13:35 男性 23歳 A型 こんにちは、コロ助です。 4月より進学、授業がはじまり、その予習で日々を忙殺 されています。おわんねーよー(><) >桓温の話 桓温が、何時、野心をもったか?という話は、私は北伐成功後、建康政権と溝ができた頃だと思います。桓温は、幕僚に多くの寒門を抱えてたわけですが、そういう連中には、桓温に不軌を謀るようけしかける奴がいたんじゃないかなぁ、と思います。 ただ、皇帝になるためには、永一さんが言われる通り、前近代の中国においては、禅譲の形式を踏まずして、万人の納得がいく王朝交代は無理であったでしょう。 かっしぃさんが言われる通り、「併官省職論」は、晋の桓温としての行動ですが、実は、この時の川合安氏の研究では、反桓温勢力の牙城であった侍中の定員削減(当時桓温は録尚書事であり、侍中は尚書省の奏事を審査する権限があった。)さらに、宿衛の権限を掌握しています。 桓温が禅譲クーデターを志向していたことが解かります。 さて、桓温における私の評価ですが…。 桓温は、野心家でしたが、憂国の志をもった野心家であったと思います。『晋書』の本伝 を読むと、「桓温は倹約家であった。」とあるので富貴がほしくて、簒奪を謀ったわけでは ないと思います。本伝を通読してみると、賊臣に近い扱いをうけながらも、性格の欠陥を 伝える記事が少なく、以外な感じがしました。 桓温の不幸は、禅譲を目前に天命が尽きた事、息子が覇業を継承してくれなかった事にあると 思います。息子の桓沖は、北府から手を引いて、謝安の補佐役に徹してしまうので、桓氏王朝 の実現ならずとなってしまいましたが、もし、桓沖が、覇業を継承したなら、桓氏王朝の正史では『魏志』における曹操のような扱いをされたと思われます。 >『後漢書』の翻訳 『後漢書』に限らず、史料の翻訳はとても難しい問題です。漢文というものは、場所によって は、何通りも読み方があったり、テキストによっては、文字の異同があったり、一字一句 こだわると、二時間に数行読むというのがやっとです。 仮に翻訳完成に至っても、「あの読み方はおかしい。」とか、「訳が変だ。」とか、議論百出してしもうものです。つまり、「大変な仕事なのに、文句言われる、やってられない」という仕事なのです。この辺が、翻訳公刊される正史が少ないと言う事情なのでしょう。ちなみに、現在公刊されている正史翻訳は、殆どが、中国文学者によるもので、歴史畑から見ると、微妙に解釈が異なるのは、よく言われる事です。 出版社が、正史の訳を出したりするのは、一種の文化事業だと思うので、儲けの事は、考えてないと思うのですが…。その辺の事情は全く知りません。 あと『後漢書』については、平凡社の中国古典シリーズで、抄訳があったはずですが…。 >宮城谷三国志 私はこれを聞いた時、ついに禁断の果実に手を伸ばしたか…。と思いましたが、内容は、 まだ、党錮の禁前史で、後漢時代の儒教界の話です。四知の故事で知られる弘農の楊震 や、光武帝がでてきます。読んだ印象では、正史よりの三国志になりそうですね。 >田中芳樹の『岳飛伝』 当初、予定していた出版社と違いますね。てっことは、徳間書店の中国古典 翻訳シリーズは、諦めたのかな…。あの人は…。(−−; では、では。今日はこれで失礼します。 131 Re: 桓温雑感 NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/04/22 00:58 男性 27歳 B型 ども、永一です。 >かっしぃさま 僕も不勉強者の妄論に近いですが、異見を述べてみようと思います。 ええと、まずは通説に逆らうって、まるでラインハルト君みたいに桓 温が若いころから「皇帝になるぞ〜」という野心を逞しくしていて、 その準備を怠りなく進めていたというのが通説なんですか?? 人生の晩期になって(簡文帝を擁立したころ)、これはイケるんじゃ ないかという段階になって、東晋の乗っ取り(実質簒奪、形式禅譲) を準備していたけど、謝安ほかの面々に邪魔されてるうちに寿命が… というのが通説じゃないですか? それから、自立と簒奪はご承知のとおり違います。 単に自立して皇帝を称するだけなら、 西府を掌握したのちの荊州で、成漢を征服した直後の益州(+荊州) で、または洛陽を占領したのちの中原枢要部でと確かに可能でした。 