夏休み最初の日。
学校では今日も補習があるそうだが、全国的には祝日だ。
お父さん、お母さん、おばあちゃん、そして小学生の弟二人。
家族みんなで、昼食を食べる。
1時すこし前になって、玄関口から声がする。
「よしかつくーん、ともやくーん、あそぼーっ!!」
弟たちはその声を聞いて、慌てて残りのご飯をかきこんで、外へ駆け出る。
「車には気をつけるのよーっ!」
「わかってるよっ」
「いってきまーす!」
お母さんの注意もろくに聞かずに、弟たちはバタバタと炎天下の野外へと出て行った。
「さて」
しばらくして、お父さんが席を立つ。
「あいつらもいなくなったし、ゆっくり昼寝でもするかな」
「お父さん、庭の草刈りでけはやっておいてくださいね」
「はいはい」
お父さんは自分の部屋に戻る。
「それじゃ、あたしはテレビでも見てますから、用事があったら呼んでくださいよ」
おばあちゃんも腰をあげて、茶の間へと戻っていった。
「ふう」
お母さんは一息ついてから、食卓を片付け始める。私も席を立って、お母さんを手伝う。
「ところでさあ、茂美」
「なに、お母さん」
「茂美は、午後からどうするの?」
「どうって、何もないけど…」
「それじゃ、ちょっと商店街まで行って、電球買ってきてくれないかしら? トイレの電灯が切れたのよ」
「えー、この暑いのに。それに、何買ったらいいかわからないよ」
「電器屋さんで、いつものって言ったらわかるから。それから」
お母さんは、有無を言わさず千円札を渡す。
「おつりは返さなくてもいいからね」
「それじゃ、行く」
「現金ね」
「うふふ、そうかも」
お母さんからお金を受け取って、外へ。散歩というにはあまりにも暑すぎる天候だったが、退屈な夏休みの初日は、こんなふうに時間をつぶすのも、ちょうどいいと思った。
商店街は、人通りがほとんどない。
この暑さのせいなのは言うまでもない。
「暑い…」
別に誰に聞かせるでもない言葉をつぶやきながら、本屋の前にさしかかったとき。
私は再び、あの人の姿をみた。
昨日、武田商店の前で、大道芸をしていた旅芸人。
今日は、病院の駐輪場を占拠して、どっかりとすわりこんでいる。
その足元にはぽてっと倒れた人形。おそらく、ここを通りかかる子供連れなどを待ち構えて、芸を見せようと狙っているのだ。
(どうしよう…)
私は困惑する。
私の目指す電器屋さんは、病院の隣にある。必然、あの人の前を通ることになる。
だけど昨日、あの人の芸を最後まで見ておきながら、金も払わずに逃げ出した前科のある私は、あそこを素通りできそうにない。
(回り道でもする…?)
それはおかしな話だ。そうするとあの人がいる限り、私は商店街を自由に歩くことができなくなる。
少しの間考えた私は、少しだけ歩道を引き返して、コンビニに入った。
「ありがとうございましたーっ」
コンビニで購入したのは、100円のアイスもなか。別に食べたいわけではなかったが、レジで千円を払ったことで、昨日なかった小銭ができたことになる。
(やっぱりお金を払って、素直に謝らないと…)
それが一番の方法だと思った私は、勇気を出して、あの人の前へと進み出た。
「あの、すみません…」
男の人はうつむいたまま答える。
「悪い、ちょっと待ってくれ。いま休憩中なんだ」
「いえ、そうじゃなくて…」
男の人が顔をあげる。
「あ、お前は…」
私はぺこりと頭を下げる。
「ええっと、昨日はごめんなさい。昨日は、お金がなくて…」
「……」
「はい。ですから、今日は昨日の分を払おうと思って…」
私はそう言いながら、財布の小銭入れを開こうとする。
「いや、いい」
