川口茂美の特別な夏 〜第7話〜
 だんだんと高くなっていく太陽を背中に浴びながら、私は家路につく。
 家の前まで戻ってみると、この数日間ずっと空だったうちのガレージに、車が帰っていた。
「そっか…お父さんたち、旅行から帰ってたんだ…」
 家族旅行の予定が昨日の夜までだったことを、今になって思い出す。
 私は玄関の戸を開いた。
「茂美か?」
「茂美っ…!」
 すぐさま、お父さんとお母さんが駆け出てきた。
 4日ぶりにみる、両親の顔。
「お父さん、お母さん、ただいま。…っていうより、先にお帰りなさい、かな…?」
 パンッ!
 お父さんの平手打ちが、私の頬に飛んでいた。
「お前、こんな時間まで何やってたんだ!」
「ちょっと、あなた…!」
「……」
 とつぜん、ポロポロと涙が流れ出す。
「あ…」
 戸惑いの表情を見せる、お父さん。
「ち、違うの…」
 泣いているのは、痛いからでもくやしいからでもない。
 私には帰る家があって、こんなにも私のことを心配してくれる家族がいるということ。
 それがたまらなくうれしくて、悲しかった。
「まあ、二人とも落ち着いて」
 お母さんが、間に入ってくれた。
「ねえ茂美、話してごらんなさい? お母さん達が旅行してた間、あなたが何をしてたか」
 やさしく、私を諭す。
「……」
 私は無言でうなずいた。



「友達が病気になって…ずっと看病してたの」
 家族の旅行中に、私がしていたこと。
 それは言葉にすると、とても単純なことだった。
「そうだったの?」
「出発する前に、電話がかかってきて…」
「じゃあどうして、あのときにちゃんと正直に話してくれなかったの?」
「それは…その…」
「まさか、ウソついてるんじゃないだろうな」
「違うよ!」
「…ごめん、茂美」
「……」
「……」
「…まあ、二人とも」
 またお母さんが、フォローしてくれる。
「で、その子は、なんて名前なの?」
「神尾、観鈴…」
「…神尾さん?」
 お母さんにとっては、聞き覚えのない友達の名前だった。
 それは無理もなかった。
 私にとっても、この数日前までは、友達ではなかったから。
「クラスメート。出席番号が、一つ前の…」
「ふうん…」
 本当に、それだけの関係だったから。

 食卓の脇に、両親が旅行先で買ってきたおみやげが、山のように積まれていた。
 おそらく、そのおみやげのひとつひとつに旅先での思い出がつまっていて、お母さんたちは近所の人たちにそれを配りながら、いろんな旅の話をするのだろう。
 旅行から帰ってきた家族と、行かなかった私。
 だけど私には、行かなかった私の方が、ずっと長い旅をしていたような気がしていた。


「なあ」
 突然、お父さんが口を開いた。
「神尾さんって、神尾…晴子さんの娘か?」
「え?」
 思いがけない言葉に、私とお母さんはいっせいにお父さんの顔を見る。
「確か、義理のお母さんと二人暮しで、10年前にこっちに来た子…違うか?」
「そ、そうだけど…?」
「やっぱり、そうか…」
 しみじみとつぶやく。
「あの子が世話してる子が、うちの茂美と同い年だってことは、前に聞いたことはあったが…。それにしても大変だよな、あの子もまだ若いのに…」
「お父さん…?」
「あなた、あなたとその晴子さんって、どういう関係なの?」
 私よりも先に、お母さんが問い詰める。
「い、いや…晴子さんは、俺の得意先の会社に勤めてる人で…」
「ホントに?」
「ホ、ホントだって。だいいち後ろめたいことがあったら、ここでわざわざ墓穴掘るようなことは言わないだろ?」
 確かにそうだ。

