グラップラー特別編
松原葵VS範馬刃牙
「おーい、葵ちゃんっ!」
「あ、藤田先輩」
「珍しいね。こんな日曜日の昼間なんて時間に商店街で、葵ちゃんに会うなんて」
「どうされたんですか?」
「いや、たまたま見かけたから、声をかけただけなんだけど。そういえば日曜日って、葵ちゃん、中国拳法の稽古があるって言ってなかったっけ?」
「……」
「どうしたの?」
「あ、いえっ…今日の稽古は…先生の都合で、お休みなんです」
「…そうか。だったらさ、今から映画でも見に行こうぜ。葵ちゃん好みのアクションものがやってるんだ」
「で、でも…」
「いいからいいから。葵ちゃんは毎日頑張ってるんだし、たまには息抜きが必要だって!」
「は、はい…」
こうして、いつもの手練手管で調子よく葵をデートに誘った浩之。
しかし彼はまだ、自分たちが大きな闘いの渦に巻き込まれているということに、気づいていないのだった……
数時間後、ファーストフード店にて。
「……………」
「……うかない顔してるね」
「え?」
「映画、面白くなかった?」
「い、いえっ。面白かったですよ」
「やっぱり、無理に誘ったの、怒ってるの?」
「いえ…先輩に誘っていただいたのは、とてもありがたいんですけど…」
「どうしたの、葵ちゃん。悩みがあるんだったら、オレが相談に乗るよ」
「でも…」
「そりゃあオレにできることなんて限られてるけどさ、悩みは他人に話すだけでも結構解消するものだよ。さ、話してみなよ」
「はい、実は…」
意を決したように、話し始める葵。
「さっき私、今日の稽古が先生の都合でお休みになったって言いましたけど…本当は、先生、怪我で入院したんです」
「入院?」
「はい。なんでも金曜日の夕方に『試合に行く』と言ったままひとりで出かけたそうなんですが、次の日連絡があったときには、すでに病院に運ばれていたそうで…」
「それは、格闘技やってるんだったら、仕方ないんじゃない?」
「だけど、普通の試合で、首の骨を脱臼するような大怪我をするでしょうか?」
「え…」
「はい。他にも腕の骨や肋骨とかに、あちこちヒビが入っていて…普通の試合なら、その前に必ずドクターストップが入るところなのに…それに、先生のような実力者がそんな怪我をするようなハイレベルな試合があったなんて、私は一度も聞いたことがありません。先生は何か、大変な事件に巻き込まれているような気がして…とっても優しくて、信頼できる先生だったのに…」
ぽん。
「…先輩…?」
「先生に何があったかは知らないけど、その真相を突き止めるのが葵ちゃんの仕事じゃないだろ?」
「はい…」
「葵ちゃんのその気持ちがあったら、きっと先生はよくなるよ。葵ちゃんは自分のできることをやって、そして先生が退院したときに、より強くなった葵ちゃんを見せてやるんだ」
「そうですね」
「だけど、無理は禁物だぞ」
「はいっ!」
しかし、事態はそれだけにはとどまらなかった。
月曜日の放課後。
「………」
浩之は神社のお堂に腰掛けて、ぼんやりと空を見上げていた。
「そういえば、月曜日は格闘同好会の練習、休みだったんだよな…」
仕方なく立ち上がる。
「…とりあえず、あかりでも誘って帰るか」
そのとき、石段を駆け上がってくる少女と鉢合わせる。
「葵ちゃん!?」
「せ、先輩っ!」
浩之の姿を見つけて、その胸に飛び込む葵。
その目には、涙が浮かんでいる。
「ど、どうしたの? 確か月曜日は、柔道の道場に行ってるんじゃ…」
「それが、柔道の先生も、怪我で入院したんです!」
「え?」
「それも、金曜日の夕方に『試合に行く』と言って出かけたあとに…しかも、背骨にヒビが入るような大怪我で…」
「それって、昨日の中国拳法の先生の話と、ほとんど同じじゃないか?」
「はい…」
「確か葵ちゃんの柔道の先生って、オリンピックのメダリストだったんだろ? そんな人まで、大怪我するなんて…」
「そうなんです。私、自分の知らないところで、なんだか大変なことが起こっているような気がして…」
「それだけじゃないわよ」
突然、鳥居の向こう側から声がした。
