川口茂美の特別な夏 〜第4話〜

 時間というのはありがたいものだった。
 永遠に続くと思っていたイヤな気持ちも、何日か過ぎるとすっかり落ち着きを取り戻して、あれだけ行きたくなかった商店街へも、抵抗なく足を運べるようになった。


「ねえねえ、今度の土曜日の、花火大会なんだけどさー」
 かき氷のスプーンをくわえながら、まことが言う。
「どうしたのー? 一緒に行く彼氏が作れなかったから、仕方なく私たちを誘おうってつもり?」
「そうそう、一緒に行かない?ってジュン、どうしてわかるのよ?」
 商店街の一角にある、喫茶店で、私は相変わらずのふたりのやりとりを見ている。
 私たちは3人で、久しぶりに会っていた。

「だいたいね、まことはワンパターンなのよ。去年のクリスマスだって、ギリギリまで予定をキャンセルしておいて、最後の最後で私の家に押しかけてきたじゃない」
「今回は二日前に言ってるんだからいいじゃないっ。で、ジュンはどうするのよ?」
「仕方ないわね。今年も彼氏のできなかったまことのために、付き合ってあげるわ」
「それってジュンも彼氏ができてないってことじゃないー」
「やっぱりわかる?」
 ジュンは決まりが悪そうに笑いながら、私に話を振った。
「で、茂美はどうするの? 土曜日の花火大会」
「私、その日から家族旅行だから」
「そういえば、前も聞いてたわね」
「ごめんね」
「ううん。仕方ないよね」

 言いながら、私は窓の外を見る。
 通りの向かい側にあるのは、霧島診療所の駐輪場。
 その場所にはもう、あの人の姿はない。
 私がふさいでいた何日かの間に、あの人は商店街に現れなくなった。
 もともと、あの人は旅人だった。
 この町もあの人にとっては、通りすがりの一つの町でしかなかったのだ。
 おそらく路銀を稼いで、次の町へと旅立ったのだろう。
 そう考えると、神尾さんがあの日、泣いたという謎も解決できる。
 あの日二人が堤防で肩を寄せ合って話していたのは、そういう別れ話だったのだ。
 そう、自分を納得させる。

「ところでさ、茂美」
 友人の声に呼び戻される。
「茂美に好きな人ができたって話、あれどうなったの?」
 二人が私の目を、興味深そうに覗き込む。
「あたし、ジュンから聞いたっきり、何も知らないよ」
「私もそれ以上知らないわよ。茂美、あれからいったい、どうなったのよ?」
「……」
「茂美?」
 気取られないように、できるだけさらりと返事をする。
「嘘だったの」
「嘘?」
「前にジュンに好きな人いないのを馬鹿にされたから。言ってみたら、どんな反応するかなと思って」
 小さな心の傷。
 だけど、それももうすぐひとりでに塞がる。
「茂美…」
「な、何よぉ?」
「ホントに大丈夫?」
「困ったことがあったら遠慮しないで、わたし達に相談すればいいのよ」
「だ、大丈夫よ」
 私はせいいっぱい、笑ってみせた。
「ホントに、ぜんぜん、好きな人なんて、いなかったんだから…」



「それではお義母さん、申し訳ないですけど、留守のあいだお願いしますね」
「まあ恒美さん、そんなに気にしないでいいですから。ゆっくり羽根を伸ばしてきなさい」
 土曜日。
 私たち家族は、予定通り旅行に出発することになった。

 お母さんは、留守番のおばあちゃんに挨拶。
 お父さんは、車のボンネットを開いて、長旅の前のエンジンのチェックをしている。
 そして私は弟たちと一緒に、後ろのトランクに荷物を積み込んでいた。