「…でも、だったら変だぞ」
 お父さんが首をかしげる。
「何がよ」
「俺、旅行先で晴子さん見たぞ」
「え?」
「なあお母さん、どこかの住宅街を車で走ってたとき、大きな家の前でずっと座り込んでた女の人いたよな? あれ、晴子さんだったよな?」
「私が知るわけないじゃない」
「いや、あれは確かに晴子さんだった」
「あなたの見間違いじゃないの?」
「そんなはずはない。あの子は美人でスタイル抜群だからな。絶対に見間違えるもんか」
「あなた…!」
「じょ、冗談だってーっ」

「お父さんっ!」
 私は机を叩いて立ち上がる。
「茂美もそんな怒るなよー。別にお父さんはなーっ」
「そうじゃなくて」

「その晴子さんって人、どこで見たの?」




 私は神尾家に戻っていた。
 お父さんから得られた、意外な糸口。
 『温泉めぐりをしてくる』と言い残して家を出たまま、音沙汰のなかった観鈴のお母さん…晴子さんの足取りが掴めたのだ。
 まず、お父さんが晴子さんを見たという場所を、地図で確認する。
 その街はかなり大きな街で、その地方の中心都市ではあるが、有名な温泉は周囲にはない。
 とすると、晴子さんは温泉には行っていない、ということにる。
 それに、旅行であるのなら、事前にガイドブックやパンフレットを見ていそうなものなのに、家の中を一見したかぎり、そんなものは見当たらない。
 つまり、晴子さんは旅行ではない、何か別の用事でその街にいる。
 何のために?
 よくわからないけれど、わからないことが、その理由の重大性を告げているような気がした。
 私は、部屋の中を物色しはじめた。

「茂美…」
 突然戻ってきた私を、往人さんは怪訝な表情で見る。
「何、やってんだ…?」
「往人さん…」
 私は構わず作業を再開した。
「私のことはいいですから、往人さんは観鈴を看ててください」
「だが…観鈴はもう…」
「私はただ、自分ができる限りのことをしたいんです」
「……」
「観鈴のために」

 私が観鈴のためにできること。
 晴子さん…観鈴のお母さんに、帰ってきてもらうこと。
 その手がかりになる情報を、家の中にある書類から探り出す。
 晴子さんは、もうその街にいないかもしれない。
 だいいち、最初からお父さんのただの見間違いだったかもしれない。
 だけど、これだけは確信があった。
 晴子さんは、観鈴を見捨てたわけじゃない。
 連絡さえとれば、晴子さんはすぐに帰ってきてくれる。
 そんな気がしていた。


 そして。
 ついに戸棚の奥から発見した、10年以上前の消印が押された古い手紙。
 その封筒の裏に書かれた住所は、お父さんが晴子さんを見つけたというその街。
 そして、差出人の名前は。

  『橘敬介 郁子 観鈴』

 私は、だいたいの事情を理解した。





 夕方。
 バイクの高いエンジン音が、静かな町に響き渡った。
 その音はこの家の前で止まって、そしてそのすぐ後に、玄関を開く音がした。
 どたどたと廊下を走る音がして、部屋のドアが開け放たれる。
「観鈴っ!」
 私には目もくれず、ベッドの前に歩み寄る女の人。
 想像したよりもずっと若くて、綺麗な人だった。
「観鈴…!」
 ベッドの上で体を起こしている観鈴の手を取って、その目をじっと見つめる。
 だけど、観鈴は…
「誰…?」
 その言葉は、残酷に晴子さんの心を貫いた。



