540 拗相公 宣和堂 2002/09/15 23:47  ども、エリス様、初めましてです。 >辮髪に関するお話、すごく面白かったです。  杉山正明『逆説のユーラシア史−モンゴルからのまなざし』日本経済新聞社 を読んでいて、自分の弁髪に対する愛着と、杉山センセのモンゴルに対する愛着は、根っこでは同じようなモンなのかなぁ…と、今まで大して好きではなかった杉山センセの本を好意的に読んでいるところにこういうお答え…ありがとです。弁髪紳士録はいつかやりたいんですけどねぇ。 >田中芳樹氏に関する批判も読みたかったのですが、今は見れないようになっていましたね。  いえ…まあ、イロイロ面倒くさいんで…。CDに焼いて配ったりもしてたんですけどね。ネットで公開してない記事というのも結構あったんですけどね。自分は何度も言うんですが、田中芳樹の大ファンなので、そういう文脈で書いてるんですけど、世間様ではそう見てくれないらしくて…。いや、面白いんですよ、永一様も書いてるように、実に突っ込み甲斐のある文章書く作家先生ですから。自分としては小説は傾向だけ書くにとどめて(じゃないとありすぎて指摘しきれないんで)つっこむのは、武将列伝とかチャイナイリュージョンのインタビュー記事とか、他の本の解説とかですね。すごい間違いやってますからワクワクです。 >ところで拗相公とはいかなる意味ですか?  南宋の頃に成立起源を持つ《京本通俗小説》の中のお話の題名ですね。意味合いとしてはひねモノ宰相、意地っ張り宰相ですか…。まあ、南宋の頃から王安石は偏屈な性格で、意地を張ったがために国を滅ぼした…という風に見られているんですね。これは誰が言い出したことでもなく、南宋の盛り場でふつうにそういう意識があったと言うことです。知識人ではなく、民衆からこう思われていたこと自体、なんだか王安石はかわいそうなんですけどね。 538 つづきは「総合掲示板]に perdido 2002/09/15 21:13 男性 A型 信州 侍郎 >エリスさま >サッチャーのような改革が日本でも行われるべきというのは大賛成です! 頭だけでは決して反対じゃないのですが...日本の将来のためには必要な改革なのかもしれませんが... 詳しくは「総合掲示板」をご覧頂ければ... 537 宋という時代 エリス 2002/09/15 13:46 女性 B型 公主 どうも宣和堂さま、はじめまして。故宮に関するサイトを拝見いたしました。辮髪に関するお話、すごく面白かったです。田中芳樹氏に関する批判も読みたかったのですが、今は見れないようになっていましたね。でもなんのかんのといって中国史を若年層に広めた功績はある程度あるのではと思っております。そういう私も氏の言説から興味を強く抱くようになったくちですから(笑)それ以前にも、欧米偏重の気風には疑問を持ち、日本が文化を真似た国なら中国をはずしちゃいかんじゃないか、とは思っていましたが。  王安石と募兵制に関すること、よく分かりました。  しかし確かに全くの私利私欲なく働くのは不可能としても、結局どちらがより全体のためになるか、というのはあると思うので、やはり私は王安石の(新法の、というより。新法側すべてが清廉でなかったことはその後の対立抗争の醜さを見ても明らかです)ほうに肩入れしますね。ところで拗相公とはいかなる意味ですか?教えていただければ幸いです。  宋朝弱兵の根底に兵士の地位の低さがあるというのは全く同感です。たしか「良い鉄は釘にせず、良い人は兵にならない」とか言う言葉が中国にはあったそうですが。尚文の気風というのはもちろんいいことだと思います。基本的には。中国は文化の国ということで、陳舜臣氏の著書を見ていても、どちらかというと中国のそうした傾向を誇らしげに、少なくとも好意的に書いておられるようですが、しかし、実際命をかけて国を守らなくてはいけない将兵にしてみれば、こんな扱いうけていたらやる気なくすよなあ、とはどうしても思ってしまうのですよ。そうしたところを岳飛みたいな一人の英雄的人物の個人的なカリスマですべて補いきるのも、やはり大勢を思うと無理があるよなあとは思うわけです。秦檜と岳飛のどちらが正しいではなくて、根本的に制度や国風を正さないことにはどうしようもなかっただろうな、と思うわけです。 536 拗相公 宣和堂 2002/09/15 00:50 >王安石  うーん……新旧両派も一面には旧山西軍閥系国家のあった北方派と、呉越や南唐のあった江南派との確執という側面もありますから、全くの利害抜きに天下国家のことを憂いていたわけでもないんですけどね…。この辺は寇準と王欽若、丁謂との確執から続くことなんでしょう(自分は王欽若と丁謂の方が寇準よか好きなんですけどね)。イメージ的には経済に明るい…というか江南の権益を拡張しようとする江南派、イデオロギーに傾きがち…というか既得権益を縮小されることを恐れる北方派と言ったところですかね…。それに、政府は利益を出さず、経済のことは商人に任せるべきだというのが再三言われてますからねぇ…。効果云々よりも帝王たる態度こそ大切とか言うことの方が世の中の支持は得れたみたいですし…。  保守派のように言われる司馬光自身も、このままでは宋は立ち行かないことを知りつつ、王安石の改革には反対の立場だったと言うだけです。彼らのプレッシャー団体とも言うべき北方の兼併地主にとっては都合のいい話ではないですから、イロイロな手を使って妨害を企てるでしょうしね…。それに、彼らを敵に回しては改革自体が立ちいかないというのも現実問題としてあるわけで…。まあ、彼ら自体が兼併地主だったりもするんですけどね…。それに当時の士大夫は、皇帝は民とではなく士大夫とともに天下を収めるべきだというのが、一般的な論調だったようです。今現在の民主主義至上の観点から理解するのは、まあ、そういう立場に立ってるんだなぁ…と自覚しないと理解できない事象は多いでしょうね…。ここら辺は価値観というかパラダイムが現在とは全然違う世界だというのは忘れがちですしね…。  自分の中では王安石の改革というのは、宋の中国統一以来虐げられてきた江南の巻き返しという感じで捉えたりしてます。でも、南宋からすでに王安石って拗相公っていうイメージがついて回るんですけどね…。 >募兵制  結局、藩鎮の軍閥化を防ぐため、武人節度使と将兵との個人的な連帯感を削ぐために科挙出身の文人を、権力を分散化して配置したからこそ宋代の平和はあったと言うことでしょうねぇ…。そのおかげで驕兵は減ったモノの、出世できない武人は世をすねてしまって相対的に兵は弱くなり、弱くなった分は数で対抗したため、西夏の成立後は軍事費は鰻登り、財政を圧迫するようになるワケですから考え物ですね…。でも、金の南下の際と、元の南下の際には宋軍もそれなりには働いてますから、やっぱり防衛戦となると宋の兵だろうが強くなるよなぁ…と思ったり。それに比べて金瓦解の際の金兵の弱いこと……。まあ、狄青の例を見ても、この時代の武人というのは、入れ墨入れられて逃げないようにされてるとか、ほとんど罪人とかわらんあつかいですよね…。そこら辺の社会的地位自体が弱兵の原因かもしれません。  ともあれ、この報われない武人…という不満というか悲壮感が楊家将や水滸伝の後ろ側にドヨーンと漂ってることは確かですよね。 535 中国史と直接関係のないことを書いてすみません(笑) エリス 2002/09/14 12:22 女性 B型 公主  管理人様、predidoさま、どうもありがとうございます。 