漢籍おぼえがき
道家篇・神仙家篇



山海經(せんがいきょう)

古代中国史、最大の謎の書?


作者不明の地誌・・というよりも、前野直彬氏が『山海経』(集英社)で述べたように民間の多数の人の手になったものだと考えた方が良いかも知れない本である。地理書とされているが、なにしろ記述が荒唐無稽というか、百鬼夜行というか、ばけものだらけである。地理を分かろうと思って読むと確実に肩すかしを食うだろうことはまちがいない・・(^^;)

一応、さまざまな地域のことが書かれているが、その殆どは異常な怪物の記録であるのだ。現実的で神話に余り興味関心を払わなかった中国古代の人の残した書物としては珍しい神話伝承を伝える書物である。

この書物の名が初めて見えるのは『史記』大宛列伝で、「禹本紀や山海經は怪しげな物を記録しているが,余(司馬遷)は敢えて言わないのである」と書かれている。登場したときから既に「トンデモ本」扱いである。その後後漢の王充の『論衡』に於いて「禹が各地を巡ったときに、家臣・益に見聞した異物を書き取らせたものが『山海經』である」旨の著述がある。そんなわけで、中国の伝統的な書籍分類でも四部分類では子部小説家類(しぶ・しょうせつかるい)という、余りまともな本が分類されないジャンルに入っている。なにしろ、小説家は諸子百家でも一番バカにされ、のけ者にされていたものなのだ。しかし、そのくせ結構マニアの間では評判が良かったというから、わからぬものである。東晉の陶淵明はこれを読んで「『山海経』を読む」という題の連作の漢詩を作っている。また、近代中国の文人、魯迅は子供の頃、絵入り『山海經』を泣いて欲しがり、ようやく手に入れて読んだときの興奮を大人になって回想している。(『山海經』を泣いて欲しがる子供というのも、何か凄いものがあるが・・)

成立年代は部分部分で差があり、最古の部分は戦国時代、其の他秦以降の地名である長沙が出てくる所からみて漢以降の成立らしい所もありよく分かっていない。現行伝来しているのは東晋の郭璞(字:景純)の注釈したもの。道教経典としても扱われ、『道蔵』では太元部に属する。最近、四川省三星堆遺跡からこの書物を裏付ける遺物が発見され、古代史史料としての注目度が飛躍的に上昇した。



管子(かんし)
『老子』に先立つ道家の書。『漢書』芸文志では道家思想に分類されるが、隋以降法家思想とされた。
戦国時代の管仲の著作とされるが、疑わしい。おそらく管仲単独の書物ではないであろう。内容は多岐に渡っているが、中には斉の稷下の学士が称えた道家の説も含まれているらしい。
諸子百家の書物の中でもよく読まれ、宋代には科挙の試験にも出題された。


老子(ろうし)

道徳経ともいい、字数が五千字であることから老子五千言ともいう。著者不明の道家思想書。起源に関しても諸説まちまちで定まらないが、故福永光司氏が唱えた「紀元前6世紀から存在したといわれている「鬼道」(道教の母胎となった土俗信仰)の人々の考え方をもとにしたという考え方を継承し、「老子」と呼ばれた人物が高度な思想として展開し、後に「老子」の考えを承け継いだ道家「関令尹喜」がまとめて書物にしたものと見るのが、現時点では最も自然であろうかと思われるが、もちろんこれにも異説がある。以下、少々儒家的な考証を述べる。

成立年代、作者、名称の由来などはすべて確証はなく、推定による物である。『史記』老子韓非列伝にしるされた一説によれば、「老子」は東周の守蔵吏(国の図書館の司書)だった李耳、字は耽という人物であるという。

老子の字、耽は諡とする説もあるが、王念孫が「下級官吏に諡があるのはおかしい」と指摘するとおり誤りであろう。なお、『史記』は他に根拠となる二説を挙げるがこれらは益々確証に欠けている。
そして、『老子』という本は李耳が、中国から抜けて西へ行こうとする時に、関尹喜(『列仙伝』では尹喜とする)が李耳にせがんで書き残してもらったものだというが、いずれにせよ信頼の置ける根拠はない。