しかし、東晋朝本体は敵対的な関係として残りますし、ほかにもいろ いろな問題(どころか危機的状況)を抱えることになります。 頭のいい桓温としては、まず東晋朝に依りながら出世を重ねつつ、機会 が到来したので、丸ごと東晋朝を乗っ取ろうと考えたのではないでしょ うか? 単に軍事的優越をもって自立することは勢力ある軍閥には容易ですが、 それだけでは短命王朝に終わってしまいます。実質簒奪、形式禅譲とい うのは中華の王朝交代によく見られる形式ですが、これは旧王朝の求心 力や政治的正統性(&旧王朝の官僚群)をも引き継ぐことになり、新王 朝が安定しやすいのです。ただこの形式の王朝交代を行うのは一朝一夕 にいきません。それなりの求心力を得るための時間が必要ですし、その 時間が桓温には与えられなかったのだと思います。 桓温は美名にこだわったわけではなく、政治的求心力を得るために四苦 八苦していたのだと思います。 ----異論はここまで >そういえば謝安と言えば、360年から桓温の幕僚になってますよね。 >この時あの二人はどんな会話をしていたんでしょう。 西府における謝安と桓温の会話ですか…。 国政の改革について熱く語り合うとは考えにくいですねえ。 お互い腹に一物たくわえながら、老荘的清談に興じるくらいのほうが、 シチュエーション的に無理がなさそう。(^^;) >『三国志』『史記』『漢書』と立て続けだったのにねぇ。 いやあれはそれぞれ70年代に出たハードカバーを文庫化したものです し。『後漢書』なら一からやらなきゃいけないハズですから。 高〜いハードカバーで出ても僕は買いそうですが…。(*^_^*) 130 桓温雑感 かっしぃ E-Mail: 2001/04/20 22:34 男性 25歳 A型 こんばんわ、かっしぃです。 最近急に仕事が充実して、心浮き立つ残業の嵐です。(T_T) さて、のびのびになってしまいましたが、桓温について私の考えをつらつら述べてみようと思います。 一応資料を読み返しましたが、未熟者の妄想なのでお耳汚しではありますが…。 ちなみに敢えて通説に逆らってみるのが主な論旨です。 この人ってホントに本気で簒奪を考えていたんでしょうか。その事跡を追ってみて、今一つ疑問に思います。 全く考えていなかったということは無いでしょうけど、 「美名を千年の後に残せなければ、臭名を万年の後まで残してやろう」 という言葉は、逆に言えば「まずは美名を残したい」という意図にも読み取れる訳で。 大司馬に任じられてその権勢を一身に集めた時、王彪之の「併官省職論」を取り上げたりしてマトモに行政改革を断行しようとしたのだって、『晋の桓温』としての行動ですよね。 北伐に北府軍を導入して彼等に敗戦の罪を着せた時も、まず北伐ありきで動いて結果がまずかったからそうしたんじゃないでしょうか。 単純に皇帝になりたければ、機会はいくらでも会ったと思うんです。 西府の長に任じられた時、成漢を征服した時、洛陽を占領した時にはそれぞれ独立できたでしょうし、 簒奪なら大司馬に任じられて政権を牛耳った時にも断行できたように思います。 ま、皇帝になった後の事を考えて、より完璧を期したのかもしれませんが…。 で、その内洛陽を奪回されたり369年の北伐が失敗したりでヤキが回った挙げ句の皇帝廃位かも知れませんが。 でもそのくらい慎重な人なら、その時には自分の残りの寿命とかも考えるよなぁ。 きっと最初は『晋の功臣』として美名を残す事も最初は考えていたと思うのです。 なのに北府に殷浩を出鎮させて牽制されたり、北伐の好機に出征の許可を出してくれなかったり、 嫌気の差す事ばかりでだんだん簒奪の事も考え始めたというところでしょうか。 ひょっとしたら周りが「あいつは簒奪を考えているに違いない」と決め付けすぎているようにも見える(ところもある)んですよね。 彼の権勢や実力を考えれば周り誤解されるのは無理も無い事ですが、桓温自身もその誤解を解く努力をしていないようですし。 ただそうだとしたら、結局彼ってどっちつかずになった気もしますね。 そんなだから孝武帝即位の時、公衆の面前で謝安に皮肉られるんだぞって言いたくなる。(^^ゞ 司馬氏の皇女と結婚した事も、彼の心にはどう作用したでしょうか。 