 夕日を浴びながら、晴子さんが縁側にたたずんでいた。
「晴子さん…」
「…観鈴は、どうしたん…?」
「いま、眠ったところです」
「そうか…」
 私は、晴子さんの隣に腰をおろす。
「そういや、挨拶がまだやったな」
「そうですね」
「あんたが、川口さん…やな」
「はい。川口茂美です。いつも父が、お世話になってます」
「あ…そうか、あの川口さんの娘さんやったんか。たしかによく見たら、どことなく面影あるわ」
「よく言われます。誉め言葉だとは思えませんけど」
「……」
「……」
 晴子さんが、夕焼け空を見上げる。
「…しかし、あの電話はびっくりしたで。観鈴にも教えてへん橘の家に、いきなりうち宛ての電話をかけてくるんやからな」
「電話番号探すのには、苦労しました」
「あんた、探偵の素質あるわ」
「よく言われます」
「…ホンマに?」
「ウソです」
「……」
「……」
 晴子さんが、くすりと笑う。
「…あんた、ホンマにええ娘やな」
「い、いえ…」
「こんなええ娘が、うちの知らんうちに観鈴の友達になってくれてたなんて…ホンマに、感謝しとる」
「いえ…私も最初は、観鈴ちゃんに偏見もってましたから…往人さんがいなかったら、友達にはなれなかったと思います」
「…そういや、居候はどうしとんの?」
「外に出ています。いま晴子さんに会ったら、何を言ってしまうかわからないから、と…」
「そう、やろな…」
 晴子さんは赤く染まる雲を眺めながら、深いため息をついた。
「うち、ホンマ、役立たずやからな…」
「晴子さん…」
「うち、今までずっと、観鈴のこと避けてた。いつか必ず、あの子の本当の親があの子を取り戻しに来るから…そのとき悲しならんように、あの子のこと好きにならんようにしてた」
「10年もや」
「せやけど、いつの間にかそれも、我慢できんようになった。観鈴が病気で寝てても、何もでけへん自分に腹が立って…観鈴をうちの子にするために、橘の家に直談判に行ったんや」
「でも、それも、うちが勝手なことしてただけやった。…結局、いちばんいてあげなあかん時に、いてあげれんかった…」
「…だけど、私が連絡をとったら、すぐに帰ってきてくれました」
「ようするに、川口さんがわざわざ橘の家の電話番号を探してくれんかったら、うちは何もでけへんかった、いうことやろ?」
「……」
「ホンマ、何やっとんねや、うち…。うちなんか最初からおらんほうが、マシやったんちゃうんか…」
 晴子さんが、膝を抱えてうずくまる。
「……」
 私は、そんな晴子さんに、何も声をかけられないでいた。


 ビーッ。
 おかしな音が、どこからともなく鳴り響いた。
「…?」
 ビーッ。
「……」
 晴子さんが、顔をもたげる。
「何の、音ですか?」
「…呼び鈴や。壊れとるから、表のボタン押したらこんな音すんねん」
「あ、そうだったんですか…」
「居候やろか?」
「往人さんだったら、そんなの鳴らさないと思いますけど…」
 晴子さんの横顔に、涙のあとがにじんでいた。
 代わりに私が立ちあがった。
「…ちょっと、見てきます」
「…頼むわ」


 ビーッ。ビーッ。
「はいーっ」
 不快な音をやめさせるために、急いで玄関に向かう。
 玄関の扉を開けると、そこに立っていたのは、白いシャツにネクタイをした男の人だった。
「観鈴…じゃないよな?」
 私の顔を見て、怪訝な表情で問い掛ける。
「違いますけど…」
「…神尾、晴子の家だよね」
「はい、それはそうですが…」
「観鈴はどうしてる?」
「え?」
「観鈴はいないのかい?」
 そういえば、この人の顔には見覚えがあった。
 たしか先週の日曜日。
 往人さんの人形劇を見て、ケーキをくれた人だ。
 だけど、その人が、どうして観鈴を…?
「ええっと、どちら様でしょうか…?」
「そういう君は誰なんだい?」
「私ですか?」
「ここは、神尾晴子の家なんだろう?」
「はあ…」
 要領を得ない問答をしていると、晴子さんがやってきた。
「…どうしたんや川口さん、新聞の勧誘か?」
「晴子さん…」
「!」
 そして、はっと立ち止まる。
「晴子」
「敬介っ…」




「いったいどういうことなんだ、晴子」
 観鈴のお父さん…橘敬介さんが、晴子さんを責める。
「久しぶりに実家に帰ったら、あなたが観鈴を自分の子供にするために家に居座っていたって、母さんから聞いて…」
「……」
「それが今日になって、妙な電話で慌てて帰っていった、と聞いたから、気になってこちらに足を運んでみれば…このざまだ」
「……」
「いったい、あなたは何をしていたんだい、晴子…」
「……」
「晴子」
 晴子さんはうつむいたまま、何も答えなかった。

