600 反省中 NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/11/01 01:27 男性 29歳 B型 予州 布衣 >エリスさま 申し訳ないのはこちらです。どうかお気になさらず。 >ジョークで書いた一部のセリフだけ抜き出して、真面目なレスをつけられると いや、僕はエリスさんがジョークとおっしゃる部分が面白かったから レスをつけただけなんですけどね。 偏頗なところにこだわって、本題を忘れることがよくあります。(-_-;) これは失礼しました。 >私は陳舜臣氏の「中国の歴史」4巻で、李世民を一方的加害者として書いていると思い >ますね。 これは同感です。というかこれは否定したつもりもなかったですが。 >「李淵が李世民を殺しておけばよかったのに、といわんばかり」と私が受け取ったのは >次の一文です。 抜き出して下さったp144の陳さんの文章は、 「しなければならなかった」「必要があった」という政治的必要を述べているのであって 「殺しておけばよかった」とか(逆に悪かったとか)いう価値判断を含んでいません。 陳さんのよし悪しの判断はむしろ抜き出して下さった部分に続く 「友人をえらぶとなれば、私はためらわずに高祖李渕をえらびます」 という言葉にあるように、殺せなかった高祖李淵をよしとするものです。 ということで、「李淵が李世民を殺しておけばよかったのに、といわんばかり」とは僕は 取りませんでした。むしろここでは逆に取りましたよ。 皇帝の立場としては「李淵は息子李世民を殺しておくべきだった」と陳さんが述べている というなら、たしかにそのとおりだと思いますが。 >唐太宗が「史上最高かどうかは知りませんが」と書いておられますが、同じく陳氏の >「中国の歴史」の中で、 その部分は陳氏の本を念頭に置いて書いたのではなかったのですよ。 エリスさんのジョークの部分を念頭に自分の考えを返しただけでして。 これも誤解されやすい書き方ですみません。 599 では、冷静にいきましょう(反省) エリス 2002/10/31 21:35 女性 B型 唐 尚書令  どうも管理人さま、レスありがとうございます。  いろいろお気を使わせてしまったようで、申し訳ありませんでした。    私も熱くなり過ぎていました。  気恥ずかしいので、寇準について書いたものの、その前の私の書き込みは削除していただけたら幸いです。  ただこれだけは申し上げたいのですが、まず一点目。    「こんな酷いヤツを〜」から 煽らなくてはね(笑) まではジョークだったのですよ。分かりにくくてしかも悪趣味な冗談を書いた私も悪いのですが、少なくとも文末に(笑)がついていたら、本気ではないと分かっていただきたいのですが。それから、全体の文脈の中で判断していただきたいのです。ジョークで書いた一部のセリフだけ抜き出して、真面目なレスをつけられると正直、かなりへこみます。  それから二点目ですが、こちらの方が重要です。    私は陳舜臣氏の「中国の歴史」4巻で、李世民を一方的加害者として書いていると思いますね。念のため言っておきますが、それで陳氏のすべてをどうこう言うつもりは有りません。「中国の歴史」自体は素晴らしい通史本だと心から思いますよ。それから、陳氏の考えが正しい可能性は充分あるとも思います。 「太宗の玄武門クーデターのいきさつや、推理などを、いささか立ち入って述べましたが、これは唐の歴史の中ではきわめて重要な事件です。権力を得るためには、兄弟殺しもあえて辞さない人物が、実質的に大唐帝国を築き上げたことになります」(P142)    「太宗の」から「述べましたが、」までの文は、P136からP141までの、玄武門の変に関する記述すべてのことを指しています。それを前提にした上で、「権力を得るためには」「兄弟殺しもあえて辞さない人物」と明確に書いています。  「権力を得るためには」とある以上、正当防衛でも、過剰防衛でもなく、自分の野心のためだけに一方的に兄弟を殺したと書いているのと同じだと思います。あるいは少なくとも、「うっかりした」読者はそう読む可能性が高いでしょう。私は自分をうっかりした読者だとは思いたくはないですが(笑)  他にも、一方的加害者扱いしていると思われる箇所はあります。次に述べる三点目と同じ文の中です。  三点目。「李淵が李世民を殺しておけばよかったのに、といわんばかり」と私が受け取ったのは次の一文です。 「建成を皇太子に立てたからには、それに対抗し、地位を奪おうとたくらむ世民を、冷たく処罰しなければならなかったのです。思い切って、世民を処刑する必要があったのですが、高祖は我が子を殺すような冷たい心はもちあわせていませんでした。一人の息子を殺しかねたために、高祖は一挙に二人の息子と十人の孫を失ってしまったのです」 (P144)  「地位を奪おうとたくらむ世民を」とあり、「世民を処刑する必要があった」とある以上、陳氏は「李世民の行為は正当防衛でも過剰防衛でもなく、一方的加害であり、それを防ぐために李淵は息子李世民を殺しておくべきだった」と述べていることになると思います。  それからこれは瑣末なことですが、管理人様はレスで、唐太宗が「史上最高かどうかは知りませんが」と書いておられますが、同じく陳氏の「中国の歴史」の中で、 「唐の太宗は、史上最高の名君と謳われています」(P143) とあります。