私は、簒奪を躊躇う方に傾いたんじゃないかなぁと思うのですが、いかがでしょうか。 そういえば謝安と言えば、360年から桓温の幕僚になってますよね。 この時あの二人はどんな会話をしていたんでしょう。 国政の改革について熱く語り合うところを想像して、ちょっと無理があるかなと苦笑しました。 さて、貴族に反発する寒門出身者達の引き起こす社会不安についてですが、 これについては結局、桓温は自己の出世の為に寒門貴族を優遇しただけだし、 謝安は中庸を取る事で目の前の現実を取り繕う事しか出来なかったと思います。 この事が根本的に解決されるのは、隋王朝によって科挙が行われた事によるのではないでしょうか。 (ホントに完全に、ということでは宋王朝と言うべきかもしれませんが。唐王朝の時は科挙出身者と貴族との政争が有りましたし。) 要するに個人の実力に基づいた人事評価が(名目的であっても)出来るか否かと言う事でしょう。 自分で努力の及ばないところで自分の限界を決め付けられるのは、やっぱり不愉快ですからね。 >太くて短い桓氏と細くて長い謝氏 桓温と謝安の人徳の差でしょうか(笑) >筑摩って、『後漢書』出す気あるんでしょうか? 出して欲しい。ぜひとも。 出たら買うのに。 『三国志』『史記』『漢書』と立て続けだったのにねぇ。 やっぱり『漢書』が売れなかったのかなぁ。 では、今日はこれにて。 129 太くて短い桓氏と細くて長い謝氏 NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/04/18 21:58 男性 27歳 B型 >コロ助さま、かっしぃさま >桓温・謝安ばなしの続き ?郡桓氏(?国桓氏ぢゃないのかな?)と陳郡謝氏っておなじ新興門閥であり ながら、ほんと対照的ですね。 革新的・保守的って政策的な分け方も納得ってかんじでした。 桓氏って桓玄の後のことを聞かないなあと思って、ちょっと調べてみたら、 桓玄が劉裕に討たれて四川で殺された(404)のち、 桓嗣の子の桓胤が殷仲文に担がれて、謀反計画が発覚して殺されたり(407)、 桓沖の子の桓謙が後秦に流亡したあげく、敗死したり(410)、 ろくな最期を遂げていないようです。 もしかしたら太くて短い桓氏と細くて長い謝氏なのかもしれません。 陳郡謝氏って謝安・謝玄以後やや衰えるとはいえ、けっこう息が長いですし。 宋の謝霊運・謝恵連とか、斉の謝チョウとか著名な人物も輩出するわけで。 >宮城谷『三国志』 8年だか10年だかの期間をかける大作になるそうですから、 とにかく斬新な切り口になることを期待します。 『三国志』のコンセプトって、軽薄調・お笑い系から硬派・正史系まで、 はたまた蜀漢正統から魏・呉系いたるは宗教系まで出尽くしてる感もあります が。 筑摩って、『後漢書』出す気あるんでしょうか? 文庫版『漢書』が売れなかったので(僕は売り上げ協力しましたが)、もうや らないって説もむかし流れてましたが。 やるなら僕は応援したいですね。 >つぐみさま あまりお役に立てませんでしたね。m(__)m 128 ありがとうございました。 つぐみ 2001/04/16 23:10 女性 27歳 AB型 全く中途半端な内容の質問で、申し訳ありませんでした。 確かにマユツバなお話だと思われてしまってもしょうがないことなんですが 私としては、気になって仕方のないことでした。 また前世について聞きにいく機会があるかもしれないので その時に詳しいことを聞こうかと思います。 管理人さん、コメントいただきましてありがとうございました。 127 嬉しからずや かっしぃ E-Mail: 2001/04/16 14:14 男性 25歳 A型 御無沙汰です。 先日『NewType』で『F.S.S』が連載再開したのが嬉しくて立ち読みしたかっしぃです。 (嗚呼、何の話してるやら。) それはさて置き、 >コロ助さん まさかこんな丁寧な要約を提供して頂けるとは! 感涙が溢れてディスプレイが見えませぬ…。 ありがとうございます、早速読ませて頂きました。 こちらの感想は内容が重くなりそうなので、それはまた夜にでも。(仕事中です(爆)) >宮城谷氏の『三国志』 こちらは初耳でした。そうですか、あの人がねぇ…。 