その動きを、旅芸人さんが止める。
「はい?」
「別に、お金を払う必要はない」
「え…」
「俺みたいな商売してると、昨日のことは昨日、今日のことは今日で頭を切り替えないと、やっていけないんだ」
「で、でも…」
「昨日の客からは金は取らない。これは、俺の決めたルールなんだ。だから、財布はしまえ」
「はあ…」
そういわれると、引き下がらざるを得ない。
「しかし…」
男の人の目がきゅぴーんと光る。
「もしどうしても、というなら…」
視線が、私の右手に行く。
「そのアイスもなかを、半分わけてほしい。さっきから冷たいものが食いたかったんだ」
「あ、はいっ」
病院の駐輪場の、少し陰になった場所に腰掛けて、アイスもなかを頬張る私たち。
「うめえ…」
男の人はいままでのクールな表情が嘘みたいに、少年のような目をしてアイスクリームをかぶりついている。
私はすっかり落ち着いて、男の人に話しかける。
「それにしても大変ですね。こんな炎天下で、ずっと外で大道芸なんて」
「もう慣れっこさ。いろんな街を旅しながら、大道芸で小銭を稼いで歩く。それが俺の生き方だからな」
旅芸人さんは微笑む。
「…まあさすがに、これだけ暑いと商売上がったりだが」
「あの、旅って…いままでどんなところを旅されたんですか?」
「そうだな、日本各地、いろいろ回ってるぞ。北海道とか…」
「北海道ですか? 私も、去年家族旅行で行きました! ラベンダー畑とか、とっても綺麗ですよね!」
「……悪いが、そういう風景の綺麗なところはあまり行かないんだ。金を稼ぐなら、駅前とか、商店街とかでないとな…」
「そう、ですよね……」
そうなのだ。
私たちがしている『旅行』と、この人たちがしている『旅』とは、同じ字を使っても、全然違うことをしているんだ。
だから、もっと話を聞いてみたいと思った。
「どうして、旅をされてるんですか?」
「………」
「あの、大道芸をするのなら、もっと一つの場所に留まったほうがいいと思うんですが、どうしてですか」
男の人は黙ってしまった。
「あ、言いにくかったら言わなくてもいいんですよ」
「夢を追っている」
「はい?」
「青春真っ只中なんだ」
「はあ…」
どうやらはぐらかされたようなので、質問を変えることにする。
「この町には、どれくらい滞在される予定なんですか?」
「しばらくは、ここにいるつもりだ」
「そうですか?」
「町を出るだけの路銀を稼げれば、すぐにでも出ていきたいところなんだが、昨日も今日もこの調子だからなあ…」
「ええっと、それでしたら…」
「いや、それはいいって」
私はポケットから財布を取り出そうとして、止められる。
「そういえば、食事とかはどうされてるんです?」
「それは大丈夫だ。奇特な人がいて、今はそこの家で厄介になっている」
「そうなんですか」
「まあ奇特というよりも、ただの物好きだと思うけどな。ともかくそこの家の人たちのお陰で、食事と寝る場所はなんとか確保できている」
「だったら、ひとまず安心ですね」
「まあな」
話すことがなくなって、アイスもなかに集中する二人。
ほとんど溶けかかったかけらを口の中に放り込んで、私は立ち上がる。
「それじゃ、私行きます」
「アイスもなか、ありがとな」
「また今度は、大道芸してるところを見ます」
「そうだな、そのときは気軽に声かけてくれ。サービスでいつもより多く動かして見せるから」
「はいっ」
次の日。
私は朝から商店街に向かう。
あの人はまたあの場所で芸をやっているんだろうかと、期待に胸を膨らませながら。
その途中、住宅街の真ん中で、リヤカーを引いているあの人に出会った。
(泥棒さん…?)