管理人様  長孫無忌が外戚としてはマシなほうというのは確かです。有能ですし、唐太宗が生きていた間はまじめに政務に励んでいたようですし。でも自分の操り人形にするために頼りない男子を後継者に薦めたというところに陰険さを感じるのですよ。(それが通説ですよね?)李世民は後継者問題では自殺を考えるほど悩んでいたのに・・・(でもここで彼が死んでも何の解決にもならないし、余計事態が混乱する・・・)長孫皇后が生きていてくれたらというのは同感です。思うに彼女は兄の本性を見抜いていて外戚を除くよう李世民に進言したのではないか、と。  府兵制は・・・そうですか、維持は無理ですか。でも北の守りをおろそかにしたら、自分たちの安全もない。そんなことは一般の農民に分かれといっても難しいでしょうが。西域は・・・これを手放したら唐の唐たる所以がなくなる。それに李世民の貞観当初は北方は人口激減のはず。人口を増やすには、1突厥から奴隷となっていた中原の民を取り返す。2西域から人口流入を図る一方で唐からの人口流出は防ぐ、ということでこれは李世民の政策が上策だったと思う。しかし西域経営は諸刃の剣だったのですね。うーん、高句麗遠征なんか絶対やらないでこの後は領土を拡張することなく防衛に徹すべし、としていればなあ。そして西域は人口・文化・交易の流入のため懸命に維持し、「大唐による平和」を実現させる。そこまで英断できていれば申し分ない名君だったですよ。せつ仁貴には悪いけれど(笑)後は・・・いかにして兵士の士気を上げるかですが、皇帝親征をたまにすることを国是とするというのは。純粋な漢民族皇室ではないのでできるのじゃないかなあ、清王朝みたいに。これだと絶対情けない息子は跡継ぎに出来ないよね(笑)あ、別に趙匡胤のことだけ無理に貶めようとしているわけではないですよ(笑)好きな李世民のことも悪いところは悪いと冷静に見ているつもりですがね。いままでも一方的に誰が悪いと書いたことはなく、いいところは極力認めているつもりですが?(無忌のことは少し感情的でしたが)別に無理にでもあら捜ししてやろうというわけではないですよ。「たまにはつっこまれてください」はあくまでジョークですから。宋が文弱だったのはこれは事実なので、それを防ぐにはどうすればよかったか、と考えて1宋太祖の政策 2新法の徹底 と考え付いただけですから。でも失点の少ない人って英雄度や天才度も低い気がする。欠点はないけれど、ぐっと心を引き込まれるエピソードもないような・・・。まあ、英雄的な人物が上に立つことが必ずしも下々の幸せではないかもしれないけれど。  新法の徹底は・・・それじゃ旧法派は全員粛清ということで。いや、悪い冗談でした(笑)確かに王安石クラスの人格・能力ともに高レベルな人が新法側に他にいなかったのは痛いですね。千古の罪人・・・?え、王安石てそこまで酷く言われていたのですか。いや、どちらかというと司馬光たちのほうが人気あって王安石には批判的なのが旧来の見方とは思っていましたが。 「人間の為すあらゆることは、はじめから完全無欠ということはありえない。はじめは、取るに足らない欠陥に思えたものから、時がたつにつれて障害が芽生えてくる。それゆえ、法律であれ制度であれ、現状に合うような手直しが、常に必要になってくるのである」マキャベリ「政略論」  モンゴルと金に金持ちは略奪されろ、というと、残酷かな、過激かな、とか思ったのでつっこまれると思いました。  それから、現代のアメリカ合衆国はたしかに完璧な社会なんかであるはずはないのですが、それでも中国宋代も含めて、過去の国家に比べたら人権とか法とか守られているほうではないですかね。私は「比較的」と書きましたよ。「完璧に」ではありません。 それにレーガンのことも「一概に否定できない」ということで、「全く正しい」とは思いません。真理の一面はついていると思うだけです。それからヒスパニックは後からやってきた人たちなので、奴隷にしていた黒人とか被征服者のネイティヴアメリカンみたいに白人層にとって負い目のある人たちとは違うので、それも考えないと。日本でもアジア各国から最近になってやってきた人たちと、アイヌとか在日の人たちに対してはやはり感情違うではありませんか。  perdidoさま  確かにマキャベリはすごいですよ。彼については塩野七生さんという作家がよく書いています。私も彼女の本で知りました。西洋生まれのこれを中国史に当てはめてみると・・・これがはまる、はまる。人間の行いの普遍性は洋の東西も時代も超えるということです。  サッチャーのような改革が日本でも行われるべきというのは大賛成です!彼女と司馬光は言っていることは同じでも、根底にある精神は雲泥の差だと思う。時代も国柄も違うのだから比較するのはあれかもしれないけれど。  では長々と失礼いたしました。ありがとうございます。 533 すみません perdido 2002/09/14 09:07 男性 A型 信州 侍郎 NAGAICHIさま >レーガノ・エコノミクスは、失敗 そのとおりだと思います。景気回復には成功したのですが、皮肉にも、軍需産業と財政赤字での景気回復で、ある意味かなりケインズ的な景気回復の仕方でした。 細かいことで恐縮ですが、レーガンの経済政策の通称名はレーガノミックスです。 >なんか王安石の生涯を美化してるきらいがあるのではないですか?その本。 >それを読むと、まるで王安石が悠々引退したみたいですが、実際は1074年には干 >魃が起こったのをあたかも王安石のせいのように反対派に揶揄されて、南京に隠 >居せざるをえなかったはずです。翌年にはまた呼び戻されて、またその翌年下野 >してますし。 >神宗期の黒字財政も、哲宗期の旧法党の巻き返しと、それ以後の泥沼の政争のな >かでおじゃんになってるようですが。  ありがとうございます。そうですね。自分もあれっと思ったのですが、最近の研究は、そうなのかなと半信半疑で引用しました。 かなりいいかげんですみません。 532 少し脱線 NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/14 07:38 男性 28歳 B型 予州 布衣 >perdidoさま >>傭兵制? >募兵制のことですか? 中国史のタームとしては、募兵制のほうが正しいですね。m(_ _)m 自発的な戦闘のプロ集団を募るという意味では似たような意味ですけど、 傭兵のほうが余所から雇ってくるというニュアンスがありますか。 中国の募兵制では、塞外異民族や漢族農村の食いつめ者とかが集まってきます。 実際の戦闘では半農の兵士より強いですけど、王朝への帰属意識が薄い(忠誠心が 少ない)というのは、エリスさんのおっしゃるとおりで。 >なにか彼の政策を見ると少し社会主義っぽいというか、「大きい政府」というかそんな >雰囲気がします。 ケインジアンっぽいですよね。 『月刊しにか』2002年1月号の特集「改革者で見る中国史」の王安石の頁では、 「二十世紀三十年代にアメリカ政府がとった農業不景気を脱出する政策は、 王安石の青苗法と市易法を参考にしたという説がある」(p46) とか書かれてます。ホントかいな?とさすがに目を疑う記述。 >エリスさま >やはり長孫無忌許すまじ(笑) ああ、李治(高宗)を皇太子に据えた件を怒っておられるんですね。(^_^;) それだけでかれの全てを語られてしまっては、長孫無忌がちとかわいそうで。 