「こら智哉、そんなおっきな荷物は、トランクに入れなさいっ。後ろは三人で乗るんだから、ジャマでしょ」
「だってカバンの中に、ゲームボーイが入ってるんだもん…」
「車の中でゲームやったって、酔うだけでしょ。トランクよ、トランク」
「ん…」
「それから良勝は、虫かごなんか持ち込まないの」
「だってこのクワガタも一緒に連れて行かないと、自由研究できないだろー」
「そう言って去年も車の中に置き忘れて、トカゲを焼死させたじゃない。旅行の間はおばあちゃんが面倒みてくれるから、家に置いときなさい」
「ちぇ…」
 バタバタと騒ぎながら、準備を整える。

「ま、こんなもんか」
 お父さんがボンネットを閉めて、こちらへやってくる。
「お父さんの荷物はこれだけなの?」
「ああ。だいたいは母さんと一緒のカバンだからな」
「それじゃ、トランクも閉めていいよねー」
「それで茂美、お前の荷物はどうしたんだ?」
「あ…」
 扉にかけた手が止まる。
「お姉ちゃん、ひょっとして忘れたの?」
「姉ちゃんも人の注意ばかりして、自分のことも気をつけろよな」
「すぐに取ってくるわよっ」
「急がないから、早く取ってきなさい」
「お父さん、なんか矛盾してるよー」

 笑いながら、私は家の中へ入った。


 トゥルルルルーッ。

 階段を上がろうとしたところで、台所から電話が鳴り響いた。
「お母さん、電話よーっ」
 と言ってみたが、いちばん電話に近い場所にいるのは私だ。
 仕方ないので引き返して、受話器をとった。

「…はい、川口ですけど」
「もしもし」
「!」

 若い男の人の声。
 私はその声に、心臓を射抜かれたような感覚をおぼえた。

「今、神尾観鈴の家からかけている。俺のこと、覚えてるよな?」

 覚えていないはずがなかった。
 それは、終業式の前日、私の家にかかってきたイタズラ電話の主。
 そして、炎天下の商店街でなんども聞いた、あの旅の大道芸人さんの声だった。

「は、はいっ…」

 私は思わず返事をしてしまう。
 胸が高い鼓動を打ちはじめる。
 忘れたはずだったあの人。
 もうこの町にはいないと思っていたあの人。
 その声が、もう一度私の耳元に聞こえてきた。
 …だけど。

「今すぐ、観鈴…神尾のところまで遊びに来てくれないか?」

 あの人は、私の声には気付かない。
 無理もない。
 私たちは一度も、名乗りあったことがなかったのだ。
 電話口のくぐもった声だけでは、まさか商店街でサクラをしていた少女が神尾さんのクラスメイトだったなんて、思いもしないだろう。
 だけど、それは悲しいことだった。
 あの人にとって私は結局、他人でしかないのだ。

「すみませんが…」
 だから、私は他人を装うことにした。
「私、これから家族で旅行に行くんです」
 もともとそれは、明らかな事実だった。
「それでは…」
 ごく自然に、話を打ち切ろうとした。

「…待ってくれっ!」
 電話口から、あの人の叫び声が聞こえた。
「具合がよくないんだ」
「……」
「俺だけじゃどうにもならない。誰かの助けが必要なんだ」

 すがりつくような声。
 私の頭の中を、いくつかの映像がよぎった。
 ちょうど一週間前に堤防で見た、悲しみと寂しさが濃縮されたようなあの人の横顔。
 一学期の最初の日に見た、神尾さんのすべてを拒絶するような泣き顔。
 私は、電話を切れなくなった。

「神尾さん…また…泣いているんですか…」
「わかるのか?」
「はい…」

「クラス替えの時、近くの席だったから、仲良くなりたかったんですけど…」
「神尾さん、泣いちゃって。理由を聞いても教えてくれなくて」

 いつの間にか、私はあの人に、あの日の神尾さんとの一件を話していた。
 それが何になるのかわからない。
 たんに、あの人と話をしたかっただけかもしれない。

「なんか、それっきり気まずい感じになっちゃって…」
「それは観鈴が悪いわけじゃないんだ」
 あの人の声。
「とにかく、来てくれないか?」
「でも…」
 私が行って、どうなるというのだろう。
 あの人が求めているのは、決して川口茂美という人間ではない。
 神尾さんのクラスメートのうち、誰か一人なのだ。
 あの人にとって他人である私が、応える義務はなかった。

