川口茂美の特別な夏 〜第5話〜

「おや、茂美」
「あ、おばあちゃん、おはよう」
 両親と弟たちが旅行に出かけて2日目の朝。
 私は早めに起きて、台所に立っていた。

「どうしたんだい? いつもは良く寝てるのに、今日はずいぶん早いじゃないか」
「あはは…ちょっとね」
 卵焼きをひっくり返し損ねたので、苦笑いしながら答える。
「お弁当かい?」
「うん。ちょっと出かけなくちゃいけないの」
「ずいぶんたくさん作ってるねえ」
「4人分だよ。あ、ひとつはおばあちゃんのお昼の分だから」
「そうかい、すまないねえ」
「おばあちゃんが謝ることないよ。私が勝手に作ってるんだから」

 出来上がった料理のうちの3人前分を小さめの重箱に詰めて、私は家を出た。
 向かう先は、神尾さんの家。
 神尾さんのお見舞いをするために…



「神尾さーん、往人さーん。こんにちはーっ」
 呼び鈴が壊れていたので、玄関口から直接呼びかける。
「……」
 返事がない。
「神尾さーん、往人さーん」
 何度か呼びかけても、その声は廊下の奥へと吸い込まれていくだけ。
 私はふと、一度迷い込むと二度と出られない、迷宮の入り口に立っているような気がした。

「往人さん…」
「ああっ…」
 ようやく遠くから声が返ってきて、私は胸をなでおろす。

 しばらくして、往人さんがゆっくりと姿をあらわした。
「茂美か…」
「そうです」
 看病疲れだろうか。往人さんの顔には、あまり生気がない。
「本当に、来てくれたんだな…」
「はい、来ちゃいました」
 だからこそ、私はつとめて明るく返事をする。

「神尾さんの調子は、どうですか?」
 暗い家を、明るくすること。これが私の目的だから。
「上がっても、いいですか?」
 矢継ぎ早に質問をしながら、ややぶしつけに靴を脱ごうとした。

「待て」
その手を、往人さんがさえぎった。

「観鈴には、会わないほうがいい」
「え…」
「悪いが、今はそうすべきだ」

 不吉な予感が、頭をよぎる。
「まさか、神尾さん…」
「いや、それは大丈夫だ」

 往人さんは首を小さく振る。

「観鈴は昨日と比べて良くもなっていないが、悪くもなっていない。これは本当だ」
「だったら…」

 私は床に上がろうとする。

「ダメだ!」

 強い拒絶の言葉に、私はビクリと身体を震わせた。
「…すまない、また来てくれって言ったのは、俺だったよな…」

 往人さんは気まずそうに、目をそらす。
「そのことについては謝る。だけど、この問題はもともと、俺たち二人の問題だったんだ」
「俺の記憶と、観鈴の夢。それは俺たちじゃなきゃ解決できない。他人を巻き込んじゃ、いけなかったんだ」

「往人さん…」
「迷惑をかけて、すまなかった」

 往人さんにとって、滅多にしない行為であろう謝罪。
 それだけにその行為は、私がこれ以上踏み入ることを固く拒否していた。
 往人さんは深々と頭を下げる。
「痛っ」
 その途中で、小さなうめき声があがった。
「…往人さん?」
「…いや、なんでもない。昨日寝違えたんだ」
 往人さんは苦笑いした。
「ともかくだ、悪いが今日のところは…」
「あ、あの、往人さんっ!」
 話を打ち切られる前に、私はカバンの中身をさぐる。
「これを…」
「これは?」
「お弁当です…二人とも、お腹が空いてるだろうと思って…」
 おずおずと、重箱を差し出す。
「二人で…食べてください…」
「そうか…」
 往人さんは、一瞬切なげな目をして、すぐに微笑む。
「ありがとう。貰えるものは、ありがたく頂戴するよ」
 三人前の料理の入った風呂敷包みを、ひょいと片手につまみとった。
「悪かったな、茂美。世話ばかり焼かせて。ともかく観鈴には、しばらく面会謝絶ということで、了解してくれ」
「は…い…」
「じゃあな」

