漢籍おぼえがきー歴史書篇




正史・二十四史(にじゅうしし)


正史とは何か
正史とは、清の乾隆帝が定めた24種の紀伝体の史書のことである。『二十四史』ともいう。その内訳は

『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『陳書』『魏書』『北斉書』『周書』『隋書』『南史』『北史』『旧唐書』 『新唐書』『旧五代史』『新五代史(『五代史記』)』『宋史』『遼史』『金史』『元史』『明史』であり、総冊数は3243巻!だそうだ。(総数は武内義雄『中国 思想史』岩波全書によった。)大変膨大な史料群であり、中国の歴史を知る上では、まずひもとくべき史料といえよう。しかし、これら『二十四史』はそれぞれに出来不出来があり、ひどく史料として劣るものもあることを知らなければならない。正史は一応、中国の歴史書のうち、最高峰に属するとされている。多分に「皇 帝が定めた」という権威によるところがあるけれども。

「正史」という言葉は『隋書』経籍志に初めて登場する。この時の意味は現代とは違い、単に『史記』『漢書』を真似て紀伝体で書かれた歴史 書を指していた。その後、宋の時代に紀伝体の史書をふるいに掛けて17種の書物を選んだ。ここに現在の意味での「正史」が誕生したのである。その後追加が あり、現在では24種が正史となっている。現代日本の三国志ファンが、陳寿の『三国志』を「正史」としばしば略して呼んでいるが、伝統的な呼び方ではな い。漢籍では管見の限り見たことがない。

正史という言葉の意味は、「中国歴代王朝が公認した、正統な紀伝体史書」であるようだ。正史という言葉で、別に「正しい歴史書」を指すこともあるので紛らわしいが、正史の中にも間違いは有るし、正史の間違いを抜き出して批判した歴史書(具体例を挙げれば劉知幾『史通』、趙翼『二十二史剳記』など)も存在しているほどである。良く、「正史は絶対的に正しいことしか書かれておらず、他の歴史書は誤っている」というような議論をネット上で見かけるが、誤りである。間違いのない人間というのが存在しない以上、間違いのない歴史書など有るものか!どのような権威のある本であれ、盲信するのは 決していいことではあるまい。「尽く書を信ずれば書なきにしかず」という孟子のことばもある。

正史の価値

正史24種のうち、どの本が優れているかについては趙翼『二十二史剳記』・内藤湖南『支那史学史』で論じられている。以下の文章では、趙・内藤両氏の本を参考にしつつ、他の人の意見や僕が呼んだ感想などまじえて論ずることにしたい。

やはり最も優れているのは『史記』であろう。古くから中国では史漢優劣論といって、『史記』『漢書』どちらが優れているか論争が行われているが、僕は『史記』の人間描写の豊かさ、文章のうまさ、他の正史にはみられない社会史が描かれていること・・を好ましいと思う。また、正史というジャンルの構成・世界観・思想を定義したという独創性においても、やはり第一とすべきであろう。しかし、『漢書』にも長所はあ る。『史記』よりも正確に書かれていることだ。『史記』はしばしば歴史小説に近いところがあるのである。この両者に加え、その他出来が良く、文章も上手く史料価値も高く、良く読まれた『後漢書』(これらを特に三史という)『三国志』(三史と合わせ前四史という)、の4つは高く評価されており、東アジアの知識人の基礎教養となっていた。また、前四史で取り上げられている範囲に比べ、晋書以降の正史でとりあげられている時代はマイナーな存在でしかなかった。従って、晋以降の歴史については資治通鑑で知り、宋以降は『十八史略』『元明史略』『明史紀事本末』『綱鑑易知録』といった俗で本当かウソか判然としない史書によってぼんやりと知る(下手をすると隋唐演義や講談の類で知る)というのが存外、東アジア知識人の姿だったのかも知れない。

