「ねえ茂美、この柄とっても綺麗よ? それとも、こっちのほうが今風かしら?」
日曜日。
私は隣町の呉服屋で、お母さんに捕まえられていた。
「ねえ、早く戻ろうよぉ…浴衣の仕立てなんて、また今度でいいからさあ…」
「何言ってるのよ。今日見てもらわないと、来週は旅行で買えないし、再来週じゃあ間に合わないでしょ?」
「でも…」
「もともと今度の夏祭りに着る浴衣が欲しいって言ってたのは、あんたじゃない?」
「それはそうだけど…」
「あ、こっちの柄もいいわね。茂美、どれがいい?」
「もお…」
ようやく午後になって解放された私は、急いで商店街に向かう。
私の好きな、あの人のところへ。
まだ、名前も知らないあの人。
でも、今日こそ名前を聞いて、私の名前を知ってもらうのだと心に決めて。
商店街の真ん中あたり、霧島診療所の前の駐輪場。
そこに、あの人がいつものように芸をしていた。
通行人の失笑を受けながら。
(……?)
私はそっと旅芸人さんに近づいて…
「あはははっ」
大笑いした。
「な、なんだよお前、いきなり笑い出してっ!」
「せ、背中…」
私は笑いをこらえながら、指をさす。
「背中……げっ」
旅芸人さんの背中に貼りついていたのは、
『宇宙からやってきた生き物です』
の貼り紙。
「あははっ。『意外性』って昨日言いましたけど、まさかそっちの路線で狙ってくるとは思いませんでした」
「うるさいっ。客引き用に人形に貼っていた紙が、いつの間にか背中に移っただけなんだっ」
「その上、ステゴザウルスがおがおTシャツ」
「それもうるさい。ったく、せっかく居候先に恩返しするだけの金を稼ごうと、気合入れてたのに…」
悔しそうな顔をする旅芸人さん。
だけど、昨日の夕方のような、胸を締め付けられるような悲しい表情ではない。
「はあ…帰ろう」
「え? 帰っちゃうんですか?」
「どうした?」
「ええっと…」
そのとき。
「あれ、もう終わりかい」
私たちの前に、スーツ姿の男の人が現れた。
あまり見かけない人だ。この町の人ではないと思う。
「ん? 悪いが俺は、宇宙からやってきた生き物じゃないぞ」
「わかってるよ、そんなことは。興味があったのは、そっちの人形のほうだ」
(どうやら、客だな)
(はい…)
旅芸人さんに目配せされて、私は一歩退く。
「ね、もう一度、動かしてみてくれないか」
「ああ」
旅芸人さんは再び人形に念を込める。
とことこ…
男の人は人形の上に手をかざしたり、旅芸人さんの周りをぐるぐると歩いたりして、トリックがないか調べる。
「ポケットの手は…出せないかい?」
「出せる」
「それでも、人形は動きつづけるか…すごいな」
男の人は、最後まで感心しきりだった。
「君のやっていることは、本当にすごいと思うよ」
「誉めたって何も出ないぞ」
「でも、これでは子供は見向きもしないだろう。いくらすごくても、楽しくなかったらそれは興味の対象じゃない」
「そういうことは昨日、この女にさんざん言われた」
旅芸人さんは私を指さす。
「あはは」
私は苦笑いする。男の人もつられたように微笑む。
「そっか…それじゃ、君の発展を祈って」
男の人は綺麗に包装された箱を差し出す。
「何だよ、これ」
「お礼。家に帰ってから開けてくれ」
そう言い残して、男の人は去っていった。
「なんなんだ、これ…」
旅芸人さんはその場で包みを解いた。
「わぁ、おいしそう…」
中身はショートケーキの詰め合わせだった。
「お前にはやらないぞ」
「わかってますよ」
「しかし、つくづく現金とは縁がないな…」
「でも、お土産にするならもってこいですよ」
「そうだな。あいつなら喜びそうだ」
旅芸人さんは人形をポケットにしまう。
「それじゃ、いったん俺は引き上げるわ」
「あ…」
「まあ、すぐに戻る」
そう言って、そそくさと去ってしまった。
「…また、名前聞きそびれちゃった…」
ひとり取り残された私は、ぽつりとつぶやく。
(でも、すぐに戻ってくるんだよね…)
太陽が西に傾いていた。
電柱が地面に、長い影を落としている。
夕焼けに赤く染まりはじめた、商店街。
結局、旅芸人さんはこの場所に戻ってこなかった。
「……」
(確かに、ちゃんと約束したわけじゃないものね…)
そう自分を納得させて、病院の駐輪場を去る。
堤防の前で、日が暮れた。
暗くなった夜道を、たった一人で歩く。
その視線の先に、二人のカップルが手を繋いでこちらに向かってくるのが見えた。
(……)
なんとなく気まずくなって、そっと物陰に隠れる。
「実はね、今日、わたしの誕生日だった」
声が近づいてくる。
「こんな楽しい誕生日なかったから、すごくよかった」
楽しげに話す、少女の声。
私は背を向けたまま、やりすごすつもりだった。
「おまえな…そんな大事なこと、どうして隠してたんだよ」
(え…)
聞きなれた、男の人の声だった。
「もし言ってたら、往人さん、どうしてくれた?」
「そらプレゼントのひとつでも…いや、そら、一緒に遊ぶぐらいのことは…できただろ」
思わず、私は振り向いた。
金網の向こうに見えた、男の人の横顔。
あの、旅芸人さんのものだった。
そして相手の女の子…
「な、観鈴」
「うん?」
「夏休みはまだまだあるからさ…もっとたくさん、遊ぼうな」
「うんっ」
金色に近い、美しいポニーテール。
その髪型を、私は良く知っていた。
神尾観鈴。
私の、クラスメートだった。
(どう…して…?)