長孫無忌は外戚としてはいくらかマシな部類だと思うなあ。 いや無忌より娘の長孫皇后がよくできた人で、早逝がいたまれます。 長孫皇后が生きていたらどう言ったことか。 >でもやはり王安石の新法はかなりの効果を上げていたようではありませんか。 これは僕の言い方が悪かったですね。短期的にはたしかに成功してます。 神宗期に財政が大幅改善されたのはたしかのようですし。 でも長期的には…やっぱり旧法党の抵抗と後の新法党の末流たちの醜態で失敗し たのだと思います。おかげで千古の罪人扱いされたりもしたんですね。(T_T) >社会的弱者は免除してもらえばよかったのに・・・。(つっこんでくださってけっこう >です(笑)) いや、どうツッコめと…?(^_^) >で、唐太宗のときの府兵制のままにして欲しかった。が正しいです。 たぶん無理だったろうと思います。 府兵制というのは農民からの徴兵によってるんですが、 成人男子が府兵役として選抜されると、二十一歳から五十九歳までの三十九年間 兵役に当てられます。(成人男子の三人に一人がこの役に、という話もあり) 在地警備や首都勤番もあるんですが、三十九年間のうち三年間は防人として国境 警備に当てられるという農民にとってはつら〜い制度。 崩壊しないのがおかしいわけで、逃戸や徴兵忌避はそうとうなものだったという 話です。 布目潮?・栗原益男『隋唐帝国』(講談社学術文庫)を読むと、開元年間には 張説とかが兵士を確保するために悪あがきをしてるのが分かります。 ?騎制(かくきせい)とかいう辺境警備の役を除いて少し農民負担を減らした 過渡的な制度もあったようですが、これも破綻してるんだなあ。 >再びperdidoさま >新法のおかげで国家財政が大きく改善され、王安石は、新法の成功を確かめた上で、 >1074年に引退した。 なんか王安石の生涯を美化してるきらいがあるのではないですか?その本。 それを読むと、まるで王安石が悠々引退したみたいですが、実際は1074年には干 魃が起こったのをあたかも王安石のせいのように反対派に揶揄されて、南京に隠 居せざるをえなかったはずです。翌年にはまた呼び戻されて、またその翌年下野 してますし。 神宗期の黒字財政も、哲宗期の旧法党の巻き返しと、それ以後の泥沼の政争のな かでおじゃんになってるようですが。 >サッチャーやレーガンの考え方にそっくり。 王安石が大きな政府なら、司馬光が小さな政府という考えはなるほどと思います。 サッチャーやレーガンが小さい政府指向だったのは知られてますし、考えも共通 してるのかな? 脱線ですが、レーガン・エコノミクスってやっぱ失敗だったんでしょうね。日本 がバブル景気に踊ってたころアメリカは不況だったみたいだし。 近来の成功例は、クリントンやブレアってことになるんでしょうか? これも短期的なものなのかな。 >再びエリスさま >趙匡胤て、私のひいきの李世民と違って、批判されることがきわめて少ない人ですから たしかに。批判するネタを見つけるのが難しいですね。 宋王朝が文弱だったのは、趙匡胤君の政策のせいだ!ってのもありなんでしょう が、けっして公平な批判という感じがしないし。 欠点を探すのも単なるアラ探しに終わりそうな予感がします。 >現代の資本主義社会はある程度は教育も福祉も法制度も行き届いているので、 脱線つづきですが…、どうでしょう? 英国病といわれたイギリスはともかく。 アメリカではアファーマティブアクションみたいなのも過去ありましたけども、 誰にでも成功のチャンスがある国、機会の平等が保障されてる国だとは、残念な がら言えないんじゃないでしょうか? 少なくとも、WASPの若者とヒスパニックの若者とのスタートラインの間に ハンディが少ないとは、今でも思えないですし。 531 日本の将来をちょっと考える perdido 2002/09/14 06:33 男性 A型 信州 侍郎 エリスさま >イギリスのサッチャーは、あれは逆に大きな政府、福祉国家がゆきすぎていて国家が活力を失っていた、というのがあるので、宋代の司馬光と同列には論じられん気がするのですよ。それに彼女の場合、経済を活性化して結果的に貧富の差は広がったけれど、底辺の人々の暮らしも改革前よりむしろ底上げされた、というのがあるのでこれまた単なる現状維持の司馬光と一緒にしては彼女が気の毒ではないかと思うのですよ。  全くおっしゃるとおりですが、それを知ってて言ってることがそっくりだ、という意味で書いたのです。だから、日本は、産みの苦しみでサッチャーの行った改革をしないといけないのでは?とひそかに考えてます。  それを行ったイギリスというのはすごい国だと思います。労働党の支持者も、当時は現状を見据えて保守党へ投票した人もかなりいたそうです。  それから本はできたら買わないほうがいいですよ(笑)。自分なんかあふれてしまって困ってます(爆)。買ったら読まなくなります(核爆)。必要なところのコピーをあつめたほうがいいかも。  感心させられるのは、マキャベリはホンとに鋭い!ってことです。 引用されている部分を読むと、歴史を熟知してないと書けないですね。 マキャベリがいうように >「理想的な軍備とは、戦いの必要の無いときは家に戻り、喜んでそれぞれの職務にはげむ兵士から成り立った軍備をいう」 といいますが、スイスの『民間防衛』のような危機管理とかいざとなったら戦えるような体制が必要なのかもしれません。自堕落な生活(笑)をしている自分にとってはつらい話ですが。 ありゃ?これ中華史伝掲示板ですよね?NAGAICHIさま、どうかご容赦いただければ幸いです。 530 すいません、私ばかり書き込んで(笑) エリス 2002/09/14 01:12 女性 B型 公主  perdidoさま、どうもありがとうございます。  確かに太宗は兄の政策を踏襲しただけのようですが。実際に行ったのは彼なのですからね。まあ、こんなことを言うのは酷だということは重々承知なのですが、兄弟とも武人でしょう、戦いのプロでしょう。文官に戦を完全に任せたら、どんなことになるか分からんか、とかどうしても思ってしまうのですよ。感情論かもしれないけれど。確かに内乱を防ぐにはこれでいい。しかし外への備えは・・・。まあ、趙匡胤て、私のひいきの李世民と違って、批判されることがきわめて少ない人ですから(光武帝でさえ占いの件があるのに)たまにはつっこまれて下さいよ(笑)それにしても趙の太宗はお兄ちゃん殺してひどいなあ、とやると、唐太宗ファンの私は自分の首絞めるので(笑)言えません。李世民は悪い前例を作ってしまったのですかね。  それから、イギリスのサッチャーは、あれは逆に大きな政府、福祉国家がゆきすぎていて国家が活力を失っていた、というのがあるので、宋代の司馬光と同列には論じられん気がするのですよ。それに彼女の場合、経済を活性化して結果的に貧富の差は広がったけれど、底辺の人々の暮らしも改革前よりむしろ底上げされた、というのがあるのでこれまた単なる現状維持の司馬光と一緒にしては彼女が気の毒ではないかと思うのですよ。  それにしても司馬光って、自分は大地主の家の出なのですね。それなのに「貧乏人は怠けているからいけない」だと。そういうセリフは自分が底辺から這い登った人間が言え!て感じです。まあ、レーガン流のアメリカの保守派なんかはよくそういう成功例を出しますよね。自分自身がそういうサクセスストーリーの主人公だったり。