2003/03/31 (Mon)  Sacrifice


Sacrifice

僕は以前にもこんなことを書いただろうか????



神様の贈り物、良いものには犠牲が必要だ。
神と呼ばれるものは
どうしてこうも
どいつもこいつも生贄を欲しがるんだろう?
自然を神になぞらえて
自然の厳しさを表したものだとも言われるが、

神を創りだした
人間の本質を表しているようにも
僕には見える。

キリストも救世主ではなく狂った人間のSacrificeにすぎないというのが
僕の考えだ。
進んでSacrificeになろうとする自己犠牲の精神も、神聖だと思わない。
自己犠牲の精神は
たとえ対象が自分であろうとも
誰かを「Sacrifice」にして良いということだ。

それは危険思想だ。

Sacrificeという言葉には
どこか悲しいく歪んだ死の(Gothic的な)美しさがある。
そういった甘美な思考に切り替えなければやりきれないほど
Sacrificeは冷酷な恐怖とエゴの塊だ。

肉を食べるには生き物を殺す。
生活には労働。
汚し排泄し代謝する体。
心も同様。
優越感には
他人を卑下することだろうか?
自分が助かる為。
自分が生き延びる為。
生存本能、自己防衛かもしれないけれど
倫理や理性を持ってしまった人間は
本能だけではないのだ。

自分より下のヤツを作れば
自分は最低じゃないんだ。
Sacrificeを社会は自然に作り出す構造になっているのは
子供の時から皆感じているはずだ。
平等なんて
教えてる奴らからして嘘だったってことは
いつしかみんな気づいた。

良いことを理解するには悪いことも理解しなくてはならない。
恐怖を克服するには恐怖を受け入れる。
それには最高の恐怖!

Sacrificeを欲しがる人間の作った社会は、
汚いことや悪いことが世の中の本質で、
その
穢れを直視できなければ
世の中の受け皿から落ちるか
狂うか
盲目になるかして
生きる道を探す。

盲目が一番楽かもしれない。
でも
目を潰すにはどれだけ苦しめばいいだろうか。
Sacrificeということだ。


記憶の中で
石を投げられたのが
友達じゃなくて
僕だった時安心した


世界の摂理がSacrificeだとしたら、
みんなが助かる道はない。
それを悲しい美しさをもつものとして
昇華させる以外
どれだけの救いの道がある?

 

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