謳っている主体が誰かは書かれていませんが、中国大陸の人民であると解釈するのが妥当と思われます。  他にも細かい点を取り上げていけばありますが、今回はこのあたりにしておこうと思います。  念のため書いておきますが、私は、陳舜臣氏は素晴らしい小説家だとは思いますよ。 598 役回り NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/10/29 21:05 男性 29歳 B型 予州 布衣 >エリスさま 寇準はこの辺りしぶい役回りですね。 江南遷御論をしりぞけ、真宗を親征させ、曹利用を脅しつけて歳貢を三〇万に抑え させたわけで。 このへんの剛直さがかれを高名にし、王欽若なんかが格好悪い引き立て役にされて しまうんでしょうけど。 かれの主戦論も実際戦っていれば、勝った負けたの結果でまた別の評価がされたと 思います。 このころの遼も絶対有利といえる状況ではなかったみたいですし。 相対不利の側が軍事的冒険によって勝つことがないともいえません。 まあ結果として、講和によって宋遼ともに得るものが多かったと思いますよ。 >鹿角さま >もしも「大航海」か「運命」がラジオドラマになったら・・・ そんなマイナー劇に高そうな俳優が…。 仮にあったとしても、安い声優になると思いますよ。 斉泰に江守徹ですか。 >徐皇后の幼名は貞静ですが 成人してからの名前をご存知でしたら教えてください   いや存じないです。伝わってないかもしれません。 中央研究院に出てた『明史』の后妃伝の徐皇后の伝には 「幼貞靜」とありますけど これも幼名が貞静という意味じゃないでしょう。 「幼ナクシテ貞靜」でしょう。 幼いときから貞静(みさお正しくしとやかなこと、心正しくおだやかなこと)だっ た、という意味だと思います。 597 配役発表 鹿角 2002/10/29 10:43 もしも「大航海」か「運命」がラジオドラマになったら・・・ (まあそんなことないと思いますけど)    鄭和  松野太紀        永楽帝  堀内賢雄 or  渡辺謙 道エン  長島雄一         思真   保志総一郎 (大航海)   洪武帝  富田耕生        建文帝  石田彰 黄子澄  沢りつお         斉泰   江守徹 方孝襦  大木民夫        呉良   関智一 ところで管理人様 徐皇后の幼名は貞静ですが 成人してからの名前をご存知でしたら教えてください   596 じゃ、話題を変えましょう(笑) エリス 2002/10/28 00:16 女性 B型 唐 尚書令  どうも、管理人さま、レスありがとうございます。  別に煽るつもりはなかったのですが。ちょっと言い過ぎてしまったようで、その点は申し訳なかったです。  では話題を変えましょう。  北宋時代の寇準というひとは、なかなかいいですね。協調性に欠け、敵を作りやすい性格だったようですが、真宗を親征させ、遼との講和を有利にしたのは大殊勲ですね。かなり後のほうになるまで、強硬論、主戦論を唱えていたようですが、ここはやはり戦わない方が賢明だったのでしょうね。左遷された後、政敵だった丁謂に羊料理を贈ったという話、頑ななだけでない性格が垣間見えてよいですね。 595 玄武門評価とか徐氏とか NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/10/27 21:36 男性 29歳 B型 予州 布衣 >エリスさま なんかつらくなってきました。熱意の差なんでしょうけど。 >布目潮ふう氏は前述の本で、「太宗がみずからの生命も危ういと考え、玄武門の変を起 >こしたことは十分考えられる。 李世民側の正当防衛だったか一方的な攻撃だったか、今のところはエポケーし たいというのは、僕も同意見ですが。 しかし陳舜臣さん『中国の歴史』の所論が酷いものだとは、僕は思っていませ ん。史書の記述をこそこそと操作させているほうが悪いのです。(^^;) >完全に、一方的加害者扱いですしね。李淵が李世民を殺しておけばよかったのに!とい >う論調ですしね。 「世民側のアタックが一方的にはげしかったでしょう。」(講談社文庫版4巻 p137)とは書いてますね。 しかし「李淵が李世民を殺しておけばよかったのに!」と読める箇所はありま せんが。 「決定的な措置をとりえたのに、それに踏み切れなかったのです。」(上掲 p136)をそう読んだのですか? >はっきりと反中国感情をあからさまにした日本人著者の手になる中国歴史本も読んだの >ですが、それでも李世民個人に関しては、陳氏ほど酷くは書いていませんでしたよ(笑) なんとなくどういう本か想像がつきますが、 そういう本が李世民を叩かないのは、唐が鮮卑系の征服王朝であるという説を 前面に押し出して書くからです。 漢民族王朝でない(!)から叩かないのでしょう。 >「こんな酷いヤツを中国人は英雄扱いし、史上最高の名君なんていってるんだあ〜〜」 玄武門の変については、改筆や宣伝の結果もありますし。 太宗はじっさい名君といって憚りないんですから、仕方がありません。 まあ史上最高かどうかは知りませんが。 申し訳ないですが、僕は煽りに乗るつもりはありませんよ。 >鹿角さま >洪武帝が燕王の妃を迎える時に >徐達に直談判した(!)ということになってますけど ご指名なのでなんとか答えたいです。 僕は『明史』持ってませんので、台湾中央研究院の網頁で調べてみました。 