「頼む。今すぐでなきゃならないんだ」
 懇願する声。
 私は断らなければならなかった。
 だいいち私は、これから旅行に行くのだ。
 迷う理由など、何ひとつないはずだった。
 だから、私は他人を演じきることにした。

「あの、失礼ですがそちらは、観鈴さんの…?」
「俺?」
 受話器の向こうから、あの人の困惑が伝わる。
 私は、他人としてできるだけ冷酷な質問をした。
 だから、私のわだかまった気持ちを断ち切ってくれるような、そんな明快で残酷な答えを期待していた。

「ええと、俺は…」

 突然、声が途切れた。
「神尾です」
 少しの間を置いて、代わりに聞こえてきたのは、少女の声だった。
 聞きなれてはいないが、聞き覚えのある声。
 私のクラスメート、神尾観鈴の声だった。
「ごめんなさい、川口さん。ヘンな電話しちゃって」
「神尾さん…」
 私は戸惑っていた。
「あの…具合が悪いって聞いたんだけど…」
 複雑な感情が入り乱れて、何を話せばいいかわからない。
「でも、私これから、旅行に行くことになってて…」
 ただ、喉元に出てきた言葉だけを口走っていた。
「だから…その…」
「そうなんだ…」
 困惑を察してか、神尾さんが私の言葉をさえぎった。
「うん。来なくてもいいから…」
 やんわりとした拒絶。
「うん、大丈夫だから…」
 どこかで聞いたような言葉が、私の耳に届く。

「神尾さんっ?」
「にははっ…待ってるね、おみやげ。それじゃ」

 ツー、ツー。
 向こうから通話が切れた。
 私も受話器を、充電器の上に置いた。

「……」
 何もかも中途半端だった。
 あの人から聞き出すはずだった答えも。
 神尾さんの具合も。
 そしてすがりつくような、あの人の声も。
 すべての情報が中途半端なまま、心の中をふわふわと漂っていた。

(このままじゃ…)
 確かめなければならなかった。
 この気持ちをどこかに落ち着かせないことには、何もする気にはなれなかった。
 どれかひとつでも、どんな答えでもいい。
 答えは、神尾さんの家にしかなかった。
(行かなくちゃ…!)
 私は感情のおもむくまま、玄関を飛び出していた。

「……」
 だけど。
 飛び出した先には、出発を目前にした私の家族が全員集合していた。
「遅かったじゃないか、茂美」
「智哉も良勝も、もう車の中で待ちくたびれてるわよ」
 お父さんとお母さん。そして弟たちに、留守番のおばあちゃん。
 みんなの視線が、私につきささる。
「おい、茂美、荷物はどうしたんだ?」
「部屋に置き忘れたんじゃなかったの?」
「……」
「どうしたの、茂美」
「茂美っ」

 両親の声が、私の決意を鈍らせる。
 だけど、私は自分の感情に従いたかった。
「ごめんなさい…」
 最初は小声で。
 そして、一度息を吸って、はっきりと宣言した。

「私、旅行に行けない!」

 両親は、あっけにとられていた。
「……」
「………」
「…おい、茂美」
「茂美、何かの冗談でしょ?」
 信じられないという表情で、問いかける。

「冗談じゃないの…ほんとうに、行けないの…」
「おいおい、いまさら何だよ」
「理由を言いなさい、理由を」

「理由は…」
 私にだってわからなかった。
 答えに窮して、おばあちゃんの方へ視線をやる。
 もちろん、おばあちゃんが助けてくれるわけもない。

「茂美、おばあちゃんのことが心配なのか?」
「去年までも、ずっと留守番してもらってたでしょ。大丈夫よ」
「そうそう。あたしのことは心配せんでいいから…」
「そうじゃ…なくって…」
「だったら、何なのよ」
「理由を聞かなきゃ、いつまでたっても出発できないじゃないか」
「智哉も良勝も待ちくたびれてるわよ」
「みんな楽しみにしていた旅行なんだぞ。それを、おまえのワガママで中止になんか…」