帆足万里の『入学新論』には、老子の著者は老子の最古の注釈を書いた韓非子であるという説が紹介されている。万里はこの説を退け、戦国時代の好事家が、『荘子』の部分部分を省略して作成したのが老子であり、著者を孔子が礼を学んだ老子に仮託したものであろうと断じ、『荘子』と老子の比較検討を行っているが、これとても確証はない。ただ、老子は非常に簡潔な文体なので、その原本にあたるものが存在しているのではないか?という仮説は現在も存在する。原本が果たして万里のいうように『荘子』なのかどうかは謎のままであるが。

『老子』の伝承者とみられる関尹喜も又謎の人物である。この人物は『荘子』天下編に「老子・関尹」として登場するので、どうやら老子の思想的後継者と見られる。この人物の著書に「関尹子」(かんいんし)という道家の思想書があり、明の方苞は老子に似た思想だといっている。しかしこの人の実像も謎である。名前すら分からない。

『史記』老子韓非伝の原文では「関令尹喜」と表記されているが(なおテキストは『史記会注考証』本に依拠したが別表記の『史記』本文もあるらしい)、この文の読みが学者によって「関の令尹喜」「関尹、喜びて」と二つに割れている。普通は「関の令尹喜」とするが、郭沫若氏は「関尹、喜びて」と読んで関尹は斉の道家・環淵の訛りだという。斉の都・臨シに集まった諸子百家たちには道家が多く、環淵もその一人である。「鬼道」は斉に於いて盛んであり、特に斉巫と呼ばれていた。郭氏の説が正しければ、鬼道の徒の思想を純化した老子の道を伝えたのも斉人ということになる。

古代思想においてもっとも謎めいた深遠な書であり、かつ非常に高い境地を示していると言えよう。

思想内容としては、「無為自然」、つまり、「為すこと無く自ずから然り」・・人間のさかしらだった行動をやめ、「自ずから然り」・・自然のあるがままに生きよ、という思想を根本とし、無理をせず清虚を貴び、「その腹を満たしその骨を強くせよ」つまりエネルギーを蓄えて無駄に使わず、人間のいらざる手出しをせずに河の流れるようにサラサラとものごとを行えと説く書であり、文中しばしば政治のあり方を説く政治学の書であり、『孫子』の源流ともいえる。僕が感じる『老子』のイメージは、「老獪」である。『老子』は癒し系の本のように思われているようであるが、『老子』は「如何にして負けないように生きるか」を追求した書ということもいえよう。『老子』は兵法書としても読まれていたし、後述するように『老子河上公注』などのような政治的解釈も存在したのだ。項羽の妾の墓から出土したという話もあるのである。形而上学の書にして、しかも権謀術数の気もあるのだから、たいした本である。

『老子』は誤解された?

それでは、この『老子』はその後どのように読まれたのであろうか。

『老子』の最も古い解釈は韓非の『韓非子』解老篇・喩老篇である。その後漢の時代にはいると河上公注が現れた。しかし、これらはどちらも『老子』を原文に即してきちんと読むより、かなり牽強付会をしているものであった。そのことはこのページの下のそれぞれの本の項目で述べたとおりである。

『老子』は魏晉以降解釈が変化する。特に西晋の王弼の解釈が出てからとらえ方が変化した。王弼は玄学といわれる当時の風潮に基づき、河上公注のような政治色の濃厚な注を改め、老子の説く形而上学の面を重んじた解釈を行った。この解釈は河上公注のような牽強付会をしていないので、大変良く読まれた。かなり『老子』本来の形に戻ってきたわけであるが、物事の解釈というのは難しいモノで、逆に形而上学が強調される余り、『老子』が本来持っていた権謀術数の面が失われるということになってしまったのである。悪い面をそいだら良い面までなくなってしまったわけであった。この王弼以降、「無為」を誤解し「何もしない」という意味にとり、自堕落に陥った人が出たため、現実逃避の思想という誤ったイメージが作られたのである。このように『老子』は誤解されて伝えられてきた書であった。

この『老子』の誤解の歴史を、唐の陸希声は『道徳経伝』自序に於いて、以下のように批判している。 (引用は国訳漢文大成・『老子』『荘子』『列子』付録「老荘列子論賛」より。公田連太郎編訳)