いきなりビンゴするとは思ってませんでした。 『明史』 巻一百十三 列傳第一后妃一 --   成祖仁孝皇后徐氏,中山王達長女也.幼貞靜,好讀書,稱女諸生. 太祖聞后賢淑,召達謂曰:「朕與卿,布衣交也.古君臣相契者,率為 婚姻.卿有令女,其以朕子棣配焉.」達頓首謝. -- いや直談判した(!)記録が残ってますね。 >それこそ南京側が撤退命令を出さずにずっと貼り付いていたら >勝利はどっちに傾いたでしょうか? さあ徐輝祖はこのとき南軍の一将にすぎませんが、 ちょうど微妙なあたりなので、歴史が変わったかもしれませんね。 露伴『運命』のそのあたり見てみたら、 -- 時に徐輝祖の軍至る。甲戌、大に斉眉山に戦ふ。午より酉に至りて、 勝負相当り、燕の驍将李斌死す。燕復遂に克つ能わず。 -- 而して当面の敵たる何福は兵多くして力戦し、徐輝祖は堅実にして 隙無く、平安は驍勇にして奇を出す。 -- 徐輝祖は南軍の中でシブイ位置を占めていたようですねえ。 594 天子の孤独 五 鹿角 2002/10/25 10:43 今回も永楽帝の話 洪武帝が燕王の妃を迎える時に 徐達に直談判した(!)ということになってますけど (しきりに北平に行きたがる燕王を宥めたりと 珍しく父親してる・・・)史実はどうなんでしょう?管理人様 でも小説の中では鎧姿の彼女を書いてくれないんですよね。 田中・伴野両氏とも(T_T)何か淋しい・・・ 徐輝租が北上すると聞いた時 李景隆の時とは違って燕王はすごーく落ち込みます。 それこそ南京側が撤退命令を出さずにずっと貼り付いていたら 勝利はどっちに傾いたでしょうか? 591 玄武門の故地ですか NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/10/24 20:41 男性 29歳 B型 予州 布衣 >トシ@西安さま >現在の西安に玄武門という地名がありません。 玄武門は唐代の長安宮城の北門ということらしいです…ということでおっしゃ るとおりのはずです。 現在残っている西安の城壁は明代のもので、唐代の長安城よりふたまわりほど 小さいはずですから、現在の城壁の外の地であることは間違いありませんが。 よく分からないので、地図いくつかみながら適当なことをいいますが、 北関正街と自強西路・自強東路とが交差するあたりにあった??のでしょうかね。 ええと信用なさらないように。 590 玄武門 トシ@西安 E-Mail: URL 2002/10/23 01:13 O型 唐 挙人 現在の西安に玄武門という地名がありません。 多分、朱雀門と正反対に位置する北門のことだと思いますが、「玄武門の変」を示す史跡などは全く見当たりませんでした。 三国志や楚漢戦争であれば史跡を作って大々的に観光の宣伝すると思うのですが、李世民はマイナーなのでしょうか? それとも、西安にはこれ以上の名所は要らないということでしょうか? 「血なまぐさい」と言う考え方もあるのかも知れません。 城内だけでも、歴史上の有名人が殺されたり晒し首になった場所が沢山ありますから... 589 分からないことが多い NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/10/22 23:44 男性 29歳 B型 予州 布衣 レスが遅くなってすみません。 >トシ@西安さま >李世民は功績に相応しい恩賞を家来に与え、養って行かなければなければなりません >でしたので、辛い面もあったと思います。 そういう理屈は分かりますよ。 武士の統領の論理みたいなものですよね。家子郎党を守るために、所領を狙う敵は どんな手段を使っても倒さなければならないみたいなもので。 ただ同時に李建成や元吉にも家子郎党がいたはずで。有名どころで魏徴くらいしか 知られてませんけど。 僕は李世民の「兄弟殺し」や「簒奪」の非倫理性を強調するつもりはないんです。 それ以前に玄武門の変は事実関係で確定されてないところが多いと思うので。 それこそ「正当防衛」だったのか「過剰防衛」だったのか、一方的な「先制攻撃」 だったのかも、まだ決まってませんよね。 >鹿角さま >私は方先生より徐輝租の態度が遥かに好感がもてます。 「燕賊簒位」と書かなかっただけで、本質的には変わらない態度のはずなんですけ どね。なぜでしょうね。あまり不毛さを感じないせいかな。 >透き間風が吹いてました。史実はどうなんでしょう?管理人様 いや、話を振られても、残念ながら知らないです。 陳舜臣さんが黄子澄・斉泰のことを「二流の書生政客」と評していましたが、 方孝儒は儒者としては名流っぽかったので、気質が合わなかったかもしれませんね。 >でも明帝が燕王に後事を託す場面があるのは少し嬉しい・・・(^_^) 曹宇もよく分からない人ですが、甥と叔父の間の親愛の情というのも、なにやら 屈折した家族関係を感じないでもなく。 やはり明帝曹叡君は父文帝に隔意を抱いていたのかなあ。 その代償として叔父の曹宇に父親役を求めたとか。 たんなる妄想ですけど。 >エリスさま >ここに書かれた徐賢妃(名は恵)というひとがとても気に入りました。 長孫皇后といい、徐賢妃といい、李世民のパートナーはよくできた人ばかりに思え てきますねえ。 徐賢妃は四歳で論語・詩経に通じ、八歳で文章を作ったとかいう神童ぶりが伝えら れてますし、太宗の対外遠征を諫めてるところなんかも、なかなかと思わせます。 