570 ただの「一武将」か(笑) エリス 2002/10/03 00:18 女性 B型 公主 >管理人様  レスありがとうございます。  しまった、朝鮮王国のあの二人は細作(半島にもこんな表現はあるのかな)でなくて、外交使節だったのですね。失礼いたしました。  甘く見ないで李舜臣に万全の体勢で迎え撃たせていれば、日本軍はボコボコにやられて、ほうほうのていで逃げ帰ることになったことでしょう。 >鹿角さま  お答えありがとうございます。「いきなり最終回」なかなかコワイホームページでした・・・(笑)  総合掲示板の過去ログを拝見いたしました。李世民かなり批判されていますね(笑) 「冷酷非情」「肉親への情がない」「自分への評価にエキセントリック」「猜疑心が強い」「性格悪い」・・・他にもあったかな?まあ、それはその通りなのでしょう。それでも私が李世民を好きなことに変わりはないですね。しかしそれでも、あの「一武将に過ぎなかった」とか「だから軍功を立てられたんだ」というのはやめてくれ、です(笑)だってそれじゃ負け惜しみに聞こえちゃうよ(笑)  劉武周、王世充、とう建徳、たかが「一武将」に負けているんじゃない!いくら長安占拠で戦略的には唐が勝ってしまっているとはいえ、せめて唐からもうすこし偉い将軍を引きずり出すまでは頑張るんだ!  皇帝も皇太子も、「一武将」に見事にしてやられるんじゃないぞ(笑)  李靖も李せきも何をしているんだ。唐の「一武将」に過ぎないヤツに忠誠を誓って味方になっているんじゃない!  ただの「一武将」に過ぎなかった男に統治できるなら、戦乱直後でボロボロの中華帝国の経営も実に楽なものだ。負けた突厥も高昌国もただの馬鹿ですね(笑)  ・・・いや、失礼いたしました。ただの冗談です(笑) 569 もしかして NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/10/02 22:54 男性 29歳 B型 予州 布衣 森福都『吃逆』が講談社文庫になってたので、買って読みました。 面白いとは聞いてたけど、なるほどねえ、とただただ感心しましたよ。 帯と解説のあのかたについては、宣和堂さんが喜びそうだなあ。 珍しくあのかたが先行の「賀望東事件録」に言及してないのは、下手すると 陳さん食っちまうからでは?とか邪推してしまいました。 >宣和堂さま >トルコ系民族で弁髪をした民族を思い浮かばないだけに、自分の中では却下だなぁ…。 どうしても弁髪とからめないといけないわけですね。(^^;) ぼかぁ鮮卑がモンゴル系でもツングース系でもいいんですが、ええ。 >清朝の愛新覚羅姓も辛亥革命後は迫害の対象になったとかで、滿洲語の意を取って金と >改姓したそうですし そちらがありましたか…。 手元で見た限りでも「金姓」はいろいろあるようです。 浙江・江蘇・江西・雲南・貴州あたりの漢族(?)にもいるようで。 金農(1687-1763)なんか、浙江仁和の人だし。 永楽年間のモンゴルの王子金忠とか ほか新羅人から契丹人から満州旗人から苗族までいやがりました。(-_-;) パッとした思いつきを口にするとこうなるという教訓で。(自爆) >まあ、文革でそこら中壊されてメッタメタでしょうが…。 なるほど、文革の十年はイタかったでしょうね。 しっかし、あのロシアでも七十年の断絶を越えて正教復活の兆しがあるようですし。 本物の宗教ならいずれ復活してくるだろうと思います。 というか、もう復活してるんじゃないかな…とも。 仏寺で線香をあげて、仏像の前で叩頭してる江南の人たちをみて信心深いこったな あと思った不信心者でありますので。 >トシ@西安さま >さすがに、そこまでは彼らも知らないと思います。 「金日テイ」は思いつきだったんですが、お答えをいただき恐縮です。 しかし、族譜が残ってたりしないんですかね。 20世紀末になって諸葛孔明の子孫の村が現れたりすると、つい思います。 日本でも偽作の系図が旧家には結構残ってるくらいですし。 まあルーツがらみになると大概いい加減なものでしょうけど。 >代表的なのが回族で、回族にはアラブ方面の血も混じっていますが、ほとんどは元々漢 >族であった人達であって、民国時代は漢族に属するの回民と呼ばれていました。 なるほど。 民族という語が血統ではなく、言語や習慣などで分けられるいいかげんな^^; 概念だというのをいまさらながら思い出しました。 本当に西域の入り口で、イスラムやラマ教が入ってるのですね。 六年半前に見たはずの西安の西域情緒というやつを思いだそうとしてますが、 どうもあやふやです。現地におられるかたの話はありがたいです。 >現在の西安近辺の寺は観光地となっていて、信仰目的でお寺を訪れる中国人はほとんど >いませんが、道観を訪れる中国人は信仰が目的のようです。 そういえば観光地としての道観ってあまり聞いたことないですね。 でも観光と信仰って、厳密には分けられないのかも。 江戸時代の庶民にとっての伊勢参りがそうだったように。 (また話をかき回してますが) >鹿角さま >日中国交回復30周年とかで孫文を取り上げた番組に陳さんがでてました。 そいつは残念ながら見てません。NHKでやってたんでしたか。 >武即天以外に帝位に立とうという勇気ある女性はいなかったんですかね。 韋后あたりは狙っていたはずですが、ほか歴代にはいなかったと思いますね。 皇太后とかの地位で権力を握った女性は幾人かいるんですが、垂簾の政をやっ たほうが無用の摩擦を起こさずにすむといいますか。やはり儒教の女誡の影響 でしょうね。唐代は女権が強いとはいえ、やはり武則天はすごい女傑だと思い ますよ。 さて日本の女帝はというと、基本的には男系の中継ぎなんですよ。 自力で権力を握って為政をおこなった女性天皇が登場していないと思います。 あえて女傑を挙げるなら光明子(皇后ですが)。 あと持統帝なんかたいした女傑ではありますが。 卑弥呼をどう取るか?ってのもありますかね。 >燕王と徐輝祖の関係は織田信長と浅井長政に似てます。 徐輝祖って、徐達の息子ですか。 建文帝に附いて永楽帝に幽閉されてますね。 どのへんが浅井長政なので? 568 中華諸々 2 鹿角 2002/10/01 14:01 >エリス様 いきなり次回予告というHPで 三人の名前を入れると毎回トンデモな結果になります(^_^) 史実を知るほどお笑いねたかましてくれるというか・・・ 原さんの武即天での玄宗VS太平公主は 姑にいびられる嫁という感じです 彼女は何故自分が後継になれなかったのかと あの世の母に愚痴るし・・・ 帝位についてからの玄宗がそれまで悩みまくっていたのが まるで嘘みたいにふっきれた様子なのが救いです。 日中国交回復30周年とかで 孫文を取り上げた番組に 陳さんがでてました。 民放出演もそうですが眼鏡もかけてませんでした。 (コンタクトにしたのか)他に見た人いますか?) 武即天以外に帝位に立とうという勇気ある 女性   はいなかったんですかね。 (葦后達は失敗してますが) 儒教のえいきょうですか?