この件について、清の考証学者王鳴盛は次のようにいっている。「唐の時代までは、正史の流布が少なかったので、一般的な学者が読むのは三史・三国志どまりであった」(意訳)
また顧炎武もいう。「宋までは『遼史』『金史』は印刷されず、『南斉書』『梁書』『陳書』『魏書』『北斉書』『周書』を世間で見ることはまれであった。従って故事の引用は資治通鑑や『南史』『北史』に頼ることが多かったのである。明の万暦年間に二十一史が北監から印刷され、士大夫(役人)の家でも中国の歴史を読むことができるようになった」と。(これがいわゆる北監本である。)
今のように本がふんだんにある頃ではないので、本は貴重な物であった。マイナーな正史は印刷すらされず、朝廷の倉に入ったままだったことも多かったのである。清の時代でも、 いなかの科挙受験生は四書とその注釈を持つのがやっとであった。また、持っていても読むのに大変な苦労がいるのである。前四史には例えば史記三家注・漢書顔師古注・後漢書李賢注・三国志裴松之注などのしっかりした注釈書が存在し、読解の手助けになるが、晋書以降の正史には清末までしっかりした注釈が存在せず、殆ど独力と根性で読むしかないのである。そもそも正史にはほとんど日常では使わない漢字も色々と出ており、漢字数の膨大な良い辞書がないとさっぱりわからないのである。正史を読むのに足る量の漢字を収載し(33179字)、内容がそれなりにきちんとしていて、引きやすく、一般人が気軽に使える漢字辞典は、1615年の『字彙』までどうもなかったようである。いや、字彙は間違いの多い辞書だったようで、清代の評判は極めて悪いものであった。1716年成立の漢字字典の決定版にしてデファクトスタンダード、『康煕字典』(収録字数47035字)まで下るかも知れない。康煕字典で勉強したという述懐は良く聞くのだが、字彙で勉強したという話は殆ど聞かないのである。
勝海舟は「とうとう『二十一史』も読み通したよ。しかしほんの独学で、始終『康煕字典』と首引きをしたのだから、読みあやまっているかもしれないよ。音などは偏や旁を見て、よいかげんにやっつけるのだからのう」と『氷川清話』で述懐しているが、「辞書と首引きして、わからないところはあてずっぽうで読む」というのは正史の読み方としては 一般的なものであったようで、同様の述懐は他の人にもある。
また、正史を通読したが、わけがわからなくなったので途中でやめたという述懐も多い。

この4つは個人が書いていたものを後に王朝が正史に認定したもので、野史が正史に昇格したものである。(最もこの頃は、正史などという言葉はなかっ たのだが・・)中国に於ける歴史著述は、王朝権力と常に結びついているのだが、民間に於いて歴史を書いた場合、王朝権力から比較的中立な記述をすることが 出来たようだ。その為、前四史の作者達は王朝の掣肘を受けることが少なかったので、比較的自由に筆を走らせている。司馬遷のように、書中で勇敢に政府の政 策批判を展開することすら可能であったのだ。それがこれら4種の史学的価値・文学的価値を高めているといえよう。

(最も、完全に受けなかったわけではないようだ。例えば司馬遷は仕官していた漢と対立していた南越王朝を王朝として扱えず、個人の伝記で ある列伝に落としていると平勢隆郎氏は指摘されている(『中国古代の予言書』講談社現代新書)。政府から中立な言論の自由を守り抜いた司馬遷ですらこうな のだから、他の三者は推して知るべしである。特に陳寿は権力者に遠慮しているところが多く、既に趙翼『廿二史箚記』で「『三国志』に廻護多し」として、 『三国志』の色々な箇所を挙げて詳細な指摘が行われており、漢が魏に、魏が晋にそれぞれ禅譲した時のことや、曹操が徐州で虐殺を行ったことを父親が殺され た報復としていることを例としてとりあげ、以下のように結論している。

本紀諱む所多し。あわせて列伝中も亦た諱む所多し。(魏の皇帝の歴史を述べた本紀は恐れ謹んで記述を避けた所が多い。列伝もそうだ。)

ただし趙翼の指摘は正しいかどうかは疑問ではある。徐州虐殺の件について、趙翼は呉の側の記録にある「曹操の父・曹嵩殺害は徐州長官の命令 ではなく、徐州長官の部下だった護衛の男が曹嵩の財宝に目がくらんでやったことだ」という話を「曹嵩を殺害した容疑者から聞いたモノ」として重視している が、容疑者が正しいことを喋ったかどうかはわからない。
堕落した正史〜『曲筆すれば罪を得ず』〜