この人も若死にしてるのがもったいない。数え二十四歳で亡くなってますか。 588 徐賢妃になりたいな、と思いました(笑) エリス 2002/10/18 22:58 女性 B型 唐 尚書令  李世民について辛口トークをなさるコロ助さまが、「自分と李世民観が近い」と書き込んでおられたので、どきどきしながら布目潮ふう氏の本を読みました(笑)「「貞観政要」の政治学」(岩波書店)です。1997年発刊で、書き下ろし、とありますから比較的新しい説ですよね。これを読むと本当に布目氏は唐太宗を高く評価しているのだなあ、と思います。「「貞観政要」に書かれた唐太宗像など嘘っぱちだ!」などという、言説でなくて本当に良かった(笑)しかしこれを読むと、太原挙兵が李世民のはかりごとによるという旧来の説を完全には否定していないようですが。李世民の能力としては、やって出来ないことはないとは思うのですよね。李せきだって十七歳で反乱軍に加わったのだし。問題は李淵がどの程度決断力があったか、ということですよね。  ここに書かれた徐賢妃(名は恵)というひとがとても気に入りました。幼いころからとても頭が良く、その名声を聞いた唐太宗は彼女を女官にするのですが、誰かのように荒馬の首をかき切る、などという暴言を吐いたりしなかったので(笑)才人からがんがん出世し、かなり気に入られていたようですね。  太宗の死の一年前に、高句麗遠征や宮殿の造営などを諫める上言を捧げるのですが、これは実に名文ですね。とても二十二歳の女性のものとは思えません。太宗はこれを嘉納して特別に厚い下賜品を与えたそうです。  三十歳近くも年下のインテリ女に、出過ぎたことをいわれるのはいやだ、などとは思わなかった太宗はやはり度量のある人だと思います(笑)徐賢妃も諫言をするのは勇気が必要だっただろうなと思いますね。  太宗が亡くなると、彼女は太宗を追慕して、一年後に後を追うように死去したそうですが、いい話ですね。玄宗と楊貴妃の話より、こちらの方がずっといいです。  徐賢妃が美貌の人であったかはこの本では分からないのですが、どちらにしても見栄えだけでなくて、頭の良い才女だったから気に入られた、というところがいいですね。  ある中国史サイトの人気投票で李世民に入れた方がいて、そのコメントに「彼と、彼の父や兄を見ていると、人として善良であることとリーダーとして有能であるということは別物だということがわかっていいですね。でも、私は徐恵妃になりたい!」と書いてあったのです。それで初め徐恵妃というのが誰か分からなかったのですが、徐賢妃のことだと、この本を読んでよく分かりました。いいですね、私も徐恵妃になりたいです(無理無理・・・笑)しかし、この方は同名で光武帝にも投票していて、そこには「「妻にするなら陰麗華」といってその純情を貫いたのはすごい。旦那にするならこの人だね」とありました(笑)二股は許しません、どっちかにしなさい(笑) 587 天子の孤独 四and長江燃ゆ 鹿角 2002/10/18 10:52 私は方先生より徐輝租の態度が遥かに好感がもてます。 彼は永楽帝とは一言も口をきかなかったといいますから 方先生より態度が徹底してますよね。 それこそ姉の縁に免じて・・・と内心では永楽帝は思っていたかもしれないのに とりつく島がないからキレたんでしょうか? 徐輝租にしてみれば いいたいことはむしろ味方の方にあったかも・・・ それこそ方先生達を始めとする儒者の面々が 君寵をいいことに戦に口をだしたから負けたと思ってたかも (方先生だって好きで口をだしてた訳じゃなく 建文帝に聞かれた以上は仕方なく答えてたと思いますが) そういえば田中版運命では方先生と黄・斉コンビは 透き間風が吹いてました。史実はどうなんでしょう?管理人様 先日伴野三国志の第五卷を借りました 部分的にざっと目を通しただけで精読してません これで終わりかと思うと読みたくもあり読みたくもなしというところ 孫権の老害モードがはいってるかと思うと・・・ でも明帝が燕王に後事を託す場面があるのは少し嬉しい・・・(^_^) 大将軍の地位を断るなんてあの曹操の子供とは思えない・・・ これが父であればそれはポーズだろうけど 彼の場合は本気だから・・・ やはり彼が地位を失うのは権力闘争に巻き込まれた結果みたいですね。 何か可哀想 586 リーダーとしての責任 トシ@西安 E-Mail: URL 2002/10/16 03:37 O型 唐 挙人 >NAGAICHIさま >建成と世民兄弟も元々はむしろ仲が良かったという話もあり。 李世民は功績に相応しい恩賞を家来に与え、養って行かなければなければなりませんでしたので、辛い面もあったと思います。 家来たちにとっても、誰が後を継ぐかが大きな問題だったのでは? 585 むなしいかな NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/10/15 23:17 男性 29歳 B型 予州 布衣 >宣和堂さま >方孝儒も好きじゃないですけど 洪武・永楽もそうですが、この人の態度もついていきがたいところがありますね。 僭主に対して我を通したから立派だというにはためらわれるものがあり。 >ホント惨たらしい処刑法を考えつくモンです。 凌遅とかもこのころから…とか自分は思いこんでたんですが、 よく調べると五代くらいからありました。(自爆) しかし中国のあらゆる酷刑が完成をみたのが明代なんですよね。 >この辺一番詳しいのは壇上寛『永楽帝 中華「世界システム」への夢』講談社メチエ ではないでしょうか? 紹介ありがとうございます。 まだ読んでない本でして。 >エリスさま >唐太宗の「玄武門の変」は正当防衛なのでしょうか? いや必ずしもそうとはいえないでしょうけど、 宣伝の結果というのがありますから。 永楽帝は甥を殺したことで江南の人々に嫌われ、 唐太宗は兄弟を殺してもそれほど非難されてはいないってのを 理由づけすればペンの力なのかなあと。 >李建成の長安での評判はきっと悪くはなかったでしょうね。むしろかなり良かったと思えるのですが。 改竄の筆の入ってる実録に拠った正史の「資簡弛,不治常検,荒色嗜酒…」に比べて、 『通鑑』の「性仁厚」のほうが信頼できるとみられてるみたいですね。 建成と世民兄弟も元々はむしろ仲が良かったという話もあり。 >鹿角さま >二人のやり取りみてると空しくなるんですよ。 たしかに。 永楽帝は勝者の大度を示していないし、 方孝儒も結局は負け犬が吠えているにすぎないので。 ほかの方法はいくらでもあったでしょうに、なぜこうなったかなあと思うと。 584 天子の孤独 三 鹿角 2002/10/14 11:44 今回も永楽帝の話 でも私は方先生の態度も好きになれません。 どれだけ相手を罵倒しても自分たちが敗者である以上 靖難の役以前に状態は戻らない 例え永楽帝を簒奪者呼ばわりしても 建文帝は生き返らない もし死を覚悟した上で私が彼の立場でいうとしたら 「貴方があの世にいった時父上に何というのですか」 とでもいってやればいいと思いますが・・・ 二人のやり取りみてると空しくなるんですよ。 永楽帝には「市民から嫌われてるんだから 更に嫌われることしないで!」と言いたいし 方先生に対しては「どんなに相手を罵倒しても 言ってるだけ空しくない?」と言いたいです それこそ応天府側が燕王側に勝てる作戦を 考えれば良かった訳で 583 唐太宗と永楽帝 2 エリス 2002/10/14 02:27 女性 B型 公主  管理人さま、レスありがとうございます。    唐太宗の「玄武門の変」は正当防衛なのでしょうか?いや、私もできれば正当防衛説とりたいですがね(笑)  陳舜臣氏の「中国の歴史」によれば、もう完璧に、彼が野心のために一方的に兄弟とその子供たちも殺したかのような書き方ですね。一応「側近が世民をたきつけたことにより対立が激化した面がある」という風にも書かれてはいますが。布目潮ふう氏の「隋唐帝国」も陳氏ほどはっきりと非難の色はありませんが、兄を殺して帝位を奪ったことを煬帝と並べていて、正当防衛とはどこにも書いていないですね。中国の歴史教科書は(もちろん日本語訳)李世民が軍功を立てると兄弟間の対立が高まったので、先んじて相手を倒すことにした、というように書かれていて、やはりあまり正当防衛という感じではないのですが。しかしこの中学生向けの教科書には、玄武門での兄弟間の殺し合いの様子がきっちり生々しく書かれているのですね。貞観の治のことも、現在の学説で史書の潤色とされたことは全く載せられていないですし。それでも支持を失わないというのはなかなかすごいですね。いや、やはり初めから堂々としているべきだったぞ(笑)  李建成の長安での評判はきっと悪くはなかったでしょうね。むしろかなり良かったと思えるのですが。きわめて仁厚で、しかもおそらくは戦いでは勇敢とくればね。彼は長安を突厥侵攻から守っていたのですよね。長安市民からすれば、遠くへ敵を討ちに行く李世民より、比較的近くで守りにつく李建成のほうがむしろ親しみが湧くのではないかな、と考えたりします。  永楽帝は最初は方孝儒を登用するつもりだったようですね。方孝儒を許して重く用いればよかったのに。方孝儒の方にそれを受け入れる気持ちはなかったかもしれませんが。せめて徐輝祖にしたように投獄するだけにしておけばよかったですね。  しかし徐輝祖は毅然とした好感の持てる人物のように思えます。将軍としての力量は父親にははるかに及ばなかったようですが。 582 キチガイ親子 宣和堂 2002/10/14 01:28 永一様 >「燕賊簒位」と書かれたときの永楽帝の反応は、エキセントリック  自分は洪武帝も永楽帝も好きじゃないですねぇ……。  方孝儒も好きじゃないですけど(自分はコイツは主を見限って後世の名声を選んだ裏切り者だと思う)、永楽帝は燕賊簒位の文字を見た瞬間に方孝儒の舌を抉って反論する機会を奪った上で、目の前に十族(縁者親類+弟子)を引っ捕らえてきては処刑するところを淡々と見せたそうです。又、中国の拷問は洪武帝と永楽帝によって完成されたと言われるんですよね…。伝聞と噂だけで何のかんのと言われる慈禧太后に比べたら実に地に足のついた拷問ですね…。ホント惨たらしい処刑法を考えつくモンです。  この辺一番詳しいのは壇上寛『永楽帝 中華「世界システム」への夢』講談社メチエ ではないでしょうか?  自分はこの時代は卓敬が一番好きなんですけどねぇ 581 永楽帝の粛清 NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/10/13 20:22 男性 29歳 B型 予州 布衣 >鹿角さま 方孝儒に「燕賊簒位」と書かれたときの永楽帝の反応は、エキセントリックとしか 言いようないですねえ。 『中国文明の歴史8明帝国と倭寇』(中公文庫)の簒奪者永楽帝の章とか見ると、 粛清の苛烈さは陰惨きわまりないです。 