一瞬、不謹慎な想像が頭をもたげる。
だけど、あんなに大汗をかきながら、おおっぴらに住宅街を歩いている泥棒はいないだろう。
そしてリヤカーの側面には、『佐久間リサイクルショップ』というロゴが入っている。
(なるほど…)
なんとなく合点のいった私は、すぐ近くの自動販売機に立ち寄ってから、旅芸人さんの後を追いかける。
児童公園にリヤカーを停めて、ベンチに座り込んだのを見て、声をかけた。
「こんにちはっ」
「あ…」
イタズラを見つけられた子供のような顔で、男の人が振り返る。
「これ…」
その手に、ジュースの缶を握らせる。
「大変だなぁ、と思って。差し入れです」
「……」
呆然とした表情の、旅芸人さん。
「ええっと、スポーツドリンクはお嫌いですか?」
「…いや、これを待ってたんだよ、これを!」
ごくごく。
「いやあ、俺はずっと、こんな普通のジュースを飲みたかったんだぁ!」
旅芸人さんはうれしそうに、喉を鳴らして缶ジュースを飲んでいる。
「大げさですよ、大げさ」
「しかしよくわかったな、俺がこういうのを欲しがってたのを」
「いえ、いっぱい汗かいてますし、こういうのがいいかな、と思って」
「お前、結婚したら、いい奥さんになれるぞ」
「………」
思いがけない言葉に、私は真っ赤になる。
「あ、こういうのって、最近、あまり言っちゃいけなかったんだっけ?」
「い、いえっ。ありがとうございます…」
照れをはぐらかすため、次の質問。
「でも、どうして今日は、こんな力仕事をしてるんですか?」
「ちょっと、金が入用になってな」
「そういう金を稼ぐのが、あの人形芸じゃないんですか?」
「その人形が、取られたんだ」
旅人さんは、カバンの中からだらんと手足の伸びたぬいぐるみを引っ張り出す。
「ナマケモノ…」
「俺の居候先の家主が、あんな古い人形は捨てて新しいのにしろって言って、勝手にこいつを買ってきて、その代金のカタにあいつを奪いやがったんだ」
なんだか豪快な家主だ。
「それにしても家主さん、すごいモノを買ってきたんですね」
「かわいいと、思うか?」
ふるふる。
「だよなあ。それを聞いて安心したよ。この町にもまともなセンスの人がいたんだな」
「どういうことです?」
「いや、こっちの話だ」
蝉しぐれの下で、ベンチに腰掛ける私たち。
「でも、そういえば」
「?」
「どうして、人形芸なんですか?」
「はあ?」
「だって、大道芸にもいろいろあるじゃないですか。それに旅するだけなら、別に大道芸じゃなくてもいいですし…」
旅芸人さんは、少し考えてから答える。
「人形と法術は、俺の家系が代々受け継いできた、大切なものなんだ」
「法術?」
「あ、法術っていうのは、あの人形を動かす能力のことな。先祖はもっとすごいことができたらしいが、俺の能力ではあれくらいの重さのものしか動かせない」
「あれくらいって、人形じゃなくても動かせるんですか?」
「まあ、いちおう…」
旅芸人さんは、ナマケモノのぬいぐるみに念を込める。
のっし、のっし。
「うわっ…」
「……」
旅芸人さんは慌てて念を解く。
「まあ、こんな具合に別になんでもいいんだ」
「さすがに、今のは引きますけど」
私も苦笑いで返す。
「だが、あの人形は古ぼけたといっても、10年間連れ添ってきた相棒だ。それに、おふくろが遺してくれた、たった一つの形見でもあるしな」
「え…」
「旅から旅の連続で、プレゼントのひとつも写真の一枚もくれなかったおふくろが、たったひとつ遺してくれたものだ。捨てるなんてできないさ」
「……」
「あ、悪い。しめっぽくなっちゃったか?」
「い、いえ…」
「ま、そろそろ俺も仕事に戻るわ」
旅芸人さんが立ち上がる。
「ジュース、すまなかったな」
「いえいえ」
「そういえば、お前の家に何か、高く売れそうな不要品はないか?」
「残念ながら、この界隈は先週、佐久間リサイクルショップの車が回ってきたんです」
「ぐあっ…ってことは、ここまで来たのは無駄骨なのか」
「そうなりますね」
「そういうことは最初にいってくれよ…」
