川口茂美の特別な夏 〜第6話〜

 空に囚われているという少女、神尾観鈴。
 その少女を探して、ずっと旅していたという青年、国崎往人。
 二人はこの町で出会って、引かれあい。
 そして定められた運命をたどるように、苦しみ始めた。

 …私は、部外者でしかない。
 彼女のクラスメートというだけの、彼の大道芸の客というだけの、それだけの 存在でしかない。
 だけど。
 私は、この二人に手を差し伸べる。
 誰のためでもない。
 私が、そうしたいから。
 二人の間に割り込んで、おせっかいを焼きたかった。


「おはようございまーす」
 神尾家の玄関。
 私は大きな声で、奥へと声をかける。
「おじゃまします…」
 返事がないので、勝手に中へと入る。
「ぐう…」
 案の定、往人さんは茶の間で、まだ寝息を立てている。
「おはようございます、往人さん」
 近づいて、声をかける。
「ほら、朝ですよ、起きてください往人さん」
「ん…」
 体をゆすっても、なかなか起きてくれない。
「……」
 少し意を決して、往人さんの顔に、唇を寄せる。
 ふーっ。
 耳の中に息を吹き込んだ。
「んっ…あぁん」
 かわいい声があがる。
 楽しくなって、もっと息を吹き込んでみる。
 ふーっ、ふーっ。
「あぁ…あぁんっ…」
 くすぐったそうしながら、こちらに顔を向ける。
 そして、ゆっくりとまぶたを開く。
「……」
 往人さんの瞳の中に、私の顔がアップで写っていた。
「うわぁっ!」
 往人さんは飛び起きて、慌ててあとずさる。
「し、茂美っ…!」
「おはようございます、往人さん」
 つとめて平静に、朝の挨拶をする。
「……」
「往人さん、朝の挨拶はおはようございます、ですよ」
「あ、ああ、おはよう…」
「すみません、返事がないので、勝手に入ってきちゃいました」
「……」
「でももう9時半ですから、起きてないほうが悪いですよ」
「…あ、ああ」
 あからさまに狼狽している往人さん。その表情が、楽しい。
「…なあ、茂美」
「はい?」
「何も…してないよな」
「何がですか?」
「いや、何だ、その、例えばだな…」
「ちょっと、耳に息を吹きかけただけですよ」
 私はにこりと笑う。
「神尾さんに怒られるようなことは、しませんよ」
「え…」
「神尾さん、起こしてきますねー」
 戸惑う往人さんに背を向けて、さっさと廊下に出る。

 別に、私の往人さんに対する想いそのものが変わったわけではない。
 好きなことに変わりはないし、その想いが神尾さんに負けているとも思っていない。
 ただ昨日、心のうちを洗いざらい告白してしまったために、今までよりもずっと自然に、往人さんに向き合えるようになっただけだ。
 むしろ、告白された往人さんの方が、私に対して気まずくなってしまったようで、立場が逆転したようで少し愉快だった。



神尾さんはすでに目を覚まして、ベッドの上で上半身だけ起こしていた。
「おはよう、神尾さん」
「あ…」
 神尾さんは、少しだけためらったあと。
「おはよう、川口さん」
 笑顔で挨拶を返す。
 そういえば、私と神尾さんがまともに挨拶をしたのは、これが初めてだったということに気づく。
「今日の調子は、どう?」
「うーん、良くはなってないけど、悪くもなってないかな」
「お腹、空いてる?」
「にはは。ちょっと、すいてるかも」
「だったら少しはプラス成長なのかもね。ちょっと待ってて。すぐに、ご飯炊くから」
「…ごめんね」
「謝りたかったら、まずは病気を治しなさい」
「うん…」
「それじゃ」
 私は、部屋を出ようとする。
「…川口さんっ」
 その背中を、神尾さんは呼びとめた。
「?」
「ええっと…冷蔵庫の中に、けっこう卵が余ってたと思うから…」
「了解」
 微笑んで、私は台所へと向かった。