中国に於ける歴史著述は、王朝権力と常に結びついている。史家は権力から独立し、今で言うならジャーナリスト的な公平な立場から書くべきである・・ というのが中国史学に於ける理想であって、それを忠実に実行した董狐や司馬遷が尊敬されていたわけだが、残念ながらそれが時代と共に崩れ始めるのである。 権力者にとって、自らの悪事を包み隠そうとしない史家ほどやっかいなものはない。それ故に、権力者は権力を確立すると史家の屈服に力を注ぐのだ。前に述べ たように、『三国志』にしてからが既に権力者の鼻息を伺いつつ書かれたものであった。分裂の魏晋南北朝時代が終わると、強大な権力を有する唐王朝の時代が やってきた。中国全土を支配する傍ら、シルクロードにまで覇を唱え、騎馬民族から「テングリ・ハーン(天可汗)」の称号まで貰った唐の太宗は、遂に史家を 権力に完全に屈服させるべく、様々な方策を打つことになる。

太宗は、これまで書かれていた紀伝体の正史群を、「出来が悪い」として再編賛させた。この時書かれたのが、『晋書』『宋書』『南斉書』 『梁書』『陳書』『北斉書』『周書』『隋書』といった書物である。砺波護氏が指摘するように、『晋書』は太宗が属する騎馬民族王朝を正統化し、晋から始ま る漢民族王朝を否定しようとする作為が入っている。その他の書もおおむねそうである。そんな歴史界の様相を皮肉な立場から眺めていた一人の男がいた。唐の 史官であり、毒舌歴史書評論で後世に名を残した『史通』の著者、唐の劉知幾である。彼はこんな言葉を残した。

『直筆すれば罪を得、曲筆すれば罪を得ず』(真実を歴史に書けば歴史家は殺され、嘘を歴史に書けば生き残る)
正 史はここに堕落し始めた。『晋書』以降は故人が史書を書くことを禁止し、個人が書いたものではなく、王朝でプロジェクトチームをつくり学者を集めて書かせ ている。この方式をとるようになってから、たくさんの学者が書いたものを集めて書かせるようになったため整合性が崩れ正史の価値は下落した・・と一般的に 考えられているようだ(内藤湖南『支那史学史』による)。ただ、『晋書』は文章のうまさという点では評価されているようである(趙翼『廿二史箚記』)。ま た、この中でも『南史』『北史』は司馬光からも良書と褒められており、まだまだ「正史」の権威は健在であった。太宗も作為を込めさせたとは言っても、「人 の諫めを聞き入れることができる」といわれた名君であり、歴史編纂官が作為を拒否したときには、それを受け入れる度量があった。しかも、編纂官は文豪ぞろ いだった。まだ正史は命を持っていたし、後世前四史ほどでなくとも、この辺りの史書は読まれているようだ。
正史、地に落ちる

皮肉にも、正史の公認が行われ、出版も行われ、普及も始まった宋の時代になって、正史の権威は地に落ち、その後は読まれざる書物になってしまった。

宋以降に書かれた正史はたいてい、出来が悪いことで定評がある。『宋史』『遼史』『元史』がそれだ。

このうち、『宋史』『遼史』は『金史』とともに元代末期に元の宰相・脱脱が総裁となって史料を集めて急ごしらえにつくったもので、『二十二 史剳記』では「『宋史』は繁蕪(量が多く雑)、遼・金二史又缺略(欠けて簡単すぎる)多し」といわれており、みな評価は芳しくないが、特に『宋史』・『遼 史』は質の悪さでは定評があり、公文書の寄せ集めだと悪口をいわれている。特に『宋史』はまともなのは道学列伝と食貨志(経済のデータ)だけ、この本では 活躍したとされているいわゆる「抗金の名将」達は自分たちの功績を誇るために勝手に敵が逃げた時でも「自分達が打ち負かした」と虚偽の報告をでっちあげて いたらしく、これをそのまま収録したりしたといわれており特に評判が悪い本である。

