510 初唐のはなし NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/06 01:12 男性 28歳 B型 予州 布衣 >コロ助さま >蘇世長とか劉孝孫とか李玄道、許敬宗とか。あまりメジャーじゃないか。 許敬宗はいくらか悪い意味で知られているかも。 それこそ陳舜臣さんが実録改竄の実行犯として紹介してしまっているので。 >非常手段で即位した太宗にとって、子飼いと見なせるのではないでしょうか。 どうも言い方がまずかったところを、さらに話をかきまわしてしまいまして。 秦王時代からの功臣たちと李世民との結びつきは非常に強いとは思います。 >これは『旧唐書』の李成器伝にのってますね。 なるほど。 李憲ではなく、李成器と呼ぶべきなんですかね。 そういや忌諱だっけか。 >『新唐書』は基本的に『旧唐書』にある記事は節略して >『旧唐書』にない記事を加筆するという方針で書かれた史料なので、 いや勉強になります。ありがとうございます。 自分の場合、単にうちの手元に『新唐書』と『通鑑』しかないってだけなんですよ。 まあ『旧唐書』引こうと思えば、台湾の中央研究院の網頁とかみれば引けるんですが、 ちょっと面倒くさくて。 僕が正史の唐の分がほしいなあと思って、なにせ万札が飛ぶ買い物だからと迷ったと き、『旧唐書』より『新唐書』のほうが読みやすいというのを耳にしてしまいまして。 それこそ四六駢驪文と古文の差が悪いのです。(^^;) >エリスさま >その後、皇帝や皇太子は何の罰も与えなかったのでしょうか。罰されたという記述を読ん >だことはないのですが。 え、えーと、斉王元吉って劉黒闥との戦いでそんな醜態さらしてましたっけ? 僕は知らないんですけど。 劉黒闥って、竇建徳の旧領をあっという間に回復して、かの李勣すら破ってしまった 人ですから、群雄としては派手な人ではあるんですが。 斉王元吉の大失態というと、劉武周に并州を奪われたことのほうが知られてると思い ます。高祖は激怒したみたいですが、別に罰を加えられたというのは読んだことがな いですね。 李世民と劉黒闥は[シ名]水で激戦をやってますね。羅士信が戦死したのも、これの 前哨戦でしたか。 >「中国の歴史」では「魔性の人」「冷たい人」「このような人物とは友人にはなりたくな >い」と書いた上、さらに たしかにそう書いてますね。そう言われれば、嫌いなのかも。(>_<) ええと以下は僕の負け惜しみですけどね。(笑) 陳舜臣さんはあの書き方でも李世民が名君・英主であること、すごい人であることを 否定してはいないんですよ。「家庭の事情」の章の冒頭など太宗の治世をベタ褒めし てるようなものです。 507 お答えありがとうございます エリス 2002/09/05 20:32 女性 B型 公主  管理人様、コロ助さま、お答えありがとうございます。 そうですか、李世民はとても尉遅敬徳を信頼していたのですね!ああ、よかった!これで他のあまり有名でない人々への猜疑心などはたいした問題ではなくなりました。(いいのか、それで 笑)李せきへの左遷ですか・・・確かにやるべきでなかったと思いますが、そもそも頼りない息子を後継者にしたことに根本的な問題があるわけですよね。  ところで李淵や建成は家族に甘いところがあったのでしょうか。劉黒たつ討伐のとき、最初に出陣したのは三男の元吉ですが、彼は配下の将兵を置き去りにして自分だけ逃げ去っています。その後、皇帝や皇太子は何の罰も与えなかったのでしょうか。罰されたという記述を読んだことはないのですが。それから世民が激戦の上で勝てば、当然衆望は世民の上に集まりますよね。この戦いで危うく落命するところだったそうですが、それさえも彼は決して逃げず勇敢に戦ったとしてよいほうに印象付けられると思います。玄武門の変のようなことをしても支持を失わずにいられたのはこの一件も大きかったかな、と愚考いたしました。  それから管理人様、陳舜臣氏はやはり李世民のことがあまり好きではないと思えます。ひょっとしたら嫌いというほどではないかもしれませんが。  「中国の歴史」では「魔性の人」「冷たい人」「このような人物とは友人にはなりたくない」と書いた上、さらに宋太祖の趙匡胤のことを褒めるときに、「兄弟を殺して帝位についた李世民に比べれば彼には冷たさがなくていい」という意味のことを書いてあります。宋太祖を高く評価するのはいいとして(確かに名君です)その悪い比較例に唐太宗を持ってくるんですか(苦笑)これはやはり好きではないのではないかと(笑)  別に陳氏が李世民を嫌いでもいいと思います。人の好き嫌いなど人ぞれぞれですし。それに今まであまりにも中国史上最高の名君と持ち上げられてきたことへの反論でもあるでしょうし。ただこの「中国の歴史」を読んでさえ、「冷たい人?いや、それでもいい、彼はすごい人だ」と思えたのはやはり唐太宗がそれだけの人物だからだと思えます。なんというか、その魔性のところさえ魅力に思えてくるのですよ。これが朱元しょうのように魔性度が高すぎると(笑)やはり傑物であるとは認めても、好きとはいえないですね。  それでも「小説十八史略」における李世民は好感の持てる英雄に書けています。まさしくこれこそが陳氏のプロとしての仕事ぶりだと思いました。   