 往人さんはきびすを返して、奥の部屋へと消えていく。
「……」
 私はその背中に何も声をかけることができずに、神尾家を去った。



 自宅のそばの、児童公園。
 おばあちゃんに出かけてくると言った手前、家に戻るわけにもいかず、私は木陰のベンチでぼんやりと時を過ごす。
 考えることは、往人さんと神尾さんのこと。
 まず、事実関係から洗いなおした。
 神尾さんは、何かしらの病気にかかっていて、その病状と、往人さんの記憶にあるお母さんの話とは、良く似ているということだった。
 昨日、電話で呼び出された私は、その話を往人さんから聞いて、神尾さんのお見舞いをした。
 だけど医者にも、往人さんにもわからない病気が私にわかるわけもなく、結局神尾さんには『もう来なくていい』と言われた。
 それでも往人さんはまた来て欲しいと言ってくれたので、私は今日もお見舞いをすることにした。
 それなのに、往人さんは私を神尾さんに会わせようとせず、私は玄関先で追い返された。
 勝手な話だった。
 だけど、神尾さんにもう来なくていいと言われて、往人さんにも来るなと言われてしまっては、私にはどうすることもできない。

 今度は、もう少し客観的な立場から考えてみる。
 昨日、往人さんからかかってきた電話は、私という特定の個人ではなく、神尾さんのクラスメートに対しての電話だった。
 私は声の主が往人さんということで、激情にかられて会いにいったけれど、別にクラスの他の人が神尾さんに会いに行く可能性だったあったわけだ。
 私が神尾さんに『もう来なくていい』と言われたのだって、私が神尾さんに対して嫉妬のような悪意を抱いていたのを悟られただけなのかもしれないし、もし他の誰かが神尾さんに会っていたら、そういうこともなかったかもしれない。
 そして私は昨日の夜、神尾さんの幸せに協力してやろうと決意したけれど、それはしょせん、自分本位で偽善的な決意であって、二人がそんなものは要らないと言うのなら、私はただの押し売りにすぎなかった。

 結局、これらのことから導き出した結論。
 私の役目は、もう何もないということだった。
 両方から協力は不必要だと言われた以上、二人の間に割って入ることは二人のジャマにしかならないし、あるいは私はそのつもりで、二人の家に押しかけようとしただけかもしれない。
 何にしても、私の出る幕はなくなっていた。
 この夏、一本の電話から始まった、ひとつのドラマ。
 その中で私は、笑ったり、悩んだり、泣いたり、ドキドキしたりと、いろいろな表情を演じた。
 だけど、それは今日で終わりだった。
 あまりにも中途半端で、あっけない終わり方だったけど、それが最終回であることに変わりがなく、だから私の出番ももうなかった。

(だけど…)
 私はぼんやりと立ち上がった。
(重箱は回収しておかないと、あとでお母さんに怒られるよね…)



 西日を背中に受けて、神尾さんの家を再び訪れる。
 今さらなんて声を掛けたらいいのか迷いながらここまで来たけれど、目的の重箱は玄関先の端のほうに、ちょこんと置いてあった。
(なんだか、出前みたいね…)
 苦笑しながら風呂敷包みを摘み上げると、結び目がほどけて、中身がばらりと崩れてしまった。
(旅人さんなのに、器用じゃないのね)
 私はしゃがんで重箱を組み立てなおそうとする。そのとき、風呂敷の間から一枚の紙がこぼれ落ちた。
 何気なく拾い上げて、そこに書かれていたあまり綺麗ではない文字を読んだ。

『わりばしの数を見るまで、3人分だとは気付かなかった。
 お前の分もあったんだな。すまない。
 最後まで、お前には迷惑をかけっぱなしだった。
 これから観鈴には、今までどおりに接してやって欲しい。
 距離さえおけば、あいつは元気でいられるはずだから』

「え…」
 文面を見て、言葉を失う。
 その真意に気付いた私は、慌てて玄関の戸を開けた。
 靴脱ぎには、今朝あったはずの男物のスニーカーがなくなっていた。
「!」
 挨拶もせず、家の中に入る。
 廊下の突き当たり、台所には、私の作ったお弁当の中身が皿に移されて、ラップをかけられていた。
 その左、居間を覗き込む。
 扇風機の羽根が、外からの風でふらふらと揺れていた。
 私はその場を離れ、昨日訪れた神尾さんの部屋へ駆け込んだ。

「神尾さんっ!」
「川口さん…」
 神尾さんは、私の形相に一瞬あっけにとられた表情をしたが、すぐに笑みを浮かべる。
「にはは。お弁当、おいしかったよ…あんまりたくさん食べられなかったけど」
「そんなことは訊いてないわよっ!」
 私は構わず、神尾さんのベッドの前まで進んだ。
「往人さんは?」
「……」
「往人さんは、どこへ行ったの!」
 相変わらず、尋問するような口調を変えられない。
 だけど、そんなことを気にしていられないほど、事態は切迫しているように思えた。

