川口茂美の特別な夏 〜第1話〜
 7月19日。
 1学期、最後の日。
 終業式を終えて、次のホームルームが始まるまでの教室は、ようやく長かった一学期が終わるという開放感と、その直後から始まる夏休みへの期待とで、大きく沸き返っていた。

「来週の花火大会にさ、俺の──」
「で、あそこのペンションがね──」

 教室中のあちこちから聞こえる、夏休みの予定。むろん私たちのグループも、同じような話題で盛り上がっている。

 そんな騒がしい教室に、ひとりの女子生徒が入ってきた。
 終業式にはいなかった子。だけど、私たちのクラスメイト。
 神尾観鈴、という女の子だ。
 誰に向けるでもない苦笑いを浮かべながら、ちょこん、と窓際の席に座る。
 そのままひとりぼっちで窓の外を見ている彼女に、私は今日、話しかけるべき話題があった。
 昨日の夜、私の家にかかってきた、一本の電話。
『よぅ、俺、観鈴。というのは嘘だ。
 でも、観鈴の家から電話をかけてるのは本当だ。
 どうだ、あいつと遊んでやってくれないか?』

 知らない男の人からの電話。
 そのあと突然切れたから、赤の他人がかけたイタズラ電話に違いない。
 でもそれだけでも、私たちが普通の関係であったのなら、いくらでも盛り上がるはずの話題であった。
 …だけど。

「ねえねえ、それにしてもあの子、よく平気で遅刻できるわねえ」
「何食わぬ顔して、1時間目からいましたーっ、ってやってるつもりなんだろうけど、そんなのバレバレなのにねえ」
「ほんと、出席日数足りてないの、知らないのかしら?」
「…ほっときなさいよ、あの子のことなんか。どうせ話しかけたって、泣かれるだけよ」
「そうそう。普段はなんでもないのに、こっちから話しかけたら、いきなり癇癪起こすんだもの。絶対、あの子ヘンよ」
「別の学校に入れるべきだったんじゃないの?」
「まあ、触らぬ神尾にたたり無しってね。気にしないでおきましょ」
「そうね…」

 そんな周囲のヒソヒソ話が、全てだった。彼女はクラスから疎外されていた。
 そして私も、彼女の疎外されている理由を目の当たりにしたことがあるだけに、彼女に話しかけることができないでいた。

「おーい、みんな席につけえーっ」
 担任の先生が教室に入ってくる。
 私たちは慌てて、自分達の席に戻る。
「えー、今日で一学期が終わって、夏季休業に入るわけだが、みんなは──」
 たいして変わり映えのしない、先生の話。
 でもそれを聞きながら、私は神尾さんのことを忘れていく。

 だけど、それは仕方のないことだった。
 私が神尾さんとの関係は、その程度のものでしかなかったから。
 そして、これから始まる私、川口茂美の夏休みに、彼女が絡んでくることは、決してなかったはずだったから──


川口茂美の特別な夏 〜もう一つの夏の物語〜


「でもさ、茂美」
 ホームルームも終わり、放課後。
 私たちは二人の友達と一緒に、騒がしい昇降口へと続く廊下を歩く。
「夏といえば、アレだよね」
「アレ?」
「恋よ、恋。夏といえば、恋の季節」

 話題を振ってきたのは、友達のまこと。いつも元気な女の子で、一緒にいるのがとても楽しい。

「知ってる? 一年の中で、一番恋愛が発展するのは、夏なのよ」
「まこと、そんな知識どこから仕入れたの?」
「雑誌の体験談とかあるじゃない? ああいうの見たら、海水浴とか花火大会とか、そういうところで一気に行っちゃうんだって」
「またそんな信憑性のない記事を鵜呑みにしてるー」

 まことの話に横槍を入れるのは、ジュン。ちょっとキツめな印象があるけど、友達になってみると、とてもいい子だ。

「でも、やっぱり夏はそういう季節だと思うよ。みんな薄着だし、開放的になっちゃうんだよ」
「まあ確かに、そういうこともあるかもね」
「あたし達もそろそろ、そんな経験したいよね」
「そうねえ、いいかげんそういう経験の一つや二つはないと、正直焦るわね」
「あたしは、初めてだったら星野先輩がいいな」
「あの学校トップの先輩と? 夏休みも補習受けるようなあんたと、釣り合うわけがないじゃない」
「ぐあっ…補習のことは言わないで…」
「まこと、あんたはこの夏、恋よりも補習をがんばるべきね」
「もう、ジュンは嫌なことばかり言うー。そういうあんたは、達川君とは最近どうなのよ?」
「達川君はもういいの。いまは山本君に乗り換えたから」
「乗り換えた乗り換えないは、告白してからにしなさいよーっ」
「うるさいわねっ。いろいろと事情があるのよー」