506 すれ違い コロ助 E-Mail: 2002/09/04 03:12 男性 24歳 A型 武州 太学生 永一さんとレスがすれ違いました。 >李成器の弔辞 これは『旧唐書』の李成器伝にのってますね。李成器を大哥と 呼んでます。かなり玄宗の心情を吐露している感じです。素読 するにはムズイな。以下は老婆心知っていたらすみません。 『新唐書』は基本的に『旧唐書』にある記事は節略して 『旧唐書』にない記事を加筆するという方針で書かれた 史料なので、なるべく『旧唐書』の方をベースに見た方が良いです。 ただ唐後半期の事は、『旧唐書』で使われなかった史料を使っている ので『新唐書』の方が使えるようです。何れにしても両方見るのが ベストでしょう。あと『新唐書』の弊害はなんといっても上奏文、詔勅 の引用を四六文から古文に変えている事ですね。許すまじ欧陽脩!(笑) 505 言葉は大切にしないと(自戒) コロ助 E-Mail: 2002/09/04 02:35 男性 24歳 A型 武州 太学生 >永一様 子飼いとは、厳密にはそういう意味なのですか。腹心・直属の部下 ぐらいに思っていました。(爆) でも十八学士も王世充系の人がちらほら。蘇世長とか劉孝孫とか李玄道、 許敬宗とか。あまりメジャーじゃないか。 尉遅敬徳や秦叔宝ら所謂秦王府の幕僚たちは、高祖にとって外様でも、 彼らを引き立て且つ守り立てられて非常手段で即位した太宗にとって、 子飼いと見なせるのではないでしょうか。実際太宗即位直後の三省長官と 十二衛の将軍の人的構成は、秦王府の組織を横滑りさせただけですから。 それに唐一代通じて秦王府の功臣は太原元従とならんで、佐命の功臣とされ、 事あるごとにその子孫に褒章が与えられています。 >張亮の事 たしかに太宗の猜疑心エピソードとしては、不適切だったかも。 お決まりの李勣のエピソードじゃ、芸がないと思いまして。他にも 「唐三代にして女王武氏立つ」という預言で、なんの罪なく殺された 李君羨のエピソードとかありますね。張亮事件は修論に少し関わる所 なので、調査中ですが、『旧唐書』と『新唐書』じゃ微妙に違うんだよ なぁ。 >エリス様 はじめまして。 李靖は李淵と不仲だったようで、李淵は二回ほど彼を殺そうとしています。 一度目の時は、李世民の命乞いで許され、秦王府の幕僚となりました。李靖と 李世民の結び付きは是より始まったようです。玄武門前夜に李靖は李勣と ともに李世民に忠誠を誓っていますから、李世民グループの一因と見なせ るわけです。厳密の意味の子飼いではありませんが…。 >尉遅敬徳 忠誠疑われる?李世民は、かなり彼を信任していますが。ただ、論功行賞に 不満で、自分より席次が上とされた宗室の一人を宴会で殴り、それを見た太 宗が「お前は俺に漢の高祖の真似事をさせたいのか!卿が不法を侵せば功臣 と雖も容赦せんぞ」と言った意味の事を述べていますが。どうやらその後から、 練丹術に凝りだしたようです。一種の韜晦の術ですか。尉遅敬徳は、長孫無忌、 房玄齢、杜如晦ら宰相や文人官僚と反りが合わなかったようです。 504 隋唐と明と NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/04 01:05 男性 28歳 B型 予州 布衣 下のほうの自分の発言ですが、「十八学士のような子飼い」という表現はやっぱ り変でした。房玄齢・杜如晦のような筆頭クラスからして、旧隋臣ですし。 お詫びして訂正します。 あえていうなら侯君集みたいなのを子飼いと呼ぶべきですね。 >鹿角さま >トンデモ皇帝が多かった明でも宣徳帝はまともな方だと思います。 仁宣の治といわれている時期ですね。 あまりこの辺詳しくないんですが、三楊の補佐がよろしきを得ていたということ でしょう。 >安史の乱の黒幕は楊貴妃で寿王と別れなければならない仕返しに 歴史の解釈にはいろんな考えがあるものだとは思いますし、小説で何を書くのも 自由ではあるんですが、安禄山も楊国忠もずいぶんとコケにされたものだという のが、僕の率直な感想です。 >寧王への弔辞は玄宗自ら書いたそうで・・・読んでみたいです。 『新唐書』巻八十一を見ましたが、弔辞はないですね。 寧王李憲が六十三歳で亡くなったとき、玄宗は声を失って慟哭したそうですが。 李憲は、恭謹・節倹・寛容な仁徳者だったという印象です。 >エリスさま >李世民は尉遅敬徳の忠誠を疑ったことがあるとか。 ええと、僕はそれは知りません。 全く逆のエピソードなら見つけましたが。 -- 尋相が叛したとき、諸将は尉遅敬徳もまた乱に加わるのではないかと疑い、これ を捕らえた。秦王(李世民)は、 「敬徳が叛くなら、尋相の後ろになどつくものだろうか」 と言って敬徳を釈放させた。 「私は讒言によって良士を害したりしない」 と秦王が言ったのに感動したのかどうかは知らないが(笑)、 尉遅敬徳は王世充との戦いに活躍し、敵将単雄信を捕らえた。 -- って話です。李世民は尉遅敬徳をずいぶんと信頼していたように見えますが。 >全く彼ほどの人間があれほど粛清をしなくては政権を保てないと本気で思っていたので >しょうか。 朱元璋の場合、後継の皇太子が早逝して、皇太孫が若すぎたってのも大きいで しょうね。胡・藍の獄については、官僚層のリストラを真の目的とみる説が 最近はあるみたいです。