心臓が早鐘を打つ。
(どうして、あの人と、神尾さんが…?)
いつの間にか、私は二人の背中を追っていた。
気付かれないように、十分な距離を取りながら。
「ねえ、往人さん…」
「どうした、観鈴?」
話の内容はわからないけど、二人は手を繋ぎながら、住宅地へと入っていく。
(何をやっているのよ、私…)
自問自答しながら、私は尾行をつづける。
そして二人は、一軒の家の中へ消えていく。
私は門の前に近づいて、家の表札を見る。
『神尾』
そう書かれていた。
「……」
その瞬間、私は理解した。
あの人が世話になっているという、奇特な家。
それが、神尾さんの家だったということを。
もうひとつ、気付いたことがあった。
終業式の前日、私の家にかかってきたイタズラ電話。
『観鈴の家からかけている。どうだ、あいつと遊んでやってくれないか?』
あの男の人の声。
今思えば、あの声の主は、旅芸人さんとよく似ていた。
(そう、か…)
つまりはこういうことだった。
旅芸人さんは、7月18日より以前にこの町に来ていた。
そして私と会う前から、神尾さんの家に寝泊りして、神尾さんと一緒に生活していたのだ。
私は、そんなことを何も知らないで、あの人に恋して、勝手に突っ走っていたのだった。
そして、もうひとつ知ったこと。
(そういえば神尾さん、あの人のことを『往人さん』って呼んでたな…)
それは、あまりにも情けない、名前の知り方だった。
次の日の朝。
私はまた、商店街へと足を向けていた。
昨日の夜見た光景が、ただの夢だったのだと信じたくて。
だけど、学校の向かい、砂浜の前に広がる堤防で。
私はもう一度、現実を突きつけられた。
堤防に腰をかけて、肩を寄せ合う男女。
黒いTシャツに、大きな肩幅。
あの人の背中は、見間違えない。
そしてうちの学校の制服を着た、ポニーテールの髪の美しい少女。
彼女の姿も、見間違えるはずがなかった。
旅芸人さんと、神尾さん。
二度見ると、疑うべきことはなかった。
(……)
私は静かに、その場を離れた。
そのまま、午後からは部屋のベッドに横たわって、何もしないでいた。
考えることはたくさんあった。
いや、考えることなどひとつもなかった。
馬鹿なのは、私だけだった。
私はあの人のことを、何ひとつ知ろうとしなかった。
知ろうともしないのに、私は勝手に恋をして、
勝手に自分の心の中で、突っ走っていただけなのだ。
神尾さんと、あの人の顔を思い浮かべる。
学校では見たこともないような、幸せそうな笑みを浮かべている神尾さん。
困惑しながらも、彼女を満足そうに受け入れているあの人。
二人は、私があの人と出会う前から、ずっと二人の時間を作っていた。
二人は一緒に家に帰り、一緒にご飯を食べて、そして、一緒に…
想像が飛躍するたび、私は私の愚かさに、胸を痛める。
その胸の痛みを抑える処方箋はひとつだけだった。
私が心を殺すこと。
それさえできれば、この恋は最初から無かったことになる。
だって、あの人にとっては、私はただの客でしかなかったのだから…
「茂美ーっ、電話よーっ!」
不意に、1階から上がった、お母さんの声。
私は起き上がって、部屋を出る。
「紀藤さんからよ」
「…ありがと」
階段の途中で、お母さんから子機を受け取る。
部屋に引き返してから、保留ボタンを解除する。
「もしもし…まこと?」
「もしもし茂美ーっ、元気だったー!?」
流れてきたのは、友達の元気のよい声だった。
「それにしても、毎日暑いよねー。夏休みに入ってから、やたら日差しが厳しくなったと思わない?」
「……」
「雑誌で読んだんだけど、今年はとくに紫外線の量が多いんだって。あんまり調子に乗って日焼けしてると、シミとかできちゃうらしいよ?」