「綾香…」
「綾香さんっ!」
その声の主は、来栖川財閥の令嬢にして、エクストリームの女子チャンピオン、来栖川綾香だ。
「葵。あなたは好恵が今通っている、空手道場の師範のことは知ってるわね」
綾香は颯爽と歩み寄りながら、葵に訊ねる。
「はい…ちょび髭の先生ですよね」
「その人、行方不明になっているの。それも、金曜日の夕方『試合に行ってくる』と言って出かけたのを最後にね」
「!」
「もちろん、空手の試合が金曜日にあったなんて情報はどこにもないわ。中国拳法、柔道、空手…その道の達人それぞれが、同じ日に試合に出掛けて、怪我をして帰ってくる…ここから連想される、格闘技は何かわかる?」
「え、エクストリーム…?」
「まさか! エクストリームの試合だったら、それこそ来栖川グループの支援で、大々的に宣伝するはずじゃないか! オレ達、そんな試合があるなんて話、聞いたことないぞ!」
「そう。エクストリームではないわ。それよりもはるかに過酷な異種格闘技戦が、金曜日に行われたのよ。東京ドームの地下6階に建設された、地下闘技場でね!」
「地下闘技場!?」
「確か、東京ドームって地下2階までのはずじゃ…」
「公式にはそうよね。最近、私たちがエクストリームへの出場を依頼して来日した大物選手が、怪我によって出場を辞退するという事件が何度もあってね、それで調査してわかったのよ。東京ドームの地下に闘技場があって、レフェリーもいないルール無用の殺し合いが、ごく一握りの人間たちのために、秘密裏に行われていた、ってね」
「ルール無用!?」
「殺し合い!?」
「しかもそんな試合を運営しているのは、徳川光成を当主とする財閥・徳川グループ!」
「!」
「徳川グループって言ったら、お前のところの来栖川グループと並び称される、日本有数の大財閥じゃないか!」
「そうよ。要するに私たちエクストリームは、徳川グループにコケにされたってことよ」
綾香は葵の肩に手をおく。
「葵!」
「は、はいっ!」
「私はこれから、地下闘技場のチャンピオンである、範馬刃牙に挑戦状を叩きつける! あなたが先生たちの仇を取りたいなら、今をおいて他にはないわ!」
「はいっ!」
「だけどこの闘いの意味はそれだけじゃない。今後のエクストリームの発展のためにも、地下闘技場の非道は、許すわけにはいかないのよ! ルールにのっとった格闘技エクストリームと、ルール無用の地下格闘技! 白対黒! あえて言うなら、来栖川グループと徳川グループの全面戦争ということよ!」
「綾香…」
「何よ、浩之?」
「…無理やりすぎるわ、それ」
「いーえ、自然よっ!」
数日後、夜。
いつもの神社の境内に、試合前の熱気が満ち満ちていた。
エクストリーム代表、松原葵。
PS版のいつものコスチューム、体操服にブルマ姿で、ウォーミングアップに余念がない。
対するは地下闘技場代表、範馬刃牙。
これもいつもの裸足にトランクス一枚の姿で、軽く体を動かしている。
立会人は、葵サイドに来栖川綾香と藤田浩之。
刃牙サイドには、誰もいない。
「範馬刃牙さん」
綾香が刃牙に歩み寄り、ルールの説明をする。
「ルールは基本的になんでもありよ。ヒジもあり、倒れた相手への打撃もあり。あなたの地下闘技場とほとんど変わらないわね。ただし、足と手に、ウレタン製のグローブをつけてもらうわ。いいわね」
手渡されたウレタン製のグローブを、素直に受け取る刃牙。
「…確かに、素手で女の子を殴るわけにはいかないからね」
「だからって、女の子だと思って舐めてかかったら、頭から食われるかもしれないわよ」
「…今日は楽しませてもらうつもりだ」
「ええ…食中りを起こすくらいにね」
不敵に笑いながら、綾香は葵の方へ歩み寄る。
「葵」
「はい」
「今さら復讐だとか、組織を背負っているだとか、大それたことは考えなくてもいいわよ」
「はい」
「最初から全力で行きなさい。いいわね」
「はいっ!」
葵の力強い返事に微笑みを浮かべながら、浩之の立つお堂の軒先まで戻る。
「浩之、あなたは葵に何か声をかけなくていいの?」