あの人のエッセイで、白川静氏の『字統』を読んで漢字の古字を勉強したというのを読んだ事がありましたから、 てっきり春秋戦国時代以前が専門なのかと思ってました。 実際それに基づいた『左伝』『史記』『国語』『戦国策』といった資料の独自解釈が、 あの人の小説の魅力の一つだったと思っているのですが。 「今更アナタがやらなくても…」というのが私の感想ですが、何か斬新な構想でもお有りなんでしょうか? 『三国志』ならちくま学術文庫の『正史』の方を持っているので、私は食指が動きませんね。 どうしても『三国志』ネタにしたいなら、『三国志前史』とか言って東漢時代の概略でも小説にしたら良かったのに…。 いや、それならちくま書店の方に『後漢書』の訳を早く出版してもらった方が嬉しいかな? 126 うーむ NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/04/16 02:09 男性 27歳 B型 永一(管理人)です。 >つぐみさま はじめまして。 うーん、頭から否定する気もないですが、僕はどうも懐疑的なもので。 #なにせ洋泉社の「と」学会のシリーズを愛読しているような人間ですから。 それはさておき、 僕の貧相な記憶では、おっしゃるようなエピソードに覚えがありません。 僕の記憶にないだけで、文献に残ってるのかもしれませんし。 歴史文献に残っていないけど、こういう事件もあったんだと言われたら、 よほど現在の歴史学の成果と相違していないかぎり検証はできませんね。 「大昔の中国、国がまだたくさんに分かれていた時代」っていつでしょう? 春秋戦国でしょうか?まあ、決めつけは危険ですが、そのあたりなら『左伝』 『史記』『国語』『戦国策』ほかの史書や諸子百家あたりの文献になかったら、 まあまず今日の歴史文献には残ってません。 僕ならば、もう少しその過去見屋さんにツッコミ入れますね。 1.大昔とはいつの時代か?(何年くらい前か) 2.その男の国とはなんという国か? 3.その男の名前と母親の名前はなにか? くらいを聞ければ、明らかにダウトなら指摘できますし、脈がありそうなら端緒 はつかめるでしょう。 まあ、今の段階のお話では、信用はできないけど、否定することもまた難しいと しか言いようがありません。 >コロ助さま 待ってました!(^o^)/ 要約ありがとうございます。 たいへん論旨が分かりやすいです。 ご苦労さまでした。 桓温は改革の旗手として期待されていたのですな。 あと5年長生きしていたら歴史はどう変わっていただろうかと思います。 言いたいことはまだありますが、 今晩は力尽きました。_(._.)_また今度書きます。 ではでは。 125 お待たせしました! コロ助 E-Mail: 2001/04/15 21:55 男性 23歳 A型 >永一さん、かっしぃさん お久しぶりです。コロ助です。以前お話した金民寿著「桓温から謝安に至る東晋中期の政治」の要約が完成したので、書き込みたいと思います。金氏の説を数行でまとめるよりも、ある程度 論の組み立てが解かるように、紹介したほうが良いかなと思い、かなり長文になってしまいました。もっと簡潔に書けると思うのですが、私の文章力では、これが限界です。m( )m そう言えば、宮城谷昌光氏が『三国志』を『文藝春秋』に連載を始めたので、親父殿に借りて 読みました。この辺の感想も書こうかなぁ…と思ったのですが、力つきました。 それは、また今度にします。(^^) 金民寿「桓温から謝安に至る東晋中期の政治」(『史林』75巻1号、1992年) <問題提起> 東晋の政治は、 初期(317〜344)多少の混乱はあったが琅邪王氏、穎川?氏による門閥貴族政治が安定した時期。 中期(345〜385)桓温、謝安が政権を担当した時期。 末期(385〜420)孝武帝、司馬道子、司馬元顕が専権を振るい、これに反発する貴族層、が政争を起こし、寒門層、一般民衆の不満が爆発、やがて、貴族から軍権を奪った寒門層代表劉裕が宋を建国せんとする時期。 に分けられる。この内、中期の研究が、非常に少ない。よって本稿では、@司馬c輔政期の清談A桓温の支持層とその政治B謝安の政治の三点から、東晋中期の政治の性格を規定したいと思う。 <?郡桓氏、陳郡謝氏の出自> ?