一応この本は左丘明が書いた春秋の注釈書だということになっている。
一見無味乾燥でとっつきにくい他の経書と異なり、この本は波乱万丈、血沸き肉踊る春秋時代を描いた歴史物語である。日本でこれに匹敵する歴史物語は・・・と考えるとないようだ。平家物語にせよ太平記にせよ、春秋左氏伝に比べると年代が余りにも短すぎる。およそ300年に渡り波乱万丈の歴史を描くというのは並大抵の事ではない。宮城谷昌光氏の古代中国に取材した小説の多くは春秋左氏伝がもとになっており、中国の画家・鄭問氏の『東周英雄伝』も春秋左氏伝に多くを拠っている。晋の文公重耳が放浪の末覇者となる話や(宮城谷氏の「重耳」の元である)、宋の襄公が敵に情けをかけてかえって負ける話(いわゆる宋襄の仁)など、有名な故事が多い。福沢諭吉の愛読書でもあった。他の伝にはみられない歴史の叙述が多く、春秋時代のほとんど唯一の歴史資料であり、晋の重耳が放浪の末覇者となる話や、宋の襄公が敵に情けをかけてかえって負ける話など、叙述はたいへんおもしろく書かれている。尚、春秋左氏伝の世界の年表は中国歴史奇貨居くべしさんのページが詳細であるので、本ページでは略す。
(なお、以下の成立に関する考証はとてもややこしいので、「時代考証なんかシラネーヨ、古代中国の人々の物語がしりてーんだ」という方はすっ飛ばしても問題ないです。三国時代以来かれこれ1800年ほどもめている話で、定説は存在しません)
胡乱(うろん)なる成立事情
この書物ほど成立に問題がある本もなかなかないのではなかろうか。著者は左丘明(さきゅうめい)とされているが、この人物からして謎なのである。左丘明は『論語』公冶長篇に、
「子曰く、巧言、令色、足恭(すうきょう)は、左丘明之を恥ず。丘、亦た之を恥じる。怨を匿して其の人を友とす、左丘明之を恥ず。丘、亦た之を恥じる。」として、一箇所あらわれるのみの経歴不明の人物で、実在さえ定かではない。漢書や何晏の論語注には「左丘明は魯の太史だ」と書かれているが、根拠はないようである。一応、『史記』太史公自序には「左丘、失明して国語有り」とあるが、この『史記』の「左丘」と『論語』の「左丘明」との因果関係は不明である。そのため成立は極めて謎とされており、出来た国すら戦国魏(鎌田正氏の説)とも斉(平勢隆郎氏の説)ともいわれており、作者についても諸説あって確定していない。
『春秋左氏伝』と『国語』を結びつける説は古くからあった。この件に関して、清の崔述は以下のように述べている(『史記会注考証』より)が、現在ではこの康有爲説は否定され、偽作ではなく、成立は戦国時代という推定がなされている。『史記』の太史公自序に「左丘、失明して国語有り」とある。この記述に依って、世の学者は「『国語』と『春秋左氏伝』は同一人物が書いたものである」として、後漢時代には『国語』を『春秋外伝』というようになった。
(この推定をおこなったのは鎌田正氏である。なお、康有為氏らの主張は自分たちの重んじる『公羊伝』を恣意的に持ち上げた所もあり、今日の研究水準では『左氏伝』偽作説は成立しないはずである)
内容は、「春秋」の記述に合わせるようにして民間の史実や史話を豊富に収録したもので、「春秋」の本文注釈を主とする他の伝とは性格が異なり、現在では小倉芳彦氏にはじまる説話の研究が盛んである。
(注釈)多数あるが、代表的なものをあげれば、晋の杜預の「春秋左氏伝集解」が最も古く基本となるもので、更にそれを増補した日本明治の竹添進一郎(井井)の『左氏会箋』、現代の楊伯峻氏の『春秋左伝注』などがある。又小倉芳彦氏の岩波文庫の日本語訳(三巻、2004年4月に重版された)は、『春秋左伝注』に依拠して錯綜する文章を分け、事実関係の連関をわかりやすくした大変な労作で、此れ以来研究が大層進んだ。しばらく入手困難であったが、2004年4月に重版されたようである。
春秋公羊伝(しゅんじゅうくようでん)
「春秋」の注釈書。
孔子の弟子子夏の弟子・公羊高(くようこう)の教えが代々口伝され、前漢の景帝の頃公羊高の玄孫の公羊寿と弟子の胡母子都等が記録したもの。公羊伝と略称する。
この本は後世、現代にも大きな影響を与え続けている強力な書物である。アテルイが坂上田村麻呂に討たれたのも、幕末の志士が尊皇攘夷を唱えるのも、民主党が与党を「大義がない」といって攻撃するのも、ワールドカップで日本の選手がブーイングを受けるのも、元はと言えばこの本に書かれている考え方によるのである。
著者達は春秋は孔子の歴史に対する批判がこめられたものと強く主張。春秋経の本文を、法律解釈のように徹底的に追求し、孔子が春秋に書いた(と彼らは主張している)世界の法則、正義と悪とは何かを明らかにしていくのである。 大体、こんな調子で文章は進んでいく。「A国がBを侵略した、何故か?」 「これこれこういうわけである」「Bは国であるのに何故国の扱いをしないのか?」「悪いことをしたからだ」「悪いこととは何か」「これこれこうである」 法律の逐条解釈に近いが、この本は中国法にも影響を与えたと言う(富谷至『古代中国の刑罰』中公新書参照)。
内容は孟子や荀子の政治思想を受けたといわれている。大義と名分を絶対的だと考える。大義に従えばたとえ負けても良いのである。敵に対し正々堂々と戦いすぎて負けた宋の襄公を、春秋公羊伝は「聖人・文公でもこんな戦はできなかった!素晴らしい」と絶賛するのである。理想に従えば例え人が何人死んでも構わない。(反対に春秋左氏伝では「こんな馬鹿は負けて当然」とつきはなしている)。
復讐は素晴らしいことだと思われている。先祖の仇討ちは百代後でも肯定される。中華思想といわれる「中華」と「夷狄」を差別し、中華を褒め称え夷狄を賤しめる考え方の基礎となったのはこの書である。
(影響)「春秋大一統」といわれる、一人の王者により中国全土が統一され、その統治のシステムとして儒教の礼教倫理が採用されることを主張する、政治哲学理論は、漢帝国建国を正当化するイデオロギーとして前漢時代に大いにもてはやされたが、劉向以後次第に「左氏伝」におしのけられ、『公羊伝』を重んじた後漢の何休が「左氏伝」を重んじる鄭玄(じょうげん)との論争に敗れてから急速に読まれなくなり、対立していた今文学派・古文学派の主張を折衷した唐代以後は取り上げられる事が少なくなった。が、宋代に「名分論」の高揚によりまた読まれ始め、孫復らに影響を与えた。とくに騎馬民族に黄河流域を占領されていた南宋では、騎馬民族に対する復讐を説くものとして「春秋胡氏伝」に影響を与えた。しかしその後また読まれなくなり、それが復活したのは、清朝考証学が前漢の学問をとりあげるようになった清末以降である。そして、清末には西欧列強の侵略から中国を守るという風潮とよくあったことも有りブームとなって、劉逢祿・魏源・康有為らの「公羊学派(今文学派)」により孔子の革命理論書として再評価された。
春秋三伝(しゅんじゅうさんでん)
「春秋」の三つの注釈書、「左氏伝」「公羊伝」「穀梁伝」をいうことば。