逆に言えば、方孝儒とか鉄鉉とか景清とかの人たちも、よく我を通したものだとも。 寺田隆信『永楽帝』(中公文庫)は、ここら方孝儒のことだけで流してあるもので。 >エリスさま 永楽帝が評判が良くないのは、浙江出身官僚層に対して、プチ洪武帝的粛清をやっ てるからですね。このころにはすでに江南知識人による文壇が形成されてますから。 「ペンは剣より強し」で、悪行は誇張も含めて書き残されてしまうわけで。 洪武帝より規模は小さいといっても三千人も殺していれば、人の口に戸はたてられ ませんよ。 唐太宗は永楽帝ほど官僚の粛清をしてませんから。全くないではないですが。 世論的にも、正当防衛で兄弟を殺したのと、積極的に年少の甥を害したのでは、ぜ んぜん違ってきます。 建文帝に対する判官贔屓な感情も出てくるでしょうし。 580 唐太宗と永楽帝 エリス 2002/10/11 23:11 女性 B型 公主 管理人さま、レスありがとうございます。 >モンゴル支配に明るい未来はなかったというのは、ちと古いのではないでしょうか?  古いでしょうか?  どちらにしても、日本が独立を保てたのは素晴らしいことです。 >鹿角さま  「天子の孤独 二」を読んで思いました。  うわ〜〜!めっちゃくちゃ心が痛い!  それってもろに唐太宗にも当てはまるじゃありませんか!(苦笑)  しかし彼は長安市民に冷たい目で見られたりはしなかったのでしょうか?  永楽帝は現代中国でも評判が良くないのですか。結構すごいことしたのですけどね。鄭和はどうなのでしょう。  玄宗よりも唐太宗との比較の方が面白いかもしれません。非常手段により帝位についたこと、中国史上にも稀なる派手な外征を成功させたこと。それによる世界帝国志向。皇太子にこそ立てられなかったものの、父親の信任厚い名将であったこと。殺して帝位を奪った相手は、身内に優しいきわめて温厚な人柄の人間であること。儒教倫理観からいうと二人とも親不孝者ですよね。永楽帝は父である洪武帝の国家経営路線に真っ向から反対する対外政策をとったし、唐太宗は高祖を監禁しています。いや、これは唐太宗の方がよっぽど酷いじゃないか(苦笑)永楽帝は洪武帝の孫を殺し、唐太宗は高祖の息子二人と孫十人を殺している。いや、これも唐太宗の方が酷いじゃないか(自爆)唐太宗は英雄扱いなのになあ。いまや彼の史書編纂の事情はモロばれだと思うが。  しかし、「煬帝としていることは同じ」といわれるよりは、永楽帝と比べられた方が百万倍くらいもましです(苦笑)  布目潮ふう氏に文句を言うわけではないが、いくらなんでも亡国の君主と同じにしてくれるな、とは思うのですよね。煬帝が善政を布いていたら、唐も隋を乗っ取ることは出来なかったでしょう。大運河の建設ですか?いくら設備投資のやり方が良くても、それで会社自体を潰してはなんにもならんでしょう。煬帝は、父の文帝統治時代に豊かになった国土を引き継いだのですよ。唐太宗は戦乱の後、荒れ果てた国土と激減した人口という悪条件を乗り越えたのですよ。(いや、だからそれを史書に潤色して記載することはなかったのですよね。国土が荒れていたのは彼の失政のせいではないし、そんな酷い状態で唐を建国したことは、誇りにこそすれ、恥じることでではないのだから) 579 天子の孤独  二 鹿角 2002/10/11 10:21 永楽帝のこと もう少し続けます。 私が彼に対して言いたいのは やったことへの代価はきちんと払うべき 自らの行動の責任はとるべきということです。 帝位にはつきたいだけど悪口はいわれたくない そして嫌われたくないというのは贅沢です 正当な手段で帝位についたのでない以上 ある程度のペナルティは背負うべきだと思います。 それこそ勝った以上敗者の誹謗はある程度覚悟すべきです (でも方先生の態度は許容範囲を超えていたんでしょうか?(-_-;) 578 明成祖のこと NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/10/08 19:18 男性 29歳 B型 予州 布衣 >鹿角さま >帝位についてから南京の市民の冷たい視線を浴び続けた事 おっしゃるとおり、永楽帝は簒奪当時から江南の人々には嫌われたようです。 黒衣の宰相・道衍も、故郷の蘇州に帰って白眼視を受けたそうで。 永楽帝が正式に北京に首都を移したのは、永楽十八年(1420)ですが、 それ以前も南京応天府にはほとんど住まなかったようです。 このため太祖以来の浙江派の官僚は政権から排除され、江西派の官僚たちが 政権の枢要にすわっています。 >だけどその首都移転が逆に明王朝が長続きするもとになったのだから 首都が南京のままだった場合は、北方政策がさらに難しくなったでしょうね。 まあ北京であってもじっさい難しかったんですが。 ただ長続きとは逆に、永楽帝は明衰亡の原因をも作っているんですよ。 宦官のことですが。 >中国は広いから建文帝がいられる隙間ぐらいは 官憲の目をくぐれる隙間よりも 生まれながらの帝室育ちが世間の荒波くぐっていけるかのほうが、実際は問題 ですけどね。(>_<) 577 中国らしさ NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/10/08 17:42 男性 29歳 B型 予州 布衣 >トシ@西安さま >西安からみた西域文化は中国の文化として違和感なく受け入れられます。 