「まあいい」
 橘さんが、髪をかきあげる。
「観鈴は、今から病院に連れて行く」
「……」
「何の病気かは知らないが…すぐにでも入院の手続きを取れるようにするよ」

「さあ、観鈴」
 橘さんが、観鈴の手を取る。
「お父さんといっしょに、病院に行こう」
「……?」
 観鈴はぼんやりとした目で、自分の父親を見ていた。
「お父さんだよ」
「…知らないひと」
「……」
 橘さんは、軽いため息といっしょに、ぽつりとつぶやいた。

「可哀想に…」

「橘さん!」
 私は黙っていることができなかった。
「あなたに、晴子さんを責める資格があるんですか?」
「…君には関係のない話だろう」
「わかってます。わかっていますが、言わせてください! 観鈴を晴子さんに押しつけたまま…この10年間、あなたはいったい、何をしていたんですか?」
「……」
「……」
「君は少し、誤解している」
 橘さんは、冷静に答える。

「君も知っているだろう。この子が、大勢の人の中にいることができないことを。僕の住む街は、あまりにも人が多すぎた」
「だから、この静かな田舎町なら健やかに育ってくれるだろうと判断して、晴子のもとに預けた。押しつけたわけじゃない」

「…もちろん、僕にも非があったことは認める」
「……」
「その点では、晴子を責める資格がないのは確かだろう」
「ただ、今の時点では君たちよりも、僕の方がはるかに分別のある行動がとれる。それは間違いのないことだ」
「……」
「とりあえず、観鈴を僕の車に移すよ」
 橘さんが、観鈴の体を抱えて部屋を出て行く。

「待ってくれ!」
 男の人の声がした。
「観鈴を、連れて行かないでくれ!」
「たしか君は、大道芸の…」
「往人さん…」
「いったい君は、何者だい?」
「観鈴の、恋人だ」
「は…」
 橘さんは呆れ顔で、観鈴に問い掛ける。
「観鈴、この男の人が、誰かわかるかい?」
「…知らないお兄ちゃん」
「観鈴はそう言っているが」
「俺のことはどうだっていいんだ!」
 往人さんは叫んだ。
「俺のことを忘れるのは当たり前だ。会って2週間くらいしかたっていないんだから。しかし晴子は、観鈴と10年間ずっと一緒に暮らしていたんだ! 観鈴は、晴子のことをずっと慕っていたんだ!」
「こいつはそんな観鈴の想いに応えてやれなかった、どうしようもない奴だ。だけど、それでも10年間、観鈴の母親だったんだ」
「お願いだ。晴子にもう一度、チャンスを与えてやってくれ!」
 往人さんが頭を下げる。
 今まで他人に頭を下げたことのなかった往人さんが、地面に手をついて、必死に懇願している。
「最後まで、観鈴に…母親と一緒にいさせてやってくれ…」

「最後まで…?」
 橘さんがつぶやく。
「まるで、観鈴が消えてなくなるかのような口ぶりだね」
「それは…」
「君たちは、現代の医学をもう少し信頼すべきだ。良い医者の手にかかれば、この子の症状だって、きっと治るさ」
「しかし、それじゃ…!」

「ありがとうな、居候」
 晴子さんが、往人さんの肩に手を置く。
「せやけど、もうええねん」
「うちはもう、観鈴本人から直接、母親失格の烙印を押されたからな」
「……」
「うちが最後に観鈴にしてあげれることは、実のお父さんの元に返してあげることだけや」
「晴子…」
 晴子さんは、橘さんに向き直る。
「敬介…最後に、頼んでええか?」
「なんだい?」
「観鈴を…」
「いいのかい? 別れが辛くなるよ」
「ええんや。今までずっと後悔ばっかりやったからな。いまさらその上に、どんなに後悔したって一緒や」
「…わかった」
 橘さんの腕から、観鈴の体を受け取る。
「観鈴…」
 ぐっと、観鈴を抱きしめる。
「……」
「最初から、こうしてたらよかったわ…」
 晴子さんは目を閉じて、観鈴の感触をたしかめていた。