日本は8人いるのに・・・ 燕王と徐輝祖の関係は 織田信長と浅井長政に似てます。 徐輝祖は殺されませんてしたが 567 仏教、道教、、、 トシ@西安 E-Mail: URL 2002/09/30 05:58 O型 唐 挙人 >金姓で北方民族の子孫というと、漢の武帝に仕えた匈奴王子「金日テイ」の 子孫だったりするのでしょうか? さすがに、そこまでは彼らも知らないと思います。 ただ、統計的に姓の分布を調査すれば何か発見があるのではないでしょうか? 陝西省北部や甘粛省、新疆の漢族には珍しい姓が多いと感じていますので。 >西安では、そんなにはっきりと民族で宗教が分かれてたりしてるんでしょうか? 現在の民族分類は民族で宗教が分かれているというよりも、宗教で民族を分けている面があります。 代表的なのが回族で、回族にはアラブ方面の血も混じっていますが、ほとんどは元々漢族であった人達であって、民国時代は漢族に属するの回民と呼ばれていました。 でも、イスラム教が本格的に中国に流れてきたのは元代以後ですから、唐代のイスラム教は考えなくても良いと思います。 仏教はイスラム教と違って、他の宗教と共存しやすい宗教ですから、漢族という集団の中に融け込むことができたようですし、唐は言語で民族を分けることはあっても、宗教で分けることはなかったと思います。 普段の生活では仏教徒を漢族の中から見分けることはできませんが、田舎の方に行くと郷土色のような形で仏教を感じると同時に、一般の漢族とは異質のモノを感じたりします。 また、田舎の方にはカルト集団とも思えるような不思議な道教集団もありました。 しかし、仏教も道教もごちゃ混ぜになっていますね。「深く追求しないように」と言われてしまいました。(笑) 現在の西安近辺の寺は観光地となっていて、信仰目的でお寺を訪れる中国人はほとんどいませんが、道観を訪れる中国人は信仰が目的のようです。 普段、見ることの出来ない中国人の信仰風景も道観では見ることが出来ます。 あと、西安に来て、漢族のラマ教徒が意外に多いのを知りました。 566 最近のはしらんので… 宣和堂 2002/09/30 02:33  東胡自体、モンゴル系という思いこみが強かったんですが、コレもよく考えると東胡→鮮卑→契丹→蒙古というたぐり寄せからでしたね…自分の場合。まあ、もっとも文献から民族をたぐり寄せようと言うのも無理っぽいかもなぁ…。発掘資料でもあればいいんですけど、遊牧民の政治形態からして被葬者と支配民族の関係というのもそう単純にずっぱりと切れたモンではないでしょうしね…。  でも、東胡には剃髪(頭を剃り上げる)風習があったようなので(白鳥説じゃ古すぎるけど)、トルコ系民族で弁髪をした民族を思い浮かばないだけに、自分の中では却下だなぁ…。   >金姓  清朝の愛新覚羅姓も辛亥革命後は迫害の対象になったとかで、滿洲語の意を取って金と改正したそうですし(川島芳子も本名は金なんたらっていったんですよね)、金の完顔姓もそんな感じで改姓したようなこと読んだことあったような…。 >西安では、そんなにはっきりと民族で宗教が分かれてたりしてるんでしょうか?   西安あたりだとむしろ回教とその他の宗教という感じでは?まあ、文革でそこら中壊されてメッタメタでしょうが…。正直、大陸の宗教施設はすべてあのときに死に絶えたと考えた方がいいです。今再建されてるのは観光地であって宗教施設の意味合いは非常に薄いように思います(大陸のお寺で説法はおろか読経すら聞いたことがないので…)。まあ、香港台湾のアレの方が民国あたりの記録にもあう気がします。   でも、台湾あたりの寺廟を見るに、仏も神様も同居するようないかがわしいというか、本地垂迹説がまかり通っていた日本の明治以前の神社仏閣……というか道祖神とかお地蔵さんとか、庚申講のような存在の方が近いかもしれません。二階堂先生の受け売りにもなりますが、民間の宗教と所謂道教、仏教は別の次元かもしれません。ただ、道教の教団化にはかなり仏教の影響がある…というか、仏教の仕組みをそのまま持ってきたところがあるので、武宗の仏教弾圧の頃に仏寺を接収して道観に模様替えすると言っても、額換えて僧侶を追い出して道士を招くぐらいしかしなかったようですから、あまり変わりはなかったようです。 565 北方民族とか宗教とか NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/29 21:32 男性 29歳 B型 予州 布衣 >宣和堂さま >鮮卑ってトルコ系なんですか… 旧来の説で、鮮卑は東胡の支族とされてるので、 東胡=トルコと取るとそうなるらしいです。 丁零や突厥がトルコの音訳であるのと同様の解釈で。 最近の研究でも鮮卑=トルコ系説が有力になってるらしいですけど、こちらは 詳細を知りません。m(_ _)m ただ東胡の支族とされてる民族ってやたらといるんですよね。 匈奴・烏丸・契丹などもそうでしたよね。ほかにもいたはず。 >トシ@西安さま >西安には、漢族であっても鮮卑や匈奴の子孫だと称する人が多くいて、 実地でしか分からないことを教えて下さって感謝です。 金姓で北方民族の子孫というと、漢の武帝に仕えた匈奴王子「金日テイ」の 子孫だったりするのでしょうか? >支配層の場合、唐王朝の宗教色はそれほど強くありませんが、 武則天(武照)が仏教に傾倒し、玄宗(李隆基)が道教に傾倒したってのは よく言われますけどね。 あと武宗(李炎)が廃仏をおこなったのが、三武一宗の法難のひとつに数えら れてたと思います。 しかし時代を通してみると、宗教の違いにはおおらかっぽい感じがします。 >仏教は漢族に定着しなかったのではないかと思います。 これはどうなんでしょう。 西安の話ではありませんが、すでに南北朝の梁のころには、南朝四百八十寺とか 言われた盛行ぶりでしたし。 僕個人としても、20世紀末に蘇州や広州で観光地化はしてるものの現役でやっ てる寺を見たもんで。 西安では、そんなにはっきりと民族で宗教が分かれてたりしてるんでしょうか? 564 唐王朝の世界観 トシ@西安 E-Mail: URL 2002/09/29 03:30 O型 唐 挙人 >唐の皇族は血統的にはおそらく鮮卑の血が入ってますし、文化的にも五胡や西域 のものが入ってる時代ではあるんですが、異民族支配の王朝とみるのは、極論で しょう。 西安には、漢族であっても鮮卑や匈奴の子孫だと称する人が多くいて、西安の金姓は北方民族の子孫だそうです。 こうした北方民族の子孫が住む村には仏教関係の石窟、寺院があり、漢族と融合したとは言っても、他の地域に比べると仏教色が強いようです。(もっとも、仏像が無残に破壊されている石窟もありますが...) 機会があれば現在の彼等の信仰を調べてみるつもりです。 西安にはほぼ同じ数の仏教寺と道教観があり、それぞれの聖地、聖山も同じようにあります。 中には仏教と道教が混在した寺院もあるほどですから、唐代の胡族と漢族は日常生活で上手く融合していたことがわかります。 