まあ、現代の資本主義社会はある程度は教育も福祉も法制度も行き届いているので、個人的にはレーガン、サッチャー流の考えも一概に否定できないとは思うのですが。確かに、この宋代の新法改革は現代にも通ずる大きなテーマだと思います。  それから本は図書館で借りることが多いので、今手元に無かったり(笑)文庫本くらいは集めなくては。  では長々と失礼いたしました。ありがとうございます。 529 温故知新!ほんとにこれって宋代の話なんですね。 perdido 2002/09/13 23:11 男性 A型 信州 侍郎 エリスさま 直接の返事がなく横レスばかりみたいですみません。 >弟の太宗が文官登用を推し進め過ぎたきらいがある。 兄である太祖の謀殺を図ったことにからめて、そうカキコしようと自分も考えたのですが、調べたらそのレールを引いたのは太祖だと持ってる本が「口をそろえて」書いていたのでカキコできなくなってしまいました。同じ意見のようでうれしいです。 >でもやはり王安石の新法はかなりの効果を上げていたようではありませんか。基本的に>弱者救済策、なおかつ国の財政にも貢献している、国力も底上げされる。軍備も整う。>言うこと無しでしょう。それなのに自分たちの利益を守るため、大商人とかが反対した>のでしょう。 なんか、ホントに昔のはなしのように思えませんね。 もしかして、大林太良・生田滋『東アジア民族の興亡』(日経新聞社) おもちですか。新法のおかげで国家財政が大きく改善され、王安石は、新法の成功を確かめた上で、1074年に引退した。新法党と旧法党の争いがあっても新法のおかげで財政が安定していたため、宋の政治は混乱しても切り抜けられた(p.162)と書いてあります。 >確か、司馬光は「貧乏人が貧しいのは彼らが怠けているせいで、それを国策により救済>することは甘やかすことにつながる」とかいったのではなかったですか。それって酷い>なあと思ってしまうのですが... 前レスで「大きい政府」とカキコしたのですが、これって宋代の話とは思えません。 サッチャーやレーガンの考え方にそっくり。 実は、前レス(前々れす?)カキコしたあとに大林他前掲書に王安石の改革の方向について、それまでの財政国家「小さな政府」の方向から「大きな政府」とか福祉国家の方向(p.162)だと書いてあるのを読みましたが、それを裏付けるような司馬光の発言です。 528 すいません、まちがいでした(謝) エリス 2002/09/13 22:54 女性 B型 公主  玄宗皇帝が募兵制にした、の間違いです。傭兵制ではありませんよね。で、唐太宗のときの府兵制のままにして欲しかった。が正しいです。これは領土縮小を行ってもこちらを優先させるべきだったです。高仙芝には悪いけど(笑)商業保護と人民流入のため、西域は保持、北の防衛線も当然保持。あとは放棄。で、かまわないと思います。募兵制は実際は傭兵を使うということでしょう。マキャベリは国防を傭兵によって行うことは絶対やめるべきだと盛んに著書で述べています。国に対する忠誠心がないからです。 「戦争するしか能の無い者たちを常にかかえておくことほど、施政者にとって危険なことは無い。理想的な軍備とは、戦いの必要の無いときは家に戻り、喜んでそれぞれの職務にはげむ兵士から成り立った軍備をいう」マキャベリ「政略論」より  すいません、長々と一人で書き込んでしまいまして。 527 う〜ん、なるほど・・・ エリス 2002/09/13 22:36 女性 B型 公主  管理人様、どうもご返答ありがとうございました。  やれやれ、これでは到底李世民の李せきに対する仕打ちをかばうことは出来そうにありませんね。いや、やるべきでなかったとは私も最初から思ってはいたのですが。まあ、これはやはり根本的に頼りない息子を後継者に据えたのが一番いけないのですよね。やはり長孫無忌許すまじ(笑)武照に陥れられても、チョ遂良は気の毒だけれど、無忌は自業自得という感じですね。  唐と宋については確かにそのとおりですね。対外戦争を成功させて領土を伸張させてゆくときは、国力は増大してゆくようにみえるけれど、民間レベルで見れば、打ち続く戦役で疲弊がたまっていくのだろうし、(でも突厥討伐と高昌国への遠征は国全体のレベルで見れば得るものの方が多かったはず。高句麗遠征ははっきり言って最初から必要なかったですね。あそこの地を押さえてもあまり意味があるとは思えない。これは確かに失策ですね。李世民は晩年になるといろいろな点で判断力が著しく低下してますよね。残念ながら。ファンにとってはそれを認めるのは辛いですが)たとえ、屈辱的な講和を結んでも、民百姓にとっては国の威信などあまり関係ないから平和が保たれればありがたいことだ、となるわけですね。唐は確かに安史の乱以降はひどいことになっていますね。宋朝弱兵とならんで、あれもどうにかならなかったのか、と思ってしまうのですが。いや、中国びいきだから、やはり弱っているところを見ると、どうしても辛い気持ちになるのでそう思ってしまうのですよ。南宋がモンゴルに滅ぼされるところ、明が滅ぼされるところ・・・でも清の名君輩出振りを見ていると、明は滅んだほうが良かったのかな。李自成の王朝が誕生していたらどうなっていたでしょうね・・・。  趙匡胤に関しては確かに言いすぎでしたね。この時点で未来のあらゆる事態を見通せたはずは無く、彼が生きていた間はあれがベストだったでしょう。それに弟の太宗が文官登用を推し進め過ぎたきらいがある。ほどほどのところで、というわけにはいかないだろうけれど・・・。  でもやはり王安石の新法はかなりの効果を上げていたようではありませんか。基本的に弱者救済策、なおかつ国の財政にも貢献している、国力も底上げされる。軍備も整う。言うこと無しでしょう。それなのに自分たちの利益を守るため、大商人とかが反対したのでしょう。確か、司馬光は「貧乏人が貧しいのは彼らが怠けているせいで、それを国策により救済することは甘やかすことにつながる」とかいったのではなかったですか。それって酷いなあと思ってしまうのですが。(しかし私はてっきり、前に書いた「司馬光は政治には口出しせず、文化事業だけやっていればよかったんです!」に管理人様のつっこみがくると思っていましたが。いや、半分マジですよ、これは(笑))  実際に効果をかなり上げていたという実績がある以上、このまま改革を進めるべきだった、と思うのは、間違ってますかね・・・。前のやり方では問題があり過ぎる。新しいやり方をしたら成果が上がった。それなら新しいやり方を続けるべきでしょう。少なくとも、今よりは悪くならないと思います。  金やモンゴルが攻めてきたとき、そういう大商人とか特権階級だけ略奪にあわせて、本来王安石の政策により救済されるはずだった社会的弱者は免除してもらえばよかったのに・・・。(つっこんでくださってけっこうです(笑)) 526 府兵制、慕兵制、王安石、宋代のイメージなどなど perdido 2002/09/13 22:03 男性 A型 信州 侍郎 管理人さんの模範解答にふむふむうなづくperdidoです。 なるほど、府兵制の崩壊はそういう理由があったんですね。 この時代は、中国史好きのはずなのに、どうしても日本の律令制のほうが印象深くて本家の中国の話を理解するのに、日本の例を引き合いに出されて理解するといった感じです。 >傭兵制? 募兵制のことですか? どうしても傭兵というと、ローマのゲルマン兵とかドイツ30年戦争のヴァレンシュタインとか思い出しちゃう。  