どちらにしろ好きになれない話です。 >あのー李靖て初めから李世民の部下だったのですか。 李靖はもともとは隋の臣です。 殿内直長とか馬邑丞とか、いまいちパッとしない官職をつとめていたようです。 隋の吏部尚書の牛弘が「王佐の才なり」と評したとか、 尚書左僕射の楊素が「卿はのちにこの座につくことになろう」と予言したとか、 いう話が残っていますが、実力者に才能を認められたわりには引き立てられた ようすはないので、後づけの挿話なんでしょうね。 503 付け加え および質問 エリス 2002/09/03 23:35 女性 B型 公主  あのー李靖て初めから李世民の部下だったのですか。ほとんど江南方面を単独で攻略していますよね。彼の上は皇帝の李淵でなくて秦王だった李世民なのですか。 ところで子飼いの部下とは、その人以外誰にも仕えたことのない腹心の部下、ぐらいの意味にとっていました。かつて敵将に仕えていて、しかも中心人物として活躍していた過去があれば、もはや子飼いとはいえないと思います。もっとも李密の部下だった魏徴を側近としていたのは長子李建成も同じなので、このことをもって世民だけが特に優れていたというのは過大評価でしょうが。 ところで管理人様、わたしは一応李世民ファンですが、李密やトウ建徳も好きですよ。特に李密は唐王朝の人材に貢献してくれました(笑)彼は人を見る目のある人だったと思います。 502 人を正しく評価するのは難しいですね エリス 2002/09/03 21:22 女性 B型 公主  管理人様、コロ助様、ありがとうございます。 李世民のことで新たに知ることが出来てよかったです。 しかし正史で実際より良く書かれるというのは長期王朝の建国者はだれでも当てはまるのではないでしょうか。 それにしても私たちは今現に生きている人々のことさえ正しく評価できない、というより見る人により様々な判断を下しますね。たとえば政治家とか。まして千何百年前に生きていた人のことなど本当にその実像を理解することなど出来るのだろうかと思ってしまいます。もっともそれをいったら歴史学は成り立ちませんが(笑) しかし、自信家て欠点でしょうか。まあ自信がありすぎて人の言うことを聞かないのは問題ですが、彼はそんなことはなかったのでしょう?短気、これは分かる気がしますね。気が長そうでは決してありませんね。群雄を討伐するため、戦場を駆け巡っていたころはこれらの特質はむしろ長所だったのでしょうが、守成に入るとなると逆に欠点になるのですね。ところで猜疑心があるというのは一概に否定できない面もあるのでは。あまりたやすく人を信じるのも問題ですよね、権力者としては。もちろん、そのために無実の人間を殺したのでは問題外ですが。 ところであるサイトで見たのですが、(ちなみに私は漢籍は読めません)李世民は尉遅敬徳の忠誠を疑ったことがあるとか。私は尉遅が大好きなのでショックでした。上記の記述と矛盾しますが(笑)彼ほどの忠臣はいないと思うのに。うーん、やはり猜疑心は大きな欠点かな(笑) 私思うに、彼は本来乱世を戦い抜くには向いていても、平和な時代を治めるのは不向きだったと思うのですよ。それをなんとか本来の自分の気性を乗り越えようと努力していたと思えるのですよね。なんというか、歴史上の人物でも今生きている人でもあまり欠点だけをえぐり出すようなことをするのは好きではないというか。たとえば私は朱元ショウなんてどうしても手放しで賞賛する気にはなれないのですが、それでもいいところは認めようと思いますね。全く彼ほどの人間があれほど粛清をしなくては政権を保てないと本気で思っていたのでしょうか。モンゴルを追い払った英雄なのだから、彼さえその気なら多くの人は心から協力してくれたと思うのに。少なくとも彼が生きている間はね(笑)有能な後継者を残せるかはまた別問題です。ああ、やはり猜疑心は大問題だなあ(苦笑) 501 中華あれこれ 7 鹿角 2002/09/03 13:40 玄宗は兄である宋王に帝位を譲られた関係もあり丁寧に仕えた・・・って彼はミツグ君だったんでしょーか?(なら史上最強のミツグ君ですねっておい(^^;)たとえが古いか・・・) トンデモ皇帝が多かった明でも宣徳帝はまともな方だと思います。 農民の境遇に同情して年貢を減らすように部下達に掛け合い、 叶わずとみるや抗議の詩を送るなんて・・・何か可愛い・・・ だけど現実は「宣徳帝の人情ではどうすることもできない」 (東洋の歴史 8) 「酔いどれ探偵 李白」(辻 真先)にはびっくりしました。 安史の乱の黒幕は楊貴妃で寿王と別れなければならない仕返しに 唐王朝を滅ぼそうというのですから・・・ だったら自分だけでやって欲しい。 まきぞえになる長安百万の市民が可哀相です。 楊国忠は翔べ麒麟では朝衡に敵意を燃やしてましたが 本当はどうだったんでしょう? あれだけ出来た人にはかえって反感もなくなる、とか?(^^;) そして張説や張九齢の朝衡評も聞いてみたい気がします。 寧王への弔辞は玄宗自ら書いたそうで・・・読んでみたいです。 (もちろん日本語訳で) 500 化けたm(_ _)m NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/03 01:50 男性 28歳 B型 予州 布衣 下の記事で文字化けしちゃいましたが、「輔公?」