カステラ バーバレラ須藤
ひたひたと廊下を歩く気配に、涼介は読んでいた本から顔を上げた。ベッドサイドの時計は、10時を少し回っている。足音は、涼介の部屋の前で止まり、迷い、そしてドアのノブがゆっくりと回される。
「啓介か?」
半身を起こすと、枕を抱えた小さな影が、ベッドの中に飛び込んでくる。
「また、怖い夢でも見たのか?」
「ううん。ちあうの」
涼介の枕を小さな手で壁際に押しやって。
「じゃあ、どうしたんだ? 啓介のベッドはあっちだろう?」
「やなの。にーちゃとねるの」
持ってきた自分の枕を、ちゃっかり並べる。
「啓介は、もうすぐ年長さんだろう? 独りで寝なくちゃだめだよ」
「けーちゃね、おめめつぶったの。でもね、ねむくないの。だからね、にーちゃとねるの」
パジャマの胸に縋って、甘えるように涼介を見上げてくる。唇は引き結ばれ、許しが出るのをじっと待っていた。こうすれば、優しい兄は決して断ったりしない。啓介は、それを知っていた。案の定、涼介は溜め息をついて、啓介の肩に毛布を引き上げる。
「しょうがないなぁ。明日は、ダメだからな」
「にーちゃ、きのうもおんなじこといったね」
昨日も、一昨日も、その前も。
二人は、生まれてからずっと同じ夜を過ごしてきた。
胸の中に甘えてくる小さな身体を抱きしめながら、涼介は思う。
どうか、このまま。
啓介と、ずっと仲良く過ごせますように、と。
□□□
「啓介、起きろよ」
「んー」
「飯が冷めるぜ……志乃さんを、待たせちゃ悪いだろう?」
「んぅ……」
寝癖のついた啓介の髪を、くしゃりと撫でると、毛布の隙間から寝ぼけ眼が甘えてくる。
「……キスしてくれたら起きる」
両手を差し伸べると、苦笑いを浮かべた唇が近づいてくる。
「……ん……もう1回」
「お前のこういうところ、ガキの頃から変らないな」
「ん?」
リクエスト通りに唇を甘やかして貰っていた啓介は、ぱちりと目を開ける。
「ああしてくれたら起きる。こうしてくれたら起きるって……」
「俺、そんなに甘ったれだった?」
今はそうじゃないとでも言いたげな口調に、くすりと笑って。涼介は、啓介の鼻をきゅっと摘んだ。
「早く仕度しろ。先に行ってるぜ」
「ちょ…アニキ!」
ドアに向かう涼介の背中を見て、啓介は床に落ちていた下着を慌てて掴んだ。
「おはようございます、啓介坊ちゃん」
ばたばたと賑やかに降りてきた啓介に、割烹着姿の小さな背中が振り返る。
「おはよう、志乃さん」
席に着くと、涼介がまだ箸を付けていないのに気づく。待たせたことを目で詫びて、目の前に用意された朝食に、いただきます、と手を合わせた。
「嬉しいですねぇ……お二人とも、志乃が教えたことを続けてくだすって」
「『貴方の命を私の命にさせていただきます』の『いただきます』……だったよね?」
ええ、と志乃が微笑った。
「今でも、こうしてお二人揃って志乃の作った朝ご飯を召し上がってくだすって。……志乃は、嬉しいですよ」
志乃は、二人が生まれる前から、高橋家の家政婦として働いている。高齢ということもあり、啓介の高校進学を機に、就労時間を朝から昼過ぎまでに短縮した。毎日が、週に3度になった。だから、志乃と過ごせる朝食の時間には、必ず二人とも顔を揃えることにしている。彼ら兄弟にとって、志乃は家族であり、実の祖母も同然だった。
「志乃さん、俺の子供の時のこと、覚えてる?」
あっという間に平らげたご飯茶碗を差し出した啓介の問いに、志乃は何度も頷いた。
「ええ。志乃は、お二人のことなら、なんでも覚えておりますよ」
「俺ってさ、甘ったれだった?」
先程のことを気にしているらしい。
