南朝宋(なんちょうそう、420年 - 479年)というのは、別名を劉宋といい、三国時代からおよそ百年後に、丁度『三国志』の呉の国と蜀の国をあわせ、さらに山東半島までを領域していた南北朝時代の王朝です。国の正式名称は「宋」ですが、のちに「宋」という統一王朝が別に中国史に存在するため、区別するため皇帝の姓「劉」を上にかぶせて呼んでいます。
裴松之は、南朝宋の官僚で、8歳で『論語』『詩経』に通じたというから随分早熟な人だったようです。河東郡聞喜県に本籍を持っており、地方官としても永嘉太守として民衆を憐れむ善政を行い、地方の官吏や民衆から喜ばれたと『宋書』の裴松之伝にはあります。
地方から中央官庁への人事を統括する、司・冀二州大中正の官に任ぜられたりもしていますから、人望もあったのかも知れません。陳寿と違い恵まれた生涯を送った人だったといえましょう。裴松之が歴史書を書き出したのは退職してかららしく、『三国志』裴松之注の他には何承天『国史』という本を続けて書いていたようですが、この本は未完成のまま没しました。
『三国志』裴松之注の執筆動機は、裴松之自身が序文に書いています。
それによると、裴松之が仕えていた南朝宋の文帝・劉義隆(りゅうぎりゅう、407-453)から「『正史三国志』は正確な記述が多く、最近の良い歴史書だが、ちと簡潔に過ぎるのう…ぬけているところもあるようだから、そちが注をつけよ」と命令を受け、その当時残っていた三国時代の史料を集めて注を作ったということです。正史『宋書』の裴松之伝にはこうあります。
上(劉宋の文帝)陳壽が三國志を注せしめ、松之傳記を鳩集し、異聞を増広す。既に成りて,奏上す。上、之を善して曰く、『此れ不朽為る矣』裴松之の注釈のその分量は約三十二万二千字という膨大なもので、語句の説明を主とする一般の歴史書の注釈と異なり、三国時代の史料を大量に残したもので、三国時代の研究に当たっては、極めて重要な史料といえましょう。
(訳)文帝の命令により裴松之は陳寿の三国志の注釈を作成した。裴松之は記録を集め、異聞を増やした。完成して奏上すると、文帝は褒めたたえて「これは不朽であろうのう」といった。
ただ、この注には、信用できない資料もたくさん入っています。そのことは裴松之も自覚しており、注の完成を文帝に報告した上奏文(『上三國志注表』)で、
「三国時代の記録は多く食い違い混乱している・・本当かウソか判断が付かない史料も収録した・・矯正すべき誤り、でたらめな記録、(原著者)陳寿の勘違いにはその都度私の愚見で注を加えた」といっているほどです。しかし、陳寿の正史本文と一緒に書かれているために、しばしば混同しがちなため、
注:2001年5月の『史学雑誌』に掲載された「回顧と展望」(日本の歴史学界で前年発表された論文・報告の紹介)によれば、林田慎之助先生がこの裴松之注について『晋書』と比較検討された論文を書かれたそうです。林田先生の意見では、『晋書』が「本当かウソか判断が付かない史料」を本文中につっこんで真偽不詳の記録を作ってしまったのに対し、裴松之注は本当かウソか判断が付かない史料に関しては「注」という形で別記したのは評価できる、としているとのこと。これまで出された裴松之注に関しての意見としては、積極的に裴松之の態度を評価しているユニークな意見だと思います。いずれにせよ、裴松之注と正史本文は別に考えることが『三国志』を読むときには必須ですね。裴松之が折角史料を分別してくれたのを、味噌もくそも一緒にするようなことは厳に慎むべきだと思います。
三国志の講釈のストーリーなどはよくわかっていませんが、唐の詩人李商隠の『驕児詩』に、「或謔張飛胡」(子どもが張飛のひげ面の真似をする)という語句があることから、三国志演義に近い話だった可能性が魯迅「中国小説史略」などに指摘されています。なお、張飛がヒゲ面だったことは正史三国志本文にも裴松之注にもなく、どこから振ってわいた話なのかよくわかりません。