「往人さんは…」
 神尾さんが重い口を開いた。

「往人さんは、行っちゃったの」
「え…」
 予想していた答えなのに、思わず聞き返す。
「往人さんは、また、旅に戻ったの」
「……」
 私に宛てられたメモの意味。
 それは、確かに、別れのメッセージだったのだ。

「川口さんは、わたしが夢を見てるって話、知ってるんだよね」
 神尾さんは、静かに語りはじめた。
「空にいる、もう一人のわたしの夢」
「その夢が、わたしをこんな風にしてるの」
「最初は、足が動かなくなって」
「夜中に突然、どうしようもなく痛くなったり悲しくなったりして…」
 私はうつむいたまま、その話を聞いていた。

「そして今朝、往人さんの調子もおかしくなった」
 はっとして、顔を上げる。

「背中を、とても痛そうにしてた」
 今朝の往人さんの様子を思い浮かべる。
 確かに、お辞儀をしたときに、かすかにうめき声を上げたのを覚えている。

「それは、わたしのせい」
 神尾さんは言った。
「わたしの夢が、往人さんを苦しめているの」
「心が近づきすぎたから、往人さんも苦しまなくちゃならなくなったの」
「……」

「だから、往人さんはわたしから離れたの」
「離れ離れになれば、苦しまなくてすむから」
「この町から出れば、往人さんはきっと元通りになるから」

「寂しいけど、でもそれは仕方ないよね」
「迷惑をかけていたのは、わたしの方だったから」
「これからはわたし、ひとりでがんばっていかなきゃね…」
 神尾さんは、にははと笑った。
 その笑顔があまりにも虚しいので、私は目を逸らした。

「川口さんも、もういいよ」
 やさしく、私に声を掛ける。
「あまりわたしの側にいると、往人さんみたいになっちゃうよ」
「往人さんみたいに苦しくなる前に、わたしから、離れて…」

「神尾さんは…」
 私はうつむいたまま、つぶやいていた。
「神尾さんは、それでいいの?」
「え…?」
「本当に、往人さんがいなくなって、それでいいの?」

「…わたしは、往人さんと一緒にいたらいけないから…」
「そんな建て前は訊いてないの!」
 私は神尾さんの顔を見上げた。

「私はあなたの本当の気持ちを訊きたいの! 往人さんが苦しむとかどうとかは抜きにして! あなたが往人さんと一緒にいたいか、いたくないか、それを教えて!」

 神尾さんの細い肩を掴んでいた。
 私は神尾さんの目をまっすぐに見つめて、問い詰めた。

「わたしは…」
 ためらいながら、神尾さんはようやく口を開いた。
「わたしは、往人さんと一緒にいたい…」
 目じりに、涙を溜めながら。
「往人さんは苦しむかもしれないけど、ひとりじゃ寂しいから…往人さんが好きだから…」
「わたしは、往人さんと一緒にいたい…」

 それだけ聞ければ十分だった。
 私は無言で立ち上がった。

「川口…さん?」
「往人さんは、いつこの家を出たの?」
「1時間くらい…前かな。お金ないから、たぶん歩きだよ」
「そう」
 私はきびすを返した。
「どうするの?」
「決まってるでしょう…」
 私は部屋の戸口で、背を向けたまま答えた。
「往人さんを、連れ戻してくる」



 町の出口は、ひとつだった。
 海岸沿いの県道、一本道。
 道が分かれるまでは、まだ少しあった。
 往人さんが背中を痛めているというのであれば、必ず追いつくはずだった。
 私は必死に走った。
 そして、町はずれのバス停前。
 私は、あの人のうしろ姿を見つけた。

「往人さんっ!」
 私の声に、往人さんが振り返る。
「茂美…」
 往人さんは、気まずそうに私の顔を見て、そして寂しげに微笑んだ。
「弁当、うまかったぞ…あんまりたくさん、食えなかったがな」

 私は、荒くなった息を落ち着けてから、問いかける。
「どうして…行っちゃうんですか」
「ひとつのところに留まるのは、俺の性分じゃないんだ」
「お金、まだ稼げてないんでしょう?」
「そんなものはいらなかった。歩いていけばよかったんだ」
「今度からは野宿ですよ」
「構わない。そもそも、この町には長居しすぎたんだ」
「……」