「いや、さっきアドバイスはしたから大丈夫だ」
「ふふふ…あなたのおかげね」
「何だ?」
「葵、昔はあれだけあがり症だったのに、今日は全然気負いがないわ。あなたがあの子の練習に付き合うようになってから、メンタル面で大きく成長したわ」
二人はウォーミングアップを繰り返す葵を眺める。その姿には、一点の翳りもない。
「ところで綾香、ずっと気になってたんだけど…」
「何よ?」
「葵ちゃんの先生の敵討ちって言うのはわかるけどさ、相手は地下闘技場のチャンピオンなんだろ? だったら、どうしてエクストリームチャンピオンのお前が出ないんだ?」
「ふふ…確かに範馬刃牙は地下闘技場のチャンピオンだけど、本当の最強は、あいつじゃないのよ」
「そうなのか?」
「私の狙っているのは、『地上最強の生物』範馬勇次郎・その首だけよ! 範馬刃牙程度の手合いなら、葵でも十分よ!」
「それ、葵ちゃんにも範馬刃牙にも失礼なセリフだな…」
そうこう言ううちに、二人はウォーミングアップとグローブの装着を終える。
戦闘準備が整ったのを見て、綾香は二人の中央に立つ。
「いいわね、二人とも…」
葵、刃牙、双方が頷く。
綾香はゆっくりと手を上げる。
「レディ……」
ぴんと張り詰めた空気が、境内を支配する。
ゴクリ。
浩之が自分の飲み込んだ唾の音の大きさに驚くほどの静寂。
「ファイト!」
綾香の手が下りた直後、先に突っかけたのは葵。
軽いステップで刃牙との距離を詰め、ジャブを繰り出す。
「ふ…」
刃牙は余裕の表情で、スウェー…
パシィッ!
当たった。
「………?」
さらに葵の連打。
パシッ、パシッ。
ことごとく、ヒットする。
「なんだ、刃牙の奴…ただの見かけ倒しなのか?」
「違うわ。慣れの問題よ」
「慣れ?」
「範馬刃牙は167cm。男の格闘家としては圧倒的な軽量級に属するわ。だから、自分より大きな相手との闘い方は知っていても、自分より小さな相手との闘い方はほとんど知らないのよ」
「その点では、葵ちゃんは常に自分の得意な闘いができる、ということか…」
「できれば、刃牙が順応するまでに、仕留めてくれれば理想的なんだけどね…」
軽量級ならではのスピードに、翻弄される刃牙。
「…確かに、いいパンチだ…」
打たれながらつぶやく。
「だけど…軽すぎる!」
刃牙は自らの顔面を、葵の拳の軌道に向かわせる。
ドカッ。
直撃。
しかしその一瞬、葵の回転の良い拳が止まった。
「!」
「ハハ…」
ブンッ。
刃牙の重い打撃が、葵の頭上をかすめる。
次はボディ。
ガードするが、その重さに葵の体があとずさる。
「まずいわね…スピードでは勝てないと見て、直撃覚悟で打ち合いを望んできた…」
「葵ちゃん、距離をとるんだっ!」
しかし浩之の声は聞こえないのか、至近距離での攻防に、葵はじりじりと押されていく。
そして、ついに葵の体が境内の端に追い詰められる。
「これで…終わりだッ!」
刃牙、渾身の一撃!
「葵ちゃんっ!」
スパァァァンッ!!
花火のような、格闘にはまるで場違いな快音が、夜の境内にこだました。
その瞬間、刃牙の体は重力を失ったように後方に飛び、反対側の石灯籠に、叩きつけられていた。
ズウゥゥゥゥンッ!!
「崩拳!!」
坂下戦以来、久々にベールを脱いだ中国拳法の極意。
「な、なんて威力…」
浩之はその破壊力に驚きの声を上げる。
「見事ね…あの激しい攻防の中で、カウンターの瞬間をずっと狙っていたなんて…」
綾香は葵の戦術眼に身震いする。
「ま、参ったね…」
崩れた石灯籠が、動き出す。
「まさか…あんな大きなオモチャ…持ってたなんて…ね…」
刃牙は喘ぎながら、姿を現した。
「立った!?」
「でも、確かに効いてるわ! 葵、間をおかず攻めなさい!」
「はいっ!」
葵はトップスピードで、刃牙に襲い掛かる。
ズドッ!
起きがけの刃牙のヒザに、強烈なローキックが入る。
「ぐあッ」
バシッ、ビシッ!
正確な打撃が、刃牙の顔面を捉える。
崩れそうな刃牙のボディに、そして顔面に、連打、連打。
葵ちゃん、得意のラッシュだ!