『全相平話三国志』を書き直したのが明の羅貫中の『三国志演義』です。これは歴代の正史をダイジェストした、南宋の呂祖謙の『十七史詳節』を元に歴史を調べ直して知識人の読み物として恥ずかしくない歴史小説にしたものです。
正史三国志65巻全部を羅貫中が入手できなかったと考えられているのは、当時は正史の流通が極めて少なかった為ではないかと思います。当時の記録には、「明の永楽帝の時に明王朝が歴代正史を印刷発行して、ようやく正史が一般人にも読めるようになった」と書かれています。羅貫中は正没年不詳ですが、永楽帝の前の洪武帝の頃の人であり、しかもドサ回りの旅芝居の脚本家だったといわれているので、正史を手にとることは相当むずかしかったのではないでしょうか。市中に出まわっていないのですから入手そのものが困難でしょう。さて、南宋の呂祖謙の『十七史詳節』ですが、これは四庫全書総目提要に「建陽の書坊(書店)の刻と為ってこれを伝わる者なり」とあるように、出版業者の根城だった建陽の書店が出版して、市中に出回っていた正史ダイジェストでした。正史三国志は20巻になっているといいます。この点を指摘したのは書誌学者の長沢規矩也氏で、「書籍の流通量が少ないのでダイジェストを羅貫中は使ったのでは?」と考えられたのです。ちまたの三国志本では書かれていない説ですが非常に慧眼だと思います。この長沢説を考えると、田中芳樹氏が指摘した三国志演義の疑問点も解決できると思われます。というのは蜀漢の武将陳到が三国志演義では全く登場しない件です。陳到は陳寿に「趙雲に次ぐ武将」と書かれているのですが、蜀びいきの三国志演義であるにも関わらず、影も形もみえません。趙雲は三国志演義で脚色された具合が相当大きい武将なのですから、その次に位置する陳到が出てこないのは田中氏の指摘通りふしぎな話です。しかし、長沢説を考えればこれも理解できます。呂祖謙の『十七史詳節』には、おそらく陳到が登場しなかったのでしょう。裴松之注も積極的に取り入れられたと考えられます。当時の『百川書志』には、以下のように在ります。
三國志通俗演義、二百四巻。とべた褒めされています。「晉、平陽侯陳壽史傳。明、羅本貫中編次。」とあるのは、三国志通俗演義の巻頭にある著者の署名によるものですが、これは画期的な署名でした。まず、中国思想の伝統としては司馬遷が「歴史をフィクションで描くよりも史実を追求した方が本質に即している」と主張して以来、知識人の間では歴史小説に否定的な見方が主流でした。その為、歴史小説はくだらないものなので偽名で書いたりしていたのですが、羅貫中は堂々と本名で書いたわけです。しかも、正史三国志を書き直したものだと謳ったわけですから大変なものだったわけです。そして、内容も非常に優れていたので知識人の間でもブームを巻き起こしたというわけです。『百川書志』のような、知識人の蔵書目録(書評を兼ねている)に小説本が乗る事自体が大変なことでした。いまでいうなら大学の先生が歴史ゲームを推奨するような感じでしょうか。
晉、平陽侯陳壽史傳。明、羅本貫中編次。據正史、採小説。證文辭、通好、尚非俗、非虛、易觀、易入。非史氏蒼古之文、去瞽傳詼諧之氣。陳敘百年、該括萬事。
(訳)三国志通俗演義204巻は、晋の平陽侯陳寿が書いた正史三国志を明の羅本貫中が書き直したものである。正史を根拠とし、小説(『全相平話三国志』などをさすか)からも材料を集めている。歴史を考証しながらも、一般の好みにあわせ、かといって低俗にならず、荒唐無稽にならず、読みやすく、物語の中に入りやすい。(司馬遷以来伝承されてきた)歴史家の伝統的な漢文によるものではないけれど、盲目的な叙述や面白おかしく書き立てる態度からは離れ、三国志百年間を全般的に記述している」