「だったら旅行は4人で行けばいいじゃないっ!」

 私は叫んでいた。
「私のことなんかほっといて、4人で楽しんで来なさいよ!」

 言い終えて、語気が荒くなっていたことに気付く。
「…ごめん…なさい…」

「でも、ともかく行けないの…」
 私は両親の目線を避けるように、車の後部座席に座っている二人の弟の側に行く。
 二人とも、きょとんとした表情で私たちのやりとりを見ていた。
「ごめんね、智哉、良勝…」

「お姉ちゃん、旅行いけなくなっちゃった…」
「姉ちゃん、いきなりどうしてだよっ…」
「……」
「僕たちと一緒に行くの、イヤになったの?」
「それはないけど…」

「ともかく、ごめんなさい。この埋め合わせはまたするから。今回は、お父さんとお母さんと、4人で楽しんでおいで」

「姉ちゃん!」
「お姉ちゃん…」

 これ以上弟たちの顔を見るのが辛くて、もう一度両親に向き直る。

「お父さん、お母さん。そういうわけだから。ホントにごめんなさい。理由は後で話すから。心配しないで、智哉と良勝を楽しませてきてあげて」
「茂美…」
「茂美っ!」
 これ以上は限界だった。
「ごめんなさいっ!!」

 家族の視線をふりきるように、私は駆け出していた。
 背後から、私を呼ぶ声が聞こえる。
 だけど私は振り返らずに、神尾さんの家へと走った。



 訳がわからなかった。
 わからない答えを探すために、行く。
 それが家族とケンカしてまで求めるべきものなのか、私にはわからない。
 息が切れて立ち止まると、後悔ばかりが頭をよぎる。
 だけどもう、引き返すわけにはいかなかった。
 少なくとも神尾さんの家に辿り着きさえすれば、なんとかなる。
 神尾さんとあの人が、答えを与えてくれる。
 そう信じて。

 緩やかな丘を駆け上がる。
 古びた家並みの真ん中辺りに、『神尾』と書かれた表札があった。
 その玄関先で、ぼんやりと空を見上げている男の人。
 あの人…旅芸人さんだった。

「あ、あの…!」
 私は肺の中の空気を吐き出すように、声をかける。
 あの人は、気付いてこちらに目をやる。
「か、神尾さんはっ?」
「……?」
 怪訝そうな表情。
 私は荒れた呼吸を整えながら、尋ねる。
「神尾さんは、どうなんですか?」
「……お前…いったい…?」
 喉の奥からしぼり出すように、私は答えた。
「川口…茂美です…」
 あの人は一瞬、あっけに取られた表情をした。
「あ…」
 そして、ようやく状況を理解した。
「なるほど…」



 私たちは、堤防に場所を移していた。
 あいかわらず暑いことに変わりはなかったが、海から吹く風には涼しさも混じっていて、さっきまで汗だくだった体も、いつのまにか乾いていた。

「しかし、驚いたな。まさか電話で話していた相手が、お前だったなんて」
「はい…」
「確かに、俺たちは一度も名乗りあったことがなかったからな」
「そうですね…」
「それじゃ、あらためて自己紹介だな。俺は国崎往人」
「川口茂美です…」