「夫れ老氏(老子のこと)の術は、道以て体と為し、名以て用と為し、無為にして為さざることなくして、皇極(中庸の道の究極)に至るものなり。
(中略、ここで楊朱・荘子が老子を誤解したことを述べる)
申韓(申不害・韓非)は老氏の名に失して、苛キュウ刻急に弊(つい)え、王何(王弼・何晏)は老氏の道に失して虚無放誕に流る。この六子はみな老氏の罪人なり。」
※何晏は魏の思想家。王弼以前に玄学を主張した。 陸希声がいうように、老子は色々な思想家から誤解され続けてきた。そして、その誤解は今も続いているのである。

残念ながら、今流行している『老子』の解釈では最近の苛酷な生活に苦しむ人々に買ってもらおうとしてか、故意に『老子』の政治色を抜き、単なる「癒し系」の本としているものがある。これは王弼路線の発展系ともいえるが、古典の本質をねじ曲げる行為でありよくないことである。『老子』は癒しなどというような現代日本に於ける欺瞞的なものとは異なる、しなやかでありながらもその根底には無類の力強さを秘めた書なのであるから。その為、『老子』の良いところを知る上では改変がある王弼注よりも、古い河上公注のテキストを主軸とし、馬王堆出土の漢の『老子』(本文に異同があり兵法的色彩が強い)や戦国時代のものとみられる楚門郭店(そもんかくてん)出土『老子』を補助的に用い原初の『老子』思想を探るとか、『老子』の兵法としての面を主とするとかの方が良いであろう。

馬王堆本『老子』は明徳出版社から訳が出ているが、馬王堆本に依拠した月洞譲氏の口語自由訳『老子の読み方』(祥伝社)がお勧め。楚門郭店本には訳があるかどうか不明。河上公注本は戦前岩波文庫から原文のみ出ていたが現在は入手困難である。なお、他の『老子』は王弼注本が元になっている。なお、政治色を重んじた明解な解釈としては奥平卓氏の『老子』(徳間書店)もすばらしいと思う。



荘子(そうじ)
韓非子解老篇・喩老篇 (かんぴし、かいろうへん・ゆろうへん)
『老子』最古の注釈書。戦国の韓非作か?『老子』本文を含まず、コメント形式のものである。『韓非子』に収録されており、無為を政治思想を重んずる解釈をしている。この注釈が有る為、韓非を老子の筆者と推定する説が古く江戸時代からある。


老子河上公注(ろうしかじょうこうちゅう)

『老子』による政治理論「黄老道」の書


「老子」の古い注釈書で、現存最古のテキストでもある。が、注の内容は『老子』の思想を解明するという注釈の目的から脱線しており、『老子』本文に引きつけて前漢時代に流行した「黄老道」の思想を説明するものである。著者とされる河上公という人物は唐の陸徳明の「経典釈文」に、漢の文帝の師事した空中浮揚のできる仙人だといっているが、もとより信頼の置ける話ではなく、作者については諸説ある。

武内義雄氏は、作者を東晋の思想家・葛洪と推定するが、饒宗頤(ぎょうそうい)氏は後漢末期の宗教集団「五斗米道」の老子想爾注(ろうしそうじちゅう)との思想の類似より、これも五斗米道教団の製作とする。一説に、五斗米道の製作したものを葛洪が改定したものとする。 ここらへん、実にややこしいものがある。

思想的には道家的な君主を対象とする養生の説が述べられており、「無為を以って神(精神)を養い、無事を以って民を安んずる」というのが基本的な考え方。これはどういうことかというと、「君主が自然体に生き、精神を養って特に作為を行わない政治を行う」ということ。まあ、道家思想による統治論を主張しているといっていいだろう。思想には儒教的なものの混入が見られる。どちらかというと現実を重視した政治思想であって、『韓非子』に近い。

では、この本の政治理論「黄老道」が実地に行われたことがあったのだろうか?あったのである。・・先ほどの理論説明より、実地に行われた例を述べた方がわかりやすいだろうから、そっちについて書いてみよう。