「いいぞ、葵ちゃんっ!」
「終わらせちゃいなさいっ!」
刃牙は朦朧とした意識の中で、言葉にならない言葉をつぶやく。
(なんか、ウレシイね…)
ドカッ、バキッ!
(こんなにも、強い女の子がいたなんてね…)
バシッ、ドシッ!
(今日はアレ、出すつもりはなかったんだけど…これじゃあ我慢しろ、っていう方が無理だよな…)
グシャァッ!
(出てくる…もうすぐだ…)
ビシッ、ビシッ!
(あと、少し…)
「出てこいッッ!!」
「!!」
刃牙の叫びに、葵は攻撃の手を止め、慌てて飛び退いた。
「葵! どうして自らラッシュを止めたの!?」
「だ、だって…」
ジャアァァァァーッ!!
突然、水音が境内に響き渡った。
(雨…?)
浩之は空を見上げる。
しかし、上空は満天の星空。
(ま、まさか…っ!?)
浩之は地上に目を移す。
刃牙の股間から、ホカホカと湯気が立ち上っている。
「……!」
やがて強烈なアンモニアの臭気が、浩之と綾香の鼻腔をくすぐった。
「な、なんなのよ、このにおいは…?」
「尿だ…」
「にょ、尿!?」
「あの範馬刃牙ってヤロウ、試合中に失禁しやがったんだ!!」
「な、なんですってぇー!?」
「今日ここに来る前、炭酸抜きコーラを3リットル飲んだからね。まだまだ、出せるよ」
刃牙はさらに、膀胱に力を込める。
ブシュウゥゥゥゥッッ!!
「うっ…」
離れて観戦している浩之と綾香が、顔をしかめるほどの臭気。
より近くに対峙している葵は、さらに強烈な臭いを感じていることだろう。
涙目になりながら、葵は訊ねる。
「ど、どうして…」
「大好きなんだ…こういうの」
刃牙は恍惚の表情のまま答えた。
「人間ってのはね、何かを排泄するときはすべからく気持ちのいいものなんだ。しかも人前で、しかもこんな神社なんていう、神聖な場所でとなると…もう最高だ」
葵の額から、冷や汗が落ちる。
「そして、キミも…」
「……」
「この快感を、知ってるんだろう?」
「!」
刃牙の言葉に、葵はびくっと肩を震わせた。
その変化を目ざとく察知した刃牙は、うれしそうに続ける。
「…どうしてわかったの、って顔だね」
「ち、違いますっ!」
「シラを切る必要はないよ。俺にはわかるんだ、キミが俺と同じタイプの人間だってね。やったことあるんだろう、この場所で?」
「し、してませんっ!」
「強情だねえ、キミも。わかるんだよ、なんとなくね。まあ、強いて理由をあげるとすれば…」
刃牙はクンクンと鼻を蠢かして、ニィッ、と微笑んだ。
「臭い、かな」
「〜〜っ!!」
葵の体が、あまりの羞恥心で硬直した瞬間。
「葵ーっ、よけて!!」
「!」
シュドドドォォォッ!
刃牙の猛獣の連撃が、葵に襲い掛かった。
「アンタの真っ赤になった顔、かわいかったよ! だけどまさか、本当に経験者だったとはなあ! この変態女がぁッ!」
ガードの上からもお構いなしの、連打、連打。
「葵! 距離をとるのよ! 体勢を立て直すの!」
「だめだ、心を崩されている!」
「ねえ浩之、さっき刃牙の奴は、葵になんて言ったのよ!」
「……」
浩之が返答に窮しているうちに、葵のガードがはじかれていた。
刃牙の猛拳がボディを直撃する。
2発、3発…
「アハハハハハーッ!! 反撃のチャンスもクソもないッ! これが、無呼吸連打だッ!」
ひたすらに打ち据えられて、葵は立っているのがやっとの状態になった。
「…まずいわね」
綾香は舌打ちする。
「まさか、こんな展開になるなんてね…」
「綾香! 早く試合を止めさせるんだ!」
浩之の叫びに、綾香は静かに制服の上着を脱いだ。
「浩之…上着、あずかっといて頂戴」
「まさか…?」
綾香はこくりと頷く。
「エクストリームは、私と来栖川グループの夢。そして葵は、かけがえのない宝よ。そんな大切なものが、あんな卑怯で卑猥な男に、踏みにじられるわけにはいかないのよ…」
ザァッ!!