王安石の改革は、既得権者から国家財政の財源を徴収し、宋代の弱兵を、再び、律令時代の府兵制というか国内版の屯田制にしたかったという方向性なのでしょう。領土の狭くなって、北方民族に侵略されることの多かった宋の時代にふさわしい軍制改革だったのかもしれません。  東ローマ帝国が10世紀頃強かったのも、農民が自前で参加した軍隊で士気が高く安上がりの軍隊だったからだそうです。しかし、兵士が領土の拡大によって、故郷へ帰れなくなったため、納税の主体であった層と兵士の供給源を失った上にセルジュークトルコの攻撃で一挙に弱体化していきました。こうなると国が武器を用意したり、給料を払って兵を雇わなければなりません。  近代国家、絶対王政は、官僚制と常備軍に支えられていました。兵農分離の方向へいっていたのですが、王安石の改革が成功し、宋の強兵化が成功したら兵農一致の近代国家ができたのでしょうか?なにか彼の政策を見ると少し社会主義っぽいというか、「大きい政府」というかそんな雰囲気がします。  宋代は、貨幣経済が発展したため、消費・流通の拠点である都市が発展して、多くの人々が一種平等感とか豊かさを享受した時代じゃないかとおもわれます。 町の様子や庶民の生活が手に取るようにわかるくらい記録が残っている時代とさえ言われています。なんとなく暗い明代にくらべて宋代は、夢のあるというか人の息遣いが感じられる時代ですきですね。清明上河図のイメージです。  ロシアでも、ほぼ宋代に重複する時代からノブゴロド共和国が経済的に繁栄していましたが、町の様子や一般の人々の生活の一端をうかがうことのできる白樺樹皮の文書がたくさん発見されています。 あ〜それから鹿角さん!わたしの楽しみをうばわないで〜ねたばれじゃ〜ん! 525 教訓を活かせれば NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/13 21:17 男性 28歳 B型 予州 布衣 >宣和堂さま >これが南宋の初期になると岳家軍の解体という事件の基本的な拠り所となったんで >しょうから、いいのか悪いのか一口にはいえんですね…。 そこまで来るとたしかに。これも岳飛の北伐が成功していたらよかったか?という と、どちらともいちがいにいえないし。秦檜はろくでもないやつだけど、結果論的 にはマシな選択をしたのかもしれないし、そうでないかもしれない、ですね。 ともあれ趙匡胤の軍閥解体は、積極的に評価したいですけど。 >改革するときには必ずスローガンとして“周の世に戻る“とか言うのは、そういう >価値観がないと納得できないかなぁ たしか宮崎市定さんがそういうこと書いてましたね。(おぼろげな記憶) まあ、昨今の時代でも保守的な人はいるし、「改革とか言って今より悪くなったら どうするんだ」という考えは、それなりの説得力を持つこともあります。 最近は「抵抗勢力」とかいうらしいですけども。(笑) そういう人たちを説得しえなかった、あるいは押し切って進めることができなかっ たってことですか。 王安石の新法びいきとしては、それなりに成功したら面白かったのにってだけです。 実際どうなるかは、歴史のIFとして保障できないっすけどねえ。 >ええ!字がうまかったり、宦官のくせにヒゲが生えてたりと自分的には目が離せな >い…というか面白すぎる人々ですが…。 水滸伝物語の悪役として、または史上の人物として、面白いとは思うんですが、 好きかどうかといわれるとちょっと自分は萎えますね。 男性ホルモン強すぎ!(って…そりゃ違う^^;) >鹿角さま >郭太后が明帝を誘惑したりするんですよ。 匈奴ならいざしらず、漢族の王朝の皇太后がそんなことをやってしまえば…ですね。 記録が残されていれば?嬖あつかい。史料から抹殺されていても貶諡がつけ られてなにやら怪しげな雰囲気が漂っているハズ、とか言ってみたり。 >話はかわりますけど伴野さんは管理人さんとおなじ愛媛出身なんですね。 いや、それは存じませんでした。どこでしょうね。 松山出身の作家は時たまいますけどね。中里なんとかいう戦記物の作家が松山出身 だったような。 >話は変わりますけど孔明が曹操に命を狙われる設定で喜んだ曹操ファンはとれだけい >るんでしょう? 少なくとも僕は曹操ファンですが、別にファンとして嬉しいとかは思いませんけど。 設定としてユニークかなとは思いますが。 >管理人様は松本じゃなく松山にいるんですよね。 仕事柄そういうのはよく見てますから(…ってフォローになってないですね)。 たまにはいいだろ…の仕事ネタですが、ええとうちは790局の松山なんです。 390局の松本(長野)とか690局の松江(島根)とか760局の高松(香川)とかの 郵便が郵便番号・地名ともにまぎらわしいので、よく舞い込んできます。 愛知県松山市とか香川県松山市とか書いてあるのも、すでに慣れっこになってし まいました。 うちの職場ですぐに得られる教訓は、誰も間違えるつもりはなくても結構頻繁に 間違えるってことです(爆)。自分も他人もふくめて。こういう書き飛ばしの 掲示板はともかく、仕事ではチェックは重ねたほうがいいというお話。 524 唐・宋のはざま NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/13 19:30 男性 28歳 B型 予州 布衣 >エリスさま >なるほど、この唐の時代と、宋代以降では忠義に関する考えじたいが違うのですね。 いや、僕が言いたかったのは、むしろ観念的な忠義より現実的な君臣関係なんです けどね。古代でも乱世でも忠臣ならいますし。 ただ乱世の実際の君臣関係は、かなり個人的な人間関係(任侠的結合ともいう)と か現実的な利害関係とかに左右される、場合によってはウェットな、場合によって はしごくドライなものだったということです。いわば『史記』の世界ですね。 しかし、社会が安定して官僚的なシステムが固まってくると、君臣の間の人的距離 も開いてウェットなものでなくなってくるし、君臣間の利害関係も抜き差しならぬ ものではなくなってくるわけで、そうなるとそれこそ教条的な「忠義」によって君 臣関係を支えなくてはならなくなってくるわけ。 これに果たした宋学(とくに朱子学)の役割は大きいと思いますよ。 例えば日本の「武士道」が江戸時代に成立したことを思い起こして下さい。 戦国・安土桃山期の大名と豪族・国人と足軽とのあいだの関係は実にシビアでした。 江戸期の安定した治世になって、はじめて武士の道徳として「葉隠」やら朱子学や らが出てきたわけです。 乱世の人間としての李勣が、左遷事件によって太宗との個人的人間関係が切れた時 点で冷めたとしても無理からぬことがあると思うってことです。 >宋代が比較的平和・・・。まあ、判断の基準にもよるのでしょうが早々に領土の半分 >を失う羽目になったような・・・。 それこそ唐代とでも比べてよいんですど、 唐代で比較的良い時代だった貞観・開元の治世とか思い出してください。 貞観期は東突厥・高昌・西突厥・高句麗などと征戦の連続ですし、 開元期も吐蕃・南詔などとよくぶつかってます。 ほかの時期はあに図らんやで、外寇・内戦続発といった按配です。 交戦状態に全くなかった年を探すほうが手間取ります。 対して宋はというと、まあ確かに遼とか西夏とか金とかと激しくぶつかってる時期も あるんですが、遼や金と(屈辱的といわれる)盟約を結んでた時期も長かったんで、 けっこう交戦状態のない年があるんですよ。 