 そんな二人のやりとりを笑って聞いている私。会話のテンポに乗り遅れることが多い私だが、聞いているだけでも十分楽しいから、二人と一緒にいるのは好きだ。

「で、茂美、あんたはどうなの?」
いきなり話を振られる。
「え? 何が?」
「…何がって、今までの話の流れからいって、あなたの恋の話に決まってるじゃない」
「そうそう。あんたかわいいのに、そういう男関係の話、全然聞かないもの。親友のあたしたちにくらい、正直に話しなさいよー」
「で、でも、私、まだそういうの早いと思うし…」
「またまたぁ、猫をかぶる」
「ほ、ホントだって! 好きな人なんていないって!」
「そんなこと言って、誰か男の人と花火大会とか行ったりするんじゃないの?」
「それはないよー、だってその日は旅行に行くもん」
「ええっ? 誰と誰と?」
「誰とって…お父さんと、お母さんと、弟ふたりと…」
「なんだ、家族旅行じゃないの」
「それにしても、そんな歳で家族一緒になんて、鬱陶しくない?」
「そんなことないわよ、お父さんとお母さんとかと一緒にいるの、楽しいよー」
「うわぁ、優等生的発言!」
「ホントあんた、箱入り娘ね」
「そんなんじゃないってー」

 優等生だとか箱入り娘だとかいうのは、ジュンやまこと達にからかわれるときに、よく言われる言葉だ。
 もちろん自分でそんなふうに思ったことはない。だけど、現在のところ好きな男の人はいないのは事実だし、それよりも家族と一緒にいるほうが楽しいと思っているのも、事実だった。

「でもさ、こういう子に限って、恋したら無茶してしまうんだって雑誌で言ってたよ」
「そうかもね。茂美は惚れたら突っ走ってしまうタイプよ」
「ひょっとしたら、この3人の中で茂美が一番早く、経験するかもしれないねー」
「ありえるわね」
「も、もう、からかわないでよー」

 さんざんからかわれた後、昇降口の手前でジュンとまことと別れる。

「じゃあ私、部活のミーティングがあるから」
「うん、それじゃ元気でね、茂美」
「好きな人ができたら、電話しなさいよーっ」
「それはもういいからっ!」

 最後まで、私はからかわれっぱなしだった。



 部活のミーティングが終わって、学校を出ようとしたときには、時計は午後を大きく回っていた。
「恋、ねえ…」
 私はひとりで靴を履き替え、校門までの道を歩きながら、さっきの二人の会話を思い出す。

『夏といえば、恋の季節』
『いいかげんそういう経験の一つや二つはないと、正直焦るわね』

 それは年頃の女の子らしい、微笑ましい会話だった。
 もちろん私も彼女たちと同い年なのだから、年頃もなにもないし、だいいち彼女達を微笑ましいと思えるような、経験なんてものはひとつもない。
 といって私に今、好きな男の人がいないのは本当のことだし、そのことに対して、彼女たちのような焦りを抱いたところで仕方ないと思っている。

 だけど。
「恋、か…」
 もういちど、なんとなく口に出してみる。それは、あまりにも遠くにあるようで、それでも手を伸ばせばすぐに届くような、そんな不思議な響きだった。


 鳴り響く蝉しぐれの中、海沿いの通学路をたどる。
 通いなれた駄菓子屋の辻にさしかかる。
 そのとき。
 私は、不思議な光景を目にした。

 夏に似つかわしくない、黒い長袖のシャツを着た、長身の男の人。
 その周りに群がる、子供達。
 そして足元には、ひとつの古ぼけた人形。
「さあ、楽しい人形劇の始まりだ!」
 男の人が口上を述べる。
 すると、人形はひとりでに立ち上がる。
 一歩、二歩と足を踏み出す。
 トコトコと男の人の周りを一周し、今度は子供たちの方へ。
 人形は子供たちの足元をくぐりぬけ、ぐるりと回って戻ってくる。
 不思議な光景だった。
「さあさあ、楽しい人形劇だぞ!」
 ただ、楽しくはない。
 そう思っているのは子供達も同じのようで、みな一様に真顔でその人の芸を観察したあと、つまらなそうにひとりひとり、その輪から抜けていく。

「くそう、また収穫なしかよっ…」
 最後の子供が立ち去ったあと、男の人は憮然とした表情で、その場にへたりこむ。
「本当に、この町を出られる日が来るのか…?」
 ひとりごちながら、寂しげに人形をもてあそんでいる。
「………」
 私は、自動販売機の陰に隠れるようにして、その様子を見る。
 すると。
「…ん、どうした?」
 突然顔を上げた男の人と、目が合ってしまった。
「……」
「…客か? 客ならもっと近くに寄れ」
「は、はい…」
 何も悪いことはしていないが、叱られた子供のように、私はおずおずと、男の人の目の前に進み出る。
「あそこの学校の生徒か…」
「はい…?」
「いや、まあいい。とにかく、いまから始めるから、ちゃんと見ておけよ」
 男の人は座ったまま、人形に念を込める。
 私も観念して、その場にしゃがみこんで人形を見つめる。
 ぴょこり。
 人形が立ち上がる。
 トコトコ…
 糸で吊るされているわけでもないのに、ひとりでに歩き出す。
 その間、男の人に怪しい動きはなかった。
 目を凝らしたり、こっそり人形の上に手刀を走らせてみたりしても、どういう原理で動いているのかさっぱりわからない。
 さっきと同じように、ただ私たちの周囲を歩く人形。
 トリック探しにも飽きた私は、念を込めている男の人の顔を観察することにした。