 私はようやく、旅芸人さんの名前を確かめることができた。
 今まで、どうしてもできなかった自己紹介。
 いざやってみれば、それはあまりにも簡単なことだった。

「とりあえず、座ろうか、茂美」
「……」
「茂美でいいよな。俺も、往人と呼んでくれていいから」
「はい…往人さん…」

 旅芸人さん──往人さんは、堤防の縁に腰をかける。
 私も同じように、腰をかけた。
 身体ひとつ分開けて。
 それが、私たちの距離だった。

「観鈴のことは知ってるよな」
「はい…」
「あの癇癪も、見たことあったんだよな」
「ええ…」
「あれは…病気なんかじゃないんだ」

 私はあの日の神尾さんを思い出した。
 すべての存在を拒絶するような、そんな激しい泣き方。
 確かに病気というには、あまりに悲しみに満ちていた。

「この空の向こうには、翼を持った少女がいる」
 空を見上げながら、往人さんがつぶやいた。
「はい?」
「おふくろから、何度も聞かされた言葉だ」
「はあ…」
 唐突な言葉だった。
 よくわからないまま、私は往人さんと同じ空を見上げる。
 白い雲が、ゆっくりと流れていた。

「いつかお前、どうして旅をするのかって俺に訊いたよな」
「はい」
「俺たちの家系は、ずっと旅を続けてきた…空にいる少女を探して」
「少女…?」
「おふくろも、そのおふくろもそうしてきた」

 空にいる少女を探す旅。
 おそらく他の人から聞けば、冗談だろうと笑えるような話だった。
 だけど、法術とかいう、人形を動かす能力のことを考え合わせると、その言葉には不思議な説得力を感じた。

「女の子はいつもひとりぼっちで…大人になれずに、死んでいく」
「!」

 またひとつ、唐突な言葉が往人さんの口から出た。
 はっとして、私は往人さんの顔を見る。

「おふくろが会ったという、空にいる少女の話だ」
「……」
「友達が近づくだけで、その子は苦しがる。だから、ずっとひとりぼっち」
「それって…」
 往人さんは、こくりと小さく頷いた。

「観鈴は夢を見ている」
 往人さんは言葉を続けた。
「その夢が、観鈴を蝕んでいる」

「最初は、だんだん身体が動かなくなった」
「それから、あるはずのない痛みを感じるようになった」

「一緒なんだ」
「一緒?」
「俺がおふくろから聞かされつづけた、空に住む少女の話と一緒だった」

「……」

 往人さんが探しているという、空にいる少女。
 どのようなイメージを往人さんが抱いていたのかは知らない。
 だけど私の中では、空にいる少女と神尾観鈴という少女のイメージが、ぴったりと重なっていた。
 しかし、それは信じてはいけなかった。
 空に女の子が住んでいるわけがないし、往人さんのお母さんの出会った少女と、神尾観鈴が同じなはずはなかった。
 だから、できるだけ現実的なことを言う。

「…それは、病院で診てもらわなければならない症状ではないんですか?」
「観鈴の癇癪が、病院で治ったか?」
「……」
 そう言われると、私には返す言葉がない。
「ともかくだ…」

「俺一人じゃ、どうにもならないんだ…」
「……」
「頼む。観鈴を助けてくれ…」

 往人さんのすがるような目。
 電話口で聞いた声とは、はるかに心の奥に響く言葉。
 だけど、私に何をしろというのか。
 医者でさえできないことが、私にできるわけがない。

「往人さんは…」
「?」
「往人さんは、神尾さんの何なんですか?」

 だから、私は別の質問をしていた。

「何って…」
「空にいる少女のことも、神尾さんの病気のことも、私にはよくわかりません。だから、それを抜きにして、往人さんが神尾さんのことをどう思っているか、ということです」

 私がここに来た理由。
 それは、私の心のわだかまりを解きたかったからだった。
 これ以上神尾さんの話をすることは、謎を増やすばかりだった。
 だから、ここでひとつ、はっきりとした答えを欲しかった。

「俺は…俺は、観鈴のことが好きなんだ」

 往人さんは、私の目を見据えて、そう言った。

「俺は観鈴を愛している。できることならずっと、そばにいてやりたい…」

 何度となく予想した、まったくそのとおりの答えだった。
「だから頼む。観鈴と会ってくれ。観鈴と…俺を助けてくれ」
 私は立ち上がっていた。
「茂美?」
「神尾さんに…会いにいきましょう」
 私の、失恋の瞬間だった。