このことを指摘した『四庫全書総目提要』で例に挙がっているのは虞允文である。 『四庫全書総目提要』史部正史類2・『金史』条に は、以下のように記述している。「『宋史』両国(宋・金)の兵事(戦い)を載せるに、多く宋人の記する所を採[手庶](採用)し、浮詞(根も葉もない話 し)を免れず。采石之戦の如きは、其の時海陵(金の海陵王)の士卒大定と改元すと聞き、(新しい皇帝が即位して大定と改元したと聞いて)心は離れ自ら潰 ゆ。(宋軍の)虞允文が攘(うちはら)うを以て功と為すは、殊に事実に非ず。」
(意味)『宋史』の宋と金との戦いに関する記述は、多く宋側の記録を採用しており、根も葉もない話しから脱していない。采石磯の戦い(1161 年に金が宋に攻め込んだ戦い)は、金でクーデターが起こり、新しい皇帝が即位して大定と改元したと聞き、兵卒の心が離れてしまって、自己崩壊した戦いであ る。宋軍の虞允文が金を撃破したといって功績にしているのは、はなはだしく事実と異なっているのだ。 『二十二史剳記』では更に詳細に指摘され、岳飛・韓世忠・李綱などの列伝には誤りないし人物の名誉を傷つけるために伏せられた史実があることが判明してい る。例えば韓世忠が酔っぱらって人を殴ったことが伏せられている。このため、宋代の史料としては、李の編纂した史料集『続資治通鑑長編』などのほうが良く 用いられている。これは「実録、正史、官府文書より以て家録、野紀におよぶ」(『四庫全書総目提要』)浩瀚なものであるという。<筆者は実物を読んだこと がない・・>

元代には『宋史』『遼史』『金史』の三種が作られたが、このうち『金史』のみは元好問が以前から資料を集めていたこともあり、『四庫全書総目提要』 では高い評価を下している。 『明史』の原本で民間人の万斯同が書いた『明史稿』(『万斯同明史』ともいう)も褒められている。幸田露伴なんかは著書『運命』の跋文で『明史』は『明史 稿』のパクリだという意味のことまで言っているほどだ。

また『元史』は明王朝が前の王朝・元の首都北京を落とした直後に、中国本土から追い出した元の国は「王朝として滅んだ」という事をア ピールする為に(何故史書編纂がアピールになるかというと、慣習として滅亡した王朝の正史はその次の王朝が書くことになっているからなのだろう)公文書集 『経世大典』などをもとにあわてて作ったもので、同じ人物(チンギスハンの配下のスブタイ)の列伝が二つあったりする。(以上は杉山正明氏の説を元にし た)これらの史書は余り良い史料とは言えない。

又『元史』は余りの出来の悪さから改訂版が出た。これを『新元史』という。特にこの『新元史』を正史に含めて「二十五史」ということもあり、 清滅亡後の1928年に出来た531巻から成る『清史稿』を含めて「二十五史」ということもあります。ここらへん、明確な規範がないらしいので実にややこしい・・(そういえば、「二十六史」と いう言い方もあった気がする)まあ、本屋で買うときには良く確認して買いましょう。 『元史』の後、現在の所最後の正史とされているのが張玉書『明史』である。これは一応よい歴史書だといわれてはいて、『五代史記』以降では最も評価されて いる。しかし、当時の歴史小説によって創作された人物・李巖を実在の人物として書いていたりする。しかしどれにせよ、『五代史記』以降の正史は決して一流 の史料とは言い難い。しかし、清の乾隆帝になって、『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『陳書』『魏書』『北斉書』 『周書』『隋書』『南史』『北史』『旧唐書』『新唐書』『旧五代史』『新五代史(『五代史記』)』『宋史』『遼史』『金史』『元史』『明史』を『二十四 史』として認定し、これを経書と同様に尊崇すべき物としたため、出来が悪いモノでもそれが史実として認定されてしまったケースは、いろいろあるのである。李巖の ケースなどその好例であり、これなど最近になって研究されるまでは、まともに史実だと勘違いされていた(この件の詳細は高島俊男『中国の大盗賊』講談社現代新書が詳し い。)
正史のテキスト〜本を買うときの参考までに〜

正史(の漢文原文)は色々な出版社から出ている。今最もポピュラーなのは中国大陸の中華書局からでている中華書局版『二十四史』で ある。これは中国の学者達がかなり力を入れて本文の校訂をしており、句読点も切ってあるうえ『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』には古来名高い注釈書を 付している。それは『史記』は『史記集解』『史記索隠』『史記正義』のいわゆる三家注、『漢書』は唐の顔師古の注、『後漢書』は唐の李賢注、『三国志』は 劉宋の裴松之注である。テキストの質は極めて高いと定評があるが、『三国志』については校訂に一部誤りがあるという指摘もされている。

台湾の商務印書館から出ている『百衲本二十四史』(ひゃくのうぼんにじゅうしし)シリーズは最古のテキストを影印出版し たものである。出版当時は「最古のテキスト」=「もっとも良質なテキスト」と考えられていた為、最善のテキストということで中華書局のものが出るまではこ れがスタンダードだった。しかし、現在では必ずしも最古のテキストがもっとも良質とはいえないことが分かってきたため、中華書局本の方がポピュラーといえ る。校訂以前の原本ということもあり、ある所で聞いた話では大学院生や学者が主に読んでいるらしいという。値段は今のところ中華書局本より安いが、部数は 少ないらしい。