『史記』では漢の高祖配下の曹参(『三国志』の曹操の先祖といわれる大政治家)が「黄老道」を蓋公という老人に学び、「黄老道」による統治を布いたという。その結果漢の国は大いに治まったといわれている。では、その曹参の政治とは具体的にどのようなものであったか。吉川幸次郎先生の傑作史伝『漢の武帝』(岩波新書・現在品切れ)から引こう。

(なお、これは武帝の祖母・竇太后のせりふ。中国歴史小説に詳しい方ならぴんときたかも知れないが、竇太后とはすなわち宮城谷昌光氏の『花の歳月』の主人公・猗房ちゃんのことである。思想史では竇太后猗房は黄老道の徒として儒家を重んじる孫・武帝に対抗した人物である。・・まあ、あの可憐な美少女もこのせりふを吐いた頃にはすっかり婆さんになっているのだが・・)

「曹参なんていう総理大臣は、毎日お酒ばかり飲んでいて、何もしない。部下が意見をしに行くと、まあ君も一杯のめといって、何もいわさない。部下の連中というのが、またみんなよく飲む。いつか事務官部屋があまりそうぞうしいので、秘書官が総理大臣をつれて行って、ほれあの通りですというと、こりゃ面白いといって、曹参も一しょに大騒ぎをしていたっけ。
それがすなわち老子の無為の道というものである。あの人たちには、それがよくわかっていたのだ。」

なお、吉川先生が元にされた『史記』曹相国世家には曹参の発言として「(高祖と前任者・蕭何により政治体制は整備され上手くいっているのだから)法令にしたがい、失策のないようしておれば、それでよいのではないでしょうか」(小竹文夫・武夫訳)というものもみられる。まあ、こういった政治理論がすなわち「黄老道」である。このような考え方は漢の武帝率いる儒家から否定され、後漢の光武帝による儒教国家の完全な構築により地下に潜ったが、後の干吉「太平経」(俗にいう太平要術の書)に繋がるものといえるだろう。干吉の流れを汲む張角らはこのような考え方を根底に抱いて蹶起したのである。

列子(れつし)
八巻。周の列禦寇撰といわれる道家思想書だが、この列禦寇は実在未詳の人物で、「列子」は晋の時代の偽作ともいわれ、現存のものには仏教説話が混入している。思想的には老子の影響がみられる。戦国諸子の楊朱の思想の資料でもある。名文で知られており、老人がコツコツと一家総出で邪魔な山を掘り崩す
「愚公山を移す」の故事は毛澤東の老三篇にも取り上げられて非常に有名である。


捜神記(そうじんき)

東晋・干宝著。干宝の時代までの怪奇現象の歴史。干宝は自ら序を書き「私はそもそも怪奇現象を信じていなかったが、身の回りで死者がよみがえったり怪奇現象が続発したのでそれを信じるに至り古今の怪奇を調べてこの書を著わした」と言う。

読むと分かるが、随分いい加減というか、なんだこりゃというようなトボケタ話が多いので、干宝はのんきな道家のおっさんのように思うが、どうも違うようだ。干宝には別に『晋紀』という晋の歴史を述べた名著が有り、文選に引用されて部分的に残っているが、これを読むと干宝は相当しっかりした儒家思想を身に付けていた人のようで、竹林七賢などの道家たちを批判し、「あいつらが晋を潰した」と名指しで批判しているのである。そういう固い人が捜神記のようなノンキなおばけ話を平気で書いているのも不思議である。

今も昔も世間は堅い話よりもおもしろい話が好きなものと見えて、『晋紀』は部分的残存にとどまるが、捜神記は全部残っているうえ、仏教思想が混入した異本さえある。


抱朴子(ほうぼくし)
東晋の葛洪著。抱朴は葛洪の号である。葛洪は後漢の神仙家・左慈の弟子葛玄の流れを汲む神仙家であって、神仙道の一大集大成書と言うことが出来よう。内篇では神仙道と儒家が同一なることを説く。
周易参同契(しゅうえきさんどうけい)
後漢の神仙家の書。難解な本である。

幸田露伴が「仙書参同契」という論を発表していて、どうも内容からするとインドの呼吸法が流入したのでは?と論じている。

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