は「輔公[示石]」です。 499 あやしい表現かな NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/03 01:44 男性 28歳 B型 予州 布衣 >コロ助さま おひさしぶりです。 >魏晋南北朝巻、早く学術文庫版で復刊しないかな。(^^) 全くです。これも復刊ドットコムで投票入れたりしましたが、はたしてどうだか。 >怒りのあまり盧祖尚という江南平定で活躍した功臣を殺しています。 誰それ?とか、思いました(-_-;)。輔公?を討った人…ですか。 『新唐書』巻九十四を見ると、交州都督の任を引き受けなかったって理由で斬られ てますね。たしかに訳分からんです。 >玄武門の功臣、張亮を証拠不充分のまま謀叛の罪で殺していますね。 これはなんかミステリーっぽいです。 後妻やら術者やら養子やらが出てきて、何やら紛糾してますね。 最終的な判決を太宗が下したとしても、 百官が議論して「亮當誅」と言ったのなら、これは陪審有罪みたいなものではない ですか?太宗の猜疑心の例として挙げるに当たるものでしょうか。 >これも同意ですが、上で挙げられている人々は魏徴以外皆、子飼いですゾ(^^) えっ? 李靖は旧隋臣、李勣・秦叔宝は旧魏臣、尉遅敬徳は劉武周の旧臣ですよね。 全員外様じゃないですか? それとも僕の使ってる「子飼い」の意味が一般常識とは違ってますか、もしかして。 子飼いというと、賤ヶ岳の七本槍みたいなのを言うと思ってました。 急に不安になったので、国語辞典を引いてみました。 -- こがい【子飼い・子養い】 1).ひなの時から育てること。 2).子供の時から、または一人前になる前からめんどうをみて育てること。また、育 てられた人。「−の部下」 -- たぶん…、大きく間違ってはいないと思うんですが。 いや、そうすると十八学士が子飼いって表現のほうが怪しいか。(爆) 498 李世民の人物評価 コロ助 E-Mail: 2002/09/02 22:36 男性 24歳 A型 武州 太学生 >永一様 お久しぶりです。 なんか全然、論文進まんなぁー(――) その割に「スターウォーズ」「猫の恩返し」はキチンと 見に行った自分に乾杯です。(うーむワケわからん) >概説書 通史的の概説書で私のお勧めも、講談社版の『中国の歴史』ですかね。 魏晋南北朝巻、早く学術文庫版で復刊しないかな。(^^) あと『岩波講座世界歴史』は新旧版ともにお勧めです。全巻読んでいませんが…。 >李世民の人物評価 創業の名君と言うのは同意ですが、正史で過大評価されている所を、差引いていか ないと、この人の実像は中々見えませんね。私が見ている史料の限りにおいては、 彼の性格的欠点は短気で、自信家で猜疑心が強いという印象です。短気は、魏徴や 房玄齢との衝突を見ても明らか。怒りのあまり盧祖尚という江南平定で活躍した功臣 を殺しています。猜疑心については、玄武門の功臣、張亮を証拠不充分のまま謀叛の 罪で殺していますね。私はこれを一種の功臣粛清と見ていますが…。しかし、上の欠 点を、諫言を聞き入れる事でカバーしている所が彼の長所であると思われます。 >十八学士のような子飼いだけでなく、李靖・李勣・魏徴・尉遅敬徳・秦叔 >宝といった名臣を使いこなして破綻しなかったというだけでも名君と言う >べきです。 これも同意ですが、上で挙げられている人々は魏徴以外皆、子飼いですゾ(^^) 貞観の名臣の中心は、ほとんど秦王時代以来の子飼いと新規に登用された人々、 高祖朝の名臣は、ほとんど退けられています。 497 創業の名君 NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/02 01:28 男性 28歳 B型 予州 布衣 >鹿角さま >以前管理人さんが言っていた講談社版中国の歴史(無論陳さんでない方の)の単行本版 >のほうをよんでいます。 講談社版『中国の歴史』というと、1974-5年に出たやつですね。 僕は最近講談社学術文庫で刊行されてるので集めてるんですが。 人物往来社『東洋の歴史』(中公文庫『中国文明の歴史』)が、史話の紹介に偏して いて一般向けなのに対して、講談社のはやや社会史的で、よりアカデミックな趣きが あるとは感じます。 どちらがいいかは、好みなんですけど。 >あとは文芸春秋の「大世界史」と岩波、それと中央公論新社からでた「世界の歴史」を >読めば大体OKですかね。 ううう、読んでないです。 日本語の概説書に関しては、鹿角さんのほうが僕なんかよりよっぽど読んでおられる と思いますよ。 ええと中公の『世界の歴史』シリーズは古いのと、新しいのがあるらしいですが。 概説書のシリーズを挙げれば、集英社『人物中国の歴史』とか教養文庫の『世界の歴 史』とか河出の『新十八史略』とか講談社現代新書の『新書東洋史』とか、まだいく つかあるにはありますけど。 鹿角さんも、ここらで一発漢籍に手を出してみてはいかが? 最初はろくすっぽ読めないと思うんですけど、 (実際こう勧めてる自分が読めてないし) いくらか読めたら、概説書には書かれてない自分だけの発見ってのが出てくると思う んですよ。 >エリスさま はじめまして。管理人の永一です。 