■系譜■ (北宋)欧陽脩−蘇軾−蘇轍・・・(金)王若虚−元好問 |
宋学といえば直ぐに朱子学とするのは正しくない。宋の時代には学問の民衆化・普及が図られ、いろいろな学派が乱立した時代だったからである。朱子学に対抗した学派も又多くあったが、大天才・朱熹の鋭い舌鋒の前に尽く敗れていき姿を消した。葉適・陳亮の「功利学派」も、司馬光の学も南宋以後の後継者を出していない。正史『宋史』の『道学列伝』は、この朱子学派の勝利宣言に等しく、これら学派についてなんら言及していない。朱子学一人勝ちの構図がそこには出来あがっている。
しかし、この朱子学に最後の最後まで抵抗し、朱熹没後も相当な勢力を示した学派が存在した。これが北方の蘇学である。
北宋初期、儒学の革新運動を行っていた学派に范仲淹派と欧陽脩派が存在して居た。蘇学はこの欧陽脩派の後継である。ちなみに朱子学の前身は范仲淹派であり、思想研究を重んじる范仲淹派より、歐陽脩派は 文学を重んじるという違いがあった。欧陽脩の弟子が名高い蘇東坡、つまり蘇軾である。 蘇学の由来はこの蘇軾の名字によるもので、近世最大の詩人・蘇東坡の名字にちなんだのである。尚、主要な思想家の蘇軾・蘇轍らが蜀出身だったため蜀学ともいう。
蘇軾は程朱の系統と異なり、仏教・道教を排斥しなかった。蘇学においては『論語』は『荘子』と共通するものとしてとられられている。この雑駁とも言える許容が朱熹に激しく批判されるのだが、元来中国の思想ではあまり純粋化はされないのが普通であり、朱子学のように他派を激しく区別する方がむしろ例外に属する。蘇軾がはじめて学んだ寺子屋の先生は道教徒であったし、蘇軾にとってはこれは普通の事であった。
1127年、北宋は金の攻撃を受けて滅亡し、宋政府は南下を余儀なくされた。この時に蘇学の文献、蘇軾の全集『東坡七集』も金に接収され、蘇学は北方に広まる事になった。ちなみに程朱学派は胡安國が南下に同行し、南宋のはじめから積極的に思想運動を展開している。
自由度の高く文学を重んじる蘇学は、北方金人の志向と良く合い、遂に北方金王朝では蘇学を以って儒学の正統とすることになった。こうして北方の蘇学が誕生したのである。
蘇学は金末期に異才・元好問(遺山)を出し、南の朱子学に対抗する勢いを見せた。元好問は何度も朱子学と敵対する発言を繰り返している。金は中国の正当なる統治者を自認しており、蘇学もかなりの勢力を誇ったものと考えられるものの、のちに朱子学に敗れ去った為史料がこれといって残っていないのは残念である。