 神尾さんの部屋に入る。
 パジャマ姿の少女が、ベッドの上で伏せっていた。
「川口さん…?」
 私の姿を見て、神尾さんは驚いた表情を見せた。
 その美しい形の唇を見ると、抑えていたはずの嫉妬の感情が、ちりちりと心を焼いた。

「川口さん、旅行に行ったんじゃ…」
「旅行は、急に中止になったの」
 それだけ言って、私は椅子に腰掛けた。
 その言葉は、きっとあてつけがましく聞こえたに違いなかった。


 私たちは二人になる。
 往人さんとしては、たぶん気を利かせてくれたのだと思う。
 しかし、それは逆効果だった。
 私たちの間に、話すような話題はなかった。
 共通の話題といえば往人さんのことがあったが、それを私から切り出す気にはならなかった。

「具合はどうなの?」
「大丈夫だよ」
「大丈夫で、ずっと寝てるわけがないでしょ」
「…足が動かないの」
「動かない?」
「ううん。そんな心配しなくていいから。歩けるよ。今日も歩いてたし」
「そう…」

 どうしても、尋問するような口調になっていた。
 そんな自分に嫌悪感を抱きながら、沈黙を守りつづけるのに耐えられなくなって、また尋問をはじめる。

「家族の人は、仕事に行ってるの?」
「ううん。お母さんは、温泉へぶらりひとり旅」
「ほかの家の人は?」
「いないよ」
「いない?」
「うん。ずっとわたし、お母さんとふたり暮しだった」
「それじゃ…」

 あまりに無責任じゃないか、と言いそうになって、私は口をつぐんだ。
 私がさっき家族に、自分のことは放っておいて勝手に旅行に行けと言ったのを思い出したからだ。
 だけど、神尾さんの事情はそれとははるかに違っていた。

「いいの。お母さん、ほんとのお母さんじゃないから」
「え?」
「晴子おばさん。わたしがヘンな子だから、押し付けられただけ」
「……」
「だから、いなくなっても仕方ないの。いやいや預かった子を、10年も面倒見てくれたのは晴子おばさん。いつも迷惑かけてたのは、わたしだから」

 私の想像を越えていた。
 お父さんがいて、お母さんがいて、おばあちゃんもいて、兄弟もいる。
 うちのような大家族が珍しいのはわかっているし、片親だけしかいない家族というのも、なんとなく想像できた。
 だけど、神尾さんのように、家族に見捨てられるなんてことは、私は想像したこともなかった。
 もともと、神尾さんには家族というものがなかったのだ。
 往人さんみたいな、はたから見れば素性の知れない人が家にいるというのも、家族が崩壊しているひとつの証拠であったのだ。

「でも、大丈夫だよ」
 神尾さんは微笑んだ。
「今は、往人さん、いるから」
 いま考えていた人の名前が、神尾さんの口から出た。

「往人さんはね…」
「知ってる」

 だけど、続けようとした神尾さんの言葉を、私はさえぎった。

「あの人は、商店街で何度も見たから」
「そう…なんだ」
 神尾さんは口を閉ざした。
 それっきり、神尾さんは往人さんのことを口に出さなくなった。

 おそらく往人さんの存在というのは、神尾さんにとって唯一の心の支えだったのだろう。
 友達もいなく、家族からも見捨てられた神尾さんにとって、往人さんと一緒にいる時間は、唯一の楽しい時間だったはずだ。
 そんな楽しい話をするのは、病人にとっては非常に心の慰めになる。
 だから、見舞いに来た人間としては、積極的に彼女の楽しい話を聞いてやるべきだった。
 それなのに、私はその邪魔をした。
 神尾さんの口から語られる往人さんの話は、きっと私の心を苛むだろうから。
 私は、自分のことしか考えない、嫌な女だった。


 重苦しい時間が、過ぎ去っていた。
「おい、茂美」
 往人さんが、部屋に入ってくる。
「もう遅い。そろそろ帰ったほうがいいぞ」
 そう言ってくれた。
 外の景色を見ると、もうほとんど日が暮れかけていた。
 私たちはそのあいだ、ほとんどお互いに言葉を交わすことはなかった。