 一瞬、言葉が途切れる。
 私はもう一度、呼吸を整えた。

「神尾さんは、自分が往人さんを苦しめてるんだって、自分を責めてました」
「……」
「だけど、迷惑をかけてしまうかもしれないけど、往人さんとずっと一緒にいたいんだって、そう私に言ってくれました」
 往人さんの表情が、曇るのがわかる。

「だから…神尾さんのために、行かないでください…」

 私は精いっぱい、神尾さんの気持ちを伝えたつもりだった。

「…二人の心が近づけば、二人とも病んでしまう」
 往人さんは答えの代わりに、こうつぶやいた。
「二人とも、助からない…」

「それは、お母さんの…?」
「そうだ」
 往人さんは、小さくうなずいた。

「すべては、おふくろの言葉のとおりだった」
「言葉のとおりに、観鈴はだんだん蝕まれていって…そしてついに俺の体も、あるはずのない古傷が痛み始めた」
「……」
「大丈夫だ」
 往人さんは小さく肩を上下して見せる。
「観鈴から離れたら、背中の痛みはほとんどなくなった」
「それもこれも…俺たちの心が近づきすぎたせいだったんだ。近づいたせいで、観鈴も俺も、お互いに病んでしまったんだ」

「だから…俺たちがお互いに助かるためには、心を離す以外になかったんだよ…」
「他に…方法はないんですか?」
 往人さんは首を横に振った。
「もし一緒に居続けて、解決策を見つけられないままだったら、二人とものたれ死にだ」
「……」
「そうなるよりも、こうして離れ離れになった方がずっといい」

「観鈴も、今は寝てるかもしれないけど…俺が心を離したんだから、きっと良くなる。今までの病気が嘘みたいに、また元気になるはずだ」
「また友達ができそうになったら、癇癪を起こすかもしれないけど…お前みたいな子がクラスメートにいるんだったら、それで十分だ」

「往人さん…」
「お前はいまでも十分観鈴のことを気遣ってくれている。だからこれからも、つかず離れず、今の観鈴との関係を守ってくれ」

「…ははは。結局最後まで、お前には頼みごとばかりだな、俺は」
 往人さんは笑う。
「でも、俺は今すぐこの町を出て行かなきゃならないから…」
「借りはいつか出会ったときに返す。たっぷり利子をつけて、な」
「だから、そのときまで…」

「さようなら」

 往人さんが、背を向けて歩き出す。
 たちこめる陽炎の中が、あの人の姿がぼんやりと消えていく。
 最後に見せた笑顔が、あまりにも悲しくて。
 私は掛ける言葉が見つからなくて…


「行っちゃダメェぇぇっ!!」

 私は真っ先に浮かんだ制止の言葉をはりあげていた。

「どうして諦めちゃうんですかっ!」

「神尾さんのことが好きなんでしょう? だったら、どうして諦めちゃうんですか!」

 絶叫がこだまして、往人さんを歩みを遅らせる。
 私は往人さんを繋ぎとめられる言葉を、必死で手繰り寄せようとして…

「私、往人さんのことが好きです!」

 まるで違う言葉を叫んでいた。

「え…?」
「あ…」
 大変な間違いがあったことに気付いて、私は赤面する。
 だけど、私の素っ頓狂な発言に、往人さんは完全に足を止めて、こちらを振り返っていた。

「…ごめんなさい…なんか場違いなことを言っちゃって…だけど、本当です。私は、往人さんのことが大好きなんです!」

 仕方ないので、そのまま続ける。

「正直に言います。私、神尾さんのことなんてどうだってよかったんです。往人さんが好きな人ですもの。むしろ、嫉妬してたんです」

「だから昨日と今日、お見舞いに行ったのも、神尾さんのためじゃありませんでした。往人さんに会いたいから、往人さんと話をしたいから、私は神尾さんの家に行ったんです」

 こうなると、勢いだった。
 今まで言えなかった言葉が、どんどん胸の中からあふれてくる。

「いっぱい、ショックなことがあったんです。往人さんが神尾さんの家に暮らしてるのを知ったとき。堤防でふたりが肩を寄せ合っているのを見たとき。昨日、往人さんから電話がかかってきたとき。往人さんの口からはっきり、神尾さんのことを愛してるって聞いたとき…」