民間レベルで仏教と道教が衝突したと言う話も聞きませんし。 支配層の場合、唐王朝の宗教色はそれほど強くありませんが、唐は漢族の道教世界と胡族の仏教世界の2つの世界観にまたがる帝国だったと考えてみるのはどうでしょう?(話が複雑になるので儒教は置いといて) しかし、結局は道教が残ったことをみても、仏教は漢族に定着しなかったのではないかと思います。 563 このごろ自分、憶測でもの言ってますね NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/27 23:18 男性 29歳 B型 予州 布衣 >エリスさま >なんとなく、話しちゃいけない、話したくないような空気でもあるのかな、と思ったので。 いや、そんなこともないでしょう。 桃山期の朝鮮出兵や朝鮮文化の移入の話をタブー視してるつもりは、僕はない ですし。よそでもそんなことはないと思いますが。 >朝鮮は秀吉のことを調べるために、二人諜報部員みたいなのを送り込むのですが、 これは黄允吉と金誠一のふたりのことですか? このふたりは諜報部員ではなくて、いちおう外交的な使節なんですが。 むろん日本の国情を報告する義務も負ってたのはたしかです。 で、おっしゃるとおり意見が対立したという話で。 >朝鮮の側にも国内に問題は抱えていたのでないかな、と(つまり客観的事実として) それはあったでしょうね。 といって、僕も語るべきほどの事実を知らないので、どうも話がつなげません が。半端なレスをしましてすみません。 >人材登用に問題は無いが、登用した後の扱いにやや問題のある人のような気がして。 いや、納得しました。武臣もそうなんですが、それよりも文臣の酷吏の人々が 使い捨てにされてる気がします。武帝はなにやら対人関係で熱しやすく冷めや すい人のような気もします。 >殷景仁さま >武帝の治世に活躍した重臣で、終わりをまっとう出来たのは、衛青・霍去病・公孫弘、 >それにかろうじて汲黯ぐらいで、あとの大半は獄死している気がします。 ほかには鄭当時・董仲舒・卜式・児寛・杜周・張騫くらいが全うしてますか。 あまり良い死に方ではないが、田?・韓安国・司馬遷は自然死です。 しかし、殺されたり、自殺したり、匈奴のもとで没したりした人も多いですね。 いわゆる酷吏の人々は、杜周あたりを除いてほとんどが誅殺されてます。 >鹿角さま >もし黄・斉の二人が削藩計画なんてやらないで >触らぬ神にたたりなしという態度であれば燕王は挙兵したでしょうか? 挙兵しなかったかも、というか挙兵する名分が立たなかったかもしれないです。 ただその場合、首都は南京でありつづけ、塞外諸民族への対応は諸王がこれに あたり、諸王の割拠という問題をかかえ続けて、明王朝の性質がずいぶんと変わ ったものになったと思います。 >宋王朝が漢・唐・明にくらべて宦官悪が少ないのはどうして? 宋の悪宦官というと、童貫・楊?くらいしか思い浮かばないですね。 士大夫官僚の権限が強かったから…、というのは理由にならないかな。 宋の宦官は皇帝の側近としてあるだけではなかったのかもしれません。 太宗・真宗のころの秦翰とか、仁宗のころの李憲とか、武臣−本来は軍監のよう な役目で−として活躍してる人が多いみたいです。 >再びエリスさま >唐はトルコ系遊牧民の王朝で、漢民族の王朝ではない。したがって中華の王朝でも >文化でもない・・・ ネット上でもときどきいますね、そういう主張をする人。 唐の皇族は血統的にはおそらく鮮卑の血が入ってますし、文化的にも五胡や西域 のものが入ってる時代ではあるんですが、異民族支配の王朝とみるのは、極論で しょう。 562 え? 宣和堂 2002/09/27 23:07  鮮卑ってトルコ系なんですか…初めて聞きました。突厥の支配下にあったって言うことかなぁ?にしても、なんで関隴集団を漢族にしたがるんですかね?彼らは確実に弁髪鮮卑の末裔であり、弁髪を捨てた西魏側はヘナチョコというのが自分の中の鉄則なのですが…。まあ、どっちにしろ弁髪にゆかりが深いと言うことですか(当方、遊牧民を弁髪の有無でしか評価してません)? 561 しまった、また送信が変だ エリス 2002/09/27 20:28 女性 B型 公主  すいません、また送信が変でした。下の書き込みから見てください。 >鹿角さま  すいません、それは何なのですか(ちょっとコワイ・・・)  つけくわえ  唐はトルコ系遊牧民の王朝で、漢民族の王朝ではない。したがって中華の王朝でも文化でもない・・・などと言う輩がいるそうですが、そんな奴らは死んでしまえ、です(いや、そこまで言わなくていい)。確かに遊牧系の血と文化は入っていたとは思うけれど・・・。  日本は島国で長らく文化文明の辺境の地だったので、どんどん外から他民族が入ってきて、それが自分たちと同じ文化に染まってゆく、そして同じ文化を持てば人種や外見が異なろうとも同じ仲間とみなす、というのは理解しがたいでしょうが。(といっても私だって日本人なのだが) 560 宋 エリス 2002/09/27 20:13 >殷景仁さま  どうもレスありがとうございます。  漢の武帝は、臣下だけでなく、寵愛された女性も悲惨なことになっていましたよね、確か。衛子夫にしても・・・。やはり基本的に何か人を大切に出来ない人のような気がして・・・。まあ、始めからなんのとりえもないただの暗君、暴君なら、あらめてこんな文句はつけませんが(笑)なまじ功績はあるだけに、他の名君と呼ばれた皇帝たちとも比べてしまうわけです、私としては。 >鹿角さま  あの〜、すみません、その「唐太宗と高宗が恋人同士」って・ 559 中華諸々 鹿角 2002/09/27 10:41 いきなり!次回予告はいつもトンデモですが (この前なんて太宗(唐)と高宗が恋人同士だったし・・・) 珍しく史実に沿った予告が出て来ました。 楊貴妃との禁断の愛に生きることを決意する玄宗 それをみて苦しむ梅妃・・・というのです。 永楽帝は伴野さんの作品の中で かなりフビライを意識してるんですよね。 「あんな人意識しなくても・・・」とおもうんだけど でも日本側から接触してきた時とても喜んだというのは フビライが十万以上の兵を犠牲にしてできなかったことが 自分は何もしなくても出来たからではないかと思うのですが・・・ もし黄・斉の二人が削藩計画なんてやらないで 触らぬ神にたたりなしという態度であれば 燕王は挙兵したでしょうか? 靖難の役は北方の武人派VS南方の文人派という 対立の面もあるそうで・・・ 宋王朝が漢・唐・明にくらべて宦官悪が少ないのは どうして?やっぱりそれらと比べて異民族の圧迫が とても強かったから? (関係ないかな・・・) 558 漢の武帝の重臣たち 殷景仁 2002/09/25 00:44 男性 O型 宋 侍中 エリスさま >漢の武帝に関しては・・・う〜ん、きっと司馬遷のおかげで、酷い人の印象が強いんだな、きっと(笑) >でもなんというか、人材登用に問題は無いが、登用した後の扱いにやや問題のある人のような気がして。 