隋末唐初というと、どうも唐(李世民)ファンと魏(李密)ファンと夏(竇建徳)フ ァンがいるらしくて、時々取るべき態度に迷ったりしますね、わたくしゃ。(^_^;) >「中国の歴史」では陳先生は李世民のことがお好きではないようですが。 同じ陳舜臣さんの著でも『中国の歴史』と『小説十八史略』では、だいぶ温度差が ありますよね。『小説十八史略』のほうが従来的なストーリーの面白さを重視し、 『中国の歴史』のほうが新しい学説を取り入れていくらかアカデミックな批判に耐 えられるようにしたって部分はあるだろうと思います。 陳舜臣さんが李世民を嫌いってわけではないと思いますよ。 李淵や李建成の再評価があったために、李世民の功績が相対的に小さく評価される ようになったってことでしょうね。 以前のように李世民だけをやたらベタぼめできなくなったということで。 それでも、僕なんかは李世民は尋常な人ではないと感じますよ。 やはり守成の人ではなく創業の人だろうとは思いますけどね。 突厥遠征の成功と高句麗遠征の失敗にそれを見ます。 >側近となった人々の有能さや彼らがもともと敵方の人間であったことを考えると、それ >をうまく使っていた李世民はやはり欠点はあってもかなりの名君だったのでしょうか。 それは同意します。 十八学士のような子飼いだけでなく、李靖・李勣・魏徴・尉遅敬徳・秦叔宝といっ た名臣を使いこなして破綻しなかったというだけでも名君と言うべきです。 496 名君・李世民の実像 エリス 2002/08/31 01:11 女性 30歳 B型 因幡 公主  初めて書き込みいたします。エリスと申します。このサイトは素晴らしいですね。 私が興味のある人物は唐太宗の李世民です。陳舜臣氏の「中国の歴史」と「小説十八史略」を読んで大好きになりました。もっとも「中国の歴史」では陳先生は李世民のことがお好きではないようですが。 天下統一の名将にして、治世の名君、なんてすばらしい!と思っているのですが、実際のところ、どの程度の功績、力量のあった人なのでしょうね。正史ではいろいろ誇張もされているようですが。しかしやはり心引かれる人物なのは確かで、他の建国の名君では、光武帝劉秀や宋太祖の趙匡胤は失点は少ないけれど今ひとつ派手さに欠ける気がしますし、劉邦や朱元ショウは確かに卑賤の身から皇帝になってその点は確かに一代の英傑だと思いますが(特に朱元ショウは彼自身がかなりの軍事・政治の才能を持っていてすごいと思う)功臣を粛正していてあまり好感は持てないですね。となるとやはり李世民なのですよ。私の考えでは、玄武門の変ではかなり強引なことをやりましたが、まるで功績も才能も(特にこれから必要となる政治や人材の扱いの)ない人物がああしたことをしたら、唐は二つに割れるか、崩壊してしまったと思うのです。やはりかなりの人望はあったと見るべきなのでしょうね。軍事力だけで押さえつけていたら、長くはもたないでしょうし。 現在に近い時代の、したがって正確なところを伝えていると思われるヨーロッパの名君と呼ばれている人にしても、欠点だけを取り上げていけばきりなくひどい人物のように思えてくる。反対にいいところをあげていけば、こんなすごい人がいるのかと感心することしか出来ないように思えてきます。 結局、あるタイプの名君というのは一種の天才だから、常人には理解しがたく、功績も大きければ欠点も大きい、となってしまうのでしょうか。 ただ側近となった人々の有能さや彼らがもともと敵方の人間であったことを考えると、それをうまく使っていた李世民はやはり欠点はあってもかなりの名君だったのでしょうか。その側近をみれば君主のことが分かる、とマキャベリも「君主論」のなかで述べていますし。 495 中華あれこれ 6 鹿角 2002/08/30 10:29 前回の少し続き 一国の王女が自分の身の安全を心配しなきゃならないようになるような国は到底まともとは思えません。 「蒼穹の昂」では西太后は幽霊になって出てきた乾隆帝と漫才かましてくれましたが(っておい(^^;)それを読んでから同じシチュエーションで武即天と太宗の絡みも書いてくれないかなと思うようになりました。これと「珍妃の井戸」だけというのはいかにも惜しい気がします。 以前管理人さんが言っていた講談社版中国の歴史(無論陳さんでない方の)の単行本版のほうをよんでいます。筆者変われば中身もかわるというのが面白いというか・・・東洋の歴史もいいけど講談社版の方を支持したい。 あとは文芸春秋の「大世界史」と岩波、それと中央公論新社からでた「世界の歴史」を読めば大体OKですかね。管理人様?もし他にもあれば教えて下さい。 494 どうでがしょ NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/08/29 21:46 男性 28歳 B型 予州 布衣 >鹿角さま >曾祖父の太宗の人気はどうだったんでしょう? さあ、士大夫には人気があったんでしょうが、 庶民人気があったという話はとんと聞きませんね。 でも、『西遊記』に出てくるくらいだから、それなりにあったのかも。 >武即天が李氏に対して迫害しまくったのは、 そうですね、武氏政権を樹立するため、なんてマトモに答えても面白くないので、 処刑された竇建徳・劉黒闥のタタリである。 