 3人で、少し遅めの朝食をとる。
 炊き立てのご飯と、卵焼きと、お麩とワカメの入った味噌汁。
「卵以外、冷蔵庫にめぼしいものがなかったから、適当だけど…」
 飾り気がないのを弁解する。
「ううん。とってもおいしいよ。ねえ、往人さん」
「そうだな。この卵の焼き加減なんか、匠の技を感じるな」
 評論家みたいな誉め言葉をいう、往人さん。
 お世辞でも、ちょっとうれしい。
「…そういえば」
 照れ隠しに、話題を変える。
「冷蔵庫の中に、変なジュースの紙パックがあったけど、あれ、何なのかな?」
「あ、それはどろり濃厚シリーズだよ」
「うん。そう書いてあったけど、見なれないジュースだから」
「……」
 ふと横を見ると、往人さんの表情が凍っていた。
「で、どんなジュースなの?」
 気にせず話を進める。
「とってもおいしいよ。私のお気に入りのジュースだよ」
「そうなんだ」
「川口さん、飲んでもいいよ」
「そうなの? じゃ、朝ご飯食べた後、デザート代わりにありがたく頂戴するわね」
「頼むからやめてくれ」
 往人さんが口を挟んだ。
「?」
「茂美、こいつの言葉にだまされたらダメだぞ。あのジュースは、まともじゃない」
「そうなんですか?」
「何度か口に含んだことはあるが、あれは飲み物というジャンルを越えてしまってる」
「そんな言い方ないと思うなあ。慣れたらおいしいのに…」
「慣れたないわっ! …まったく、あんな商品を置いてる武田商店の気がしれん…」
「え? あのジュースって、武田商店で売ってるんですか?」
「ああ。前の自動販売機に、おいてある奴だ」
「えーっ! あの自動販売機って、ずっと壊れて使えないって聞いてましたよ?」
「…まあ、ある意味壊れてるわな、あれは」
 往人さんは肩をすくめた。
「そういうわけで、壊れている自動販売機で売っているジュースを飲むのは、とても危険だということだ。命が惜しければ飲まないほうがいい」
「…じゃあ、そうします」
「おいしいのに…」
 神尾さんはちょっとすねたようだった。

 ピー、ピー。
 そのとき、家の裏手からブザーが鳴った。
「何の音だ?」
「洗濯機、回してたんです。お風呂場に洗濯物、溜まってたから」
「あ…」
 神尾さんが驚く。
「あれ? 何か洗濯してダメなものとかあった?」
「ううん。ありがとう。ただ、よく気がつくなって思って」
「だって、神尾さんはずっと寝てるんだもん。洗濯なんかできないでしょう?」
「そうだよね…」
「しかし、普通はそこまで気がまわらないぞ」
「うん。川口さん、いいお嫁さんになれるね」
「そうだな。料理が上手くて、掃除洗濯ができて、なおかつ補習も受けてなければ、嫁としては申し分ないな」
「がお…補習は関係ない…」
「だけど、成績が悪くて遅刻ばかりの不良学生よりも成績のいい子の方が、姑さんの印象もずっといいぞ」
「うー」

 往人さんにからかわれて、表情をころころと変える神尾さん。
 そのひとつひとつに、私は新鮮な感動を覚える。
 学校で、ときおりかいま見る神尾さんの顔も、確かにニコニコとしていた。
 だけど、それはたとえば、笑顔の面を被っているような、そんな堅くて空々しい表情だった。
 でも、いま見る神尾さんの表情は、無邪気な子供のように、本当に生き生きしている。
 こんないい顔をするのなら、いつまでも見ていたいと思うのは当たり前だ。
 往人さんがこの子を好きになった理由が、わかったような気がした。