たしかにそうですよね。武帝の治世に活躍した重臣で、終わりをまっとう出来たのは、衛青・霍去病・公孫弘、それにかろうじて汲黯ぐらいで、あとの大半は獄死している気がします。平穏な一生を終えることができたのは、ほかに誰かいましたっけ? 557 いつもお答えいただきありがとうございます エリス 2002/09/24 23:34 女性 B型 公主  >管理人様  するとやはり、玄武門の変は回避不能だったのですね。李世民が自分の側近を見殺しにする主であるくらいなら、兄弟殺しも辞さない野心家であったほうが千倍もましだ・・・というのは過激でしょうね(笑)  「中国の歴史」は・・・あれ、見間違いだったかな・・・。唐太宗も碑を倒したのはやりすぎだとは思うけど、魏徴の態度もなんか納得いかない・・・。でも、権力を持っているほうがより批判されるのは仕方ないですが。  古代に半島から渡来人が来て(渡来人なんて後世の造語を使うな、と井沢元彦氏は本に書いてましたが)文化が伝わったことはまず知らない人はいないでしょうが、秀吉朝鮮出兵のとき、朝鮮文化が如何に高度なものだったかは、それに比べて知られていない気がしたもので。別に、管理人様が、過敏だと思ったわけはありません。なんとなく、話しちゃいけない、話したくないような空気でもあるのかな、と思ったので。  もちろん侵略肯定のためにこの話をするのでなく、人間の欲望の限りないことと(人間の本性は悪だ、とまでは言わないにしても)、朝鮮文化が如何に優れていたかを日本人が知るためにこの話をしたいだけです。  朝鮮の国防については・・・誤解のないようお伝えしておきたいのですが、これをもって当時の、そして現在の朝鮮民族に対して軽侮の意があって、国防面を批判するのではありません。日本の武勇が優れていたなどと誇る気も全く無いですし。ただ、歴史から教訓を得たいだけなのです。う〜ん、どうも軍備や国防とかになると話が全く合わなくなりますね(笑)穏健左派と保守中道では合うわけもないのだろうか・・・(笑)某政治経済関係の話し合いをするサイトに行って、そこの右派偏向ぶりにうんざりしたのですが、ここに来ると逆に、自分がすごい好戦的というか、軍国主義者でもあるかのような気になってくる・・・不思議だ・・・(笑)  う〜ん、朝鮮は秀吉のことを調べるために、二人諜報部員みたいなのを送り込むのですが、二人が全く異なる報告をするのですよ。一人は「秀吉は蛮族ながら只者ではない。用心するべきだ」みたいなことを言って、もうひとりは「あんなヤツは大したことは無い。倭奴ごとき何を恐れるか」と、相手を軽く見ていたみたいなのですよ。この情報収集の段階で、すごく不正確なことになっている。結局後者の意見をとったので、朝鮮ははじめ、ひどいことになった。忠臣李舜臣をあろうことか、日本との内通の罪で一平卒に落しているし・・・。やはり何か問題を抱えていたとしか思えない。兵の数だけの問題でなく。それをただ冷静に知り、分析したいだけなのです。結果、朝鮮の国内が荒れ果てたのは、もちろん侵略した日本が一番悪いのは言うまでも無いですが(つまり道義的には)朝鮮の側にも国内に問題は抱えていたのでないかな、と(つまり客観的事実として)まあ、そういう意見を持っている人も、世の中には多くいるってことです。そういう内容の本がけっこうありましたから。別に朝鮮を馬鹿にしているのでなく、冷静に、一独立国が国難を招くときは内部にどんな問題があるのか、を知りたいからです。  漢の武帝に関しては・・・う〜ん、きっと司馬遷のおかげで、酷い人の印象が強いんだな、きっと(笑)  でもなんというか、人材登用に問題は無いが、登用した後の扱いにやや問題のある人のような気がして。衛青かわいそうだよな、何も悪いことしてないのに、ただカク去病がかわいいってだけで、冷たい扱いを受ける羽目になって。李広にしても・・・もう少し彼の面子を立ててあげればよかったのに。でもそんな繊細な心遣いを武帝に求めるのは間違っているのでしょう(笑)まあ、絶対いえるのは、「史記」が私に与えた影響は絶大だってことです。 >鹿角さま  どうも、ありがとうございます。  恥ずかしながら私は李舜臣くらいしか良く知りませんが。高麗の武将ですか。するとモンゴルと戦ったのですね。素晴らしい!あの当時の高麗ってひどい目にあってますよね。元寇で日本を荒らしたことといい、なにかモンゴルって好きになれない私です。だから明の徐達が好きなのです(笑) 555 朝鮮は無知で(恥) NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/24 22:04 男性 29歳 B型 予州 布衣 李舜臣は…教科書レベルのことしか知らないので、どうにもコメントのしようもなく。 平凡社東洋文庫で『乱中日記』が出たのが、最近のことですね。 >perdidoさま >でも宦官黄皓が蜀滅亡の最大の戦犯で 僕は蜀漢のファンってこともないので、なんとも…。 黄皓の幇間ぶりと劉禅の暗愚ぶりが内政を混乱させたのもいかんのですが、 姜維の八度にわたる北伐による国力の消耗はひどかったと思いますよ。 せめて費?・蒋?が生きていれば、こんなことにはならなかったでしょうけど。 >エリスさま >文帝と曹植の関係は、ひょっとすると、唐の李建成と李世民の関係にも当てはまるかな、 曹丕と曹植のあいだはもう少し穏健だったような気も…。p(^^;) >でも魏徴が太宗に黙って史官にその記録を見せていたことは書かれていない。 書かれてますよ。(陳舜臣『中国の歴史』講談社文庫版4巻p150) これについては、少し前に僕が憶測を述べたことがあるので再録しときます。 >>ふたつくらい理由があると思います。 >>ひとつには、魏徴もやはり歴史屋のひとりであり、記録の重要性を知悉し >>ていたということでしょう。魏徴は、正史のうちの二書『周書』『隋書』 >>の編纂者でもありましたし、古い時代の歴史を探究すると同時に、彼の生 >>きた同時代のことを書き残す義務感も感じてたと思います。 >>もうひとつには、彼個人の名利を書き残す欲求も当然あったと思います。 >>「士大夫的美学」というと、隋唐の人物には不適切かもしれませんが、 >>個人の短い生命より千古不朽の名を貴いものとする考えは、中国では古代 >>からありましたし、そのためには(当代・後代の)史官に彼の事績が伝わ >>らなければ意味がありません。 >>…というくらいの理由で、魏徴は諫言の記録を残し、?遂良にも見せたの >>だと思います。 >だから朝鮮侵略により得られるものは多かった。それは事実です。 僕も事実を否定するつもりはないんですよ。 掠奪や人狩りがあったとか、それにともなう文化移入があったことを否定する人は まずいないと思います。これは左右だとか歴史観とか関係なしです。 ただ侵略賛美にならないように、昨今の歴史屋は表現に気をつけてるところでしょ う。だから「言い方によっちゃ問題」だと書いたのです。 過敏すぎますかねえ? >朝鮮王国は国防をおろそかにしていたのは確かです。 