「だけど、私は諦めたくないんです! 往人さんが好きだから、往人さんがいつか私の方に振り向いてくれるまで、私は往人さんと一緒にいたいんです!」

 一歩一歩、往人さんに歩み寄っていく。

「だから…往人さんも諦めないで、この町に残ってください! 今は神尾さんが好きでいいですから、町にいてください!」

「往人さんの頼みだったら、何でも聞きますから…お願いです」

 二人の距離は、しだいにゼロに近づいていって…

「私のために…行かないでください…」

 最後に私は、往人さんの胸にしがみついていた。

「ううっ…往人さん…行かないでぇ…」

 私は往人さんの胸の中で泣き崩れる。
 それは考え得る、最悪のタイミングでの告白。
 たぶん他の人が見たら、笑ってしまうくらい滑稽な姿だったに違いない。
 だけど、これが私の本当の気持ち、全てだった。
 この想いが通じなければ、私に打つ手はもうひとつもなかった。

「茂美…」
 往人さんが私の背中に手を添えてくれた。
 私は目を閉じて、往人さんの胸に体重を預けた。

「…わかった」
 しばらくして、往人さんが言った。
「出発は取りやめだ」

「往人さん…!」
「茂美にはずっと世話になりっぱなしだったものな。これくらいの頼みは聞かなきゃダメだよなあ」
「は…いっ…」
「だけど、その代わり、お前にまた頼まなくちゃならないことがあるんだ」
「……」
「今のお前には、いちばん酷なお願いかもしれないけど…」

「観鈴と、友達になって欲しい」
「……!」

「こういうお願いは、ダメ、か…?」

 私は返事の代わりに、顔を小さく横に動かした。
「すまない、茂美…」
「往人さんのお願いは…何でも聞くと言ったはずです」
「そう、か…」

 往人さんのTシャツが、往人さんの汗と、私の汗と涙とで、ぐちゃぐちゃに濡れていた。
 その向こう側にある、筋肉質の素肌から、私は往人さんの息づかいを感じ取る。

「俺…お前には悪いけど、やっぱり観鈴のことが好きなんだ」
「ずっと、一緒にいてやりたいんだ」
「だけど、不安だったんだ」
「一人であいつの思いを支えきれるか、どうしようもなく不安だったんだ」
「誰かに…助けて欲しかったんだ…」

「大丈夫ですよ」
 私は、ぐっと往人さんの身体を抱きしめた。

「往人さんは一人じゃありません」
「二人っきりなんかにも、させませんから…」



 日が落ちてから、神尾家に戻った。
 神尾さんは、往人さんの帰りを本当に喜んでくれた。
 往人さんは簡単に観鈴に挨拶したあと、シャワーを浴びると言って部屋をでた。
 私と神尾さんは、二人になった。

「川口さん…今日は本当にありがとう」
 神尾さんから、口を開いた。
「往人さん、連れ戻してくれて…」
「どういたしまして」
「往人さんいなくなったら…わたし、がんばれなくなるかもしれなかったから…本当に、ありがとう」
「どういたしまして」
「ありがとう、川口さん…」
「どういたしまして」
「ありがとう…」
「…ぷっ」
「?」
「だって、神尾さん、ずっと『ありがとう』ばっかりなんだもん」
「にはは。川口さんだって、ずっと『どういたしまして』ばっかり」
「あはは」
 ふたり、笑いあう。

「だけど、ちょっと心配」
 不意に、神尾さんの表情が翳った。
「往人さんが戻ってきても、わたしの夢が終わらなかったら…結局、また往人さんを苦しめるかもしれないから…」

「…それって、二人の心が近づけば、二人とも病んでしまう、ってやつでしょ?」
「うん…」
 神尾さんは小さくうなずく。
「だったら、大丈夫よ」
 私は笑顔で、その肩に手を添えてやった。

「私たちは、三人よ」
「?」
「往人さんと、あなたと、私。三人がかりよ」
「三人…」
「よく、考えてみて」
 私は立ち上がって、説明する。

「往人さんのお母さんの預言は、『二人の心が近づけば』ということだったでしょ? 三人の心が近づいた場合には、何も言ってないじゃない」
「あ…」
「だから、きっと大丈夫よ。三人で心を近づけたら、何も起こらないわよ。誰も、病気になんかならないわ」
「……」
「どう、このアイデア?」
 私は神尾さんに微笑みかける。
 それにつられるように、神尾さんも笑ってくれた。
「川口さん、ナイスアイデア」
「でしょ?」

 正直、神尾さんに対するわだかまりは、完全に消えたわけじゃない。
 本当に信頼しあっている二人を見ると、いまでも嫉妬の感情が胸を焦がす。
 愛される神尾さんと、ふられた私。
 だけど、二人とも同じ人が好きだということは、同じ思いを共有しているということだから。
 ひょっとしたら私たちは、良い友達になれるかもしれなかった。


(つづく)



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