墓を壊された魏徴のタタリである。 地下の迷宮の秦王のタタリである。(^^) >何が起きたのと思ってしまう位金王朝はだらしなくなってます。 漢文化派と女真国粋派の派閥抗争をやってたとか、 交鈔の乱発でインフレがひどくなったとか、 いろいろあるんでしょうね。 海陵王も草場の蔭で泣いているでしょうか?(-_-;) 493 中華あれこれ 5 鹿角 2002/08/26 09:21 玄宗が庶民の間で人気があったことになってますが 曾祖父の太宗の人気はどうだったんでしょう? 曾孫と比べて立派すぎてかえって人気がなかった、とか?(^^;) 武即天が李氏に対して迫害しまくったのは、 田中版隋唐演義では彼女が李密の転生した姿だからということになってましたが、私には形をかえた建成・元吉兄弟の祟りのような気がします。 紅塵からチンギス・ハーンの一族に至る年月の間に 何が起きたのと思ってしまう位金王朝はだらしなくなってます。 チンギスの側室だった岐国公主が朝起きて心配する事が また今夜もここで眠れるだろうかということだから・・・ (無論祖国にいた時)四太子や世宗があの世で聞けばなくでしょう 491 沈光は名族でありましたか NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/08/23 20:53 男性 28歳 B型 予州 布衣 >殷景仁さま >沈君理・君高という兄弟の列伝を見つけたからでした。 よくそういうのを見つけられますね。マネできません。 たまには本棚の肥やしを活用せねば。 『南史』巻六十八列伝第五十八&『陳書』巻二十三列伝第十七によると、 沈君理の兄弟は、 沈君厳(長兄) 沈君理(字は仲倫、ということは次男?,525-573) 沈君高(字は季高、『陳書』によると六弟,532-578) 沈君公(?,陳の滅亡で斬られた) の四人が出てきますが、沈君高が六番目ってことは、ほかの兄弟もいるはずで。 沈君理の父の沈巡は天康元年(566)没。 沈君道が沈巡の子で、沈君理の弟という可能性はありますね。 諱や出身から判断して同宗族の同一世代ってのはほぼまちがいなさそうで。 >沈光の字「総持」ですが、これは仏教語の「陀羅尼」の漢訳です。 これは初めて知りました。勉強になります。 >鹿角さま >北宋風雲伝の換太子の章が今月で終わりました。 滝口琳々『北宋風雲伝』は、ぼかぁ3巻までしか読んでなくてですね。 4巻も出てるはずなんですよね、たしか。 鹿角さんは連載チェックしてるんですか、さすが。 『三侠五義』のとおりなら、白玉堂は悪役として死んでしまうはずです、 たしか聞いた話によると…(爆)。 490 中華あれこれ  4 鹿角 2002/08/23 10:41 世界の歴史 9 最後の東洋的社会の中で「清王朝は婿養子のようなもの」という一節がありました。同じような文章が田中さんの「中国武将列伝」にあったような・・・参考にしたんでしょうか? 北宋風雲伝の換太子の章が今月で終わりました。原作では単なる悪役だった劉太后と郭隗が一段深く描かれていてその点はよかったです。だけど原作通りなら白玉堂は死んでしまうんですよね。月華さんも滝口さんの作ったキャラだろうし・・・ その元ネタの三侠五義は清の時代に成立したそうで・・・ でも時代考証はちゃんと再現されてるんでしょうか? 金瓶梅は北宋の話なのに風俗は明だというし・・・(^^;) その滝口さんの書いた「江東の暁」をまた読みたくなりました。 (伴野三国志の影響で)子供時代の孫策と周喩が可愛かったのを覚えてます。だけど漫画は消耗が早いから少しでも古くなると廃刊になるんですよね。(T_T)北宋が終わったら滝口さんには是非続編を書いて欲しいと思います。大人になった孫・周の二人を見てみたい。 >管理人様 前回のカキコはこっちで消したと思っていた文章が消し忘れでそっちにいったみたいです。気付いた時は後の祭り(T_T)変な形になってすいません。        489 沈光の家柄について 殷景仁 2002/08/22 09:28 男性 宋 侍中 ひさしぶりに書き込ませていただきます。 沈光の父親は、沈君道という名前で、呉興の人であります(梁の沈約と同じ出身)。南朝の陳では吏部侍カをつとめ、隋に入ってからは、皇太子楊勇・漢王諒に仕えたという経歴があります(皇太子の宴席で作った詩が、一首現存しています)。 私がこの人に注目したのは、この間何気なく『陳書』を読んでいて、沈君理・君高という兄弟の列伝を見つけたからでした。名前からして、この三人が兄弟である可能性があるのではないかと考えたからです。沈君理という人物は、陳覇先の女婿となり、彼の娘は皇太子妃(後、陳の後主の皇后)に立てられ、彼自身は陳の宣帝の時、尚書右僕射になったという経歴の持ち主です、もしこの人と兄弟だったとするならば、沈光の家は、南朝陳の時代は、外戚の一族として、かなり羽振りがよかったのではと考えられます。 ただし沈君理は、太建五年(573)に49歳でなくなっています。一方の沈光は、『隋書』にしたがえば、開皇十一年(591)の生まれですから、仮に君理と君道が兄弟だとしても、かなり歳の離れた兄弟だったといえます。このあたりを厳密に考証できる証拠がそろえないのが、残念です。 最後に蛇足、 沈光の字「総持」ですが、これは仏教語の「陀羅尼」の漢訳です。