オランケ(女真)や倭寇に対する備えはいくらかあったと思いますが。 ただついこないだまで戦争ばかりしていて、足軽が余ってる国とは訳が違ったのは たしかです。 文禄の3万人だとか、慶長の14万人だかの侵攻に常時備えてる国というのも、そ うはないと思いますよ。 >臣下に対する対応が酷過ぎるのでその点でも好きになれません。 李陵事件ていどの理不尽な事件なら中国史上にけっこう転がっている… (とかいうのは、暴言としてお聞きのがしいただきたいですが^^;)。 臣下の人事面への配慮は、武帝は良いとはいえませんが、酷い部類とも僕は考えて いません。武帝期に現れた人材は、文・景帝期よりずいぶん豊富ですし。 『漢書』の功臣表とか見てもそう思います。 でもやはり僕も漢の武帝は好きになれませんね。涜武の君というべきで。 >鹿角さま >立間さんと2ショット出演したのは人形です。 どうも。 NHK人形劇のあの曹操人形ですか。 >関羽があの世から曹操がひどい目にあわせた人をつれてきて たたり神関羽の面目躍如ですね。 呂蒙・曹操の一代かぎりでさっぱりしておりますが。 怨霊部隊で北伐だーってことになったら、話が壊れてしまいます。 いや、それも面白いかも。(何言ってんだろ) >伴野三国志では赤壁あたりになると曹操は劉備なんて忘れてる(^^;) 実際、劉表の客将としての劉備は、曹操の深刻な脅威ではなかったと思いますよ。 赤壁でも劉備はほとんど活躍してないし。 赤壁はそれこそ周瑜の舞台なのがホントであって。 演義はむりやり諸葛亮の出番を作ってしまったわけですから。 >横山三国志における孫堅と孫策の違い 目があいてるかあいてないか いや、横山光輝さんは、ほかの漫画とかとも合わせれば、混同してしまう顔がいっ ぱいあります。しばらく読んでないと忘れてしまって、こいつ誰だっけなあ?って、 なってしまう。一気に読んでしまうのが吉ですね。 >孫堅・孫権の受けた将軍名を忘れてしまいました(T_T) 孫堅が破虜将軍・孫策が討逆将軍でしょう。 呉書の筆頭が「破虜討逆伝第一」ですし。 554 三国志雑感 鹿角 2002/09/24 10:48 >エリス様 確かに李舜臣は颯爽とした人ですね。 彼もいい人ですけど私は山田智彦氏の書いた 「蒙古襲来」に出てた金允候将軍もいいなと思います(高麗の人ですが) この人の部下になれるならなんでもしたいと いまだに思ってますから(^^;) >管理人様 立間さんと2ショット出演したのは人形です。 「父子共に文学の才能がある」との発言を聞いて 曹操がした訳で 曹操といえば人形劇で死ぬ間際に 関羽があの世から曹操がひどい目にあわせた人をつれてきて 現実との区別がつかなくなった曹操が 息子に対して「お前を殺した覚えはない」と 言った場面も忘れられません。 伴野三国志では赤壁あたりになると 曹操は劉備なんて忘れてる(^^;) 演義や吉川版では不倶戴天の敵なのに・・・ 現実なんてそんなものなんでしょうか? 横山三国志における孫堅と孫策の違い 目があいてるかあいてないか 孟達は「徳川家康」で加藤清正で出演(^^;) 孫堅・孫権の受けた将軍名を忘れてしまいました(T_T) どなたかご存知であれば教えて下さい。 553 いかん、どうも私は基本的に性悪説論者のようだ・・・ エリス 2002/09/23 12:37 女性 B型 公主  管理人様  どうもお答えありがとうございます。  日本の朝鮮からの略奪については問題発言なのは重々承知でございます。要は、人間とは食うに困らずとも、それ以上の欲望のために戦うのであり、したがって失うものの多い豊かな国は、他国からの侵略に備えて国防をおろそかにしてはいけない、といいたかったのです。さて、そのような性悪説的な言説を、他民族、他の国々を例にしていうのはあまりに不公平(まあ、昨今の右派の方々はよくそれをやりますが)したがって過去の日本人の蛮行を例にとったわけでございます。まあ、秀吉の征服欲も、その尻馬に上手く乗った他の侍たちも、基本的に食うに困っちゃいなかったことに変わりは無いわけで。日本が北元どころか華北あたりよりもよほど恵まれた自然環境にあるのも確か。にもかかわらず・・・。  朝鮮王国は国防をおろそかにしていたのは確かです。大国明の保護、武軽視の国風、長年の平和に慣れていました。そこを蛮族(笑)日本の侍に攻め込まれたのであります。安土桃山時代といえば華やかな文化の時代のようにも思われていますが、なんの、まだまだ日本は遅れています。だから朝鮮侵略により得られるものは多かった。それは事実です。右派も左派もこうしたことは言いたがらんでしょう。右派は当時の日本が遅れていて、野蛮だったことは言いたくなかろうし、左派は左派で、管理人様もおっしゃるように、戦争により他国から得られたものが多かった、結果的に得した!なんてことはもちろん言いたがりません。だからこういうことは中道の人間が言うしかないわけです。(笑)私としては朝鮮王国の文化の高さに敬意をはらっているつもりであります。(半島から文化輸入して千何百年も経つのにまだまだ全然追いついてないじゃん!てなもので)いや、けっこうこの時代はかなり追いついていたのではと思う日本人は多いようなので、そうじゃないんだぞ、と。ほんと、大陸、半島を追い越したのってつい最近なのだなあ、としみじみ思います。またぞろ追い抜かれそうですが(笑)  もちろん祖国を守るため、日本と戦った李舜臣は讃えられるべきです。日本に貢物を差し出して講和を乞うていたら、朝鮮半島の人々は自国の誇りの拠り所を無くしていた事でしょう。・・・しかし、このあたりは意見が分かれるところだろうな・・・。  漢の武帝は、司馬遷宮刑事件とか、そもそも李広の上に衛青を置いた無神経さとか、その後もかく去病に対するひいきとか、李リョウへの理不尽な怒り、とか臣下に対する対応が酷過ぎるのでその点でも好きになれません。明の永楽帝にしてもそうですが、外征好きな君主は内政・人事面弱いというのはあるかな、と。それに比べたら唐太宗はよく頑張りましたよね。よく他のサイトを見ても、外征面の派手さと世界帝国志向ということでこの二人と唐太宗を並べて評価しているのを見たのですが、はっきり言ってこの二人と同じ扱いじゃ李世民が可哀想だろうよ!と思うわけです。しかも前者二人が祖父や父の代の蓄えを好きなように使うことが出来たのに対して、李世民は自分で天下統一もして(彼ひとりのちからでなかったにしても、だ)荒れ果てて人口も激減の華北の地を抱えつつ内政にも意を注いだのだからそこを評価しなくちゃいかんだろ、と思いますね。でも建国の名君として光武帝や宋太祖と比べられると今度は彼のつっこみどころの多さが目立っちゃうんだよな〜(苦笑)というわけで。  徐達はやはり良い。貧農から天下統一の大将軍まで。最高の成り上がりヒーローだ。しかも強力なモンゴルを相手にして華北まで、南方出身の彼が戦ったのだから。貧苦と戦乱を共にして,誠心に仕えた主君から与えられた毒入りガチョウを甘んじて食べるなんて泣かせます。最高にドラマになる話だなあ、これ・・・。  