西域の文化も長い間に中国の文化として消化されてるということでもあるんでしょうね。 日本人が長安に西域情緒を求めるのも、大雁塔・小雁塔などの仏跡ではるかな西天取経 に思いをはせたいとか、シルクロードの玄関口としてのイメージを求めたいとかいう 願望なのではないかとも思います。 でも実際、短時日の観光ですぐに見つけたのは、レンガとしっくいの家々であったり、 壁になぐり書きされたスローガンであったり、車のクラクションを鳴らしまくる運転手 であったり、旧正月に鳴らされる爆竹であったり、やっぱり中国らしい中国だったんで すよね。 >エリスさま >中国の文人が、日本の蒙古に勝った事を喜んでくれていることに関しては・・・ ええ、たんにそういう文人たちは科挙やらなかったモンゴルが嫌いなだけです。 ここらの経緯は陳舜臣さんの『中国の歴史』が詳しいですが。 ただし、明万暦より前の中国士大夫の「世論」って、基本的に日本には好意的なんです けどね。東夷の中の君子国のように見てる向きがあります。 >しかし、元寇のときの江南水軍てすごい大軍だったのですね。 弘安の役の江南軍は十万人と言われてますね。 もし仮に勝っていたらですが、おそらくそのまま日本駐屯軍になったんでしょう。 どうしても軋轢は出てくるでしょうけど。 僕は杉山氏ほど親モンゴルの論陣を張る気はありませんが、 モンゴル支配に明るい未来はなかったというのは、ちと古いのではないでしょうか? 576 天子の孤独 鹿角 2002/10/08 10:35 以前この掲示板でさんざん永楽帝のこと批判しといて今更何ですが たった一つ可哀想だなと思えるのは 帝位についてから南京の市民の冷たい視線を浴び続けた事 北京に首都を移すまで二十年ちかくもの間 この人ほど人民に愛されなかった天子というのも 中国史の中では珍しいんじゃないでしょうか。 (甥を倒したというのがよほど祟ったんでしょうね 現代中国でも彼の評判というのは良くないそうで・・・ 身から出た錆というしかないですね) 亡国の一歩手前まで国を追い込んだのにも関わらず 玄宗が今尚人気があるのとはエライ違いですよね。 (ここで玄宗を出すのも何ですが) だれでも余程ひねくれた人じゃない限り 嫌われるよりは好かれたいと思うのは人情として当然 南京にいた時もやっぱり北平を懐かしいと 思いつづけたことでしょう。 だけどその首都移転が逆に 明王朝が長続きするもとになったのだから 運命というのは皮肉なものです。 明王朝は建文帝の命と引き換えに 長命を保ったといえるんでしょうか? 私としてはそれこそ「運命」や「大航海」みたいに どこかで生きてて欲しいけど・・・ 死体見つかってないし・・・ 中国は広いから建文帝がいられる隙間ぐらいは どこかにあると思いたいです(T_T) それこそ建文帝が帝位を望んで事を起こさない限り。 575 日本の武士 攻めた戦い 守った戦い など エリス 2002/10/06 02:21 女性 B型 公主 >管理人さま  レスありがとうございます。  なるほど李舜臣最初からは無理みたいですね。 >慶長の役のときに軍権を奪われていたのが残念  いえ、日本人としては「ラッキー!」というべきでしょう(笑・・・ブラックだ) >お気持ちは分かりますよ。  ありがとうございます。 >たんなる「一武将」ではないでしょうし。  まあ、考えようによっては、本当に「一武将扱い」しかされてなかった人間にああも鮮やかな簒奪ができるなら、そしてその後の統治も外征も上手く出来たのならそれはそれで彼がかなりの傑物ということになるのでは、と(笑)李淵に人を見る目がなかったということにもなってしまうし。そしてそんな格下の弟にまんまとしてやられた李建成ていったい・・・?ということにも。  道義的にはともかく、実力・能力という点からすれば、まあ、どっちみち李世民をけなしたことにはならないかな、という気もしますが(笑)  中国の文人が、日本の蒙古に勝った事を喜んでくれていることに関しては・・・ 「やった〜!中国人も日本人の武勇を認めたんだな!」と喜んだりしてはいけないのでしょうね・・・(笑)  鎌倉武士、大いに持ち上げたいです(笑)しかし、元寇のときの江南水軍てすごい大軍だったのですね。モンゴル支配という現実が変わらない以上、日本に勝っても江南の兵たちにあまり明るい未来はなかったような気がするのですが・・・。 574 朝鮮からモンゴルまで NAGAICHI Naoto E-Mail: URL 2002/10/06 00:49 男性 29歳 B型 予州 布衣 >エリスさま >甘く見ないで李舜臣に万全の体勢で迎え撃たせていれば、日本軍はボコボコに >やられて、ほうほうのていで逃げ帰ることになったことでしょう。 どうですかね。 そもそも事実を追っていくと、 1592(文禄元)年のときは、かれははじめ全羅左水使で、 亀甲船を率いて日本水軍を連破してます。 翌年、この功績で忠清・全羅・慶尚三道の水軍統制使を兼ね 朝鮮水軍を統括する地位にはじめて立つわけです。 1597(慶長二)年には、日本の再派兵を前にして 元均の讒言により統制使の任を奪われてます。 元均が巨済島で戦死したため、統制使の任に復帰して それから制海権の奪回に成功するわけです。 ちなみに翌年の露梁海戦で、撤退する日本軍を追撃中にかれは 戦死しています。 文禄の役のときには、はじめは朝鮮水軍を統括する最高位にはいませんでした。 仮にあったとしたら、それは事前の功績に見合わない不自然なことです。 