「それじゃ神尾さん、私帰るね」
 私は席を立つ。
 神尾さんは、ベッドから上半身を起こす。
「川口さん、今日は来てくれてありがとう…」
 にこりと微笑む。
「でも、もう来なくていいから」
「……」
「観鈴!」
 往人さんが、神尾さんをたしなめる。
 私はただ無言で、神尾さんの部屋を出た。


「…すまなかったな、わざわざ来てもらって」
「いえ…」
 音のない神尾家から、虫の声のする外の世界へ。
 往人さんが、玄関先まで見送りに出てくれていた。
「旅行、取りやめにして来てくれたんだよな。ホントに大丈夫だったのか」
「そんな…大した旅行じゃありませんから…」
「ホントに、悪かった」
「いえ…」

 ヒューン……パンパン!

 そのとき、山の向こうから、大きな破裂音が響いてきた。
「何の…音だ?」
「今日は隣町で、花火大会があったんです」
「そうか…」
「もうちょっと高いところに行けば、見えますけど」
「別に…見たってしかたがないさ」
「そうですね…」

 たくさんの人で賑わっているであろう、隣町の花火大会。
 たぶんジュンやまことも、その人波の中で辟易しながらも、その華麗な炎の祭典に、目を奪われているだろう。
 ふと、今の自分が情けなくなった。

「…また、来てくれないか?」
 往人さんは言った。
「さっきはホントに悪かった。観鈴があんなこと言って…でも、あいつもたぶん喜んでるんだよ。ただ、友達付き合いに慣れてないだけで…」
「……」
「だから、また、あいつのために来てやってくれ」
 結局、往人さんにとって私とは、昨日まではただの客であり、今はただの神尾さんのクラスメートだった。
 私の想いは、ひとつも往人さんに届いていなかったことになる。
 だけど、それは往人さんの責任じゃない。
 想いを届けなかったのは、私なのだから。
「な、茂美」
「…は…い…」
 私はかすれるような声で答えた。
「それじゃ…」
 ぺこりと頭を下げて、私は往人さんの前から去った。



 …何だったのだろう。
 私は帰り道を重い足取りで歩きながら、そう思った。
 私の心の中に突然渦巻いた、たくさんの謎。
 その答えを確かめたくて、私は神尾さんの家へと走った。
 だけどそれは、この夏いちばんの家族のイベントをふいにしてまで、しなければならないことだったのか。
 結局、私が欲しかった答えなどひとつも得られることがなく、私の心は重く淀んだままだった。

「ただいま…」
「おや茂美、遅かったねえ」
 家の中には、おばあちゃんがいた。
「お腹空いてるじゃろ。いま用意したげるからねえ」
 おばあちゃんは台所へ立って、冷蔵庫の中に一人前だけ取り置いていた素麺と薬味を出す。
「…おばあちゃん」
「どうしたのかい?」
「私…素麺より煮麺の方がいい」
「そうだねえ、茂美はおじいちゃんと一緒で、小さい時から冷たい素麺はあんまり好きじゃなかったからねえ」
「うん…」
 コトコトと音を立てて、鍋がコンロにくべられる。
 しばらくして、ホカホカと湯気のたった煮麺が、私の前に出てきた。
 薬味のいい香りが、私の鼻をくすぐった。
「茂美」
 おばあちゃんはやさしく、私に話しかける。
「お父さんたちが旅行から帰ってきたら、ちゃんと謝るんだよ」
「そっか…お父さんたち、行ってくれたんだね」
「1時間ほど、出発が遅れたみたいじゃが」
「そうなんだ…じゃあ今度、理由も話してきっちり謝るよ」
「それがいい」
 おばあちゃんはそれだけ言って、自分の部屋に戻っていった。

