満開の桜の木の下で バーバレラ須藤
「アニキ、それでさぁ……」
赤信号で止まって。ナビシートに振り返った啓介は、ぐっと言葉を飲み込んだ。
黒い双眸は、長い睫で封印され。柔らかい舌と白い歯は、朱い唇の中に隠されて。
(眠ってる……)
今すぐエンジンを切って、安らかな寝息を確かめたくなる。後続車のクラクションに舌打ちし、啓介は、それでも慎重にアクセルを踏んだ。
もっと静かな場所へ。
時間が、夢にまで追い掛けてこない場所へ。
啓介は、頭の中にある地図を総動員して、ハンドルを切った。
□□□
ふと、頬を撫でる甘い香りに目を覚ます。四角く切り取られた空を見て、自分が車の中にいるのだと気付いた。
(ナビシート? ……ああ、啓介に迎えに来てもらったんだっけ)
見れば、ドライバーシートに啓介の姿はない。キーが差しっぱなしのところを見ると、そう遠くへは行っていないようだ。
(俺を置いてどこかに行くわけない、か)
ふうっとため息をついて。再びシートに身体を預けて目を閉じる。
『ねぇ、ねぇ、おにーちゃ。けいちゃね。あのね』
涼介が出かけようとすると、背中にしがみつきながら、行かせまいと理由を考える。「ん」の発音ができない舌ったらずな声で、必死になって。啓介はそんな子供で、それは今もあまり変わっていない。それを、疎ましく感じたことなど、一度もない自分の甘さに呆れながら。涼介は苦笑いを漏らした。
また、甘い匂いがする。
(なんだ?)
窓は半分開いていて、外には桜の花びらが舞っている。匂いの正体を突き止めて、ほっと頬が緩む。そして、ここはどこなのだろうか、と考える。車は、延々と続く桜並木の一本道に路上駐車されていた。時折、風が強く吹いて、花びらを巻き上げるの様をぼんやりと眺めながら、啓介の帰りを待った。
週末の昼間だというのに珍しく人気のない道だった。涼介の知る範囲ではこんな場所は存在しない。きっと、啓介はこの桜を見せたくて、眠っている涼介を連れてきたのだろう。
『アニキ、知らなかっただろう?』
そんな、自慢げな笑顔が早く見たい。シートの上には、タバコもライターも置きっぱなしだった。きっと、缶ジュースを捜しまわって後悔しているに違いない。それにしても―――。
(……遅いな)
外に出て、辺りを見回す。車の前方にも後方にも、歩いていける範囲にコンビニはおろか、自動販売機すら見当たらない。知った道なら、そういった店の有無ぐらいわかっているだろうに。眠っている涼介を気づかっての行動だろうが、それにしても迂闊すぎる。街中の喧噪の中で眠りに落ちた程なのだから、途中でどこかによっても目を覚まさないことぐらい分かりそうなものだ。
(啓介らしい、かな)
次男坊の奔放さをそのままに育ってきた啓介は、驚く程繊細な優しさを持っている。遠慮も屈託もない言動から誤解されがちだが、結果、傷付きやすい心を無意識に押さえ込んでしまう不器用さを、涼介は知っていた。
そう、自分だけが知っている。
強さも、優しさも、悲しみも、全て―――。
そんな啓介を甘やかしながら、それ以上に依存している自分も知っている。
優しさに付け込んだり。甘えるように仕向けたり。わざと泣かせて、優しく慰めてみたり。
そうして、そんな自分を嫌悪しながら生きてきた。結果―――。
『俺、アニキがいないと生きていけないよ』
そう仕向けたのは、自分。けれど、真摯な瞳を向けられるたび、それは自分の『言葉』なのだと思い知らされる羽目になった。事実、啓介の存在しない人生など、考えられない。
啓介は、きっと――その言葉に込められた想いが真実だとしても――自分がいなくても、生きていける。啓介は、強いから。自分より、ずっと『強い心』を持っているから。
けれど、俺は―――。
(啓介が……居ない……)
ふいに襲ってきた焦燥感に、今、自分がおかれている状況を思い出す。
「啓介?」
声に出して名前を呼んで。辺りを見回したが、さやさやと風の鳴る音しか聞こえてこない。
「啓介!」
当てなどない。けれど、じっとしていられなくて。涼介は桜並木を歩きだした。
「啓介!!」
知らず、歩幅が拡がり、速足になる。
「啓介! どこだ!?」