「だけどね、川口さん」
「ん?」
「川口さんが、いいお嫁さんになれると思うのはホントだよ」
「ありがと」
「川口さんとだったら、結婚したいと思う男の人がいっぱいいるだろうし」
「そんなことないわよ」
 私はいたずらっぽく笑う。
「実は私、男の人に振られたばっかりなのよ」
「え? 川口さん、失恋したの?」
「うん。残念ながらね」
「うーん、そんな男の人がいるなんて、なんだか許せないなあ」
「それが、そんな許せない男の人もいるのよ」
 神尾さんに気づかれないように、往人さんに目配せする。
 往人さんは冷や汗をかいているようだ。
「その男の人って、わたしの知ってる人かなあ」
「そうねえ」
 私は立ちあがる。
「往人さんに訊いてみたら、何か知ってるかもね」
「お、おい茂美っ!」
「洗濯物、干してきまーす」
 そそくさと、部屋を退散する。
 それは、私よりも神尾さんを選んだ往人さんに対する、ささやかな復讐というものだった。



 洗濯物を干し終わって、そのついでに商店街に出かけて、夕食分の材料を買って戻ってくる。
「…あれ? 往人さんは?」
「人形芸してくるって、出かけちゃった」
 どうやら逃げたらしい。
「往人さん、川口さんを振った男の人のこと、教えてくれなかった。そんなひどい男の人って、誰なのかなあ…」
「あはは。誰なんだろうねえ」
 どうやら、あれだけヒントを与えてもわからなかったらしい。
 まったく、単純な女の子ということだ。
 私はベッドの横に椅子を置いて、そこに腰をかける。

「ねえ、観鈴」
「え…?」
 神尾さん──観鈴は、驚いてこちらを見る。
「ええっと…」
「観鈴…でいいでしょ?」
「……」
「私も、茂美って呼んでいいから」
「どうして…?」
「さすがに『神尾さん』は他人行儀すぎるでしょう」
 観鈴の頭に、ぽんと手を置く。
「だって、私たち、友達だもの」
「あ…」

「うんっ」
 観鈴の顔が、ぱあっと明るくなる。
 友達。
 言葉にすると、とてもありふれて、陳腐に聞こえてしまう。
 だけどそれは、今まで観鈴が求めてやまなかった、大切な探しものだった。

「ねえ、観鈴」
「…なに、茂美ちゃん」
「別に『ちゃん』もつけなくてもいいわよ」
「でも、なんとなくそう呼びたいから。いいでしょ、茂美ちゃん」
「もちろんよ」
「…茂美ちゃん」
「なに、観鈴?」
「茂美ちゃんが、何か話したかったんでしょ?」
「そうね…」
 私はもういちど、椅子にきっちり座りなおす。
 私と観鈴が本当に友達になるために。
 きっちりと話しておかなければならないことがあった。

「…ねえ観鈴、私たちが初めて会ったときのこと、覚えてる?」
「うん。始業式のあとの、ホームルームだったよね」
「私、クラス替えでずいぶん友達とはなればなれになっちゃって。ちょっと心細かったから、前にいるあなたに声をかけたの」
「あのときはびっくりしたよ。突然、背中をつつかれたから」
「私も、あれだけびっくりされるとは思ってなかった」
「にはは。
まだ、わたしに声をかけてくれる人がいたなんて、思ってなかったからね」
「……」
「でも、ホントにうれしかったよ。茂美ちゃんが『一緒に帰ろ』って言ってくれたときは」
「で、私たち、一緒に帰ったのよね」
「…なのに、わたし、途中の道端で突然泣き出しちゃって。びっくりしたよね。突然、あんなことになって」
「うん。どんなに慰めても、泣き止まなくて」
「聞こえてたんだよ。茂美ちゃんがいろいろと慰めてくれる声。だけど、どうしても涙が止まらなくって…」
「結局、私はそのまま、あなたを置いていってしまったのよね」
「仕方ないよ、それしか方法はなかったんだもの」
「うん…」