郡桓氏、陳郡謝氏はともに、後漢〜西晋にかけて、大官を輩出しておらず、西晋末、いち早く渡江し、建康政府の清談貴族の仲間入りを果たす事によって台頭してきた「新出門戸」(新興貴族)である。二家は、司馬c(簡文帝)輔政期に清談サロンで才が認められ、桓温は西府に、陳郡の謝尚は北府に出鎮した。このように、二家の台頭する過程は、共通する所が多いが、各々、成功と失敗の途を辿るようになる。それを見る前に、二家と深く関わる建康政府の動向について、考察を加えたい。 <建康政府の動向−司馬cの輔政と清談―> 司馬c(後、簡文帝)は、穆帝・哀帝・廃帝の三代、ほぼ東晋中期にあたる時期に、政権の首班であり続けた。これは彼の才覚によるものでなく、無欲かつ無能な司馬cを首班に据えることによって、門閥貴族たちが政権を意向通り動かすためであった。 司馬cの幕府である撫軍大将軍府のメンバーを分析すると、北来貴族を中心に、江東豪族を加えて構成されている。これは、東晋初期の北来貴族、江東の名族を重用し、寒門軍将を軽視すると言う方針を継承したものである。 この頃、貴族の多くは清談に耽り、現実的な行政能力を失いつつあった。しかし一部の貴族は、これに危機感を持ち改革を指向するようになる。琅邪の王彪之の「併官省職論」(官制改革論)はこの一例と言える。 <桓温の政治> 桓温が荊州の西府を掌握すると、成漢を併合した。これは、中原回復を目指す建康政府にとって歓迎すべき事態のはずであったが、渡江から数十年、特権と安逸を貪り、又自分達の足下を脅かされると警戒した貴族にとって、歓迎すべき事態ではなかった。建康政府は、北府に、反桓温派の将軍を置いて桓温を牽制し続ける。 一方、桓温は自己の幕僚に荊州の寒門豪族を招き、彼等の支持の元、北伐を成功に導く。 そして、征討大都督の地位を利用し、北伐に北府軍を導入して、彼等に敗戦の罪を着せて 北府の切り崩しにかかる。その過程で、陳郡の謝安、北府軍の功労者、??の孫?超を幕僚に招き入れ、北府軍の掌握に成功した。 363年、桓温は洛陽遷都を持ち出して、朝廷を脅し大司馬・都督中外諸軍事の地位を与える。名実ともに朝廷の軍権を得た桓温は、便宜七事と呼ばれる改革に着手し、改革派貴族の支持を得る。その中に、王彪之の「併官省職」の官制改革が含まれていた事は興味深い。 さて、西府、北府の寒門軍将と改革派の貴族の支持を得た、(別の言い方をすれば、彼等に担がれた)桓温は、いよいよ禅譲目前までの地位に登りつめる。しかし、改革派貴族の謝安(陳郡謝氏)、王彪之(琅邪王氏)、王坦之(太原王氏)がわざと、孝武帝(簡文帝の子)からの禅代の詔勅を出させる事を遅らせ、桓温の登極を阻止してしまう。そして運悪く桓温は病死してしまい、その野望は潰えてしまった。 この背景には、反貴族的な寒門軍将と荊州豪族と、その台頭を嫌う北来貴族の反目があったのである。しかし本当にそれだけであったか。 <謝安の政治> 謝安の一族は、代々豫州刺史の地位を得て北府の軍権を握ってきた。この豫州軍閥こそ謝氏の勢力基盤であった。謝氏は、桓温の西府と建康政府の対立にあって常に中立を保ち続けた。謝氏一門は、桓温の幕府にも建康政府にも一門を参加させ、一族の保全を図ったのである。この絶妙な政治遊泳術が、謝氏を「新興門戸」でありながら、一流の門閥に成長させた秘訣がある。 しかし、謝氏は、豫州刺史の地位を桓温に取り上げられてしまう。その直後、謝安が桓温の幕府に出仕する。謝安の出仕は、古来真相が取り沙汰される所であったが、謝氏一門の保全を謀る「門戸の計」であったと思われる。 謝安は、桓温と改革派貴族との間にたって絶妙な政治遊泳術を見せ、ついに桓温の推薦で簡文帝の顧命を受けるに至った。そして、謝安の計略にまんまと乗せられた桓温は、彼に足元をすくわれてその野望は泡沫となって消えてしまう。つまり、桓温の禅譲失敗の功は、謝安に帰すのである。 さて、以上の経緯で謝安の政治が始まるが、その方針は、王導を範とした保守的な政治であった。改革派貴族である王坦之、王彪之は政権中枢から遠ざけられた。又、西府は桓氏の掌中に未だあったが、桓温の子桓沖は、反桓氏勢力を恐れて、北府から手を引いてしまう。北府軍は、謝氏に掌握される所となった。つまり、すべては桓温登場以前の政治に逆戻りしたのである。