おとなしめに言って「比較的平和」な時代だったと思いますよ。 >同じ理由で、唐の玄宗皇帝が兵制を傭兵制にしたのにも批判的です。 うーん、別に玄宗皇帝が意図的に傭兵制に切り替えたわけではないんですけどね。 府兵制がしぜんと崩壊しちゃったから、穴を埋めるために異民族の兵隊雇わざるを えなかったってのが本当で。 日本史で衛士とか防人とか出てくるの覚えてますか? 東国からきた防人が故郷に帰りたいっていって泣く和歌があったり。 あの防人の制なんかは、中国の府兵制のパクリなんですけど。 府兵制ってのは、農耕土着風習の中国人にとってはけっこうキツイものだったんで すよ。 唐の領土ってのは、このころあまりにもデカくなってしまって、中国人の感覚から いうと、とんでもなく遠い辺境に防人として送られるわけです。帰れる保障も当然 ない。こりゃイヤだ、といって逃げる。そのため防人が集まらなくなっちゃったわ けです。 こうやって府兵制が崩壊しちゃったので、しゃーなかったんですね。 523 訂正 鹿角 2002/09/13 11:11 すいません。管理人様は松本じゃなく 松山にいるんですよね。 (確かめてから書くんだった・・・(T_T) 522 長江燃ゆ 2 鹿角 2002/09/13 10:40 この作品では困ったことに 郭太后が明帝を誘惑したりするんですよ。 それってやっちゃいけないことなのに・・・(-_-;) 藤さんの作品では侍女を使って・・・なのに。 孫権は受難が多いです。孫登君がさらわれたり 弟の孫朗が人質になったりする度に 不利な取り引きに応じなけれはならないのですから・・・ だけど私はここの場面好きです ああいい人だなーって感じがして 話はかわりますけど伴野さんは 管理人さんとおなじ愛媛出身なんですね。 生まれも同じ松本なんでしょうか? (いくらなんでもそこまで・・・(^^;) 「孔明死せず」を読んだ時も驚いたのですが 馬ショクは死なないで、孫歴亡き後、臥龍耳のリーダーになります。 顔を変えるシーンはとても痛そう・・・ 伴野さんによると3通りの解釈が正史にはあるんだそうで・・・ 泣いて馬ショクを斬るというのは蜀志のみだそうです。 話は変わりますけど孔明が曹操に命を狙われる設定で 喜んだ曹操ファンはとれだけいるんでしょう? じつは伴野さんは曹操の贔屓で 演義や吉川版の彼に同情してそう書いた、とか? 521 久しぶりに… 宣和堂 2002/09/12 23:28  と言うわけで、久しぶりに書き込みなんですね…。お久しぶりです。 永一様曰く… >宋朝弱兵  自分も同意見ですね…。五代の歴史見てると、何で驕兵ってああも自己主張できたのかなぁ…と思うことしばし…。後唐荘宗→明宗とか、閔帝→末帝…というか李従珂の政権交代見てると、まあ、趙匡胤の言うことも最もかなぁ…と思ったりします。  軍閥の持つ力を骨抜きにしないと、政権の維持、政情の安定は危うい……というのは、郭威の即位をまんま真似た形で即位させられた形の趙匡胤は骨身に染みて思ったでしょうねぇ…。  まあ、これが南宋の初期になると岳家軍の解体という事件の基本的な拠り所となったんでしょうから、いいのか悪いのか一口にはいえんですね…。 >新法党  恩師に言わせると党派ではないみたいですけど、まあ、一般名称と言うことで…。でも、今現在の目で見れば確かに新法党の方が徹底的にやってれば改革が断行できたのに…という風に思うのですが、当時の価値観に照らし合わせて考えると、やはり、明日も昨日と今日と変わらぬ平和な世界……というモノを守るために、大きな変革を望まないと言うのが、この時代の価値観なのかなぁ…と思うことがあります。やっぱり、平和な世の中で徹底的な改革や革新を望んだりするのは、産業革命以降の新しい意識なのかなぁ…と思うことで、明代の祖法を守る……という意識を何となく理解した気になりました。  まあ、改革するときには必ずスローガンとして“周の世に戻る“とか言うのは、そういう価値観がないと納得できないかなぁ…と思います。 >宋「崇寧真君」  林霊素と道君皇帝がきゃっきゃ言いながらつけた道号でしたっけ?あれ?真宗だっけかなぁ…。 >新法党でも蔡京や童貫はもちろん嫌いなんですけど。(脱線)  ええ!字がうまかったり、宦官のくせにヒゲが生えてたりと自分的には目が離せない…というか面白すぎる人々ですが…。 520 う〜ん、少し感情的だったかな(反省) エリス 2002/09/12 21:50 女性 B型 公主  管理人様、どうもお答えありがとうございます。  李せきに関することは納得いたしました。なるほど、この唐の時代と、宋代以降では忠義に関する考えじたいが違うのですね。では李せきはこの時代の基準で考えて特に不誠実なことをしたわけではないのですね。その割には、後世の史家からけっこう非難されてるみたいですが。これも宋代に入ってからのことなのかな?まあ、私の好きな李世民にもきついことを書いたのですから、偏った見かたはしていないと思ってご容赦ください。  いえいえ、私は李せきの主従関係にも一定の距離をおいたクールな態度というのも好きですよ。彼は李世民に対してもわりと内心は冷めた目で見ているようなところがあったのではと勝手に思っています。そういうキャラも好きですし、家族のため部下たちのため、あえて上には保身を貫くというのもいいことだと思っています。しかし、前のほうでもどなたかが書いておられたようですが、この武照の一件、李世民の左遷問題ばかりが悪いように思われているようなので、李せきの側にも問題はあったのでは、といいたかっただけです。(問題といって悪ければ、原因と言い換えてもいいですが)  それから、宋代の軍備のことですが・・・。唐の時代の反省から趙匡胤がこの文官による軍の管理を決めたことは知っていました。確かに彼が生きていた当時ではこれがベストのやり方に思えたことでしょう。しかし・・・やはりもうちょっとどうにかならんかったんかな〜と思えてならないのですよね。私が読んだ本ではわりと宋代の弱兵ぶりに批判的に書いていたこともありまして。ではどういうやり方なら良かったかといわれると私ごときの頭では思いつきようもありません(笑)。まあ、新法が成功していたらについてはいろいろ思うところもあるのですが。司馬光は政治には口出しせず、文化事業だけやっていればよかったんです!(暴論)すいません、王安石びいきなもので。  「人は心中に巣くう嫉妬心によって、ほめるよりもけなすほうを好むものである。それゆえに新しいやり方や秩序を主張したり導入したりするのは、それをしようとする者にとって、未知の海や陸の探検と同じくらいに危険をともなう「事業」になる」 マキャベリ「政略論」より。  宋代が比較的平和・・・。まあ、判断の基準にもよるのでしょうが早々に領土の半分を失う羽目になったような・・・。経済的に繁栄していたぶん、異民族侵入のときは激しい略奪を受けることになったし・・・。やはり、国を守る軍隊って重要だと思うのですよね。でないと民衆が守られないで痛い目にあう。唐代のように積極的に外征しなくていいから、防衛には気をつけてほしかった。 「君主にとっての敵は、内と外の双方にある。これらの敵から身を守るのは、準備怠り無い防衛力と友好関係である。そして常に、良き力をもつ者は、良き友にもめぐまれるものである」 「自らの安全を自らの力によって守る意思を持たない場合、いかなる国家といえども、独立と平和を期待することはできない」 おなじくマキャベリ「君主論」より  同じ理由で、唐の玄宗皇帝が兵制を傭兵制にしたのにも批判的です。