「…実はね、私、あのあと保健室に戻ったの」
「そうだったの?」
「『神尾さんの様子がおかしい』って保健の先生に言ったら、先生が言ったの。『あの子はそういう病気だから、親しくしてはいけません』って。だからそれっきり、私はあなたに声をかけなくなったの」
「そうなんだ…」
「だけど、今は後悔してる」
「……」
「保健の先生の言うことを信じないで、ずっとあなたと一緒にいたら、もっと早く、いい友達になれてたかもしれないのに…」
心の奥底でひっかかっていた、観鈴に対する罪悪感。
今までは、それをずっとないことにして、日々を送っていた。
だから、今この場で、きっちりと謝っておきたかった。
「…ごめんね、観鈴」

「にはは。謝ることはないよ」
 観鈴は笑ってくれた。
「茂美ちゃんは…この夏に友達になれってくれたから、意味があるんだよ」
「観鈴…」

「…わたしね、今年の夏は特別だって思ってた」
「この夏休みこそ、友達を作るんだって…そう意気込んでた」
「そうしたら、往人さんが来てくれた」
「こうして、茂美ちゃんも友達になってくれた」
「いままでは…友達ができなくてもいいって、そう思ってた。だから、できないのは当たり前だった」
「だけど…こうして友達が欲しいって思うと、二人も友達ができた。だからこの夏は、本当に大成果だったんだよ」

「…そうね」
 私は、観鈴の頬にそっと手を触れた。
「この夏に私たちが友達になれたから、意味があるんだよね」
「うん…」
「私にとっても、この夏は特別よ…」
「うんっ」
 観鈴の笑顔。
 それを見るためには、私たちが一方的に与えるだけでは不十分だった。
 観鈴自身が、勇気を持ってこちらに一歩、踏み出してくれるから。
 こんなにも、幸せな笑顔が見られるんだ。

「…だけどね、観鈴」
「?」
「あなたの言ってることには、ひとつだけ間違ってることがあるわ」
「何…?」
「往人さんは、友達じゃないわよ」
「えっ?」
 観鈴は驚く。
「友達じゃ…ないって…」
 観鈴の顔が、不安な色を帯び始める。
 私は少しだけ、呆れてしまった。
「…あのね、女の子が男の人に『友達でいましょう』って言うときは、『あなたとはお付き合いはできません』って言ってるのと同じことなのよ」
「そうなの?」
「そう。だから『友達』なんて言ってたら、あれだけあなたのことを想ってくれてる往人さんに失礼よ」
「うーん、じゃあどう呼べばいいかなあ?」
「恋人、よ」
「こいびと…」
 その言葉に、観鈴は頬を赤らめる。
「そう。あなたたちは誰が見たって、立派な恋人同士よ。ちょっとは自覚しなさい」
「…うん」
 少しためらったあと、観鈴は大きくうなずいた。
「往人さん、恋人」
「そうよ」
「にはは。往人さん、恋人」
 ぺちっ。
「イタイ…どうしてデコピンなんかするかなあ…」
「なんとなく、よ」
 嫉妬しただけだ。
「がお…」
 観鈴は、少し納得いかない表情だった。



 夕方になって、往人さんがようやく帰ってきた。
「お。今日の夕飯はカレーか」
「はい。川口家流の、特製ビーフカレーです」
 観鈴の部屋の丸テーブルまで鍋を運んで、3人一緒の夕食をとる。
 明日の昼間の分まで作っていたはずが、往人さんがどんどん食べるせいで、すっかり無くなってしまった。
「あーあ往人さん、カレーは一晩寝かせたほうがおいしいのに…」
「明日にもっと美味くなろうが、今日美味いものは今日のうちに食っておくのが、俺の信条だ」
「じゃあ、明日もカレーでいいですか?」
「…できれば別のもので頼む」
「了解しました」