「……」
「あたしもそれ読んでから怖くなって、通学するときはいっつも、日陰を選んで歩いてるのーっ」
受話器の向こうから、まことの楽しそうな話し声。
それを聞きながら、私の沈んだ心がだんだんと落ち着いていく。
「ねえ、茂美、聞いてるのー?」
「う、うん、聞いてるよ。そういえばまこと、毎日補習行ってたんだよね」
「そうなのよーっ、あの暑い制服着てね、ホント大変だよ」
「授業とか、どうやってるの?」
「それが、毎日小テストあるのよ」
「えーっ、大変ねー」
「でも、それはなんとかなってるの。適当に白紙でぼおっとしてたら、先生がそれとなくヒント教えてくれるのよ」
「あはは、何それー」
会話するという目的以外に、たいした意味もない会話。
だけど心を紛らわすには、こうして友達と話すのが、ちょうどいい。
それなのに。
「…でもさあ、今日ちょっとした事件があってね…」
「事件?」
「神尾さんよ。神尾観鈴」
忘れるつもりだった、神尾観鈴の名前。
突然、友人から聞かされる。
「茂美も知ってるよね、神尾さんの癇癪。あれがね、今日の授業中に起こったのよーっ」
「え…」
「あれってさ、いつもはこちらから話しかけたり、近づいたりするときに起こすじゃない? でもね、今日は別にあたしたち何もしてないのに、突然、授業中に泣き出したのよ」
私は言葉を失う。
彼女…神尾さんは今朝、あの人に肩を抱かれて、目を細めていたはずだ。
それなのに彼女は、その数時間後、突然癇癪を起こして泣き出したという。
「結局あんまり泣き止まないから、先生と男子でむりやり保健室に連れて行ったんだけど、あとが大変でねー。補習って、いろんなクラスが混じってやるでしょ? あたしたちのクラスはあの子の癇癪のことは知ってるけど、別のクラスのひとたちが、むちゃくちゃ引いちゃって。ホント、恥ずかしかったわよー」
思い出すつもりのなかった記憶が甦る。
数ヶ月前。
1学期の始業式の日、私は神尾さんの後ろの席だった。
クラス替えの直後で少々心細かった私は、神尾さんに友達になろう、と声をかけた。
神尾さんは笑ってくれた。
笑顔のかわいい子で、きっとこれからも、友達になれると思っていた。
それなのに、突然泣き出した。
私をひたすら拒絶するように、激しく泣いた。
どうして私が彼女を泣かせてしまったのか、理由を聞いても教えてくれない。
理由は、別の人が教えてくれた。
あの子はそういう病気なんだ、だから近づくな、と。
なんとなく気まずくなった私は、彼女に声をかけるのをやめた。
それっきり。
それっきりだった…
「…茂美」
「ねえ、茂美!」
耳だけが、現実に引き戻される。
「そうそう、ジュンに聞いたよ。茂美、好きな人できたんだってー?」
「……」
だけど頭の中は、幻想を漂ったまま。
「ねえ、誰なのよーっ? ジュンには内緒にするから、あたしだけには教えてよ、ねえーっ」
「……」
「茂美ー?」
「ごめん…また電話するから…」
ピッ。
私は一方的に電話を切って、もう一度ベッドにうつぶせになった。
いったい、何なのだろう?
何が不満だと言うのだろう?
訳のわからない怒りに、胸をかきむしられる。
あなたには、あの人がそばにいてくれるんでしょ?
私より、ずっと幸せなんじゃなかったの?
私は心の中の神尾さんをなじる。
そのたびに、自分の心が傷ついてゆく。
ずっと、忘れたつもりだった存在。
決して、私の夏休みにはかかわることがないだろうと思っていた、ただのクラスメイト。
神尾観鈴。
いったいそんな彼女が、どうして今になって、何のために…
私の前に立ちはだかってくるのだろう…?
(つづく)