(府兵制でしたか)唐太宗のときと同じ、屯田制にしていて欲しかった。(農民=兵というやつ) 519 いろいろ NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/12 01:37 男性 28歳 B型 予州 布衣 頭の回転が悪いものだから、話が飛ぶとつらいなあ。(笑) >エリスさま >彼は太宗にも諫言なんてしたことあるのですか。思うに彼には少しイエスマンな >ところがあったのではないかと。 李勣の諫言は僕も知りませんね。 諫言とかいう以前に政治向きの発言が少ないです。 かれは純粋な軍人であることを自分に課していたんじゃないか、とも思えます。 だから内室向きや政治向きの発言を避けたのではないか、とも。 まあ単なる保身とも取れなくもないですが。 太宗への諫言は、まず文臣の魏徴、魏徴の死後は?遂良とかにお鉢が回って きますから、武臣の李勣はあまり出しゃばる必要がなかったのかも。 しかし同じ武臣の尉遅敬徳の高句麗遠征に反対する諫言は残ってますね。たった二 行だけど。 >その王朝の禄を食み、地位も得ている以上誠心に仕えるのが臣下の勤めではないですか。 うーん、古代・中世の君臣関係ってのは、もっとシビアだと思いますけど。 「君君たらずとも臣臣たれ」みたいな形式的君臣道徳が力を持ってくるのは、 宋学以降だと思います。 そもそも乱世を生き残っているような人は、保身感覚も鋭敏です。 不器用なことをやってる人は、たいてい乱刃の中で死んでますから。 (そういう不器用で一本気な人も僕は大好きですけども、ええ) そういう話とは別に、李勣が政治的嗅覚をもった人物だったのか? 左遷事件で冷めて保身に走ったのか? については意見を保留させてください。 この話題、以前にもやって僕ぁ考えるとこあったのですよね。 >鹿角さま >関羽が関帝と呼ばれるようになったのは明の万暦帝の時代からなんですね。 そうみたいですね。 蜀漢「壮繆侯」→宋「崇寧真君」→元「義勇武安王」→明「三界伏魔大帝神威 遠震天尊関聖帝君」ということらしいです。だんだん長く。 >明帝が即位して「父のやり方を見習おう」と決意するあたりはとても健気です。 夫人との関係を見習ってしまったのでは?(これは悪い意味で,^^;) 藤水名子の小説の読み過ぎ…ではないですけど、 曹叡君の家庭環境をみてると、かなりヒネくれた感じを受けるんですよね。 僕にはどうも健気って思えない。 伴野三国志では違うんでしょうけども。 明帝がホントに文帝の子なのかという疑惑やら、郭太后殺害疑惑やら、 マザコンとエディコンが入り交じってる印象です。 >perdidoさま >酔っ払ってる間に皇帝の黄袍を着せられる将軍っていうのもほほえましいですね。 あれはお芝居だったのでは?という話もありますが、それでも憎めない挿話 ですよね。 >再びエリスさま >しかし!あの「宋朝弱兵」はどうにかならなかったのでしょうか。 宋朝では軍隊の規模も抑えられていたし、 地方の行政長官や軍隊指揮官が官僚化(文官化)してしまったってのが大き かったですね。いわばシビリアンコントロール。 でもこれは唐代の藩鎮(節度使)割拠の反省に立って進められた改革で、 僕は良かったことだと見てますが。 そうでなければ、中世と同様の軍閥割拠が続いていたでしょう。 これなくして中国の中世から近世への脱皮もなかったでしょうし。 宋代が比較的平和で経済的に繁栄し、庶民文化が生まれでてきたのも、 軍事力の抑制が利いていたからだと思ってますが。 >あの王安石の新法が徹底しなかったのも痛いですね。 あっ、僕も新法びいきですよ。 政策的に面白いので。成功してたらどうなってたかなと。 まあ人物としては、旧法党の蘇軾や司馬光も好きなんですけど。 新法党でも蔡京や童貫はもちろん嫌いなんですけど。(脱線) 518 宋朝弱兵 エリス 2002/09/11 19:55 女性 B型 公主  perdidoさま、どうもはじめまして。私は宋太祖や光武帝も好きですよ。たしかにその宋太祖が即位したときのエピソードは良い感じです。前王朝の皇族を代々面倒見てあげたというのもいいですね。しかし!あの「宋朝弱兵」はどうにかならなかったのでしょうか。もちろん後に方向転換できなかった歴代皇帝や臣下たちも悪いのですが、王朝創始者としての責任は重いのではと思います。あとで岳飛や文天祥がどんなに苦労したか・・・。正直言って、宋の時代は確かに世界一の文化国家でその点は素晴らしい国だったけれど、歴史見ているとどうしても政治や戦争に目が行くので、あの北方異民族にやられっぱなしというのは、見ていてつらいものがあります・・・。あの王安石の新法が徹底しなかったのも痛いですね。(私は王安石が大好きです。中国の長い歴史でも有数の政治家だとおもいます)  李世民の評価が高いのは、強大な北方異民族をボコボコにやっつけて、中華皇帝を天河汗とまで呼ばせた、というのも大きいのだと思います。すいません、好戦的みたいなこといって・・・(笑) 517 話題2件 perdido 2002/09/10 22:28 男性 A型 信州 侍郎 >エリスさま はじめまして♪ おっしゃるような宋太祖や光武帝が好きなクチです。 酔っ払ってる間に皇帝の黄袍を着せられる将軍っていうのもほほえましいですね。 >鹿角さま 3巻途中まででとまってますが続きをよむ意欲は充分です。 「総合掲示板」でも書いたように、自分でも自覚していないくらい孫呉のひいきだったようです。 諜報機関同士のかけひきおもしろいですね。目が離せません。 516 長江燃ゆ 鹿角 2002/09/10 09:24 お久しぶりの伴野三国志ネタです。 三・四巻ともなると、劉備 曹操 関羽は退場なのに 孫権だけは健在なんですよね。 まあその老害ぶりは五巻あたりで詳しく書かれるんでしょうね。 (御家騒動と共に。このせいで陸遜が死んでしまう・・・(T_T) 夷陵の戦いであんなに呉のために尽くしたのに・・・) 関羽が関帝と呼ばれるようになったのは 明の万暦帝の時代からなんですね。 もっと早くだと思ったけど・・・・・ 巻を重ねるごとに普通の戦いよりも 情報機関同士の戦いが本筋という感じで 片方の戦士が異能者なので 三国志というよりも封神演義を読んでる様な気がします。 (一粒で二度おいしい・・・というべきなんでしょうか(^^;) 明帝が即位して「父のやり方を見習おう」と 決意するあたりはとても健気です。 だけど文帝の曹稙や干禁に対するやり方は あまり見習って欲しくない・・・ (後世の史家からも評判が良くない由縁ですね。 515 李せきのこと その他 エリス 2002/09/07 21:04 女性 B型 公主 唐太宗は晩年になって功臣李せきを左遷したので批判されていますね。それが武照の皇后即位に反対しなかった原因を作ったといわれています。確かに私も左遷はするべきでなかったと思いますし、李せきのことは好きです。彼はとても部下想いで家族想いだったのですね。しかし、武照の一件、一概に太宗の処置だけが悪かったとも言い切れない面があるのではと思います。李せきは高宗に「なぜ臣下が諫言をしてこないのか」ときかれたとき、「それは陛下が諫言の必要のないほど完全なお方だからです」とおもねった答えをしているそうです。太宗の生前、彼がどんなに諫言を聞き入れることに心を砕いていたか知らないわけはないでしょうに。