旅芸人さんは溜息をついて、リヤカーを引きはじめる。
「まあ、とにかく今日一日仕事して、明日からストリートに復帰するから。またそのときは頼むわ」
「お仕事、頑張ってくださいねーっ!」
「ああ」
私は旅芸人さんの背中を見送ってから、家に戻った。
「意外性が、ないんですよ」
次の日の午前、人形を取り戻して商店街に復帰した旅芸人さんが、
『子供たちを笑わせるには、どうすればいいのか』
と私に意見を求めてきたのに対して、答えた言葉だ。
「意外性?」
「はい。確かに手を触れずに人形を動かすって、すごいことだと思います。でも、それだけでは客を引き止めることはできないんです」
今日は旅芸人さんからサクラを頼まれて、人通りの少ないこの路地で、何度も何度も人形芸を見た。だから忌憚なく、意見を言うことにする。
「起承転結ってありますよね? ええ、4コマ漫画とかの基本的な技法です。まず『起』で見る人をひきつけて、『承』でそれを展開させる。そして『転』でびっくりさせて、『結』で締めくくる。いまの旅人さんの人形芸は、『起』と『承』だけ、ようするに、4コマ漫画の1コマ目と2コマ目の繰り返しでしかないんです」
「具体的に、どうすればいいんだ?」
「それはセンスの問題ですから、自分で考えないと」
「なかなか、難しいな…」
そう言いながら、旅芸人さんは、いろいろと人形を動かして試行錯誤を繰り返す。
ぽてっ。
「3コマ目の『転』っていうのは、文字通り転ばせたらいいのかな」
「そうですね。もう一押しあったほうがいいと思いますが…」
私は足元に転がった人形を拾い上げようと、手を伸ばす。
「うーん…」
旅芸人さんも考え込んだまま、手を伸ばす。
ぴとっ。
手が触れ合う。
「あっ!」
慌てて手を引っ込める私。
「あ、悪りぃ」
「い、いえ、ごめんなさい、私の方こそぼおっとしててっ!」
私は顔を真っ赤にして謝る。
心臓が高鳴る。
「……」
「……?」
旅芸人さんが怪訝な表情をしたので、慌てて話題を変えた。
「そ、そろそろ昼ご飯の時間ですねっ!」
「…おお、そうか」
「私、いったん家に戻ります」
「じゃ、俺も引き上げるわ。だけど」
「………」
「ありがとうな、俺の芸に付き合ってくれて」
やさしく見つめられる。
「………」
「どうした?」
「い、いえっ、それじゃあ、また!」
私は胸をドキドキさせながら、逃げるように帰った。
昼ご飯を食べて、心を落ち着かせて。
もういちど、あの人に会いに商店街に向かう。
その途中、堤防に腰掛けている、あの人の姿を見た。
(どうしたんだろう…)
気になった私は、そっと横から寄ってみる。
でも、その途中で歩みを止めた。
あの人の横顔が、今まで私の見た表情とあまりにも違ったから。
純粋な瞳にイタズラ心を秘めた、少年のような横顔でも、
クールに見えてどこか楽天的な、売れない大道芸人の横顔でもなかった。
帰る場所のない旅人の、深い寂しさと悲しみを湛えた横顔。
心がキュッと、締め付けられる。
声をかけられないまま、私はその場を去る。
できるなら、あの人の力になりたかった。
だけど、私にはまだその力が足りない。
いま私は、ようやく自分の気持ちに気がついた。
「好きな人が、できたの」
その晩、私はジュンとの電話で、そう話してみた。
「えーっ、茂美、それホント!?」
受話器の向こうから、驚きの声があがる。
「誰なの? なんて名前の人?」
(そういえば…)
まだ聞いたことがなかった。
「ねえ、どんな人なの?」
(知らないなんて正直に言ったら、またからかわれそう…)
「ないしょ」
「えーっ、何なのよ、それーっ?」
「ないしょ」
「なんだか怪しいわね…でも何にしても、茂美に好きな人ができたのはいいことよ。私でよかったら、いつでも相談に乗るから、ね」
「うんっ」
ジュンに励まされて、返事をする。
だけど、相談はまだ先だ。
私が抱いた、あの人への恋心。
それを本当のものにするためには。
まだまだ始めなければならないことが、たくさんあった。
(つづく)