 煮麺は、とても温かかくて、懐かしい味がした。
 たっぷりと入ったミョウガが、私の嫌な気分を忘れさせてくれるようだった。


 夜遅くなって、電話がかかってきた。
「もしもし」
「茂美、帰ってきてたのね」
 受話器の向こうから聞こえてきたのは、お母さんの声だった。
「いま旅館からかけてるの。温泉も広いし、とってもいい旅館よ」
「……」
「それにね、夕ご飯で出てきた伊勢エビがとってもおいしくてね。来年もまた来ようかって、みんなで話してたの」
 お母さんの楽しそうな声。
 それに触発されるようにして、私はようやく口を開く。
「…みんなはどうしてるの?」
「寝ちゃったわよ。男連中は今日は自動車の博物館へ行って、ずいぶんとはしゃいでたから」
「…智哉と良勝も、元気だったの?」
「うん。最初はお姉ちゃんがいないからずいぶん淋しそうにしてたけど…でも今は気兼ねなく楽しんでるわよ」
「よかった…」
「あ、でもね、お姉ちゃんのこと忘れてるんじゃないのよ。二人とも、帰ったらお姉ちゃんにあげるんだって、お土産買ってたから」
「そうなんだ…」
 二人の弟の顔が目に浮かぶ。
 おそらく今日の一件で、いちばんショックを受けたのは弟たちだったと思う。
 お母さんとお父さんが、二人をなだめるのにどのくらい心を砕いたろうと想像すると、申し訳なかった。

「ごめんなさい…」

 ごく自然に、心の底から出た言葉だった。

「いいのよ、茂美が謝らなくても」
 だけどお母さんの声に、私を責める調子は混ざっていなかった。

「お母さんたちが気付かなかったのがいけなかったの。茂美ももう、家族旅行なんて歳じゃないものね。友達とかといろんな予定もあるだろうに、勝手に計画入れちゃって…」
「そんな…」
「茂美は今まで素直すぎたのよ。反抗期みたいな時期もなかったもの。今の年代なら、親に反発するのは当然よ」
「そんなんじゃ、ないけど…」

「いいのよ。お母さんもそんな時代あったもの。私も高校くらいのときは、お父さん…長富のおじいちゃんのことね…に反発して、よく家を出て友達といっしょにお酒飲んだりしてたもの」
「へえ、そうなんだ…」
「あ、これはお父さんとおばあちゃんには内緒ね。でも、茂美はいま、そんなことしてないでしょ?」
「うん。それは約束する」
「お母さんたち、茂美のこと、信じてるから。信じてるからこそ、ひとりにしてあげたんだから」

 お母さんの声は、ずっとやさしかった。

「でも、お父さんには気を遣ってあげてね。お父さん、うわべはずっと怒ってたけど、内心はすっかりしょげちゃって。『俺もいつのまにか、娘に疎まれるただのオヤジになってたんだよな…』なんて言って。帰ってきたら、一回くらいはお酌の相手してあげなさいよ」
「うん…」

「茂美?」
「ううっ…」

「…ありがとう、お母さん…ありがとう、お父さん…」

 ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
 それは、失恋に気付いたときでさえ、流れなかった涙だった。

「ありがとう…智哉、良勝…ありがとう…おばあちゃん…みんな…ありが…とう…うぐっ…ありが…と…」
「茂美…」
 嗚咽の代わりに、私は感謝の言葉を言いつづけた。

 いま気がついた。
 私はこんなにも幸せだったんだ。
 こんなにも私のことを想ってくれる家族が、5人もいてくれる。
 神尾さんには、一人としていない家族が。
 もともと私が、神尾さんに嫉妬する理由なんてなかったんだ。
 私はいま、十二分に幸せだ。
 だから、往人さんくらいは、神尾さんに譲ってあげてもいいじゃないか。
 それはとても傲慢な考えだった。
 でも、私にできることはそれくらいしかないから。
 私は決意する。
 幸せな私が、できる限り神尾さんの幸せに協力してあげよう、と。
 それこそが神尾さんのためであり…そしてなにより、往人さんのためになるのだから…


(つづく)



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