では長々と失礼いたしましたありがとうございます。 552 書き散らし NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/22 23:04 男性 29歳 B型 予州 布衣 >エリスさま >漢籍が読めない私めに、 いえ、僕は漢籍を読めるうちに入りません。 いつも適当に拾っていい加減なこと書き散らしてるだけです。 読めもしないのに、何十冊かそこら転がしてますが。 >漢の武帝は内政面の弱さと臣下への扱いがあんまりなので、好きにはなれないのですが、 祖父・父の代の蓄えを食いつぶしたことといい、馬を得るために遠征したことといい、 塩鉄専売やら増税やらといい、政治家としては多分(-_-;)ろくでもない部類ですね。 黄河の氾濫を二十年も放っておいたというのもイタい。 貨幣政策(五銖銭)でいくらか成功したというくらいですか。 >李広と衛青は好きですね。共存の道はなかったのかな。 大将軍となった衛青としては、閲歴がはるかに上の李広を使いづらかったとは思います し、李広は李広で若いのの下につくのに不満があったでしょうね。 まあ、難しかったとしか。 >後は朱元璋に仕えた徐達もいいですね。 明の建国は徐達・湯和・常遇春あたりの農民出身の武臣にそうとう支えられてますよね。 まあ、元は脱脱を左遷したあたりからどうしようもなくなってますけど。 それでも一度は徐達に苦杯を飲ませた北元の拡廓帖木児も大したもんだとか思わないで もなく。 >秀吉の朝鮮出兵のときに。 秀吉の朝鮮出兵は、秀吉個人の「唐入り」への妄執もさることながら、 戦国乱世を生き残りながらいい目を見られなかった「負け組」の新規巻き直しの面があ りますよ。関ヶ原や大坂の陣にもそういう面がありましたが。 秀吉は家康とちがって恩顧の武将に与える所領をケチらなかったので、日本国内では領 地が足らなかったとかいう話もあり。 朝鮮が道を貸したらおとなしく通過したかどうかは分からないし、 通過したら通過したで、そうしたら満州や華北のほうでチャンバラやってたのかな。 どうでしょ。 >朝鮮からいろいろなものを略奪してきたから。陶工や学者なんかの人や、いろいろな高 >度な技術の品々を分捕ってきたのですよね。 それは実際ホントの話ですが、言い方によっちゃ問題発言にも聞こえますよ。 たしかに江戸期の陶芸や朱子学に与えた影響は大きかったはずです。 >だから大陸や半島の歴史は侵略との戦いの連続に見えるのですね。 半島は抵抗戦争をよくやってましたね。中国・モンゴル・日本と。 大陸はどっちもどっちという感じですが。 >鹿角さま >TVで随分前に立間先生と2ショット出演してた曹操は可愛かったー(^o^) なんですか?それ。 なんの曹操?人形劇?アニメ?実写? 立間祥介さんと2ショットですか? >近くには「永楽座」という映画館もあったそうで・・・今もあるのでしょうか? 今はないですね、そういう渋い名前のは。 僕がよくいく映画館は「シネマサンシャイン」って関係ないか。 >文帝は曹植を迫害しましたが燕王についてはどう思っていたのでしょう? なんとも、分かりません。 正史三国志じゃ曹宇のことは大したこと書いてないんですよ。 551 英雄増ではなくて英雄像だ(笑) エリス 2002/09/22 22:50 女性 B型 公主  perdidoさま  どうもありがとうございます。そう、李舜臣かっこいいですよね。亀甲船の独創性。抜群の用兵。実に素晴らしい。性格もその最後も・・・完璧です。朝鮮王国や彼自身が日本侵略の意図を抱かなくて良かったです。村上水軍なんかでは到底太刀打ちできません(笑)日露戦争のとき、日本帝国軍人は李舜臣に勝利の祈りを捧げたそうです。なにしろ日本は外国との海戦で勝ったことがなかったのですから!国産の軍神がいないわけで、それにあの戦いは一応、日本対ロシアだけでなく、東洋対西洋の戦いであると認識されていたようなので、当時の日本人にとっての最大の水軍の名将は朝鮮の李舜臣を置いて他にいなかったのですね。東郷元帥は勝利を得て後、「私は李舜臣の足元にも及ばない」と言ったそうですが。日本人、以外に謙虚じゃん!(笑)  それから私は一応、蜀・劉備ファンですが、彼らが曹操陣営にかなうわけも無かったことは自覚しております。あんな風に北方の強国を造り上げられたらもうだめです。好き嫌いと実力・実績の判断は別物ですね。  管理人様  その文帝と曹植の関係は、ひょっとすると、唐の李建成と李世民の関係にも当てはまるかな、と思ったりしますが。  ・・・しかしあらためて陳舜臣氏の「中国の歴史」見てみると本当に李世民嫌いって感じですね。玄武門の変に関するところなど、李淵が李世民を殺しておけばよかったのに!といわんばかりのように思えますね。魏徴の碑を倒した一件も・・・。魏徴が諫言の記録をしていたことを知って唐太宗が怒ることは書いてある。「自分が懸命に創り上げた聖天子像を壊されるのががまんならなかったのだろう」という意味のことが書いてありますが。でも魏徴が太宗に黙って史官にその記録を見せていたことは書かれていない。・・・何か、意図的なものを感じたり(笑)しかしこれを読んでも李世民好きになったのだから、私も私だな(笑)まあ、それだけ李世民が只者で無いからなのだと思っておこう。  では長々と失礼いたしました。ありがとうございます。 549 呉ファンの真骨頂、李舜臣 ん〜まとまりがない!(笑) perdido 2002/09/22 20:19 男性 A型 信州 侍郎 >蜀呉衝突の責任論なら「関羽・劉備が柔軟性を欠いたからだ」 ↑ん〜やっぱ、荊州の件といい、これだな。あ〜蜀ファン、関羽、劉備ファンの方、ご勘弁を! でも宦官黄皓が蜀滅亡の最大の戦犯で蜀ファンの方々と怒る気持ちは一致していますし、「呉三国志」で、孔明と「臥龍耳」(孔明の私的諜報機関)の活躍は応援してますよ。「臥龍耳」のルーツが裏墨家という設定もいい。(すっかり、伴野三国志に嵌ってます。) エリスさま >李舜臣は実に素晴らしいヒーローだと思えるな。物語に描かれたような完璧な英雄増のように思える。 いやそのとおりです。李舜臣は、ほんとに「敵ながら天晴れ」です。亀甲船をつくったことといい、朝鮮半島史名将列伝を書いたらベスト3どころかトップに上げられるかも。 「帝国軍の名将たちの布陣や用兵に感動するヤン」の気分です(笑)。 後世の倭国の歴史家きどりだからこんなこといってられるのでしょうが... 548 長江燃ゆ 4 鹿角 2002/09/20 13:33 TVで随分前に立間先生と2ショット出演してた 曹操は可愛かったー(^o^) 「もっとほめて」みたいな感じで 肩をしきりに突っついてたのは忘れられません。(^^;) >管理人様 伴野さん  の生地は松山だそうです。 奇しくも同じ場所ですね。近くには「永楽座」という映画館もあったそうで・・・今もあるのでしょうか? アニメ版では周喩の声はオーキド博士でした。 孫権は今じゃ004・・・・ 張飛はしんちゃんのパパ(^^;) 文帝は曹植を迫害しましたが 燕王についてはどう思っていたのでしょう? 