この他、神田神保町などで時折見かけるモノに、武英殿本(殿版)和刻本正史がある。これについても少々解説しておこう。

明の時代、太祖が天下を平定した後で宋・元の古い正史の版木を集め、南京で『南監本二十一史』と呼ばれている正史シリーズを刷った。顧炎武が『日知録』で述べるように、この二十一史が出版されてようやく一般人でも正史が通読できるようになったのである。日本で江戸時代に出された返り点付きの正史は、この『南監本二十一史』の覆刻、『北監本二十一史』が基本になっている。しかし、この『北監本二十一史』は誤りが 多く、学者の間で嘆きの種になっている程度のモノであって、テキストとしては決して良いとはいえない。これを和刻本正史とよくいう。汲古書院から出ている和刻本正史シリーズは、これらの復刊である。返り点がついているので、漢文訓読が出来る人には向いている。ただ『宋史』なんかはないし、『明史』は『明史稿』(『万斯同明史』)になっている。江戸時代(〜明治時代初期)に刷られた本の復刻という趣旨が有るせいだろうか。この本が出たときに吉川幸次郎氏は「正史の口語訳が有るかと良く聞かれるが、このシリーズを読めばよい。江戸時代のすぐれた学者は今の学者よりも漢文を読む力はあった。江戸時代の返り点は口語訳よりも価値がある」と賞賛されている。

武英殿本(殿版)は、清代に紫禁城内武英殿で印刷した正史をいう。テキストとしては信用され、後になんべんも覆刻が行われた。ただ覆刻を重ねたモノはテキストして価値がないと言われる。


史記(しき)


最高の境地に達した中国通史

前漢の司馬遷の著。130巻。
中国の歴史書数あれど、この本の意味の深さに勝るものはない、と個人的に思っている。それほどの本である。太古の昔から、著者が生きていた前漢・武帝までの歴史を、司馬遷がこの本を書くためにわざわざ創案した紀伝体(きでんたい)という記述方法で記した本である。

『史記』の最も優れているところは、人間とそれを取り巻く社会に対して非常に深く認識し、描ききった点であろうと僕は思う。『史記』は、記 述の正確さという観点から見た場合には決して優れているとはいえない本である。年代の誤りも大変多く、司馬遷が史料を読み違えたと思われる箇所も存在す る。

しかし、そういう誤りを越えて『史記』は偉大なのである。なぜか。

司馬遷は人間のあらゆる姿、状況を描いたからである。

他の正史と司馬遷が根本的に違う点は、(特に道家を重んじた司馬遷は、儒家の歴史に関してはおざなりにしか扱っていないようである。『史記』の孔子世家は『史記』中最も劣っていると論じたのは白川静氏だが、僕も賛成である。)


三国志(さんごくし)


西晋の陳壽の著。65巻。
・・これについては記述が長くなったため別ページに移しました。以下からどうぞ。
正史『三国志』とは一体なんなのか?

前四史(ぜんしし)

正史の内、特に『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』をいうことば。



後漢書(ごかんじょ)

正史の一つで、劉宋の范曄(はんよう)の撰。120巻。



新五代史(しんごだいし)


北宋の欧陽修撰。別名を「五代史記」(ごだいしき)という。文章の冒頭が「嗚呼(ああ)!」と嘆声から始まるのが特徴で、そのため「嗚呼史」という異名もある。

史記や三国志はともかく、後世の正史は余り面白いものではない。従って文人でも読む人は少なかった。別に正史は四書五経と異なり読むことが義務付けられていたわけでもないし、そもそも悪文や事実誤認が見受けられ、強いて読むべきモノでもなかったのであろう。
ところが例外的に読まれていた正史があった。新五代史である。
これは、面白いのである。まず文章がキビキビしていて上質の歴史小説を読むようなところがある。元々欧陽修が個人的に書いていたもので、他の正史のように役人がお役所で作った文ではない。「嗚呼(ああ)!」と嘆声から始まるのも、欧陽修という人の感性がほとばしっているようなもので、別に否定されるべきモノでもないと思う。 特に「伶官伝」が名文とされている。




 

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