これは日本を甘く見ていたとか舐めていたとかとは無関係です。 慶長の役のときに軍権を奪われていたのが残念というなら分かりますが、 これも甘く見ていたというのとは関係ない軍内部の権力争いの結果にすぎない と思います。 >劉武周、王世充、とう建徳、たかが「一武将」に負けているんじゃない! お気持ちは分かりますよ。 たんなる「一武将」ではないでしょうし。 >宣和堂さま >正直、解説はじゃまなだけでどうでもよかったです 「文明とは都市のことである」とか書き出していて 開封について硬質の文章が書ける人ならいいんですけどね。 >小道具の生かし方が巧いと思います。 >ミステリとしては……まあ、ミステリとして読むことは勧めないですね。 宋代開封についてよくよく調べてあるんだと思いますけど、 背景や小道具をミステリ的配置でうまく生かしてますね。 たしかにミステリとしては本格ではないですけど…。 読者に推理してもらうための全ての材料を与えるというスタイルじゃありま せんし。 (まあでも最近は、新本格とか称してるのにも怪しいのがありますし・脱線) また本格でなくても、おもろいのもあるということで。 ドンデン返しはミステリの妙味ですから。僕はミステリと取ってもかまわんと 思いますけどね。 >鹿角さま >似てると言ったのは燕王の妃が徐輝祖の姉であるからです ああなるほど縁戚関係にあったんですね。 でも信長の妹の於市が長政に嫁いだ関係とは、逆になってますけどね。 徐皇后も才女みたいですね。『内訓』『勧善』を編纂したそうで。 靖難の帥のときに北平を守るために鎧をつけて自ら戦ったとかいう話も。 >李隆基の葦后打倒に関しては >祖父・父の間は眠っていた太宗のDNAが曾孫である彼の代に目覚めたかという気がします。 DNAとか言われるとあれなんですが、 このころの玄宗はたしかにかっこいいですねえ。 >フビライが二度目の日本遠征を企画したのは江南の反乱封じのための棄兵といいますが 杉山正明さんの説ですね。 妥当なのかどうか僕には分かりませんが。 中国の文人の幾人かは、日本が手ひどい損害を与えて蒙古軍を撃退したことを 喜んでいるふしがありますね。 ずいぶんと江南人も犠牲になってるはずなんですが。 573 西域情緒 トシ@西安 E-Mail: URL 2002/10/06 00:09 O型 唐 挙人 >NAGAICHIさま >本当に西域の入り口で、イスラムやラマ教が入ってるのですね。 >六年半前に見たはずの西安の西域情緒というやつを思いだそうとしてますが、 >どうもあやふやです。現地におられるかたの話はありがたいです。 日本人が西安で西域情緒を感じるのは日本人独特の感覚かも知れません。 唐代に長安を訪れた人達は ・東から来る人は黄河沿岸の田園風景 ・西から来る人は砂漠やオアシスの風景 ・北から来る人は黄土平原や草原の風景 ・南から来る人は秦嶺の山岳風景 それぞれの国の人達はそれぞれ違った風景を見ながら長安にやって来るのですから、中国に対する印象もそれぞれ違います。 そして、長安は東の農村地帯、西の砂漠地帯、北の草原地帯、南の山岳地帯の中央に位置し、それぞれを異なる方式で統治していました。 その中で中国らしい文化の見えるのは東の地域だけと思われがちですが、それは北京から眺めた場合であって、西安からみた西域文化は中国の文化として違和感なく受け入れられます。 572 中華諸々 3 鹿角 2002/10/04 10:38 >管理人様 似てると言ったのは燕王の妃が徐輝祖の姉であるからです 信長の場合は妹ですが 李隆基の葦后打倒に関しては 祖父・父の間は眠っていた太宗のDNAが 曾孫である彼の代に目覚めたかという気がします。 (安能版隋唐演義では太宗の生まれ変わりみたいに 言われてるし・・・事を起こす前ですけど) 玄宗は楊貴妃というかけがえのない伴侶を得た代償に 自分にとっては太子を譲られた恩人である 寧王を失ったような気がします。 人倫にはずれた事をやるからだと 陰口をいう人もいたでしょう。 陳さんが出演した番組のBGMは TVアニメ版三国志と大モンゴル 音楽まで中華・・・(^_^) だけどチンギス・ハーンは 中国史の人なんでしょうか? フビライが二度目の日本遠征を企画したのは 江南の反乱封じのための棄兵といいますが 反乱を起こさないような政治をやる方が先だろという気がします。 見も蓋もない言い方かもしれませんが。 そのための日本遠征が 反乱の原因にもなったりするから皮肉なものです。 (だから趙翼が手厳しく批判したりするんですよね) 571 そう言えばそうでしたねぇ… 宣和堂 2002/10/03 00:37 >『吃逆』 >帯と解説のあのかたについては、宣和堂さんが喜びそうだなあ。  まあ、それもあって夏の陣最中に買ったのですが、正直、解説はじゃまなだけでどうでもよかったです(二三行読んだだけでセンスのズレを感じて読んでないし…)。自分は再読して、陸兄と周季和の初対面から“白猿”が出てきてるあたりで既に涙ぐんでました。小説としては田中芳樹の中国モノよりも遙かに巧いですし、小道具の生かし方が巧いと思います。ミステリとしては……まあ、ミステリとして読むことは勧めないですね。  でも残念ながら、森福都の他の小説はコレに比べると見劣りしますね……。武則天治下の短編とか、宋代の中期とか、渋めの時代の小説が多いんでそれも又、自分の琴線には触れるわけですけど…。