息子と同じ位年の離れた弟には まともな敵意は抱いてない気もしますが・・・ 547 北方異民族をボコボコにしよう!(笑) エリス 2002/09/19 00:29 女性 B型 公主  すいません。なぜか送信が変でした。下の記述を先に見てください。 続きは 南からの北伐で天下統一を成し遂げたのは明だけですよね。やはり、徐達はヒーローでしょう。あのまま、明が南方政権のまま、てのは無いでしょう(笑)  まあ、でも確かに遊牧民だから野蛮だっていうのは偏見ですよね。だって農耕民族の日本人だって充分野蛮人だったもの(笑)  「大明国を支配せん!」てなわけで、食うに困るわけでも、住んでるところの自然環境が厳しいわけでもないのに、隣国の半島や大陸に攻め込んだのですからね。秀吉の朝鮮出兵のときに。  もし朝鮮の名将、李舜臣が出張らずに、朝鮮王国が貢物を差し出していたら日本軍は引き揚げましたかね。でも秀吉が「明国の皇女をよこせ!」とか言ってるうちはだめだな、きっと。では明から和蕃公主としてひとり差し出す。明はこれでかなりダメージを受けたようなので、そうする方が賢明だったかも・・・。李舜臣は救国の英雄として祖国に名をとどめる事は無かったでしょうが、日本水軍に撃ち殺されることも無かったでしょう。何が一番正しいかなんて、誰にも分かりませんよね・・・。  日本の侍たちは様々な破壊行動をして、朝鮮人民を苦しめ、多くの文化遺産も失わせました。三浦朱門氏の本を読んだら、「昔は侵略は悪いことではなかったのだから、教科書には李舜臣なんて他国の英雄の名前など載せず、小早川などの日本の英雄の名を乗せるべきだ」みたいなことを書いてましたが。  ・・・しかし、李舜臣は実に素晴らしいヒーローだと思えるな。物語に描かれたような完璧な英雄増のように思える。日本にも中国にもこのようなタイプはいない。半島にしか生まれ得なかったようなタイプのように思える。初めから万全の姿勢で彼に迎え撃たれていたら、日本水軍は陸には上げてもらえなかっただろう。  でも、日本にとっては実入りの多い戦だったな。朝鮮からいろいろなものを略奪してきたから。陶工や学者なんかの人や、いろいろな高度な技術の品々を分捕ってきたのですよね。それは日本の江戸文化に貢献したことでしょう。  野蛮な国から文明文化国家を侵攻するときには、得られるものが多いものですよ。反対の場合は戦役による負担ばかりが多いけれど。だから大陸や半島の歴史は侵略との戦いの連続に見えるのですね。両国の歴史を見ていると、つくづく日本は島国でよかったと思います・・・。  宣和堂さま、拗相公のこと教えてくださり、ありがとうございます。王安石って人気無かったのですね・・・悲しい・・・。 546 北方異民族をボコボコにしよう!(笑) エリス 2002/09/18 23:49  管理人様、お答えありがとうございます。漢籍が読めない私めに、いろいろ教えてくださって感謝しています。この場を提供していただいていることにも。  まあ、確かにこの掲示板の雰囲気がとげとげしくなるのはまずいので、古の中国軍備拡張論(笑)についてはこの辺にしたほうがよさそうですね。しかし、北方異民族をボコボコにしたという理由で君主や名将をヒーロー視するのはいかんかなあ、と思ったり。  漢の武帝は内政面の弱さと臣下への扱いがあんまりなので、好きにはなれないのですが、李広と衛青は好きですね。共存の道はなかったのかな。頑固親父と従順な青年。性格的にはけっこうぶつかりあわずに合いそうなのですがね。目の前で大先輩に自決されて衛青は真っ青になったのでは。彼の性格では平気でいられたはずはない。後でボコボコに殴られても我慢したのは贖罪意識もあったのかな、と思ったり。  後は朱元璋に仕えた徐達もいいですね。彼って、病死説と朱元璋による毒殺説と二つあるみたいですが。モンゴル軍を北伐し、ついに天下統一を成し遂げる。南からの北伐で天下統一 545 29になってもーた(T_T) NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/18 21:44 男性 29歳 B型 予州 布衣 >鹿角さま >明帝と叔父である燕王の仲良しネタはありませんでした。(T_T) 正史列伝でもたしかに燕王曹宇と明帝曹叡君は仲が良かったみたいですけど、 これといった挿話がみられません。他にどこかにあるかな? 曹宇が大将軍位を固辞した理由は燕王宇伝には書かれてませんが、劉放伝では 恭謙善良な性格を理由としてます。 劉放伝では、大将軍位に誰をつけるかについての明帝の意見がころっと変わって いるのが分かります。 あと明帝紀に引く『漢晋春秋』に 劉放・孫資らが明帝に無理やりに詔勅を書かせて、燕王曹宇・曹肇・夏侯献・ 秦朗らを罷免させた記事が見えます。 曹爽を推す劉放・孫資らと曹宇を推す夏侯献・秦朗らの派閥抗争みたいなもの があったのではないでしょうか。 >「 蜀・呉が各個撃破されたのは呂蒙のせいである」 たしかに単純にそうともいえないでしょう。 蜀呉衝突の責任論なら「関羽・劉備が柔軟性を欠いたからだ」 って言い方だってできるでしょうし。 もっと後なら姜維・黄皓が、とか、呉の内紛が、とか言えるはずで。 > 文帝は曹植の側近達を迫害しますが 羽翼を剥いで弟を生かしたまま苦しめたかった…とか。 そういう邪悪な想像はともかくとしまして。(-_-;) 皇族にあっても族誅とかが起こることもある六朝の世情において、 せめて実権を完全に失わせて、弟を生かしておきたかった兄心なのかも。 「骨肉の親はゆるして処刑しないものだ」とか言ってるみたいですし。 弟を許す以上は、側近にとばっちりがいくわけで。 >宣和堂さま >自分も酒飲んで適当に書いたことだったんですけどねぇ…。 「該死あるのみぞー」とか、酒の勢いだったんですか?(^_^;) >まあ、公開してると面白くないこともあるんですよ…イロイロ…。 ファンというより信者の人からの反応もあるんでしょうね。 んまあ、全然レベルが違いますが、うちも自分とこのWEBを打ち砕きたくなる ことがよくありますですよ。 「われとわが身を打ち砕きたくなる」ってエミールにグチった獅子帝へーかぢゃ ないですが。 544 訂正 宣和堂 2002/09/17 23:21 >>永一様も書いてるように、実に突っ込み甲斐のある文章書く作家先生ですから。 →永一様も陳慶之の件で突っ込んでおられるように、実に突っ込み甲斐のある文章を書く作家先生だと思います。 >ぼかぁそこまで書きましたっけ?  と言うわけで、件の陳慶之の文章のことですね。 読み返すと確かに永一様おっしゃられるように取れますね。 >よく筆が、もといキータッチが滑るタチなので、もしかしてどこかで書いたのかも しれず(汗;)。  自分も酒飲んで適当に書いたことだったんですけどねぇ…。  いくらホラ話だと言っても信じてくれなくて……。 >宣和堂さんの筆鋒には及びません。  あわわ……。 >ということで、復活お願いします。   