東晋中期から現れる貨幣経済の浸透、寒人の台頭といった社会変化に対応できるものではなかった。こういった社会矛盾は、謝安の死後噴出するのである。 結語 以上の事を踏まえると、東晋中期の政治について次のように言える。桓氏と謝氏は、改革と保守という、相対立する政治路線を歩みながらも、どちらも社会の底辺からの変化を収斂し、貴族の枠を越えて時代の要求に答えることが出来なかった。その結果、東晋末の大混乱が惹起されるのである。 124 馬鹿にされそうな質問なんですが・・・。 つぐみ 2001/04/14 19:44 女性 27歳 はじめまして。 こちらには初めて来ました。 私は、歴史には全くうとい人間なのですが どうしても知りたいことがあり、こちらの掲示板に辿りついた次第です。 先日、霊能者の方に過去世を調べていただいたところ 「大昔の中国、国がまだたくさんに分かれていた時代の、その国々の一つの国の主」 と、言われました。 その男とは、幼少の頃、母親と自分と妹とで追われながら猛烈な雷雨の中 広い草原を逃げていた時、目の前で母親を落雷によって亡くしたそうです。 (ちなみに私は雷恐怖症で、それに関する過去世を見ていただきました。) この男はのちに、国の主になったそうですが、この出来事のトラウマなのか 大きな音が大の苦手だったそうで、ケンカ等人の罵倒し合う声ですら その場から逃げ出さずにはいられなかったそうです。 この男に関するエピソードはこれだけで、他に詳しいことは聞けずに終わってしまいましたが 私は、この人物について興味が沸いてきてしまいました。 この時代には、たくさんの国王(って言うんでしょうか?)がいるということで 歴史に残っているような人物が、私の過去世とは思い難いのですが 何かこのことに関してご存知の方、また、ご意見のある方いらっしゃいましたら 是非、伺いたいと思っております。 よろしくお願いいたします。 123 江湖のほとりで NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/04/13 23:20 男性 27歳 B型 >ルイシンさま お役に立てたなら幸いです。 中国史ものは、地理関係を気にしはじめると勢いよく読めなくなってしまうので、 僕はふだんは大雑把に捕らえてます。 歴史地図集とか手元にあるといいですけどね。 屈原と端午の節句との関係は、故事や中国史では有名な話ですね。 「汨水と羅水の交わる淵」と記しているのは陳舜臣さんですか。 #脈絡はあまりないですが、いま徐朝龍『長江文明の発見』(角川ソフィア)を 読んでます。長江流域の古代都市・青銅文明が、「黄河文明=中国文明」とする 伝統的な王朝史観に対するアンチテーゼとして現れています。 122 汨羅…栄一@管理人さん有難うございます ルイシン 2001/04/09 23:02 男性 52歳 B型 永一@管理人さん、有難うございます。 屈源の祟りを恐れ、その霊を静める為の祭りが今に至るも続いているのは知っていました。 5月の端午…実際には端午ではなくなっていますが…その節句に我々がチマキを食べる風習が屈源の故事が起源とあって、何となくその地が気になってもおりました。 楚人の所以、湖南省の辺りとだろうとも思っていました。 汨水と羅水の交わる淵と記している本もあり、多分長江の支流辺りだろう…程度で、 無理に調べることはしなかったものの、奥歯に物のはさまった感が抜けずにおりました。 さっそく地図で調べてみましょう、有難うございました。 インターネットは始めたばかりですが、こんなに早く参考意見が寄せられるとは思いませんでした。掲示板って面白いものですね。 121 汨羅は NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2001/04/09 20:29 男性 27歳 B型 永一@管理人です。 >ルイシンさま はじめまして。 「汨羅」は湖南省の東北部、長沙市の北、岳陽市の南に、その名も汨羅市という 行政区があります。市の中心を汨羅江が東から西に流れて、長江に隣接する湖に そそいでいます。 市の郊外に屈子祠という遺跡があるようです。 僕も行ったことがあるわけではないので、このくらいで勘弁してください。