「そうですねぇ。いつでも、涼介坊っちゃんの後を付いて歩いて……そうそう、涼介坊ちゃんが幼稚園に上がられて、『おうちにいない』って泣いてばかりいらっしゃいましたねぇ」
「……」
「だから、涼介坊ちゃんのお迎えには、志乃と一緒に参りましたのよ。覚えてらっしゃいます?」
「……なんとなく」
「お一人で遊ぶのに馴れるまでは、ベソをかいて志乃の割烹着の裾を離してくれませんでね。掃除の度におぶって……」
「も、もういいよ!」
照れ隠しにご飯を掻き込んだ啓介の前で、涼介は箸を止め、笑いをかみ殺していた。
「それがまぁ、こんなに立派になられて……もう、志乃はおぶって差し上げられませんねぇ」
「いいの! 今度は、俺が志乃さんをおぶってあげる番だからさ」
「あらまぁ、イヤですよ」
「いいじゃん。あ、後でおぶってあげようか?」
啓介の冗談口に、結構ですよ、と笑って。志乃はほんのちょっと目を赤くして台所に戻っていった。ふと、啓介が思い出したように声をかける。
「あ、志乃さん! なんかお茶菓子ある?」
少し間を空けて、カステラがございますよ、と答えが返る。食事をとりながら『おやつ』の心配をする弟に、半ば呆れながら。涼介は、啓介の食欲に感心していた。
「カステラだってさ。よかったな、アニキ」
「なにがだ?」
「あれ。アニキ、カステラ好きじゃなかったっけ?」
「……そうだったかな」
「違ったっけ?」
首を捻る啓介に、涼介はふと思い出したように笑った。
「ああ、それは……」
□□□
二人がおやつを食べ終えるのを待って。志乃は、母の遣いを済ませるべく出かけていった。二人の部屋がある二階には、火の気がない。心配なのは、見知らぬ訪問者だけだ。志乃は、ドアを開けぬように、と涼介に念を押していった。
「ねるの?」
「そう。お昼寝の時間だろう?」
「けーちゃ、ねむくない」
「……じゃあ、練習手伝ってよ」
「おいしゃの?」
「うん」
タオルケットを跳ね上げて、小さな患者は涼介の前にちょこんと正座する。その前に、同じく正座した涼介は、父を真似て厳めしい顔を作る。
「はい、あ〜ん、してください」
「あ〜」
「はい、健康です。次は、お腹だして」
「……」
ぴたぴたと手の平を押し付けて、涼介は、うん、と考え込むように首を捻る。
「風邪ですね」
「……おちゅうしゃ、する?」
「その前に、お熱をはかります」
母を真似て、ふっくらとした頬に、両手を添えて。
「目を、閉じて下さい」
「ん」
「口は、閉じちゃだめです」
「あ」
「……開け過ぎだよ、啓介」
「これくらい?」
「そう」
押し当てるように唇を合わせると、ちゅっと小さな唇が吸いついてくる。
「け、啓介?」
「にーちゃのおくち、あまいの」
「甘い?」
身に覚えといえば、おやつに食べたカステラだけだった。
「啓介、それはね……」
「けーちゃ、もっとおくちすうの」
加減を知らぬ力で、兄の頭を引き寄せて。啓介は、涼介の唇を舐め始めた。
「くすぐったいよ……けい……」
引き剥そうと窘めた口の中へ舌が入ってきて、何も言えなくなる。舐め回し、時折、溢れた唾液を飲み込んで。気が済むまで、涼介の口腔を蹂躙し終えた啓介の口の周りは、びちゃびちゃに濡れていた。ぼうっとした頭で、それを眺めていた涼介は、慌ててティッシュを探しに立ち上がった。
「にーちゃ?」
口の周りを拭ってやり、それから、自分の口も拭う。
「……本当は、こんなことしたらダメなんだからな」
「なんで?」
どきどきするから、なんて兄として格好が悪くて言えない。だから。
「なんでも!」
理由はわからなくても、兄の言葉は絶対だ。啓介は、しぶしぶ頷いた。
「じゃあ、お熱計るところからやり直し!」
「……やだ」