啓介、啓介、啓介―――。
涼介は走りだした。
振り返ると、もうFDの鮮やかな色彩さえ霞んで見えない。
暖かな風も、柔らかな光も、咲き誇る桜も。
涼介とって、それは、なんの意味も持たない『平和』な風景。
「啓介ぇ!!」
啓介が居なければ、闇に等しい『平和』。
「啓……啓介ぇぇ!!!」
そんな『平和』は―――いらない。
□□□
「アニキ!」
気遣わし気な、薄茶色の瞳。
「……」
窓から射し込む光は、オレンジ色をしている。
「大丈夫か?」
先程と同じ、切り取られた四角い空。
「あ、ああ」
身体が鉛のように重い。それでも、涼介はナビシートからのろのろと身体を起こした。啓介の腕が手伝って、ようやく外の空気を吸い込んだ涼介は、頬を掠めた花びらにぎくりと身を竦ませた。見上げれば、桜の大木が1本、FDの鼻先にそびえ立っていた。
「ここ、前に見つけてさ。満開になったら、アニキを連れてこようと思ってたトコなんだ」
「……」
遠くに車の行き交う音が聞こえる。人の存在を知らせるそれらの騒音に、涼介はほっと安堵の息をついた。
「汗……かいてるね」
張り付いた前髪を、優しい指が掻き上げる。それに任せて、涼介は目を閉じた。
(啓介が……俺に触れている……)
「悪い夢でも見た?」
「ああ」
「ごめんね」
「なぜ、謝るんだ?」
「俺、夢ン中でアニキになんかしてただろ?」
「え?」
「アニキ……俺の名前、呼んでたからさ」
「……」
「起こすの悪ぃかなって思ったんだけど。なんか、魘されてたみたいだったし」
「ああ」
「……起こさないほうがよかった?」
「いや」
「そう。なら、いいけど」
「……啓介」
「うん?」
糸が切れたように縋った頼りない身体を、力強い腕が受け止めてくれる。
「アニキ、大丈夫!?」
それを確かめて。
「抱いてくれ……強く」
「……」
「もっと」
背中に回された腕に、痛いほど力が篭って。涼介は、ああ、と溜め息を漏らした。
「アニキ」
「うん?」
「今、アニキのこと『欲しい』って言ったら……怒る?」
「……いや」
「……」
強引に腕を引かれて。桜の木の裏側へ立たされた。
「俺が……」
「うん?」
硬い樹皮に頬を付けると、忙しない手がベルトを外していく。
「俺が悪い夢を見たら……」
春もまだ浅い夕刻の、冷えた空気に晒された肌が粟立った。
「また……起こしてくれるか?」
両の親指が拡げたそこへ、舌が触れる。
「いいよ……約束……する」
「あ……あぁ……」
「俺が…側に……いて…アニキを……」
「……啓介……は、早く!」
「だめだよ……まだ……」
「いいから!!」
「アニキ?」
「痛くして、いいから!」
これが夢でないことを確かめたいから。
「後悔しても、知らないからね」
後悔なんてしない。きっと、今の自分には、裂けるぐらいが丁度いいから。
「ここに……早く……」
硬い楔を誘うように。自らの指で開いて差し出したのに、望みの『傷』は貰えなかった。
「け、啓介?」
恐怖に振り返れば、啓介はそこにいて。 ほっと息をついた涼介に、啓介が言った。
「桜のせい……かな?」
「え?」
「桜はヒトの心を狂わせるんだって……知ってた?」
手の中で扱かれる昂ぶりを、見せつけられて。それから目を離せず、唾が口いっぱいに溜まる。
「これが、そんなに欲しい?」
頷いた涼介に、やっぱり狂ってるね、と啓介が微笑った。
「いいよ。俺がアニキの目を、覚ましてあげる」
ひたり、と肌につく硬い感触に息を詰める。焦らすようにゆっくりと捩じ込まれて、引き攣れた喉から細い悲鳴が漏れる。耳にかかる息は熱くて、荒い。
「ほら、痛いでしょ? 痛いよね?」
「ああ……痛いよ……啓介…すごく、痛い……」
啓介の穿つ楔と、自分の流した血に犯されながら。涼介は夢に見た桜を仰ぎ見る。けれど、暮れていく日の光を失って、花の彩が闇に沈んでいた。
だから。
これは、夢なんかじゃない。
END.....
どこか……まぁ、ある意味『遠い処』ってことで、勘弁して下さい( ̄▽ ̄;)
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