「範馬刃牙っ!」
砂利を蹴って、お嬢様の体が黒豹のように飛び出す。
「卑怯とは言うまいねぇっ!!」
しかし。
刃牙は振り返ると、落ち着いた表情で足を振り上げる。
「え…?」
ピッ、ピッ。
金色の飛沫が足先から舞う。
綾香の額に、頬に、鼻先に飛びかかる。
「……」
そして口内に入り込んだ数滴が、味覚としてその正体を脳に伝えた瞬間。
「きゃあぁぁぁぁっ!!」
綾香は、空中で大きくバランスを崩した。
「綾香、危ないっ!」
パシャンッ!!
濡れタオルを叩いたような音が、境内に鳴り響いた。
範馬刃牙の、尿と汗をたっぷりと含んだ右足が、綾香の側頭部を完璧に捉えていた。
ぐちゃっ、ぐちゃっ。
ウレタン製のサポーターから絞り出た液体が、綾香の頬に染み込んでいく。
「う、ううっ…」
「…所詮は、お嬢さまだな。こういうのにはてんで、免疫が無いなんて」
刃牙は足を離す。
濡れた頬にベッタリと貼りついた黒髪が、外灯に照らされてキラキラと輝く。
「い、イヤよ…こんな…敗けか…た…」
ドサッ。
綾香は地面に倒れ臥した。
「綾香…さ…ん…」
そして同時に、これまで気力だけで立っていた葵もまた、膝から崩れ落ちた。
一陣の風が、神社の森を吹きぬけた。
澱んでいた熱気とアンモニアの臭気が、遠くへ運ばれていく。
そして境内には、水を打ったような静寂だけが、残されていた。
「ふう…堪能したよ」
刃牙はため息をついた。
「エクストリーム、最高だったよ」
失神したまま動かない、葵と綾香の体を見つめる。
「そして…」
刃牙の顔が、いやらしく歪む。
「闘いのあとは、リラックス…」
刃牙は自らのトランクスの紐に、手をかける。
「こんなステキな女の子二人、どちらとやってもいい…両方喰っちまうってのも、いいな…」
濡れた紐を苦労しながら外して、倒れ臥す少女の前に歩み寄ろうとしたとき。
ザッ。
「お…オレが、相手だっ…!」
行く手に、藤田浩之が立ちふさがった。
「……」
「勝てぬとわかっていて俺の前に立った…その勇気だけは賞賛してあげるよ」
「……」
「だけど…逆立ちしても勝てないよ」
刃牙はニヤリ、と笑う。
「あああっ!!」
恐怖に煽られるようにして、浩之は渾身のパンチを繰り出す。
刃牙はよけると同時に、みぞおちに足刀を放っていた。
「ぐはっ…」
浩之は、腹を抱えて地面を転げまわる。
「ある高名な小説家の言に、人間は銃を持って初めて猛獣と対等になれる、というが…キミと俺との戦力差はそれ以上だ」
調子に乗って、他人のセリフをパクリまくっている刃牙。
「ま、負けるか…」
浩之は刃牙の体を杖にして、立ち上がろうとする。
「ジャマだ」
パチィィィィィンッ!!