 食器を片付けて、炊飯器のタイマー予約をして、観鈴の部屋にもどる。
「それじゃ私、もう遅いので帰ります」
「え…そうなの…?」
 名残惜しそうに、観鈴が私の目を見る。
「もっと、いろいろ話したかったのに…」
「おいおい、あんまり遅くまで引き留めたら、向こうの家の人も心配するだろ」
 往人さんが観鈴をたしなめる。
「…そうだよね」
「それに、観鈴には往人さんがいるじゃない」
「……」
 言われて、観鈴は頬を赤らめる。
 どうやら昼間に言った、『往人さんは恋人』という言葉を思い出しているらしい。
 そう。
 これからは、恋人の時間だ。
 二人のために、友達は退散しなければならない。
「それじゃあ観鈴、がんばってね」
「…うんっ」
 観鈴は神妙にうなずく。
「往人さんも、がんばってください」
「…な、何をがんばれと?」
 往人さんは慌てる。
 二人の様子に笑いをこらえながら、私は別れの挨拶をする。

「じゃ、また明日」

 いつまでもべったりしていることが、友達の役目じゃない。
 いちど別れても、明日になればまた会える。
 だからこそ、友達なんだ。

「うんっ」




 次の日。
 また、同じ時間に神尾家の玄関をくぐる。
「おはようございますー」
「茂美、おはよう」
 往人さんがあくびをしながら出迎える。
「…今日は、起きてらしたんですね」
「さすがに、同じ手は二度と食らいたくはないからな」
「私も、同じ手を考えてたわけじゃないですけど」
 にこりと微笑んでみせる。
「…とりあえず、早起きは大切だということだな」
「そうですね」


 ご飯を炊いておいたので、すぐに朝食の準備は整う。
 朝食を食べ終えると、往人さんはもう一度寝直すと言って茶の間に戻り、私は観鈴の話し相手をする。
「…そういえば、観鈴」
「?」
「あなた、お風呂に入ってないよね」
「…わかる?」
「さすがに夏場は、ちょっと目立つかな」
「うーん、やっぱり?」
「寝てるばっかりじゃダメだし、たまにはお風呂に入ろっか」
「でも、あんまり足うごかないし…」
「それじゃあ、私が一緒に、洗うの手伝ってあげるわよ」
「えーっ、それは恥ずかしいよー」
「…私だって恥ずかしいわよ。
でも、そうでもしないと、体洗う気にならないんでしょ?」
「うーん…」
「さすがに不潔すぎると、往人さんに嫌われるわよ」
「…でも往人さん、夕べは『ちょっとくらい臭いがあるほうがいい』って言ってた」
「……」
 ぺちっ。
 無言で、デコピンをしてやる。
「イタイ…どうしてそんなことするかなあ…」
「あなたののろけ話など、聞きたくないわよ」
「がお…」
「なんにしても、何日もお風呂に入ってないのは、女の子としてまずいわ。もうお湯は沸いてるから、入ろ」
「…う、うん」

 風呂場で。
 私は、観鈴の美しい体を見ていた。
 夏の日差しを全く受けていないような、白い肌。
 バランスのとれた、肩のライン。
 控えめだが、かたちのいい胸。
 きっちりと引き締まったウエスト。
 その割にはふくよかなヒップ…
「綺麗よ、観鈴…」
「わ、茂美ちゃん、目が妖しくなってる」
「別に私にそんな趣味はないわよっ」
 でも、女性の私が見ても、本当に綺麗な体だった。
 そして、私の視線は、ヒップから下へとのびる、脚部へと移っていた。
 太くもなく、細くもない太もも。
 ちょっとすりむいた傷が残っている膝。
 すらりと伸びたむこうずね。
 少し小さめの足の甲。
 運動はそれほどできなさそうだが、別に外から悪いところは見つからない。
 だけど、この足が動かないから、観鈴はずっと、ベッドで寝ているのだ。

「…どうして、動かないんだろうね」
 なんとなく、つぶやく。
「わたしも、よくわからないよ」
「さわられて、痛いってことはないんでしょう?」
「うん…ちょっと痺れた感じがするだけで…」
「そのほかに、変なところはない?」
「うーん、わからない…」

『女の子は、夢を見るの』
『その夢が、女の子を蝕んでいくの』
『最初は、だんだん身体が動かなくなる』
『それから、あるはずのない痛みを感じるようになる』
『そして…』
『女の子は、全てを忘れていく』
『いちばん大切な人のことさえ、思い出せなくなる』
『そして、最後の夢を見終わった朝…』
『女の子は、死んでしまうの』
 不意に、私の頭の中を言葉が走りぬけた。
 それは、往人さんのお母さんが話して聞かせたという、空にいる少女の話だった。