いや……なんだか面倒くさいのでネットにはしばらく上げないつもりです。  ネットに上げたことがない文章もあるし、未だに手を加えてるんですけど…。  まあ、公開してると面白くないこともあるんですよ…イロイロ…。 543 長江燃ゆ 3 鹿角 2002/09/17 10:30 期待するのやめよう、と思いつつ少しはしてたんですが 明帝と叔父である燕王の仲良しネタはありませんでした。(T_T) 後事を仲達らと共に託された一人なのに それを断るんですよね。 実際引き受けてたら曹爽と同じ運命になり 息子の元帝は即位どころじゃなかったかも・・・ 呂蒙に対する佐々さんの厳しい指摘その二 「 蜀・呉が各個撃破されたのは呂蒙のせいである」 何もそこまで言わなくても・・・(^^;) 文帝は曹植の側近達を迫害しますが 何もそこまでしなくても・・・という感じがします。 引き離して左遷する程度でよかったのでは? 功をもって罪を償わせるという考えもあるでしょうに・・・ 542 風呂敷のたたみ方 NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/09/16 23:03 男性 28歳 B型 予州 布衣 ここまで話が広がると、どうレスつけるべきか悩むんですが、 perdidoさんが総合掲示板のほうに誘導してくださったんで、 サッチャーとかレーガンとか現代の話はなるべく向こうでやりますか。 >perdidoさま >細かいことで恐縮ですが、レーガンの経済政策の通称名はレーガノミックスです。 ありがとうございます。さいきん、自分の教養の不足を痛感します。 >エリスさま >自分の操り人形にするために頼りない男子を後継者に薦めたというところに陰険さを >感じるのですよ。 『新唐書』巻八十の太宗諸子の伝をみると、長孫無忌が孫にあたる晋王(李治)を皇 太子に立てたいと思っていたことははっきり書かれてますね。 太原で「治萬吉」という石文が出てきたとか、 廃太子の李承乾と晋王李治が魏王李泰を恐れていたとか、 そういうことも理由としてはあるらしいです。 「もし泰を立てれば承乾・治は殺されてしまうだろう。しかし治を立てたならば承乾・ 泰は無事でいられるだろう」 と最終決断を下したのは太宗自身ですし。ここで長孫無忌が実際どのように工作した のかはよく分かりません。 太宗も、自身の経験から玄武門のような兄弟相克は見たくなかったでしょうし。 李泰が太子になった場合に、実際どうだったかは推測しかできませんが。 >でも北の守りをおろそかにしたら、自分たちの安全もない。 故・司馬遼太郎氏が、中国史を農耕民と遊牧民の対立として捉えたことがありました けど、こういう考え方は歴史的に根強いですね。僕もこれを全部否定するつもりはな いんですが。 ただ農耕民の王朝の視点からのみ見ると、あたかも遊牧民は掠奪を第二の生業とする ひたすら獰悪な集団みたいに見えてきます。 しかし、遊牧民も自然環境の厳酷な北地で食っていかなくてはならないわけで、農耕 民からいくらかの物資をえないとやってけないし、しょうがない部分もあります。 遊牧民の活動が活発化するのは、地球全体が寒冷化した時期と一致しているという説 もあります。 農耕民も遊牧民も合わせて食わせていくことを考える官僚も政治もなかなか出てこな いから、不毛な争いが続いていくんですけど。 唐は軍事的威迫を背景とした羈縻政策(それでも保って武則天・開元期まででしたが) を基本としましたし、 宋は軍事的劣勢により和戦両策から和平策に傾いたわけです。 王朝の体面からいえば、これは実に屈辱的なんでしょうけど。庶民生活にとっては唐 代よりはいくらかマシな状況に見えます。 距離を置いて見られる立場としては、宋の文弱がそんなに悪かったとは思えないんで すよ。平行線で意見が合わないかもしれませんが、スンマセン。 宣和堂さんがおっしゃってましたが、南宋が滅びるときは意外と頑張ってますよ。 >宣和堂さま >新旧両派も一面には旧山西軍閥系国家のあった北方派と、呉越や南唐のあった江南派 >との確執という側面もありますから いかなる改革も利権と無縁ではないということでしょうか。なんかペシミスティック な気分にもなるんですが。 >当時の士大夫は、皇帝は民とではなく士大夫とともに天下を収めるべきだというのが、 >一般的な論調だったようです。 たしかに、現代の民主政治と比較するのは危険かもしれません。 しかし民主主義はなくても、孟子以来の民本主義みたいな考えはあったかも。 by the peopleがなくても、for the peopleはいくらかあったはずだと思えて。 >やっぱり防衛戦となると宋の兵だろうが強くなるよなぁ…と思ったり。 というか、防衛する価値があると兵が感じたかどうかでしょう。 唐末にはそんな空気はどうもないよなあと。 >永一様も書いてるように、実に突っ込み甲斐のある文章書く作家先生ですから。 ぼかぁそこまで書きましたっけ? よく筆が、もといキータッチが滑るタチなので、もしかしてどこかで書いたのかも しれず(汗;)。 ときどき変なこと書いてるよなあ…と、気づく程度です。 宣和堂さんの筆鋒には及びません。 ということで、復活お願いします。 >殷景仁さま 王安石は蘇軾とも仲が良かったはずですよね、たしか。 数ある知己を説得できなかったというのは、政治家としての限界かも。 信誠と言い、商鞅と言い、有言実行の精神が詩から伝わってきます。 だからこそ政治家として難しかったのかもしれませんけど。 541 王安石 殷景仁 2002/09/16 09:56 男性 宋 侍中 私は北宋の歴史について、あまり詳しくないのですが… 政治家としてではなく、文人としての王安石は、同時代の文人たちからも、非常な友情・敬意を払われています。特に同じ江西の出身で、欧陽脩門下であった曾鞏との友情は、生涯にわたって続いています(曾鞏の詩の中で、最も多く出てくる友人は、王安石です)。また、王安石の詩は、蘇軾の門下である黄庭堅の詩作法「換骨奪胎」の先駆ともなっています。曾鞏も黄庭堅も、政治的には王安石を立場を異にしているわけですが、それでも文人としての友情や敬意が変わることがなかったというのは、注目してもいいことでしょう(両者とも王安石と同じ江西出身であるということも関係あるかもしれませんが)。 逆を言えば、曾鞏のような親友ですら、新法の支持を得られなかったということですから、王安石の政治運営の能力には、やはり疑問を感じてしまいます。政策立案の方面は、問題ないと思うのですが。 王安石の詩は、晩年、鍾山に隠棲した時期、その地の自然美を詠った作品に定評がありますが、ここでは新法とのからみで、政治への自己の抱負と気概を示したといえる作品を紹介しましょう。詩の第一句に、特にその気概が現れてるような気がします。 商鞅 自古駆民在信誠 古より民を駆るは信誠に在り 一言為重百金軽 一言重しと為し 百金軽し 今人未可非商鞅 今人未だ商鞅を非とすべからず 商鞅能令政必行 商鞅は能く政をして必ず行われしむ