「もういいかい?」
「ああ、ええで」
 観鈴を、橘さんの腕の中に返す。
「晴子、今まで観鈴が世話になった」
「……」
「君たちも」
「……」
「……」
「別に、二度と会わせないとは言っていない。観鈴の症状が落ち着けば、いつでも会いに来るといい」
 観鈴を背負って、橘さんが去っていく。
「それじゃ…」


「観鈴!」

 晴子さんが叫んでいた。
「観鈴っ! 観鈴ーっ!」
 流れる涙を隠そうともせず、去っていく観鈴の背中に叫びつづける。
「うちはなんもでけへん、ダメな母親やったけど、それでも観鈴、あんたのことは、大好きやったでーっ!」

「……」
 観鈴の体が、ぴくりと動いた。
 体をゆすって、橘さんの背中から落ちる。
「おい、観鈴!」
 観鈴は橘さんの手を振り切って、こちらに向かって歩いてくる。
「…お母さん」
 動かない足を動かして…
「お母さん…」
 苦痛に顔を歪ませながら…
「お母さん!」

「観鈴…!」
 晴子さんがしっかりと、観鈴の体を抱きとめていた。
「お母さんっ…」
「観鈴…思いだしてくれたんか…」
「うん…」
「どうしてや…うち…なんもできんかったのに…なんも、してへんのに…」
「だって…」
 観鈴が晴子さんの胸の中に、顔をうずめる。
「さっきね、お母さんの、においがしたから…」
「観鈴っ…!」
 夕日を浴びながら、二人はしっかりと抱きしめ合っていた。

「もっと、自信を持っていてよかったのかもしれませんね」
 私は、二人に静かに声をかけた。
「二人は10年間も、一緒に暮らしていたんです」
「たとえそれが、どんなにすれ違いばかりだったとしても…私や往人さんや、本当のお父さんよりも…ずっとずっと長い時間を、観鈴ちゃんと過ごしてきたんです」
「晴子さんは、観鈴ちゃんにとって、大事な家族なんですよ」
「……」
 晴子さんは、強く、強く、観鈴の体を抱きしめた。



「ごめんなさい、お父さん」
 橘さんを見送りながら、観鈴は言った。
「わたし、やっぱりこの町に残りたいの。この町で、往人さんと、茂美ちゃんと、お母さんと…一緒にいたいの」
「そうか…強くなったな、観鈴」
「にはは」
 観鈴は笑う。
「お母さんの、子供だから」
「…そうだな」
 橘さんは微笑みながら、車に乗り込んだ。
「それじゃ、観鈴…がんばれよ」
「うん」
「晴子と…お母さんと、仲良くな」
「大丈夫だよ」

「ゴールは、もうすぐだから…」

 去っていく車のテールランプを見つめながら、観鈴はつぶやいた。
「さようなら、お父さん…」





 静かな町に、夜の帳が下りていた。
「あのね、お母さん」
「…なんや、観鈴」
「わたしね…ずっと、旅をしてたの」
 私と往人さん、そして晴子さんに見守られながら、観鈴が語り出す。
「お母さんを、探す旅」
「……」
「往人さんと茂美ちゃんには、前に話したよね。夢の中で、空にいる女の子…もう一人のわたしが、森の中を旅してたって」
「ええ…」
「あれね、お母さんを探す旅だった。やっと、思い出した」
「そんな夢…見てたんや」
「うん」
 観鈴は穏やかに微笑む。
「わたしには、一緒に旅してくれる人がいた。ひとりは、茂美ちゃんみたいな、やさしくて、綺麗な人。もうひとりが、往人さんみたいな、強くて頼りになる人」
「夢の中のわたしは…とても悲しい旅の終わりを迎えたけど…現実のわたしは、こんなに幸せなゴールにたどり着けた」
「この思い、空に届けたら、きっと喜んでくれるね」