「どうして?」
「だって、にーちゃおこるから」
「怒らないよ」
「だって、いま、おこった」
「それは……」
言い淀んだ涼介に、啓介はじわりと目を潤ませた。
「にーちゃのおくちあまいのに、けーちゃがなめるとおこる」
「……」
「けーちゃ、おいしゃのれんしゅう、おてつだいしてるのに……」
ふえ、と顔を歪ませた啓介に、涼介は慌てて言った。
「わ、わかったよ! 舐めていいよ!」
「ほんとう?」
「うん。でも、毎日はダメだからな」
「……」
「だって、練習にならないもん」
「じゃあ、いつならいいの?」
聞かれて、涼介は考え顔になる。そして、ふと頭に浮かんだのは。
「カステラ!」
「かすてら?」
「うん。おやつにカステラを食べたときだけ、舐めていいよ」
「ほんとに? かすてらたべたら、にーちゃ、おこんない?」
「うん。そのかわり、誰にも内緒だからな」
「なんで?」
「だって、お兄ちゃんの口が甘いのが皆にばれちゃったら、皆が舐めたいって言うかもしれないだろう? そしたら、啓介が舐められなくなるよ?」
「い、いわない! けーちゃ、だれにもいわない!」
口止めも怠りなくすんで、胸をなで下ろしたのも束の間。立ち上がった啓介に飛びつかれて、涼介は後ろにひっくり返った。ごつん、と頭を打ったが、弟の手前涙は流せない。
「痛いよ、啓介」
「けーちゃ、かすてらたべたよ」
だから怒るな、と言うことらしい。
「おくち、なめていい?」
「……うん」
ぴたり、と口に蓋をされて。身体にかかる重みとで、息苦しさにもがいた涼介は、鼻で息をついて啓介の舌から解放されるのを待った。動き回る舌に、そっと自分の舌をからめて掴まえて。早くなる鼓動を気にしながら。涼介は、次にカステラを食べるのはいつだろうか、と考えた。
□□□
「じゃあ、アニキはカステラが好きなわけじゃなかったんだ」
大きな口で、ぱくり、とカステラを頬張る。
「そう。一杯食べて甘くしろ、と言ったのはお前だ」
事実だけを、正確に教えて。バツが悪そうに唇と尖らせる啓介を見ながら、涼介はカップに口を付ける。
「でも、なんでだろう。すっげぇカステラのことだけ覚えてんだよなぁ……」
あの日以来。週に一度、おやつにカステラが出るようになった理由は、聞かれていないから教えない。
「……じゃあ、さ」
「うん?」
「アニキのファーストキスの相手って、俺?」
「そうなるな」
ふぅん、と嬉しそうに笑って。啓介は、カステラを一口分ちぎって、涼介の前に差し出す。それへ、呆れ顔で笑って見せて。
「なんだよ」
「カステラ食べたら、舐めてもいいんだろ?」
「……」
手首を掴んで引き寄せて。唇と舌とで、啓介の指ごとカステラを含む。指と一緒に溶かしたカステラは、甘くて、ひどく懐かしい味がした。
「……美味しい?」
耳元に囁かれて、いつの間にか啓介が身を寄せていることに気づく。
「こら……まだ、志乃さんが居るだろう?」
廊下の向こうから、洗濯機の回る音がする。
「ちょっとだけだよ」
手が、するりと膝の上に滑る。
「しょうがない奴だな……」
唇を合わせた途端、舌が遠慮もなく差し入れられる。あの時とは、目的の違う。けれど、無心さは変らない貪るようなキス。
「後で、他のトコも舐めていい?」
「……夕べ、さんざん舐めただろう?」
「いいじゃん」
足音に、ぱっと身体を離して。新しい煙草を銜えた唇が、にやり、と笑う。
「今日は、カステラ食べたんだからさ」
END.....
前から書いてみたかった『兄弟・お子様ネタ』♪ 如何でしょう?(^m^;)
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