強烈な平手打ちが、浩之の頬を捉える。
浩之の体は綺麗な回転図形を描きながら、石灯籠に叩きつけられた。
「く、くそう…」
浩之が目を開くと、目の前に刃牙が残忍な顔をして立っていた。
「そろそろクライマックスだな…」
刃牙はゆっくりと踵を上げる。
(ご、ごめん…葵ちゃん、綾香…)
「死ねぇッッ!」
浩之が目を閉じた瞬間。
「浩之ちゃーんっ!!」
森の奥から、幼い頃から聞き慣れた声がこだました。
「え?」
繁みをかき分けるように、少女の影がこちらに近づいてくる。
「浩之ちゃんっ!」
「あかりっ!」
現れたのは、浩之の一の幼なじみ、神岸あかりだ。
「浩之ちゃん…」
「ど、どうしてここに?」
「…志保から、ここで浩之ちゃんが闘ってるって聞いて」
「そうよぉ、ヒロっ」
あかりの隣から、志保が顔を出す。
「黙って闘おうとしたって、志保ちゃんネットワークはどんな情報も漏らさないのよ」
「志保…だからって、あかりを連れて来ることないじゃないか…」
「あたしたちだけじゃないわよ」
「え?」
志保の合図で、後ろから続々とあらわれる人影。
「はわわーっ、浩之さん、起きてくださ〜いっ!」
「藤田君っ! 男やったら立つんやっ! 人生投げたらあかん!」
「そうよ、ヒロユキ! ブシドー魂、見せるネッ!」
「ご無理はなさらないほうがよろしいかと思いますが、まだ負けると決まったわけではありません」
「私の予知も、藤田さんが負ける姿を想像できませんっ」
「藤田くーんっ! がんばってー!」
「……………」
「マルチ、委員長、レミィ、セリオ、琴音ちゃん、理緒ちゃん、せんぱい…」
熱い声援を胸に受けながら、浩之はつぶやく。
「そうだよな…オレには、こんなにも、オレのことを心配してくれる女の子がいるんだよな。葵ちゃんや綾香だけじゃないんだ。オレが倒れたら、これだけの女の子が悲しむんだ」
大地をぐっと握り締める。
「どうせオレは女の子と遊ぶ以外、ほとんど趣味のない人間だ。だから…だからこそ…こんな女の子たちの前で、カッコ悪いところを見せるわけにはいかないんだよ。オレは…藤田浩之は…」
手をつき、膝をつきながら、重い体をもたげていく。
「この藤田浩之、女の子の前でなら、いつだって地上最強だ!!」
浩之は足を踏みしめて、しっかりと立ち上がった。
「復…活…!」
「浩之ちゃん!」
あかりの声が飛ぶ。
浩之はその方向に向かって、しっかりと親指を立てる。
わあっ、と黄色い歓声が沸きあがった。
そして、刃牙に向き直る。
「刃牙、お前はオレが倒す!」
「…な、なんなんだこの女人達は? そして、この展開は?」
思いもかけない展開に、戸惑う刃牙。
「!」
そして、その迫力に圧されて、あとずさっている自分に気がついた。
(ど、どういうことだ? この俺が…こんなザコみたいな男に、恐怖している? 筋力、持久力、瞬発力、回復力…どのすべても、この男にはるかに勝るこの俺が、何を恐れているんだ…?)
にじり寄る浩之。
あとずさる刃牙。
形勢が、いつの間にか入れ替わっていた。
そのとき。
「刃牙くーんっ」
森の奥からまた一人、女性の嬌声が聞こえてきた。
「ま、まさか!」
刃牙は振り返る。
「こ、梢江ちゃん!」
「来ちゃった」
やってきたのは、刃牙の居候先の同級生、松本梢江であった。
「……」
刃牙は正面に向き直る。
藤田浩之の背後で声援を送るのは、都合9人の美少女。
「………」
もう一度振り返る。
自分に声援を送る女性は…
「……………」
刃牙の顔が、絶望の色に変わった。
「アーーーーーーーーーーッ!」
ドカァッ!
側面からの飛び蹴りが、刃牙の体を横に飛ばした。
美しい放物線を描いて着地した、その飛び蹴りの主は。
「葵ちゃん!」
「先輩は、私が守ります!」
「…葵ちゃん、大丈夫なのか?」
「はいっ! 先輩が頑張ってくれたので、その間に回復しました! あとは任せてください!」
葵は刃牙の前に、仁王立ち。
「範馬刃牙さん! これまでの数々の非道、私は許さない!」
「ひ、ひいっ!」
「これはあなたたち地下格闘家に倒された、私の先生たちの恨み!」
怒りの正拳が、刃牙の顔面にクリーンヒット。
「そして、卑怯な手段で倒された、綾香さんの恨み!」
必殺の回し蹴りが、刃牙のこめかみを捉える。
「そしてこれが、あなたが傷つけた浩之さんの恨みと、それに対する私の怒りです!」
2発目の崩拳が、刃牙の体を吹き飛ばした。
ドゴーーーーーンッ!!