このことから考えると、父の沈君道という人は、熱心な仏教信者だったと考えられます。ちなみに同時代の陳の江総も同じ字であったりしますので、この時代を反映した字だったといえるかもしれません。 とりとめもなくなってしまいましたが、以上です。 488 三矢じゃなくて NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/08/22 00:32 男性 28歳 B型 予州 布衣 『通鑑』を読んでいて、毛利元就の三矢の教えの元ネタのような話を見つけました。 -- 吐谷渾王の阿柴には二十人の息子がいた。 あるとき阿柴は諸子に各々一本の矢を献じさせた。 一本の矢を取って、弟の慕利延に折らせた。 慕利延はこれを折った。 また十九本の矢を取って折らせたところ、慕利延はこれを折ることができなかった。 阿柴が息子たちに諭していうには、 「おまえたちこれを知っているか?ひとりでは折れやすいが、集まればくじきがたい。 おまえたちも力を合わせて国を保ち家を寧んじなさい」 (『通鑑』巻一百二十 宋紀二 文帝元嘉元年) -- 息子二十人かよ。 というツッコミはさておき、「三矢の教え」より洗練された話に聞こえるのは 気のせいか? >perdidoさま >でも王猛や苻堅本人の息子娘まで反対したように、南征はまずかったわけで、 急ぎすぎたという感じです。?族を分散させたのもまずかったし。 王猛の遺言が悪いほうで当たってしまったわけで。 せめて慕容垂と姚萇を抑制する対策を取ってから動いていたらとも思ってしま います。 >残酷な人物だったようですが、後燕衰退後、北魏と張り合った夏の建国者ですよね。 さよです。 統万城を築くときに、城壁に錐を突っ込んで、少しでも突き通ると、工人を殺 して死体を壁土に混ぜたとか。 寵愛していた太子(末子)を殺した廃太子(長男)を殺してくれた息子に、喜 んでこれを太子にしたとか。 スプラッタな挿話に事欠かない人物ですね、赫連勃勃。 >各人物を中心にとりあげる紀伝体の魅力から「晋書載記」にひかれます。 僕は『晋書』は持ってないんですよ。 明徳出版社の使えないのは持ってるけど(爆)。 引こうと思えば、中央研究院とか寒泉とか電子テキストでどうにか引けますが。 『晋書』載記は三十巻もありましたか。見てみたいかも。 そのうちぼつぼつ中華書局版でも手に入れます。 >鹿角さま 途中で書きこみが切れているようですが。 >つくづく過労死とは無縁であることに違いはありませんが。 健康に悪い仕事量でしょうけどね。でも死因は過労死ではなさそうで。 >李セキが高宗の質問に「陛下の家事である。」という答えをだしたのは 李勣が忠誠を尽くしたのは李密ひとりだけ って、昔どなたかがおっしゃってましたねえ。(笑) >隋唐演義には「風よ万里を翔けよ」の沈総持や朝衡がでてこないのが少し淋しいです。 肉飛仙の沈光は、一線級の有名人物ではないですが、出てきてもおかしくはな いですよ。煬帝に最後まで節を尽くした人物の代表格ですし。 487 中華あれこれ  3 鹿角 2002/08/20 09:31 美人 はじめに訂正しておきます。      洪武帝の一日の仕事量は千数百件といいましたが、                                                 一週間の間違いでした。 それでも二百近くの報告を読み、四百件以上の事件を処理したというから つくづく過労死とは無縁であることに違いはありませんが。 隋から唐への王朝交代は(楊氏と李氏が親戚同士であるせいか)          「一族で権力の盥回しやってる・・・」という感じです。 だから批判封じもあって楊帝が必要以上に悪く言われた面もあるかも・・・ 李セキが高宗の質問に「陛下の家事である。」という答えをだしたのは あとでどうなろうと俺の知った事かという感じも受けます。 太宗から見え透いた左遷の仕打ちをうけて主君に失望したのでしょう。 「あの人は自分の忠義をその程度にしか思ってなかったのか」と 突き放した答えになったのは復讐のような感じも受けます。 隋唐演義には「風よ万里を翔けよ」の沈総持や朝衡がでてこないのが少し淋しいです。 (あまり有名じゃないからですかね(^^;) 「陛下は自分の 486 ふたたび五胡談義 perdido意地 2002/08/17 10:39 男性 35歳 A型 信州 侍郎 NAGAICHIさま >石勒の歴史人物評価の挿話とかは、結構好きかも。 石勒は、男児こうあるべきの見本のような人物で、苦労人で知勇兼備、小説に書きたいくらいの英雄です。冉閔は、小説をweb上で見つけたのにな〜。宮城谷さんも重耳をなかなかかけなかったように五胡十六国を知っている人が少ない中で石勒ファンにとっては、書くのがおそれおおいといったところなのでしょうか(爆) >陳舜臣さんの影響で、僕は苻堅・王猛のファンですね。成漢の李雄とかも >いいかな。 わたしも苻堅・王猛は好きです。?水の戦いで、ほんとは、負けてほしくなかったと思うくらいで、でも王猛や苻堅本人の息子娘まで反対したように、南征はまずかったわけで、なんで気づかないのだと思うとともに、理想にこだわって負けたのも苻堅の魅力なのかな〜って考えます。 >赫連勃勃 残酷な人物だったようですが、後燕衰退後、北魏と張り合った夏の建国者ですよね。 詳しく知りたいです。  自分は、五胡十六国時代に限れば、各人物を中心にとりあげる紀伝体の魅力から「晋書載記」にひかれます。例えば、「慕容儁載記」と「石季龍(石虎)載記」の記述が微妙に違うとか、読み比べができるのがなんといっても楽しいです。しかし、四書五経関係の記述があるのが難解で、退屈です。なんとかしてくれ〜って感じです(爆)。 でも、ほんとに『通鑑』の全訳ほしいですね。図書館で「明治書院で『資治通鑑』出してますか」と尋ねたとき、ないという回答をもらったときの落胆した気持ちをおもいだします。 485 話が飛ぶとぶ NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/08/16 23:15 男性 28歳 B型 予州 布衣 >perdidoさま >五胡十六国の石勒や慕容?、慕容儁、慕容恪、慕容垂のファンなのですが しぶい面子ですねえ。五胡でも関東のほうの人に偏ってますか。(*^_^*) 僕はいまだ十六国興亡の流れが頭の中で整理できない体たらくなんですが。 石勒の歴史人物評価の挿話とかは、結構好きかも。 陳舜臣さんの影響で、僕は苻堅・王猛のファンですね。成漢の李雄とかも いいかな。 ネガティブな評価なんですが、石虎・冉閔・慕容超・赫連勃勃あたりからも 目が離せないです。ああ、やっぱり『通鑑』全訳ほしい。 >鹿角さま >太尉という立場や揚州大都督というのが単に名目的なものであるなら話は別ですが 李憲は司徒・司空・太尉といった漢代以来の三公職を歴任していますが、こ のころの三公職はほとんど名誉職だと思いますよ。中央の政治は三省が、実 際の行政実務は六部がおこなっていたはずで。 揚州大都督はまだ実権がある職務ですが、実際に赴任していないなら飾りと おなじです。 >江戸幕府と清王朝との付き合いはどうだったんでしょう? 国の官僚どうしの外交的なつき合いはほとんどなかったでしょう。 幕府はもともと南明寄り・鄭氏台湾寄りだった経緯もありましたし。 ただ幕府は長崎一港を開いて、絹・陶器・絵画・書籍などを輸入していたよ うですし、西国の諸大名もさかんに密貿易をおこなっていたようです。 このため江戸初期は日本側の金銀の出超だったという話で。 このころ日本側の貿易収支の悪化いちじるしいかったのが、 江戸中期以降の生糸の増産や各地の特産品生産の原因のひとつだったとか。 484 中華あれこれ  2 鹿角 2002/08/16 10:25 前回の少し続き  逸話的に面白い記事を平凡社版は省きすぎのような気がします。                                                     個人的に寧王又は宋王関連の記事が全滅だから余計にそう感じるかもしれませんが。                                                                           でその寧王のことですがこの人は政治に口出しせずを座右の銘にしてたようですが立場上どうしても言わなきゃいかんことがあった場合はどうしたんでしょう?太尉という立場や揚州大都督というのが単に名目的なものであるなら話は別ですが                                                                                  洪武帝の一日の仕事は書類千数百枚にも及んだそうです。過労死とは無縁なひとですね。(中国の群雄  講談社より)                                                                  足利義満の態度は国辱だとよく話題になりますが江戸幕府と清王朝との付き合いはどうだったんでしょう? 483 全訳ほしい NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/08/13 23:19 男性 28歳 B型 予州 布衣 >鹿角さま 『資治通鑑』日本語訳が出たら、ちくま『漢書』と同じくらいは売れるんじゃないかなあ。 んじゃだめか(爆)。 短期的にはダメでも、長期的には回収できるんじゃないかと思いますけどね。 はじめからロングセラーとして考えられる出版社でないと。 こういうのは、ちくまより岩波とかのほうが向いてるかな。 482 資治通鑑選 perdido 2002/08/13 22:41 男性 35歳 A型 信州 侍郎 >資治通鑑選 五胡十六国の石勒や慕容?、慕容儁、慕容恪、慕容垂のファンなのですが、あまり(ほとんど?)記事が訳されていない! 汲古書院の和刻本を読むと結構面白い記事がはぶかれてるのがわかります。 「臣光曰く」のある部分を中心にとりあげた、って、まえがきかあとがきにあった気がしますが、やっぱ鹿角さんのいうように大冊にふさわしく上、中、下で三冊に分けて刊行してほしかった。 なんで一冊にしたんだろ。 481 訂正 鹿角 2002/08/13 11:12 よーく考えてみたら開元・天宝年間に毛の生えた程度しかよんでないくせに偉そうにしちゃいました。(-_-;)辛いのは訳者の人達の方がより多いかも知れないのに