「…茂美ちゃん」
「……」
「茂美ちゃん!」
「あ…」
「どうしたの、ぼんやりして」
「…ううん、なんでもないわ」

 そんなことがあるはずはなかった。
『だからその子は、ずっとひとりぼっち』
 観鈴はもう、ひとりぼっちじゃない。
『二人の心が近づけば、二人とも病んでしまう』
 私たちは、3人いる。
『友達が近づくだけで、その子は苦しがる』
 別に私が近づいたって、観鈴が苦しがることもない。
 そうだ。
 往人さんのお母さんの預言は、すでに半分ほどが覆されているのだ。

『そして、最後の夢を見終わった朝…』
『女の子は、死んでしまうの』

 頭の中で繰り返された不吉な言葉を、慌てて否定した。

「ひょっとしたら…」
「?」
「観鈴は金星人のUFOに連れ去られて、足にチップを埋め込まれたのよ」
「えーっ」
「じゃあ、ニャントロ星人」
「なんなの、ニャントロ星人ってー」
 観鈴は笑ってくれた。

「…で」
 私は、壁に向かって声をかける。
「往人さんは、金星人説とニャントロ星人説、どちらがいいですか?」
「うわっ」
 壁の向こう側で、人の落ちる音がした。
「…いつから気づいてたんだ、茂美」
「さっきから、人がうろうろしてる気配がしてましたから」
「往人さん、覗いてたの?」
「…いや、女性二人が風呂に入ってるというのにそれを覗かないのは、礼儀に反するかなと思って…」
「往人さん、ヘンタイ…」
「…弁解するが、未遂だぞ」
「未遂でも一緒です。速やかに退去してください」
「…はい」



「ねえ、トランプしよっ」
 午後になって、観鈴が私たちに、こう言ってきた。
「トランプ?」
「神経衰弱は、もうしないぞ」
 おっくうそうに、往人さんはいう。
 どうやら往人さんは、さんざん付き合わされたことがあるらしい。
「別に神経衰弱でなくてもいいよ。せっかく3人いるんだから、3人でできるゲーム、しよ」
 確かに、二人だけではまるで緊張感がなくても、3人になると面白くなるゲームが、いっぱいある。
「そうね、やろっか」
 私は座りなおした。
「さ、往人さんも」
 言われて、しぶしぶ座りなおす。
「にはは」
 観鈴はトランプを切り始める。
「…へえ、けっこう器用ね」
「うん、小さいときから、ヒマなときはずっとこうやって遊んでたから」
「…言っとくけど、観鈴はかなり強いぞ」
「やってみないとわかりませんよ」

 …結果。
「うわぁっ! どうしてまたお前が、一番先にあがるんだよっ!」
「…茂美ちゃん、強すぎ」
 どのゲームをやっても、私の連戦連勝だった。
「…何か、イカサマでもしてるんじゃないか」
「そんなことはありませんよ」
 簡単なことだった。
「二人とも、単純すぎるんです」
「ぐはっ」
「がおっ…」
 多人数でやるゲームに必要な、駆け引きの要素。
 それは、ひとりトランプのルールブックを見ているだけでは、身につくものではない。
 今までひとりぼっちだった観鈴の、悲しい習性が浮きぼりになった。
 でも。
「観鈴は、何回か慣れれば、きっと強くなれるよ」
「うんっ」
「じゃあ、俺はどうなんだ」
「……たぶん」
「何だよその間は!」


 日が暮れた。
 夕食を終えた観鈴の部屋に、ゆっくりとした時間が流れていた。
 観鈴は昼間の熱戦の余韻を楽しむかのように、ひとりトランプを切っている。
 往人さんは復讐を誓ってか、床に寝転んでトランプの本を読みふけっている。
 そして私は、ゆっくりとみんなの食器を片付ける。
 みんな、それぞれの時間をすごしながら、それでも一緒にいることの喜びを感じあっている。
 そんな穏やかな空気にひたりながら、私がそろそろ、退散の時間をはかっていたとき。