すでに心の折れていた刃牙は、もう起き上がってはこなかった。
「…勝った」
呆然とつぶやく葵。
「ああ」
にこやかに、浩之が頷く。
「…私! 私、勝ちました!」
浩之の胸に飛びこむ葵。
「よく頑張ったな、葵ちゃん!」
「いえ、先輩のおかげです! 先輩が、勇気をもって私たちを守ってくれたから…!」
「べ、別にオレは…」
「いえ、今日はあなたのおかげで助かったわ」
「綾香っ! 大丈夫か?」
「ちょっと、頭がクラクラするけどね…」
綾香が起き上がる。
「でもホント、浩之の時間稼ぎがなかったら、葵も私も、どうなっていたかわからないからね。ありがとう、浩之…」
「綾香…」
「本当に、よくがんばったね、浩之ちゃん!」
「明日の志保ちゃんニュースの一面は決まりね!」
「今日の藤田さん、とってもカッコよかったです!」
「あんた、男の中の男や!」
浩之を中心に、わっと輪ができる。
実際に刃牙を倒したのは葵であるのに、いつの間にか、誰もが浩之を称えていた。
一方、敗者。
「刃牙くん…」
尿でパンツを濡らして、惨めに倒れ臥した刃牙を介抱するのは、梢江ただひとり。
「……」
浩之は歓喜の輪から離れ、梢江のそばに歩み寄った。
「梢江ちゃん、って言ったね…」
「はい…」
「範馬刃牙が目を覚ましたら、伝えて欲しい。オレたちは死力を尽くして闘った。もし今後、本当に決着をつけたいというのなら、エクストリームのリングでつけよう、と」
「……」
「あと、これ…」
浩之はペットボトルを投げ渡す。
「アンタの彼氏、コーラが好きなんだろう? あげるよ」
「あ…」
「じゃあ、彼氏を大事に、な」
「藤田君…」
さわやかに、闘いの場を後にする浩之。
どんなに不細工な女性でも、フラグが立たない程度には優しくしておく。
これが女性の間での人気を高める、藤田浩之の処世術なのだ。
数日後。
「あの…今日の練習は、神社の外でやるって聞いたんですけど、どこまで行くんですか?」
「商店街で、ジャンボパフェを食べるんだ」
「パフェ?」
「今日は、地下格闘家に勝った祝勝会だよ!」
「え? でも…」
「休養だって練習のうちだよ。お金のことは心配しないで。今日はオレのおごりだからさ!」
「は、はい…」
「あら、それはありがたいわね」
「あ、綾香さんっ!」
「私も関係者なんだから、おごってもらってもいいわよね、浩之」
「って綾香、お前なぁ…お前が無用なケンカを売ったせいで大変な目にあったんぞ。それにだいいちお前、金持ちのお嬢さまだろ?」
「残念。私、現金はあまり持ち歩かない性質なの」
「おいおい…」
「あ〜、おごり発見!」
「Realy?」
「浩之ちゃんだ!」
「これは、ええとこで会ったなあ…」
「おい、どうしてこんなところに志保とレミィとあかりと委員長が出て来るんだよ!」
「だって、あたしたちも関係者と言えなくもないんだから、おごられる権利はあるはずよ」
「そうそう。ここはケチくさいことは言うたらあかん」
「あのなあ…」
「え? 今日は藤田さんのおごりなんですか?」
「わぁ〜、助かるなあ、藤田くん…」
「………」
「な、なんで琴音ちゃんや理緒ちゃんやせんぱいまで!」
ワラワラ。
「あの…わたし、半分だそうか?」
「あかり! お前がそんな気を使わなくていいから!」
「だったらおごりネ!」
「そうは言ってない!」
「ホンマ、往生際が悪いで、藤田君」
「………」
(葵ちゃん)
(はい、何でしょう?)
(今日は練習ないって言ってたけど、前言撤回だ)
(はあ…)
(100mダッシュを1本だ。いいな)
(はいっ)
(それじゃあ合図したら出るぞ…よーい)
「どんっ!」
ダッ。
「あ、浩之、逃げる気?」
「コラーっ、待ちなさい、ヒロー!!」
男なら誰しもが、一度は地上最強にあこがれる。それは心理だ。
では最強を望む心理とは、いったい何なのか。
その一つの答えが、オスの生殖本能である。
数多くのメスを得て、自らの遺伝子をより多く遺すために、他のオスを蹴落とす力を望んでいるのだ。
だとすれば。
この藤田浩之という男の、闘わずして多くの女性を惹きつける生き方こそ。
もっとも手っ取り早く本能の欲求を満たしている、あるいはもう一つの、地上最強の道なのかもしれない。
(完)
ということで、いろんな方面に謝らなくてはいけないドリームマッチです。
アニメ版はあんなにもカッコいいのに…
いつからこんなキャラになっちゃったんでしょう?
っていうか、いつ登場するの、主人公?