太宗の高句麗遠征にも反対せず、むしろ積極論を唱えています。他の臣下たちは尉遅敬徳のような武将も懸命に反対をしていたというのに。彼は太宗にも諫言なんてしたことあるのですか。思うに彼には少しイエスマンなところがあったのではないかと。こんなことを書くと李せきが好きな人は怒るかもしれませんが、私も彼のことは好きですよ。人間誰にでも欠点はあるし、このことだけをもって李せきのすべてを判断しようとは思いません。まあ、根本的には、やはり太宗が頼りない息子を後継者にしたのが一番いけないのですよね。長孫無忌も許せないと思います。長孫皇后が外戚を重用しないでくれと太宗にいったのは、彼女が兄の本性を見抜いていたからではないかと深読みしたりもします。こんな男を妻の兄だからといってすっかり信用していたとは太宗もはっきり言って甘かったな、と思います。  李せきについてさらにいえば、太宗の処置が心外だったのは分かるのですが、その王朝の禄を食み、地位も得ている以上誠心に仕えるのが臣下の勤めではないですか。本当にいやだったら尉遅がしたように地位を捨てて去ればよかったのだと思います。もう歳も歳だし、引退してもおかしくはないでしょう?なんだか手厳しいことをいいましたが、こんな考えもあるのだということで李せきファンの方もご容赦ください。  管理人様、太宗と李靖は本当にいい関係を築いていたと思います。太宗にとっては李靖こそが理想の父親だったのかなと思います。「師父」というのは最高の敬意と信頼の現われですよね。李淵は立場なかったとは思いますが。玄武門の変のあと、李淵は息子世民のことをどう思っていたのでしょうか。それにしてもこういう孝心の無さというのは儒教的倫理観から言うと大きな減点になりますよね。陳舜臣氏も太宗の父親に対する態度の冷たさを批判的に書いていらっしゃいました。 514 やや危険な話 NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/07 13:57 男性 28歳 B型 予州 布衣 >鹿角さま >徳間あたりでやってくれんかなー。 徳間がやるとあの『史記』やあの『十八史略』みたいになってしまいますが、 よろしいので? 徳間はもう何年も前から経営状態が悪い、いつ潰れるかしらんという話が聞こ えてましたが、まだ保ってますね。やっぱり「千と千尋」で儲けたんでしょう か?(^^;) >中公新書「楊貴妃」に梅妃は実在しない可能性もあるそうです。 正史に出てこないっていうんでがしょ。 正史に出ないからいないとも限らないんですが。 マルコ・ポーロが本当に中国に行ったのか?みたいな議論かなあ。 >寧王が政治に関して全くノータッチだったのは 寧王の処世については、僕は意見というか憶測を書いたと思いますけど。 (あえていうなら老荘的処世観かなあ) 大した資料がないので、これ以上語りようもありません。 ない袖は振れないのですよ、許いてつかぁさい。 >元末の群雄割拠の時江南の富は思うように手に入らず 張士誠が元に服属していた間は、まだ何とかしのげたかもしれませんけどね。 朱元璋が蘇州を押さえた後はじり貧という感じですね。 >エリスさま >そういう人は光武帝や宋太祖が好きですよね。 いや、鋭い分析ですな。p(^^;) というか、隙のある包容型の名君なので親しみやすいし、友人にするなら断然 劉秀や趙匡胤のほうということになります。 ただ中国史迷も病膏肓に入ってくると、たとえどうしようもない昏主であって も、それなりに興味が出てきたりするので、好きといえばたいてい好きなんで すよ。許せないおこないは絶対許せないのですけどね。 >最後の漢人王朝があんなことになったのは、とても残念ですね。 明王朝の評価は、 人によっては復古的暗黒王朝であったり、 また人によっては資本主義の萌芽を見たり、 論者によるブレが大きくてなかなか愉快ですよ。 朱元璋の評価も、同じく極端から極端までありますからねえ。 >李世民と李靖の出会いはお互いにとってとても幸運でしたね。 李世民と李勣のあいだにややすっきりしないものがあるのに比べると、 李世民と李靖はいい感じですね。 512 お答えありがとうございます エリス 2002/09/07 02:04 女性 B型 公主  管理人様、お答えありがとうございます。 斉王元吉の一件は陳舜臣氏の「中国の歴史」にその記述がありました。(他の本にも書いてありましたが、書名が思い出せません)  それからもちろん、陳氏は李世民が名君であること自体は否定していませんね。しかし、好きになれない、というところでしょうか。まあ、そういう方はけっこう多いと思うのですよ。そういう人は光武帝や宋太祖が好きですよね。私は多少のマイナス点はあっても大陸的なスケールの大きさを感じさせる人が好きなので。朱元しょうもねー、彼は確かに天才的な人物だと思えます。粛清も一人か二人か三人か四人なら(笑)まあ、認めることができたのにな。(いいのか、おい)初めから後の永楽帝を後継者にしていれば、あんな無茶はしなくてすんだのでは。それに徐達なんて絶対裏切りそうにないのに。あの牛を食べさせるエピソード、とても感動的ですよね。あの時点では、よもや徐達を始末してやろうと考えてはいなかったと信じたい。やはり権力を握ると人は変わるのかなーと思います。ほんと、あの粛清劇さえなければ、生い立ちのハンディも考慮すれば、中国史上最高の名君は彼だとさえ思えます。大貴族の生まれだった李世民より好きだったと思います。永楽帝の派手な外征や鄭和の航海が可能だったのも、朱元しょう統治時代の蓄積があったからで、あの動乱期を切り抜けて、そこまで民心を安定させて、国庫も充実させたわけですから、やはり統治者として並々ならぬ力量はあったと思うわけです。最後の漢人王朝があんなことになったのは、とても残念ですね。(まあ、他にも行過ぎた農本主義とか、鎖国政策とかつっこみたいところは言いだせばきりないのですが)  それから、管理人様とコロ助様、李靖のことを教えていただきありがとうございます。  隋に仕えていたのは知っていましたが、そのあと唐の誰の指揮下に入ったかが分かりませんでした。そうですか、秦王府にいたのですね。天下統一は李世民とその部下たちで成し遂げたようなものですね。李世民の人望もあがるわけです。李世民と李靖の出会いはお互いにとってとても幸運でしたね。 511 中華あれこれ 8 鹿角 2002/09/06 10:39 >管理人様 コロ助様 情報有難うございます。 旧唐書・新唐書もどこか奇特な出版社が現れて和訳してほしいものです。(T_T)筑磨書房が漢書をだしてくれたみたいに。 徳間あたりでやってくれんかなー。 去年千と千尋の分と猫の恩返しで利益を得た何万分の一かでいいんだけど。採算があわんから無理ですか(T_T) 中公新書「楊貴妃」に梅妃は実在しない可能性もあるそうです。 そういや陳円円や香妃もいないのではないかという説を思い出しました。 寧王が政治に関して全くノータッチだったのは 1 叔母の太平公主が反面教師になった 2 利用されやすい立場だということがわかってた 3 祖母健在の時の父の態度を真似た 以外の理由も考えられますかね?管理人様 元末の群雄割拠の時江南の富は思うように手に入らず 元王朝は困っただろうなと思います。 あって当たり前だと思ってた物がないのは辛いし・・・ 陳さんの言葉を借りれば 「江南は支配下に入ることで死命を握った」ことになるんでしょうか?