「ありがとう…お母さん、茂美ちゃん、往人さん…」

 観鈴のまぶたが、ゆっくりと閉じられていく…
「みすず…?」
 呼びかけても、観鈴は答えない。
「観鈴っ!」
「やめろ」
 揺り起こそうとした晴子さんの手を、往人さんがさえぎる。
「居候…」
「…大丈夫。眠っただけさ」
「本当ですか?」
「…ああ」
「せやけど…!」
「心配するな」
 往人さんは穏やかな表情でなだめる。
 しかし、その表情の奥に、悲愴な決意が感じられた。
「二人とも疲れてるだろう? いいからもう休め。大丈夫。明日になれば、観鈴は必ず元気に目覚めるさ」

「観鈴は…」






 真夜中。
 観鈴の部屋から、あかりが漏れていた。
 ドアの隙間から覗きこむと、往人さんがベッドの前で、静かに語りかけていた。
「観鈴…」
「いい寝顔だな」
「お前の目指したゴールは…いいゴールだったな」
「空にいる少女も、お前の持っていった想いで、もう悲しまなくて済むだろうな」
「…だけど、お前はこの地上にいるべきなんだ」
「晴子や…茂美たちのために、この地上に残っていなければならないんだ」
「俺…やっと思い出したんだよ」
「おふくろから教わって、そして忘れていた…お前を助ける方法を」
 往人さんは、ポケットから人形を取り出して、それを観鈴の胸の上に置いた。
「これから俺は、この人形に念を込める」
「人形を通じて、俺の心をお前につなげる」
「そして、空に囚われたお前の心を、お前自身の中に、取り戻す」
「…知らなかったろう? 法術って、人形を動かすだけの能力じゃなかったんだぜ」
「…これが俺の使う、最後の法術だ」
「俺はこの術を最後に、この世界から消えてしまう」
「送りこむ念が強すぎて、肉体までもが取り込まれてしまうからだ」
「だけど、俺なんかいなくたって、構わないだろう?」
「お前には晴子がいる、茂美がいる…俺なんかより、ずっといい男も、見つかるはずさ」
「だから、見てくれよ、な…」
「俺の、最後の人形劇を…」

「往人さん」
 私は静かに部屋の中に入った。
「こめられる念は、ひとり分だけですか?」
「茂美…」
「私の分の願いも、こめてもらえませんか?」
 ゆっくりと歩み寄って、往人さんの隣に座る。
「できるんでしょう?」
「…ひとりでいい」
「あ、やっぱり、できるんじゃないですか」
「……」
「ひとりで念を込めたら、肉体が耐えられないんでしょう? だったらそれを二人で分担して、負担を半分にしたらいいじゃないですか」
「だけど、お前まで危険にさらすわけには…!」
「往人さん」
 私は往人さんの手の上に手を重ねた。
「もっと、自覚してください。観鈴がいなくなって悲しむ人がいるのと同じくらい、往人さんがいなくなって、悲しむ人がいるということを」
「…茂美」

「そうや、抜け駆けは許さへんで、居候」
 晴子さんが、部屋に入ってきた。
「詳しいことはようわからんけど、あんたがひとりでヒーローを気取っとるのは気に入らん。うちも、仲間に入れてや」
「晴子…」
「とりあえず、空にいる女の子に、観鈴を返してもらいにいくんやろ? 力ずくでも泣き落しでも、人数は多いほうが有利やで」
 晴子さんは、私たち手の上に手を重ねた。
「さ、早いことやってや、居候」
「往人さん」
「…ジャマだと思ったら、容赦なく振り落とすからな」
「はいっ」
「任せとき!」

 往人さんが、念を込め始める。
 熱い鼓動が、往人さんの手の甲を通じて私の中に脈打ち、それが私の鼓動と共鳴する。
 人形から、光が満ち溢れた。
 その瞬間。
 往人さんと、晴子さん、そして私の心は、空へと飛んでいた。
 原理はわからない。
 でも、理由はわかる。
 みんながそれぞれ、観鈴を助けたいと思っているから。
 往人さんは、恋人として。
 晴子さんは、家族として。
 私は、友達として──。