「…夢で、こんな風景をみたことがあるの」
 突然、観鈴が口を開いた。
「……」
「……」
 私と往人さんは、それぞれの手を止め、観鈴のほうを向いた。

「旅の夢」

 観鈴は夢を見ている。
 空にいる少女の夢。
 その内容について、往人さんは何回か聞いたことがあるという。
 しかし最近は、そんな話はぜんぜんしなくなったらしく、そして私も、観鈴の口から直接その内容を聞いたことはなかった。
 観鈴は、静かに語り出す。

「森の中を、ずっと旅する夢なの」
「なんのために旅をしてるのか、それまではわからないけど…」
「歩くのは辛かったけど、とても楽しい旅だった」
「だって、一緒に旅してくれる人がいたから」
 観鈴は、まず私に微笑みかける。
「ひとりは、とても頭が良くて、美人の女の人」
 そして、往人さんの方にその笑顔を向ける。
「もうひとりは、とっても強くて、頼りになる男の人」

「二人とも、大事な人だったから、大切な人だったから、とても楽しかったよ…」

「……」
「……」
「いい夢、見てるんじゃねえか」
 往人さんが、やさしく観鈴に微笑みかける。
「そうね、見る夢がそんな夢ばかりだったら、毎晩楽しいわね」
 私も笑みを浮かべる。
「にはは」
 観鈴は笑う。

「だけど、いい夢も悪い夢も、どれもみんな、空にいる女の子の夢だから…」
「ぜんぶ見てあげないと、可哀想だよね」

「もしも、明日の朝…」
「わたしが、別人みたいに変わっちゃったとしても…」
「本当のわたしは、ずっと往人さんと茂美ちゃんのことは、覚えてるから」
「だから、ふたりとも、わたしのことを見捨てないでいてね」

「きっと…最後の夢は…いちばん楽しい夢だと思うから…」

「…観鈴?」
 穏やかな観鈴の表情が崩れていく。
 ぼとぼとと、シーツにこぼれ落ちる、大粒の涙。
 そして、小さな体すべてを軋ませるような、嗚咽。
「観鈴!」
 私たちは、慌てて観鈴の元にかけよる。

「イタイ…イタイよぉ…」
 苦痛にゆがむ、観鈴の顔。
「どこが痛いんだ、観鈴!?」
「足? 腕? 背中? 胸? お尻?」
「痛いところは、俺がさすってやるから! もし俺がイヤだったら、茂美もいるから!」
「どこが痛いのか、どっちにさすってもらいたいのか、言ってみて!」
 私たちは、懸命に声をかける。
 だけど。
「わからない…」
「わからない?」
「どこが痛いのかわからないのに、そのわからない場所が痛いの…!」

 観鈴の涙が、シーツに大きなしみを作る。
 ふるえる背中は、この世のすべての悲しみを背負って、今にもつぶれそうに見えた。

「……」
「…あるはずのない、痛み…」
 往人さんぽつりと、つぶやいた言葉。
「!」
 それは、往人さんの母親の言葉の一節だった。
『女の子は、夢を見るの』
『その夢が、女の子を蝕んでいくの』
『最初は、だんだん身体が動かなくなる』
『それから、あるはずのない痛みを感じるようになる』
『そして…』

 私たちは、苦しむ観鈴を、どうすることもできなかった…。



 …朝日が、まぶたの上から差し込んできた。
「ん…」
 目を開けると、そこは神尾家の茶の間だった。
 肩から、薄い毛布がかけられていた。
「観鈴は…?」
 起きあがって、観鈴の部屋に向かう。
 その途中で、往人さんと顔をあわせる。
「往人さん…」
「茂美、おはよう」
 どうやら往人さんは、寝ずに看病をしていたらしい。
 顔が、少しやつれていた。
「…すみません、途中で眠っちゃったみたいで」
 私は頭を下げる。