 見かけない顔の人だった。
 少なくともこの町の人ではない。
 全国を旅して廻る、旅芸人さんという人だろうか?
 たまに大きな街に行くとき、駅前の広場や公園などで、こういう人達が大道芸をやっているのを、見たことがある。
 だけどこんな小さな町に来る人など、そうはいない。
 どうして、こんな町に来たんだろう?
 いったい今まで、どんなところを旅していたんだろう?

「……おい」
 誰かの呼ぶ声。
「おい」
「?」
「終わったぞ」
「は、はい?」
「人形劇は、これで終わりだ」
「は、はあ…」
 気がつくと、人形は私と男の人のあいだで、倒れて動かなくなっていた。
「どうだった?」
「はい?」
「どうだった、俺の人形劇は」
 男の人は感想を聞いてくる。
「…不思議ですね」
 ちゃんと見てなかったので、適当に答えておく。
「くあっ…またそういう反応かよっ……」
 男の人は落胆した。どうやらあまり望みではない感想のようだった。
「まあ、ともかくだ」
 あっさりと開き直る。
「いちおう、俺の芸は見ただろう。だったら、出すべきものを出せ」
「?」
「金だ、金」
 はっきり言う。
「…あ、そうですね…」
 こういう大道芸は、見終わったあと、見物人が思った額のチップを支払う仕組みになっている、というのは聞いたことがある。
 芸自体は面白くなかったが、少なくとも一度最初から最後まで見てしまった以上、私はチップを払わなければならないのだろう。
(ええっと、こういう相場ってよくわからないけど、100円くらいでいいよね…)
 私は財布を取り出して、小銭入れを開く。
(……)
 入っていたのは、10円玉が2枚だけだった。
(うわっ)
 びっくりして札入れを覗く。こちらには、千円札が2枚入っていた。
(ほっ……)
 総額2020円。お小遣いとして私が普段持ち歩いている分には、平均的な額だ。
(でも…)
 千円札と10円玉だけというのは、大道芸人にチップを支払うにはあまりにも中途半端なラインナップだった。
(千円は…)
 さすがに払えない。ただでさえ少ないお小遣いを圧迫する。それにこの人の芸が、千円分に見合うだけの価値があったとは、どうしても思えない。
(じゃあ、20円…?)
 それもあんまりだった。男の人は期待に満ちた目でこちらを見ている。そこでこんなはした金を出したら、怒らせてしまうかもしれない。
「………」
「どうした」
 男の人が苛立ちはじめる。
「いくらでもいいから、さっさと払え」
 怖い目つきでこちらをにらんでいる。これは20円だったら絶対に怒る。
(…………)
 さんざん迷ったあげく、私のとった行動は、
「ご、ごめんなさいっ!」
 だっ!
「お、おいっ!」
 その場から逃げ出すことだった。


 一目散に、家へと走って帰る。
 顔は熱く火照って、心臓はドキドキと、高い鼓動を打っている。
 私は靴を脱ぐとすぐに台所に向かって、冷蔵庫の麦茶を飲み干す。
 ゴクリ。
 乾いた喉を、冷たい麦茶が潤す。夏の日に照らされて上がっていた体温が、ぐっと下がる。
「おや、茂美、お帰り」
「おばあちゃん、ただいま…」
「おやおや、すごい汗だねえ。すぐに着替えるんだよ」
「うん」
 居間から顔を出したおばあちゃんに適当に返事をして、私は2階の自分の部屋に入る。
 汗に濡れた制服を脱ぎ捨てる。
 扇風機の風が、下着姿の私の肌をやさしく撫でる。
(ふう…)
 ようやく落ち着いた私は、あらためて、さっきの男の人のことを思い返す。

 手を触れずに人形を動かすという不思議な芸をする、旅の人。
 目つきは怖いけど、どこか陰を感じる、涼しげな顔立ち。
 いったいあの人は、どうしてあんな不思議な芸をできるんだろう?
 そしてあの人は、明日もこの町にいるんだろうか──

『こういう子に限って、恋したら無茶してしまうんだって』
『茂美は惚れたら突っ走ってしまうタイプよ』

 不意に、私の思考の中に流れ込んだ、まこととジュンの台詞。
 どうしてそんな話を思い出したのかは解らない。
 ただ……
 胸の高まりは、まだ収まらないでいた。

(つづく)



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