 カーテンの隙間から、光が差し込んでいた。
 思いきり開け放つと、部屋の中が朝の光に満ち溢れた。
「ん…」
 観鈴のまぶたが動きだす。
 私たちは、そのさまをじっと見守る。
「……」
 目を開いた。
 観鈴の瞳に、私と晴子さんの顔が映っていた。
「…?」
 観鈴は状況がわからず、しばらくきょとんとした表情をしていたが、やがて満面の笑顔で、私たちに言った。

「おはよう、お母さん、茂美ちゃん」

「観鈴!」
 がばっと、晴子さんが観鈴の身体を抱きしめる。
「目覚めて、くれたんやな…」
「ちょ、ちょっと…お母さん、苦しいよ…」
「…ご、ごめんな」
 晴子さんは慌てて身を離す。
「でも良かった! ホンマに良かったわ!」
「うん…」

 観鈴は、きょろきょろと周りを見まわす。
「えと…往人さんは?」
「……」
「往人さんは、どこにいるの?」
 私たちは、答えない。
 観鈴の顔が、不安に翳る。
「まさか…」


「観鈴」
 やさしい声がした。
 部屋の入り口に、往人さんが立っていた。
「往人さんっ!」
 観鈴は歓喜の表情で、ベッドから跳ね起きた。
「観鈴…」
 立ちあがった観鈴を見て、往人さんは言う。
「大丈夫、なのか…?」
「うん、大丈夫」
「どこも、痛くないか…?」
「うん、痛くない」
「歩けるか…?」
「うん…」
 観鈴は往人さんのもとへ歩き出す。
 一歩一歩、しっかりと、大地を踏みしめるようにして。
「にはは」
 そして観鈴が、往人さんの目の前に立つ。
「ぶいっ」

「観鈴!」
 往人さんは、観鈴を抱きしめた。
「観鈴! 観鈴! みすず…!」
 観鈴が、往人さんを見上げる。
「…ひょっとして、往人さん、泣いてる?」
「そんなことはないぞ」
「まぶた、はれぼったくなってる」
「俺は寝起きが悪いからな」
「鼻水、ちょっと出てる」
「夏カゼひいたんだ」
「…ぼろぼろ、目から涙がこぼれてるよ」
「…だから、そんなに俺の顔を見るなって」
「うん…」
もう一度、観鈴は往人さんの胸に、顔をうずめた。
「往人さん…」
「観鈴…」

 昨日の夜、起こったこと。
 それは夢だったのか、現実だったのか今でもよくわからない。
 空にいる少女はどんな顔だったのか、だいいちそんな少女に会ったのか、それすら覚えていない。
 だけど、これだけははっきりと言える。
 永遠に続く悲しみなんて、最初からなかった。
 誰も犠牲になる必要なんて、なかったんだ。

「…ふう、うちのときは、苦しいって言うてすぐに離れたのにな…」
 ずっと抱き合う二人を見ながら、晴子さんがため息をつく。
「なんか、あっさり親離れされてしもた感じやな…」
「仕方ありませんよ、あの子ももう子供じゃないんですし」
「そやな…」
 晴子さんは立ちあがる。
「ま、なんぼ報われんでも、母親は母親や。朝ご飯の準備くらいは、したらんとな」
「あ、私も手伝いますよ」
 二人を部屋に残して、私たちは台所に向う。
「さ、今日は朝からごちそうのオンパレードやで〜。まずは、ステーキからや」
「お腹、もたれちゃいますよ」
「昼は、北京ダックや」
「アヒルなんてスーパーに売ってませんよ」
「そして夜は、観鈴ちん全快祝いの、大宴会や! 川口さん、今夜は飲み明かすで!」
「私、まだ未成年ですし、3連泊なんかしたらお父さんに殺されます…」
「それやったら、あんたのお父さんも呼び。保護者同伴やったら文句あらへんやろ?」
「えーっ」

 ひとりきりじゃなかった。
 ふたりきりでもなかった。
 3人で、4人で…
 これが、みんなでたどり着くことのできた、ゴールだった。

(エピローグへ)



二次創作置き場へ

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!