「観鈴は…どうなりました?」
「痛みは、夜半すぎに引いたよ」
「よかった…」
「よかったのかどうかは、わからないさ」
 往人さんは、目をそむけた。
「?」
「会えば、わかる」
「……」

 ノックして、観鈴の部屋に入る。
 まぶしい朝の光と一緒に、ベッドの上で上半身を起こした、観鈴の姿が目に入ってくる。
「おはよう、観鈴」
 いつもの挨拶だった。
 それなのに、観鈴はとたんに、戸惑いの表情を浮かべる。
 いぶかしげに、私の顔を見つめる観鈴。
 そして、こう言った。
「…誰?」
「え?」
「お姉ちゃん、誰?」
「…誰って、私は…」
「わたし、お姉ちゃんのことなんか、知らない…」

 観鈴の目。
 それは冗談を言っているような目ではなかった。
 観鈴の子供のような澄んだ瞳は。
 明らかに私を、他人として見ていた。

「あいつは…」
 いつのまにか、往人さんが後ろに立っていた。
「全てを、忘れてしまったんだ。観鈴の記憶は子供の頃に戻って、俺たちのことを…全部忘れてしまったんだ」
「それって…」
 再び、あの言葉が頭の中を駆け巡る。

『最初は、だんだん身体が動かなくなる』
『それから、あるはずのない痛みを感じるようになる』
『そして、女の子は全てを忘れていく』
『いちばん大切な人のことさえ、思い出せなくなる』
「結局、おふくろの言ってとおりに、事態が進んでるんだよ」
 だとしたら。

『そして、最後の夢を見終わった朝…』
『女の子は、死んでしまうの』

 それは、決まりきった事実のように、私の中で響いていた。

「知らないお兄ちゃんと、知らないお姉ちゃん…」
 観鈴がおびえ始める。
「ふたりとも、怖い顔してる…」
 それほどまで、私たちは深刻な顔をしていたらしい。
「大丈夫よ、私たちは怖い人じゃないからね」
 できるだけ、笑顔を作ってみせる。
 だけど。
「…ママは?」
「……」
「ママは、どこにいるの?」
「ええっとね、あなたのお母さんはね…」
 幼子のような瞳に、涙がにじむ。
「ママは、どこにいるの? どうして、ママはいないの? ママに…会いたいよぉ…」
 ひとり、泣き始める観鈴。
「……」
「…今はそっとしておこう」
 私たちは、外に出た。

「結局…俺たちのやっていたことって、全部徒労だったのかもな」
「……」
 横を向いたまま、往人さんが話しかける。
「何をやったって、観鈴に降りかかる運命は、変えようがないものだったのかもしれないな」
「……」
 私はうつむいて、その声を聞く。
 後ろに流れる蝉しぐれが、いやに空々しかった。
「ありがとうな、茂美。
観鈴の友達になってくれて」
「……」
「たった2日だけだったけど…それでもきっと、観鈴は幸せだったと思うから」
「私は…!」
「もういいよ」
 ぽん、と肩に手を置く。
「……」
「ともかく、お前は朝帰りだ。家の人がムチャクチャ心配してるだろうから、その言い訳を考えながら帰れ」
「は…い…」
 私はうなずいた。
「気をつけて、帰れよ」
「それでは、失礼します」
 背を向けて、歩き始める。
「今まで、ありがとうな、茂美」
「……」
 最後に、往人さんがかけてくれた言葉。
 それは、何のためのお礼だったんだろう…


 観鈴の足元にただよっていた悲劇の影は、今では観鈴の背中までを覆っていた。
 それが全身を完全に覆いつくしてしまうまでは、それほど時間がかからないような気がした。
 だけど、不思議と涙は出なかった。
 …まだ、何かが足りない。
 最後にできあがるのが、いい絵であったとしても悪い絵だったとしても、この夏のジグソーパズルの完成には、まだ大事なピースが足りないような、そんな気がしていた。


(つづく)



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